7.赤い悪魔
この国の役人達の頭は随分固いようだ。
わたしの身元からまずは嫌われ、始終、疑いの目を受けることになった。全くもって心地いいものではなかった。もしもあの場で生き残っていたのがわたしだけであったのならば、今頃独房に入れられていたのだろう。
だが、あの場に居た人々の幾らかはわたしが魔術で救ってくれたのだと思っていたらしく、皆が皆、わたしを庇ったり、有利になるような証言をしてくれたりしたらしい。
お陰で独房などには入れられることもなく、話せるだけの事を話してしまったら、世話になっていた宿へと戻る事を許された。
――真面目で優しい人たちが居てくれてよかった。
部屋に戻った瞬間、身体の力が抜けてしまった。
色んな事があり過ぎてどうにかなってしまいそうだった。
前払いで借りたこの部屋の期限は明日だけれど、このまま眠れば明後日までも眠り続けてしまいそうなくらい疲労がたまっている。
だが、目を閉じれば思い出すのは赤色。毒々しい色と鼻にこびりついて離れない死臭がわたしを苦しめていた。生き残るのも辛い。だが、死にたくはない。あんな死に方などしたくなかった。茜のように殺される事を恐れているわたしは、本当に情けない。
簡素な寝台の上で寝そべれば、そのまま身体が潰れてしまいそうなくらい沈むような気がした。眠ったとしても疲れはすぐにとれないだろう。もう少しだけ宿代を払っておこうか。明後日以降も居られるようにしておこうか。
ぼんやりと考えている内に、わたしは奇妙な事に気付いた。
身体が異様に重たい。疲労の所為だけではないことに気付いた途端、全身が震えた。冷や汗が浮かび、寒気が生じる。不快な感覚から逃れるべく起きあがろうとすれば、非常に熱い手のひらがうつ伏せのわたしの頭を抑えつけ始めた。
「とんだじゃじゃ馬だわ」
紅だった。神出鬼没なのは以前から。だが、この瞬間、恐ろしい悪霊にでも見つかってしまったかのようにわたしは恐怖した。多分、これは本能的なもの。目の前にいるケダモノが、魔物が、どういった性質をしているのかを見分ける類の勘だろう。その勘は確かなもののようだった。
「誘った子に振られるのは嫌いなの、鴉」
そう言って、彼女はわたしの顔を寝台に押し付ける。思うように息が出来ず、苦痛に呻くわたしに向かって、紅は優しげに囁いたのだった。
「これがあなたにとって最期の機会よ。私の言う事を聞いて。私の手を取りなさい。天使の力が欲しいと、そう言いなさい。そして、あなたの手で罪人に死を」
そしてやっと解放された。
直後、わたしは這い出るように紅から離れた。
美しく、神々しく、天使と名乗るに相応しいその容姿は全く変わらない。それなのに、わたしは震えていた。サヤ様を見た時の震えとは全く違う。怖くて震えていた。明松に命を脅かされた時と同様、目の前に居る紅という存在が怖くて仕方なかった。
手を伸ばす彼女の姿に目が釘付けになる。
――こんなの、天使じゃない。
わたしはつくづく思った。
「あなたは何者なの……どうして、明松を殺させようとするの」
怯えるわたしを見つめ、紅は微笑む。その笑みは何故だか繁華街で愉しげに人を殺していたあの明松の姿に不気味なほどそっくりだった。
「……まさか、あなた」
思い出したのは師匠の教え。いずれ必要だからと読まされたあの聖典の中身。似たような話がそこには載っていた。悪魔の話だ。黄金の果実を狙う悪魔が、絶望に浸る人の前に現れて、罪を唆すと言うもの。伸ばされた手を握れば取引は終わる。生きている限り二度と解放される事はない破滅の日々が待っている。
「あなたは……やっぱり……天使じゃないのね」
震えながらそう問えば、紅は笑みを殺した。
「いいえ。私は天使。聖樹を産み、剣を人々に与えた赤い天使」
「違う。天使じゃない。あなたは悪魔。聖典に載っていた悪魔よ。天使なはずがない。あれだけ無関係の人々を明松に殺させて、さらにはわたしに殺させようとした。そうして、わたしを次の明松にするつもりなのでしょう!」
問いただせば、紅は一気に表情を失っていった。
赤い目がわたしを見つめている。酷く寒気のする中、わたしは更に紅から距離をとろうとした。だが、足がもつれ上手く動けない。床に崩れたまま立ち上がることもままならないわたしの元へ、紅はゆっくりと近づいてきた。
「聖域の外と言うのは厄介な所ね」
そう言って彼女はわたしの胸元へと手を伸ばした。
「せっかく苦労して燃やしつくした聖典を、あなたは知っている。ああ、コタンだったかしら。忌々しいことね、鴉。聖域はいらないと言っておきながら、そんな害書を読むなんて、あなた達は救いようがないほど変わっている」
その指がわたしの左胸に触れたその途端、吐き気が込み上げてきた。
――熱い。
言葉すら漏れないほどの痛みが生じ、床に伏せるも苦痛はすぐには消えてくれなかった。
「……何を……何をしたの」
息苦しさに喘ぎながらどうにか訊ねれば、紅は無表情のまま答えた。
「言ったでしょう。最期の機会だと」
立ち上がり、彼女は部屋の隅へと下がっていく。
「あなたに授けたのは御印。天使の印よ。私とあなたの縁を守るもの。もう二度とあなたに平常は訪れない。常に私の影に震えているがいい。私の手を取るその日まで、せいぜい苦しみ悩みなさい」
御印。いや、呪いだ。焼かれるような痛みはまだ左胸を締め上げる。心臓そのものが掴まれているかのようだった。こんな苦しみは初めてだった。
「あ……熱い……苦し……」
耐えきれずに言葉を漏らすわたしを眺めながら、紅は言った。
「さようなら、鴉。また会いましょう」
別れを告げて間もなく、その姿は壁に吸い込まれるようにして消えていった。
同時に、あんなに苦しかった左胸の苦痛がすっと治まった。解放され、慌ててわたしは素肌を確認した。焼けつくような痛みに関わらず、そこにはさほど酷い傷など何処にもなかった。
ただ一つ異様なものがあった。
剣の印――この国で赤い天使の印と呼ばれ大切にされている御印が逆さになってわたしの素肌に刻まれていたのだ。
呪い。それは、まさに神に反する者の印だった。




