18.黒き雌狼
そろそろ行かねば。
夕暮がどうにか立ち去り、しばらく。名残を惜しんでサヤの傍を立ち去ろうとしたその時、背後にふと嗅ぎ慣れた匂いを感じた。遠くから近づいてきたのではなく、急にその場に現れたのだ。驚きと安堵のようなものが私の心をぐっと掴んだ。
振り返れば、思っていた通りの人物がそこに居る。
鴉。白椿に言伝を持っていったまま行方知れずとなっていた魔術師の少女がそこにいた。青ざめた顔で私を見つめ、そして聖樹の下で眠るサヤへと視線を移す。ふらついた足取りでサヤの亡骸へと近づくと、そのまま聖樹の根元に崩れ落ちるように地面に手をついて泣きだした。
「……御免なさい」
震えた声で彼女は言った。
「御免なさい。わたしは無力だった」
もう動かないサヤの手に触れ、鴉は涙を零していた。誰に見つかっても構わないのだろう。傍にいる私が追い払おうとしないのだから誰も近づいては来ないだろうけれど。
それにしても、ほっとした。白椿が現れて以来、彼女を探しに行ったはずの鴉がどうなったのかがずっと気がかりだった。鴉は一人前ぶっていても少女。この国の決まりではまだ子供である。そんな子供を危険な人狼の元に送ってしまったことは、罪悪感を覚えるものでもあった。
けれど鴉は傷一つない。その上、サヤに詫びる元気まである。
それだけは、よかった。
「鴉。此処で起こった事が分かるか?」
「……ええ。此処に来るまでに、亡くなった方々の遺体を見てしまった。身元を確認していたの。身元が分からない人だらけだった。明松がやった時のよう」
「やったのは白椿だ。奴は化け物になってしまった。そして、まんまとサヤを奪って今や本物の怪物になってしまった。このまま聖樹を枯らされれば、達成の国の怪物エルリクのように魔物の国を築く支配者となるのかもしれないね」
「御免なさい。わたしは止められなかった。見ていたの。見ていたのに止められなかった。白椿が悪魔の手に落ちる所を、見ていたのに!」
地面を掻きながら鴉は身体を震わせていた。恐ろしいから震えているのではない。怒っているのだ。悪魔に、そしてきっと、自分にも。
「自分を責めるな。君はまだ子供。大人だったとしても止める事なんて出来なかっただろう。だから、もう忘れるんだ。後はもう神話の戦い。君は安全な場所で見守っていてくれ。一つの時代の終わりを、どうかその目で見届けて欲しい」
「……カタナ」
鴉が私を振り返る。その異様に輝く双眸に見つめられると不思議な気持ちになる。幻術でもかけられているかのようだ。
「あなたは行ってしまうの? 果実を壊せば死んでしまうのよ。本物の死があなたに襲いかかるのよ。それなのに、あなたは行ってしまうの?」
「それが私の最期の役目だから」
「……もう、逃げましょう。聖域はもうおしまいよ」
鴉は俯きながらそう言った。
「聖域なんてなくたって人は生きていける。魔物との付き合い方を学べば、共存できるものなの。そりゃあ、今のように便利ではなくなるかもしれないけれど、悪い世界でもないのよ。そうよ、あなたが命を張らなくたって……」
「サヤが呼んでいるんだ」
その一言だけで鴉の誘いは一蹴出来てしまった。
聖域の是非なんて実を言えば私にとってさほど重大な事じゃない。聖域がなくとも人は生きていけるというのが正しいとしても、関係ない。サヤが奪われ、苦しんでいる。奪った本人が生きている以上、サヤは苦しみ続けてしまう。私が奴から奪い返すまで終わりのない苦しみを背負うことになる。
そんなのは嫌だった。サヤが助けて欲しいと言うのなら、助けてやりたい。
私の想いはただそれだけだった。
「サヤが呼んでいる。あの子は私の全てだったんだ。何のために生まれてきたのか分からなかった私の前に急に現れた使命。何度死んでいるのかも分からないような日々の中で、あの子を守る事だけが私の生きる意味だったんだ」
吐き出せば吐きだすほど思いが溢れだしそうだった。鴉の傍に座り、その顔を見つめながら私は告げた。
「赤ん坊の頃に朽ち馬車に置き去りにされていた私を、大人達は誰も愛してくれなかった。盗みに失敗して、きっと殺されるのだと思っていた私を助けてくれたのは、別の大人でもなければ、私を見捨てて逃げ出すしかなかったかつての仲間達でもない、この印だったんだ。サヤに繋がるこの印だけが私を救ってくれた」
胸に宿る赤い印。決して消えない呪いのようなものが、今はずきりと痛んでいる。サヤを失った悲しみが骨の髄にまで沁み込んでいるのかもしれない。
「それまであなたを助けてくれる大人はいなかったの……?」
悲しそうな目で此方を見つめる鴉に向かって、私は答えた。
