6.殺人鬼
逃げなくては。そう思うのに身体が動かなかった。
わたしは男の血縁ではない。だが、そんな事実はわたしの命を守ってもくれないだろう。憎き友の仇が目の前に居るというのに、わたしの頭は逃げることで一杯だった。
しかし、逃げられない。
足が震えて動けなかった。
ねっとりとした血の海を歩きながら、明松がわたしへと近づいて来る。彼女がわたしを見るのは久しぶりだろう。覚えていないかもしれない。だが、明松はすぐ目の前まで来ると、わたしの目を覗きこんで微笑んだのだ。
「御久しぶりね」
手を伸ばし、わたしの頬に触れて明松はうっとりとした表情で告げる。
「ちゃんと覚えているわ。名前は確か……鴉ちゃんだったわね。あの子の可愛がっていた鳥の子。そして、わたしの天使様が大切に温めていた卵ね」
「……何の事?」
逃れようとするわたしの手を、明松は掴んで引き寄せた。
「あなたはわたしの罪を見ていたのだと天使様は教えてくれた。じゃあ、あなたには分かるはず。わたしはもうすぐ潰えてしまう。あの男の血など関係ない。とにかく血を流したい。肉を壊したい。悲鳴が聞きたい。ねえ、あなたの悲鳴も聞かせてくれる?」
もう終わりだ。
明松に撫でられながら、血の気が失せていった。今に衝撃が加わり、わたしの身体はばらばらになってしまうのだろう。茜と同じように殺されてしまう。その恐怖は生かされる時間が長くなればなるほど膨らんでいく一方だった。
しかし、明松はそんなわたしに微笑むばかりでその手を別の方へと指差した。
直後、この場を逃れようとしていた関係のない機械人形の男性が一瞬にして見るも無残な姿に壊されてしまった。
「や……やめて……」
震える声でどうにか言ってみれば、明松はおかしそうに笑ったのだった。
「やめて欲しい? それじゃあ、此処に居る全ての人の代わりになれる? わたしを満足させて。破壊したいこの気持ちを受け止めてくれる? ゆっくりと誰にも邪魔されないところで、わたしの為にその命を差し出せる?」
狂っている。前に茜を殺した時とは全く違う。
目の前に居るのは明松の姿をした別人だ。殺人という大罪に身を狂わせ、心を狂わせ、もはや元には戻れなくなってしまったのかもしれない。目の前に居るのは聖域の中に住まう怪物だ。達成を滅ぼしたエルリクや夢幻を滅ぼした饕餮よりも恐ろしい。
「い……いや……」
恐怖が勝り、わたしは咄嗟に風の魔術レラを使った。明松の手から逃れたかった。この国では鎌鼬と呼ばれる冷たいレラの刃で、その荒れた手を少しだけ斬ったのだ。怯む明松から逃れて距離を取る。レラを漂わせて様子を窺いながら、わたしは死を覚悟した。怒らせればもう後には引けない。魔物と同じだろう。
だが、そんな思いとは裏腹に、明松は自分の手の甲に流れる血を見つめながらうっとりとした様子を浮かべたのだった。
「ああ……綺麗。綺麗だけれど、つまらない。やるなら首を飛ばしなさい。わたしは殺されてあげてもいい。あの男と同じ血は全て流したもの。もう何も思い残す事はない。あなたの気が済むのなら、御友達の仇としてこの首を差し出してあげるわ」
「……何ですって」
思わぬ言葉にわたしは喰いついた。
茜を奪い、未来を奪った憎き相手。不可思議な力で多くの命を奪っていく化け物。そんな明松が無防備にも両手を広げてわたしを見ている。殺してもいい。罠だろうか。それとも、本気だろうか。狂っている相手の言葉等まともに受け取る方が間違っているのかもしれない。どうするべきか、どうしたいのか、わたしは戸惑っていた。
そんなわたしの背後で、あの声は聞こえてきたのだった。
「怖がらないで」
赤い翼が背後からわたしを包みこむ。
いつの間にか現れた紅の強い意思を伴う声がわたしの背中を押していた。
「復讐は悪い事ではない。勇気を見せなさい。明松は抵抗出来ないわ。やれば心は晴れるはず。あなたは解放されるはず。過去を封印するのではない。自分の手で壊してしまうの。さあ、おやりなさい」
心を震わせる声だった。
レラに願うだけでいい。願うだけで茜に捧げる勝利がわたしにもたらされる。わたしの命令を待つようにレラは漂い続けている。風の力で戦うのか、風の力で逃げるのか、レラは待っている。わたしを待っている。
――殺してしまえば、すべてが楽になる。
「ええ、そうよ。風の魔術に攻撃を命じなさい。明松をその手で」
紅の言葉に背中を押され、わたしは我に返った。
「……いいえ、駄目よ。駄目、そんなことをしては駄目」
首を振って、必死にその考えを振り払った。
「そんなことをしたって、茜は戻って来ないもの……」
復讐を果たす。仇を取る。目の前に居る女を殺せば少しは気が紛れることだろう。だが、そんなことをしたところで、わたしもまた罪人になるだけ。茜に捧げるのは死を伴う勝利ではない。公正な裁きで民衆に彼女の罪を暴くことこそ、必要な事なのだ。
命を差し出されてやっと、わたしは冷静に判断できた。
そんなわたしの姿を見て、明松の表情が変わった。
「ああ、残念。止めてくれないのね。もういい。あなたじゃない。わたしを楽にしてくれる人はあなたじゃない。さようなら、鴉ちゃん」
「待ちなさい、明松!」
反射的にレラをさしむけて、わたしは明松を捕えようとした。生け捕りにして役人に突き出すのだ。だがその先で、明松は血の海よりも赤い光に包まれていく。そして、幾時も待たずして、まるで亡霊か何かのように消えてしまった。
虚しく手を伸ばした先には、直視を避けたい骸が転がっている。対象を見失ったレラがぐるりとその場を一周して消えてしまった。
後に残されたのは静寂。
生き残った者たちも、駆けつけた者たちも、誰もがその場の凄惨な状況に絶句していた。




