2.黄金の果実
勇敢の国にたった一つだけ存在する大神殿は複雑に入り組んだ構造をしている。勇敢の民の暮らしを守るべく生えた聖樹を守るために、そして、その聖樹の心臓でもある黄金の果実を守るために、大神殿は存在する。
無論、誰でも入れる場所ではなく、それなりの家柄と教育、才能を持つ者だけが働くことを許される場所だった。
それ以外ならば、限られた期間に聖樹と果実への礼拝を許される民や旅人か、許しを願って商売をしに来た行商人だけがこの神殿の一部の場所にだけ入ることが出来る。
ただし、聖樹の生える中庭はその一部には含まれない。
その場所は神殿に仕える神官や、神殿を守る番人、魔術師だけが立ち入ることを許されていた。
私もまた許されている一人。左胸に刺青のように刻まれた赤い天使の印がある限り、誰も拒むことなんて出来ないだろう。
況してや、この中庭の主ともいえる巫女が私の訪れを望むのだから、ますます誰も介入できない。
だから、美しい中庭は、私の場所でもあった。
足を踏み入れる戸惑いは未だにある。
初めてこの場所を訪れたのは十年以上前。それまで汚らしい都の裏通りしか知らなかった私にとって、ここは眩し過ぎる世界だった。
それでも、そんな私を此処はいつも優しく迎え入れる。
「カタナ……」
聖樹の根元で此方を見つめる赤い礼服の巫女サヤ。可憐な雰囲気に包まれた彼女は、人間の少女のようでいて実はそうではない。
彼女こそが果実。
聖樹の心臓であり、あらゆる悪から付け狙われる黄金の果実である。
「サヤ。危険は去ったよ」
傍に座り込めば、サヤはか細い手をこちらに伸ばしてきた。好きに触れさせてみれば、サヤは迷いなく女人狼に抉られた左頬を確かめ、暗い表情を浮かべた。
いつもそうだ。どんなに綺麗に治っても、サヤはすぐに見抜いてしまう。誰もが怪我したことすらしらなくても、いつも、私が傷ついたことを見逃さず、そして罪悪感に苦しみながら俯いてしまうのだ。
「また、血を流したのね……わたしのせいで……」
悲しそうに言うその姿は、私の心も不安にさせる。けれど、その不安を悟られぬよう、微笑みを浮かべてサヤの手を握った。
「そんな顔をしないで。これが勇敢の天使が定めた私の役目なんだ。悪いのはサヤではなく、サヤを狙う悪意の方。だから、自分を責めないで」
サヤは果実。
果実は聖樹が産み落とす卵の中から七年の時をかけて孵り、その後はゆっくりと寿命を目指して成長し、老いていく。生まれた時から聖樹のためだけに存在し、一生この場所を出ることはない。
サヤに許されているのは、勇敢の民の幸せを祈ることだけ。
「私はサヤの為にいるんだ。それを恨んだことはない。昔は何の為に生きているのか分からなかった。それが今は違う。だから、自分を責めないで」
「うん……分かっているわ……でも」
無理もないことだ。
サヤの入った真っ赤な卵が産み落とされたのは、私が生まれた時とほぼ同時期。二十年と少し前のこと。しかし卵が孵ったのはそれから七年後の事だから、サヤはまだ十五、六歳になったばかりということ。
この勇敢の国において成人は二十。大人には近づいてきているとはいえ、まだ子供のサヤにとって、日々、命を狙われるという重荷は辛いものだろう。
それだけではない。
黄金の果実であるサヤの死は勇敢の国にとって重大な影響を及ぼすものとなる。果実が奪われ、食べられてしまえば、聖樹の存続が脅かされるからだ。
私たちを優しく見守っている聖樹はこの国全域を守っている。
魔物の侵略に苦しむこの国の人間たちを守るため、神より遣わされた赤い天使は、この地にひとつの種を産み落とし、自らの羽根をもいで人々に神力である「勇敢」を授けた。種は芽吹き聖樹へと育ち、羽根は人々の心に宿り勇気の象徴となる剣を生み出した。
聖樹は枝を伸ばして聖域を作り出し、魔物たちの侵入を阻む目に見えぬ守護壁となった。聖域を越えられるのは、人と人に近いほど魔物の血を薄めた魔族だけ。聖樹が生まれて以来、人々は魔物に苦しむことはなくなり、勇敢と名を変えたこの国はそれまで以上に繁栄したのだと言われている。
聖樹はその時から生きており、百年に一度だけ黄金の果実を産み落としながら、人々を守り続けている。