「君には分かるだろう、鴉。私には――」
言い淀んでしまうのは、きっと、後ろめたいからだ。
「私には、ケダモノの血が流れている」
美しい両目がじっと私を見つめている。
私は吐き出すように言った。
「私には、獣人の血が流れている。サヤを奪って行った奴と同じ、人狼の血だ。それも変身能力すらない半端者。それでも狼は狼なんだ」
鴉の瞳が少しだけ揺らぐ。きっと分かってはいたのだろう。
この血は隠そうとしても隠せないものだ。異国の血を引く者の外見が特徴に出てくるように、獣人の血を引く者の特徴も似通ったものがある。
実の両親が分からなくても、拾った子供たちでさえ私の正体は分かっていた。
だからこそ、大人たちには嫌われた。
変身能力があろうとなかろうと、飼われていない狼など恐ろしいに決まっている。
「どうして捨てられていたのか、どうして愛されないのか、成長していくにつれて色々と考えるようになった。母はどうして私を捨てたのだろう。父はどんな人だったのだろう。この人狼の血はどちらのものであったのだろう。そして、どんな経緯で私は産まれてきて、捨てられてしまったのだろう、と……」
「――ああ……」
鴉が力無く嘆いて俯いてしまった。
答えなど私にも分からない。それでも、未だに両親が見つからないということは、あまりいい背景ではないのは確かだろう。
「こんな私がこんなにいい服を着て、美味いものを食えて、いい部屋を与えられて、仲間にも恵まれて、身分ある者として振る舞えてきたのも、私が勇敢の剣であったからだ。果実の巫女サヤを守ると言う大きな使命があったから、私はどん底の環境から救い出されただけなんだ。それなのに私は、無様にサヤを奪われてしまった。全て私が弱かったせいだ。可哀そうに、サヤ。何が痛くしないだ。止めすら刺さずにあの女は――」
頭の中でサヤの悲鳴が響き渡った。
「……悔しい。サヤに申し訳ない。あの子にもたらされたのは安らかな死などではない。今も化け物の身体の中で私を待っているんだ。私が助けてくれるのを信じている。そんなあの子の意思を感じるんだ。私もあの子に会いたい。……会いたいんだ」
「――御免なさい」
鴉は涙を零すようにそう言った。
「無責任な事を言って、御免なさい。あなたの想いは分かったわ。……けれど」
顔を上げて鴉もまた強い意思を伴った表情で私を見つめた。
「それならば、一人で行かせないわ」
「……鴉」
「お願い、カタナ。私も連れて行って。私の魔術であなたに助力したい。あなたと死ねるのなら本望よ。私も悪魔に立ち向かいたいの。私の心を引き裂いた……大切な人を奪った紅の思惑を阻みたい」
「――駄目だ。せっかく無事だった君を連れていくわけにはいかない」
「いいえ、無事だったからこそ行きたいの。お願い、行かないと気が狂ってしまいそう。何も出来ずにあなただけに全てを託すなんて、生き地獄のようよ」
――生き地獄、か……。
サヤを失った今、命令まで動けないと言う事が私にとってどれほど苦痛であっただろう。鴉は聖域の外から来たと言う魔女。勇敢の国に住まう多くの少年少女とは全くの異質のもの。だからといって所詮子供だと言う気持ちがすぐに変わる事はないだろう。それでも、恨みを強めた目で遠くに逃れた白椿――いや、彼女に取り憑いた紅とかいう悪魔の行方を睨みつけている鴉の姿は、私の心を動かすのに十分なほど禍々しいものだった。
「お願い、連れて行って……」
悲痛なその願いは、以前口を滑らせた茜とかいう少女に引き寄せられてのことだろう。悪魔のしもべはもう明松などではない。恨みを晴らす相手はどうなってしまったのか。しもべを殺してはならないという言葉を思い出せば、すぐにぴんと来る。
鴉にとって真の敵であるのは紅とかいうあの赤い翼の持ち主だけなのだろう。
「分かった」
私は観念してそう言った。
「力を貸してくれ、鴉。頼りない私がしっかりと役目を果たせるように」
強い意志と共にそう言えば、鴉は大粒の涙を流しだした。
それほどまでに恨みは深いのか。はたまた、痛々しい私の姿が耐えきれないのか。どちらにせよ、鴉は涙の意味は述べることなく強く、とても強く頷いたのだった。
さあ、行こう、解放の旅へ。
罪のない果実と、哀れな罪人を、憎き悪魔から救い出すために。
代々受け継がれてきた剣の歴史を、私もまた繰り返そう。それで多くの民が救われるというのなら、そして何よりも命よりも大事だったサヤが救われるというのなら、全ての希望を宿すこの聖樹に誓おう。
必ず、役目は果たす。
やっと訪れるはずの死の恐怖など克服してやろう、と。




