10.狂信者
まさか、こんなにも早いなんて。
内心焦りながらわたしはレラに身を隠したまま御殿の様子を眺めていた。
この神殿に忍ぶようになって二日目。夕暮の助言にも従えぬまま、もう、明松と紅はカタナに接触してしまった。
明松はすっかりおかしくなっていた。昨日、私を挑発した時よりも更に自我を失っている。もう結界を越えることも出来ないのだろう。だからこそ、紅は次の候補者を探している。だからこそ、カタナに自分の身を滅ぼさせようとした。
――間に合ってよかった。
心底そう思った。
あのままもしも明松の命をカタナが奪っていたらどうなっていただろう。恐ろしいことだ。幾らなんでも勇敢の剣が悪魔の手に落ちてしまえば手詰まりだ。
達成のエルリクの国も、夢幻の饕餮の国も、それぞれ武器は何処かで眠っているか封印されているだけ。解き放てば怪物を倒して、聖樹をまた甦らせることだって出来る希望はあるのだ。
しかし、武器そのものが怪物となってしまえばどうだろう。民はもはや嘆くしかない。嘆いて他国へと逃れるか、魔物に媚びへつらって生きていくか、わたし達のように付き合い方のみを学んで流離うしかなくなるだろう。
聖域なんて知らない。そう思ってはいたけれど、この数日で考えはすっかり変わっていた。
カタナには怪物になって欲しくない。サヤ様共々二人には長生きしてもらいたい。そんな事を純粋に願っていた。きっとこれが果実による魅了の力なのだろう。自覚していても、それから抗おうという気持ちにすらならない。
紅が明松を此処に連れてきたという事は、この近くに候補者がいると言う事だろうか。
神官の中からとり憑ける相手を見つければ、結界なんぞお笑いものだ。あっという間に果実やカタナの傍まで近づけ、牙を剥くことだろう。此処には聖樹がある。常に監視しなくては、一つの時代は終わらされてしまうだろう。
そんなのは嫌だ。
レラに身を包んだまま明松の消えた場所を探りながら、わたしはその姿を探していた。何処へ消え、何をしているのか。
カタナの襲われた現場――結界の張られていない付近を隈なく探っていれば、ふとレラを無視してわたしに近づく手があった。いやに温かいその手。背後から伸び、わたしを羽交い絞めにするように触れていく。
「鴉」
艶めかしい声が耳元で響く。紅だ。
「悪い子ね。明松の邪魔をするなんて。お陰であの子、悲しそうなものよ。でもいいの。仕方ないものね。カタナとサヤを守ろうとしても無駄よ。此処まで来ればあと少しだもの」
「放して!」
抵抗するも手は中々離れない。無駄と分かり、大人しくすれば、紅の手は更に伸びて呪いの印の辺りを触れていった。
「隠れようとしても無駄よ。あなたは選ばれた。御印が私たちを繋いでいる。私と仲良くするのなら今の内よ。あなたがどんなに悪い子でも、謝ったらいつでも許してあげる。ねえ、鴉。聖域なんてなくたっていいのでしょう? せめて余計な事はしないでちょうだい」
そう言いながら、紅は呪いの印の辺りに指を這わしていった。
「私の言う事を聞いてくれるのなら、もっと優しくしてあげる」
微かな痛みが生じ、わたしは震えた。印の刻まれた辺りが非常に熱くなっている。心臓を掴まれているかのような圧迫感がとても不気味だった。
「……どうして」
抵抗をやめて、わたしは背後の紅に訊ねた。
「どうしてそこまでして、果実を欲しがるの……」
何故、悲劇を連鎖させるのだろう。
天使の名を使ってまで純粋な民を騙し、人生そのものを狂わせて悪人にまでして、どうしてそこまでして聖樹に牙を剥こうとするのだろう。
どんなに訊ねたところで理解出来る事があるなんて思えない。けれど、わたしは紅に答えを求めた。僅かながらの納得を期待していたのかもしれない。
「どうしてそこまでして、この国を壊そうとするの……?」
納得したところで賛同することはないだろう。師匠は聖域などいらないと言っていた。それでも、サヤ様に一度魅了されたこの身では、カタナに力を貸して多くの民の暮らしを守ることこそ正義にしか思えなかった。
そんなわたしの心までもこの悪魔は見透かすのだろうか、笑みを殺しながら紅は言うのだった。
「民に過ぎないあなたには、きっと分からない」
淡々とした無感情な声で紅は言った。
「私の手を今もなお握ろうとしないあなたになんて、一生分からないのでしょうね。それなら、もういいの。あなたに与えた御印は目印でもあるの。この先、もっともっと花開いて面倒臭い花粉を飛ばすくらいなら、蕾のまま今の内に摘んでしまいましょうか」
慈悲もなにもないその言葉にもがいていると、ふと疎林の影から誰かが近づいて来る気配を感じた。番人ではないだろうということは、紅の様子から分かった。素直にならぬわたしにぶつけられるのが誰なのか。この状況下では一人しか思い当たらなかった。
月光がその姿を暴く。
――明松……。
死人のように虚ろな表情は、夕暮れ時に見たものよりも更に心を失っているように思えた。彼女では御殿の結界を越えることも出来ないだろう。だが、紅に囚われ逃げられないわたしを殺す事など容易いもの。
戦うにも殺せばわたしが操り人形となってしまう。押す事も引く事も出来ない状況下で、絶望に打ちひしがれている内に、明松はわたしのすぐ傍まで迫ってきていた。
「天使様」
茫然とした様子で彼女は言った。
「その子、殺していいの?」
