2.赤い天使
魔術を学ぶ上で、師匠はわたしに聖典の内容を暗唱させた。
聖域の不必要性、魔物との付き合い方。あらゆる魔術や知識と共にそれらについても常々触れていた師匠が、どうして聖樹や黄金の果実、勇敢の剣といった聖域を守る立場のものについて学ばせるのは不思議だった。
彼女が強調するのは「悪魔の言葉に耳を傾けてはならない」ということ。
聖域の必要性の是非よりもずっと大事なのだとそう言っていた。その時はあまり意味が分かっていなかった。神や天使というものでさえそこまで信じ込めていないわたしにとって、悪魔というものはもっと信じることが出来なかった。
だからわたしはこう納得した。悪魔とは抽象的なもの。魔術を悪しき道に傾倒させれば遅かれ早かれ破滅の道を辿ることになると聖典の言葉を借りて師匠はわたしに言いたかったのだろうと。
だが、今になってわたしは思いなおした。
師匠はもっと直接的な意味で聖典を読ませたのだろう。わたしが諍いや混乱の渦中に身を置かないように。
振り返れば、聖樹が夜風に枝をしならせている姿が見えた。脳裏に浮かぶのは、赤い礼服に身を包む美しい少女と、その少女を大事に守ろうとしていた勇敢なる黒き雌狼の姿。
対照的な赤と黒の色が、かつてのわたしの見た絶望と重なって見えた。
同じ色なのに、随分と違うものだ。
「サヤ……」
勇敢の剣が口走ったその名をわたしは繰り返した。
「サヤ……様……」
その途端、涙があふれてきた。自分でも可笑しいくらい、あの少女が美しく見えたのだ。傷つけてはならない。手を出してはならない。理屈では説明できない程の感情が渦巻き、罪深いわたしを追い詰める。
大罪の意味がわたしは全く分かっていなかった。
あの半人狼の女の言う通りだ。わたしはまだまだ子供だった。一人前になったと、大人になったと思いあがっているだけだった。
認めるのは怖い。認めるのは悲しい。
だって、認めてしまうと言う事は夢が終わってしまうと言う事だから。
果実を諦めるということは禁断の魔術に手を出せないと言う事。つまり、もう二度と茜に会うことは出来ないということなのだ。
「茜……茜っ!」
友の死に流した涙は何度目の事だろう。
けれど、今宵の涙ばかりは今までは全く違うものに思えた。
もう諦める。諦めなくては。現実を受け入れなくては。認めなくては。そうして流した涙の先で、わたしはようやく死んだ友を正しく弔うことが出来るのだ。
一人悲しみにくれていると、ふと夜風が何かを運んできた。振り返ることもないまま、わたしの背にそっと手が置かれる。異様に温かく、激しい炎のように威圧的な翼がわたしの身体を背後から覆い始めた。
「残念だったわね、鴉」
耳元で艶めかしく囁くその女の温もりは、振り払いたくても上手く振り払えなかった。
「でも、これではっきりしたでしょう? 民が一人で立ち向かう事は出来ないの。果実を手に入れるには、私と手を組まなくては。自分の目で見たから、もう分かるわね? 果実の魅了の力も、天使である私の力の前では無力と化す」
「……紅、あなたは本当に天使なの?」
その手にそっと触れてみれば、恐ろしく温かい。
人鳥か何かのようにふわりとした翼でわたしの視界すら阻んでいく。だが、その行為は人鳥が温かな心で抱卵するところではなく、蜘蛛か何かが獲物を騙し捉えて放さないようにしている姿が想像できた。
こうして紅に抱きしめられる夜は何度目だろう。
茜を失った日から、私の傍にはいつだって紅がいた。友を失い、天を呪いながら救いを求め続けるわたしの前に現れた赤い天使。神々しいその姿を見た時、わたしは初めて天使と言う存在を認めてしまった。
聖域の内外にいるいかなる魔物や魔獣、魔族とも合致しない特徴。背中に赤い翼を持ち、艶めかしい女の姿を簡素な赤の礼服で包みこむ彼女は、天使と形容するしかない。
だが、紅と名乗った彼女の言葉をそれでも鵜呑みに出来なかったのは、師匠に言われていたことが引っかかっていたから。
甘い言葉に惑わされてはならない。
力を与えると近づいて来る者は怪しむべきだと。
果実があれば禁断の魔術も使えると教えてくれたのは紅だった。漠然と想像がついたことを裏付けてくれた彼女。それでも、果実を盗むために力を与えると差し出した手を、わたしは握れないままだった。
紅は二本の腕で背後からわたしの身体を抱きしめて、背中の翼ですっかりと覆ってしまうと甘い吐息を漏らしながら答えた。
「信じるか、信じないかは強制しない」
そして、腹から胸、喉元から唇まで指を這わせてから付け加える。
「私が言いたい事はただ一つ。あなたに力を貸してあげたい。深い悲しみに沈んだあなたを救ってあげたい。救われるのはあなただけではないわ。偽りの神話を守り続ける哀れな人間たちを聖域という檻から解放しましょう。みんなに自由を与えるのよ」
囁く彼女の言葉は、まさにわたしの目的に都合のいいもの。
聖樹を産み、武器を与えた天使そのものがそう言っているのなら、わたしは堂々と果実を盗みに行けるだろう。
――だが、本当にそれでいいのか。
目の前に現れた天使を信じて、この身を委ねても本当にいいのか。
「……サヤ様」
わたしを留めるのはその名前だった。
勇敢の剣が恋人でも呼ぶかのように口走ったあの名前。花火を見つめていた彼女の眼差しの先には、まるで勇敢の聖域に守られる全ての民を包みこんでしまいそうなほどの温かみを感じた。
紅が持つ温かみとは何かが違って何かが似ている。
強過ぎる炎と程良い火のように。
どちらが身体に馴染むかは、はっきりとしていた。
「……出来ないわ」
窮屈な中で、わたしはどうにかそれ以上の抱擁を拒否した。
「わたしには出来ない。あなたに選ばれるだけの器ではなかった。黄金の果実に手を出してはいけない。その想いに打ち勝つことなんて無理よ」
「その恐れをなくしてあげる。私を受け入れて、鴉。どうか本当の名前を私に教えて。そうするだけでこの契りは永遠のものになるわ。永遠に私はあなたの傍にいてあげる。この誓いは確かなものよ。信じて、鴉」
「出来ない。名前は教えられない。あなたの手もとれない。わたしは臆病者なのよ。どうか他を当たってちょうだい……」
震えながら膝をつくわたしを紅は支え、共にそっと地面へと座る。翼の先がわたしの身体に触れ、くすぐるように撫でていく。したいようにされながら、わたしは口を閉ざしてしまった。
紅に名前を渡せば一瞬で楽になるのだろう。本当の名前を教えてしまえば、天使の加護を受ける形でまたあの神殿を侵すことが出来るはずだ。
しかし、どうしてもわたしはその一線を踏み込めなかった。
「――そう、残念なことだわ」
紅は溜め息混じりにそう言った。
「でも、忘れては駄目よ。あなたが与えられた絶望を。天使の私は望んでいるの。この国を真に絶望のない理想郷にしたい。人に力を与えることしか出来ない私の願いを叶えられるのはあなた達人間であること。……誰があなたの強い望みを叶えてあげられるのか。どうか忘れないで」
声が遠ざかっていく。
優しげな亡霊のように紅の感触は消えていく。
そして振り返る頃には、そこにはもう誰もいなくなっていた。