だが、その黄金の果実を奪われでもすれば、聖樹の命はその者に委ねられてしまう。枯らされたりでもすれば、聖域はすぐに壊れ、再び魔物たちが人々の生活を脅かすようになってしまうのだ。
現に世界では既に五つの国が聖域を奪われている。我が勇敢の国の近隣では聖樹を失い、魔物に支配されながら何とか栄えている国が複数ある。だが、いずれも様々な問題を抱え、魔物だけではなく人間同士がいがみ合う結果となっている。
サヤは憂いている。勇敢の国が滅んだ五カ国と同じようになってしまうことを恐れているのだ。
自分の死が甚大な混乱をもたらすと知っているから、責任を感じているのだ。それだけに留まらず、牙を持たない自分の為に時には命を費やす神殿の者たちに対して、そして約束された不死を利用して戦い続ける私に対して、負い目を感じているのだ。
――まだ十五、六の少女だというのに。
怯えるサヤを抱きしめてみれば、あまりに頼りないその細い身体は震えていた。赤い礼服はサヤの心を締め付けはするが、癒したりはしてくれない。実母ともいえる聖樹もまた、怯える彼女を抱きしめるような腕は持っていない。
――だから、せめて母親の代わりになれたら。
「わたしね……いつもお祈りしているの。古の大神の化身に、カタナを守ってくれるようにお祈りしているのよ」
「大神の化身?」
「うん……都の役人の御方が行商人から没収した可哀想な民の形見よ。古の聖獣として、この神殿で預かるのだと神官長が仰っていたわ。ちゃんとした居場所に返されるまで、わたしが大事に預からせてもらうことになったの」
「毛皮のことか」
「そう、人狼の毛皮なんですって。黄金でとても立派だけれど、彼も元々は勇敢の民の一人。可哀そうに、今は大神の化身にされてしまった。酷い話だけれど、それでもきっと、カタナの事を守ってくれるはずよ」
――それはどうだろう。
聖域の中で暮らす事が出来る者は民である。魔物の血を引く魔族だってそう。だが、民であるはずの獣人の毛皮が流通する事自体は珍しい話ではない。大罪を犯して極刑となってしまった罪人が死後に残す美しい毛皮ならば、そのまま流通するものだった。
しかし、行商人から役人が没収したものとなれば話は別。
きっと行商人というのは表向きの姿。没収されるような毛皮を売るのは密猟者やその関係者。サヤの預かる毛皮もまた、不当な狩りで作られたものなのだろう。
狩られたのはおそらく死ぬべき理由のないただの獣人。普通に暮らしていた人狼を、毛皮目的で殺してしまった悪人がいたのだろう。
大神とサヤが言ったように、この勇敢の国で大神信仰は未だに根強いものだった。それは天使が舞い降りる以前――この場所がまだ勇敢の国ではなかった頃の信仰である。かつては魔物から人々を守るために狼の夫婦――大神が盾となっていたのだと言われている。神が天使を遣わし、私たちが誕生することとなって以降、大神は姿を消したが、人々は心のどこかで今もその存在を信じている。
聖樹信仰を広める神官長や知識人、王族たちさえも、便宜上は大神のことを聖狼や聖獣と呼ぶにとどめ、無理矢理禁じたりはしなかった。
民の中には勇敢の剣を狼、もしくは雌狼と呼び、大神信仰に結び付けるものもいるらしい。私もまた、聖樹を守る黒い雌狼と呼ばれている。決して間違ってはいない。だから、サヤまでこんなことを言い出すのだろう。
しかしこの信仰は残酷なものだ。この信仰があったせいで、善良な人狼まで苦しめられている。サヤが預かっているという毛皮が生み出されたのは、大神信仰に傾倒する者たちが、心のよりどころとして人狼の毛皮を高値で欲しがるせいでもあるのだから。
毛皮にされた今は分からないけれど、殺される時は、さぞ、世の中を恨んだことだろう。
――それにしても、人狼か。
先ほど現れた真っ白な人狼。彼女の目的はなんだったのだろう。
同じ人狼というだけでは確かなことは何一つ言えないけれど、もしも彼女の目的が果実ではなかったなら。
「カタナ、どうしたの?」
サヤに見つめられ、はっと我に返った。心配そうに私の顔を見つめているそのつぶらな瞳は、やはり血に穢れた私には眩いものであった。
「何でもないよ、サヤ」
「でも……」
言いかけるサヤの頭に手を置いて、私はそっと傍を離れた。
「少し、汗を流してきたい。……いいかな?」
そう問いかけると、サヤは素直に頷いてくれた。