母親に許しを願う子供のように、明松は紅の姿を窺った。疑うことを知らないその眼差しに、紅はにっこりと笑みを返す。
「いいのよ。この子はあなたへの贈り物。此処まで頑張ってくれたあなたへの供物。血を見たいでしょう? 内臓をみたいでしょう? この子の左胸にも果実が宿っているわ。黄金ではなく、真っ赤な果実。天使のもたらす赤い果実よ。欲しいでしょう?」
「欲しい……天使様の果実……ああ、ちょうだい!」
呟きながら手を伸ばして触れようとするその姿が亡者のように恐ろしくて、わたしは暴れた。何とかして紅の拘束から離れなければ。しかし、紅の力は恐ろしいほど強かった。女性のものとは思えない。そもそも、人間でないのだから無理もない。
「来ないで……来ないで、明松!」
名を呼べば、明松はふと驚いたような顔をした。
「明松?」
不思議そうにその名を呟く。
「明松って誰?」
――ああ、なんてこと。
明松はもう明松ですらない。家族を奪われ、憎しみのあまり悪魔の手を握った哀れな女性はもう何処にも居ない。わたしから大切な友――茜を奪ってしまった憎き殺人犯は、もはや過去の存在となってしまった。
此処に居るのは人形。心身共に紅のものとして存在するだけの彼女が待っているのは破滅のみ。彼女を解放するのは安らかな死のみだろう。だが、その死を与えるものもまた、同じ運命を辿る事となってしまう。
「明松……」
茜を奪った彼女への憎しみは消えない。だが、悪魔の手先として崩壊して行く彼女を目の当たりにすれば、同情せずにはいられなかった。
「わたしにはあなたを救えない……悪魔から助けてあげられない……」
「悪魔?」
明松は首を振る。
「悪魔? いいえ、わたしが信じているのは天使様。勇敢の天使様はわたしを選んだ。けれど、わたしは滅んでしまう。わたしを受け止めてくれるはずだったあなたは役立たず。だから、あなたは犠牲になるの。天使様がわたしにあなたを下さった。命乞いをしても無駄」
伸ばした手についに触れられて、一気に寒気が走った。
この手が指差した人物がどんな姿で死んでいったのか。その光景は忘れたくても脳裏に刻まれてしまっている。悲鳴が忘れられない。色が忘れられない。臭いが忘れられない。恐怖に震えながら見つめれば、明松は微笑みを浮かべた。
「天使様の邪魔をするのなら、あなたなんかいらない」
明松は言った。
「別の御方がわたしを受け止めてくれるのなら、あなたなんかいらない。欲しいのはあなたの命の輝き。その胸に宿る赤い果実をわたしに見せて」
異様な殺気を正面から向けられている。紅を信じてやまないのだろう。紅の言葉しか明松の頭には無いのだろう。ぴりぴりとしたものが肌を突き刺してくる。生きながら身体を引き裂かれる苦痛とは、どのようなものだろう。そんなこと一生知りたくもない。
魔物にでも迫られているような恐怖に追い詰められていく。桶に注がれた水が溢れ出すように生存への欲求は生まれ、わたしの背中を強く推した。
震えてうまく回らぬ舌をやっと制御して、わたしは叫んだ。
「レラ……レラ助けて!」
日頃使い慣れた風の魔術を忘れかけてしまうほどの焦りだった。
契約した精霊でも呼びつけるように魔術の名に縋って、わたしはその身を透明な風に攫わせた。天使を自称する紅の手を逃れることが出来るのかは半信半疑だった。だが、レラに身を包まれたわたしの姿が一瞬にして消えてしまうと、紅は辺りをきょろきょろと見渡してわたしの姿を探しながら悪態を吐いた。
「鴉! 戻ってきなさい!」
紅は獣のように吠えながらわたしを探している。不意打ちは得意でも、本気で逃げようとするわたしを追いかけることは出来ないらしい。
――よかった。逃げられる。
わたしが安心している一方で、明松の表情が一変する。
「何処……何処に行ったの……わたしの……わたしの果実!」
手を伸ばせば空気が振動し、レラに守られるわたしの身体にも強い衝撃が加わった。もしも生身で受けていれば引き千切られていただろう。わたしの身代りに周囲の木々草花が切り裂かれ、悲しい姿を曝していく。
「ああ……逃げた……逃げてしまった……殺したい……天使様……わたしの果実は何処に行ってしまったの……?」
泣き出す明松を紅は抱きしめた。
「罪作りな子ね。愛しい人、どうか泣かないで。私が慰めてあげるから」
怪しげに微笑みながらしもべを抱きしめる紅の目。心から明松の事を労わっているようでいて、よく見ればその心に愛はないようにすら見える。紅はただ明松を利用し、使い捨てる気でいるだけ。そうとしか見えなかった。
それなのに、紅に抱きしめられる明松はどうしてあんなにも幸せそうなのだろう。
「天使様……天使様……」
紅の赤い翼が明松を包みこんでいく。我が子を守る親鳥のようにも見えるが、一方で、獲物を捕食する怪物のようにも見えた。
それでも、囚われたままの明松は幸せそうにしか見えなかった。
「天使様……嬉しい」
身を滅ぼしながらも信じ続ける明松。それはまさに狂信者と呼ぶにふさわしい姿。
赤い光に包まれて、明松はそっと目を閉じた。
わたしを探すということはもうせずに、残された僅かな時間の合間にささやかな癒しをもたらされているようだ。その姿はあまりにも哀れで、それ以上見ていることが出来ないほどであった。
なんて悲しく、なんて哀れなものだろう。
わたしが幾ら憐れんだところで、明松には永遠に届かないことが、もどかしくて悲しいことだった。




