1.誕生祭の夜
天国と言う場所があるのなら、茜は何を思っているだろう。
死後の世界に行けずに彼女が亡者となっているとしたら、どうかこの馬鹿なわたしを止めてはくれないだろうか。
そんな一抹の罪悪感と共に、わたしは聖樹を見つめていた。
結界がこの目に見える。赤い結界だ。美しい天使の羽根のように広がり、聖樹と御殿をすっぽりと覆い尽くしている。大神殿の敷地の全てが守られているわけではないけれど、それだけで魔女ならば恐れが生まれてしまう。
とても古い結界だった。
その質は確かなものであるのだろう。
強大な邪を退けるあの力。そこまでして守りたいものは、聖樹だけではないはずだ。赤い果実。美味な果実。大き過ぎる魔力の源。今のわたしにとっては喉から手が出るほど欲しい存在。
あれさえ手に入れれば、茜は甦る。
身内の犯した罪の所為で、カラスの友達しかいなかった孤独な少女は、今度こそ幸せな時を掴みにいける。わたしがそうさせるのだ。生き返ったら二人で聖域の外に出よう。外で暮らそう。剣に追われる身となったとしても、わたしは負けたりしない。
茜はそのくらい大事な友達だった。
「……行きましょう」
日は沈んだ。
人々は誕生祭というものに浮かれている。
都まで行けなくとも、神殿の者たちは明らかに気が抜けていた。
まさか果実を狙って忍びこんで来る者がいるなんて思っていないのだろうか。それはそうだろう。こんな大馬鹿者はわたしだけでいい。聖樹への害を恐れることもなく、こんな大逸れた事をしでかす者なんて、勇敢の国に忘れ去られた一族の出のわたしだけでいい。
この国は茜を守れなかった。
今も犯人を捕えられずにいる。いることさえきちんと分かってはいない。
そんな国に何の希望があるだろう。犯人を見つけ出して復讐したところで、わたしの悲しみは消えたりしない。
わたしが解放されるには茜が必要だった。
茜を生き返らせたい。生き返らせなければ。
その強い願いが、僅かに戸惑いを残すわたしの歩みを進ませていった。
そうして、わたしは此処に居る。この場所――御殿を眺められる大神殿の敷地内に忍びこんでいた。御殿に近づくのは簡単だ。赤い結界はわたしを拒んだりしないだろう。それに、果実は恐ろしいほどに居場所を教えてくれた。
言葉に出来ぬほど得体の知れない芳香。その香りに先にあるものこそ、果実なのだろう。果実は聖樹の傍にあるのだと聞いていたが、今は何故だか御殿の端よりその香りを感じた。
都により近い場所に。
誕生祭の空気に少しでも近づけてやるためだろうか。
「盗むなら、今」
ごく簡単な魔術で気配を消したわたしを無能な番人達は見つけられもしない。獣人やそれ以外の魔族の血を引くものだっているはずだろうに、その鼻は、その耳は、その感性は、忍びこむわたしに気付くこともなく呑気に祭りの話題で盛り上がっている。
その姿は村や町、都で見てきた民と同じ。
ただいい服を着て、特別な任務を与えられているだけの一般人。
数時間後、彼らは恐怖する事だろう。けれど、その恐怖を代償にわたしは願いを叶えられる。聖域の境界にある片田舎からはるばるこの神聖な場所を目指してきたのだ。私財も誇りまでもなげうって。
故郷の大人たちは何を思うだろう。
きっと何も思わないだろう。
聖域がなくなったとしても困らないということは彼らが一番分かっている。どうしてこの勇敢の国の民がこんなにもあの聖樹を有難がり、聖域を守らねばと躍起になっているのか理解出来ない者ばかり。
外には確かに恐ろしい魔物がいる。
聖域の中に住まう魔獣や猛獣とは比べ物にならないほどの力と知能を持つ者たちだ。だが、よく考えて欲しい。彼らは闇雲に力を発揮して満悦するような低能ではない。魔物には魔物の掟があり、その掟を理解して守る者にはある程度の礼儀をわきまえるものだ。
わたしの故郷の傍に存在した国は何処も魔物達の統治する国だった。だが、わたしの故郷が攻め込まれるような事なんて一切なかったのだ。
この国を旅して暫く。
聖域の中にだって魔物はいる。人間として産まれ、人間の血しか引いていないはずの者たちなのに、まるで悪魔が取り憑いてしまったかのように血も涙もない行為で他者を虐げるケダモノは聖域の中にだっている。
いつ彼らの被害に遭うか分からないのがこの国の現実。それなのに、どうして民は聖域の外を恐れ、同胞の悪人には無頓着なのだろうか。
いくら疑問に思ったところで答えなんていらない。
今回だって、わたしが成功したところで、犯人の身元が分かれば聖域の外の者への偏見が高まるだけだろう。
「待っていて、茜」
望む未来を掴み取るために、わたしは芳香な果実の気配を辿っていった。
無能な人間たちはわたしを止められない。結界の中に侵入した事にすら気付いていない。古の魔術が泣いている。どんなに侵入者を警戒したところで、術者たる人間が気付かなければ意味がない。
これ幸いと気配を殺して進み続ければ、面白いほどに果実まで近づけた。全く、聖域に守られることしか知らない人間の感性は悲しいものだ。魔物を相手にする日々に比べれば、ずっと簡単なこと。聖樹と天使、そして神を信じる人々が浮かれる神聖なこの夜に、彼らは己の無能さを思い知るだろう。
そうして、わたしが見たものは、遠い異国の花火を純粋な気持ちで見つめているただただ美しい同年代の少女であったのだ。
「あれは……」
赤い礼服の美しい少女。
彼女を見つめたその瞬間、わたしの心の中で何かが芽吹いた。




