17.最期の役目
命を奪われたなんてどうして信じられるだろう。
聖樹に横たわるサヤの亡骸は時を止めてしまったかのように綺麗なものだった。
ただ胸にぽっかりと穴が開いている。その中にあった果実の核とも言えるものが抜き取られてしまったのだ。それ以外は何も変わらない。特に顔は綺麗なものだった。今にも目を覚まして私の名を呼んでくれそうなくらい。
「……カタナ、すまない」
どのくらいの時間をこうして過ごしてきただろう。どんなに時間を与えられたところで、私は未だに現実を受け止めきれていなかった。
そんな惨めな私を神殿の者たちは遠巻きに見つめている。話しかけてくるのは鵺や朱鷺、そして夕暮くらいのものだった。
「すまない……我々は何も出来なかった」
悲痛に詫びてくる鵺の声が遠く感じる。
彼らが待っているのは神官長の命令だった。
命令など待たずとも今すぐにでも憎きあのケダモノを追いかけたいところだが、そうはいかない。勇敢の剣を管理するのは神官長と決まっている。その許可なしに勝手に神殿の外を出ることも、出す事も大罪なのだ。
仕方ないことだった。怪しげな力を得た人狼に立ち向かったところで殺されるだけ。中庭に到達する頃には、もうすでに何十名という人が殺されていたのだ。この騒動で死んだのはサヤだけではない。運悪くその場に居合わせた者、職務を全うしようとした者、逃げる私達の身代りとなってしまった者が沢山いた。
遺族は私を恨む事だろう。神話を信じる者ならば不死であるくせに果実だけ連れて逃げ惑った私を臆病者と罵るだろう。それでも構わない。好きなだけ罵ってほしい。私は使命を果たせなかった。サヤを百年守ると言う大切な役目を果たせなかった。
「先程、神官長から報せが届いた。……許可するそうだ。だが、此処で待ち伏せてもいいと。奴の狙いは聖樹。必ず戻ってくるはずだとのことだ」
喋っているのは鵺だけだが、朱鷺も一緒に居るはずだ。振り返らずとも分かる。深い悲しみに沈みながら、しかし冷静に先を見つめている女魔術師の匂いはこの鼻で分かる。
壊れた機械人形のようになってしまったサヤの亡骸にそっと触れて、そのまま慎重に果実を奪われてしまった穴に触れてから、私は答えた。
こんなに人を憎んだ事はあっただろうか。
決して恵まれていなかった子供時代。全ての大人とその大人に庇護されてぬくぬく育っている子供達を妬んでいた。だが、あの頃の骨も焦げるかと思われた恨みさえも恐ろしく軽いものに感じてしまう。今のこの絶望に比べたら、希望と可能性に満ち溢れていた。
「待つ事なんて出来るはずない。そんなの生き地獄だ」
本心からそう言った。
「サヤが助けを求めている。怪物の中で聖樹の元に返りたがっている。助けなくては」
目を閉じれば本当にそんな声が聞こえてきそうだった。
自分でも不思議なくらいその方角が分かる。白椿の逃げて行った場所が、匂いでも音でもなく感覚で分かるのだ。サヤが本当に呼んでいるのかもしれない。化け物の中で永遠に囚われることを恐れて、救いの剣を求めているのかもしれない。
そう思うと、今すぐにでも駆けつけてやりたかった。
「……分かっていますか」
ずっと黙っていた朱鷺が震えた声をあげた。
「あの子を助けると言う意味を忘れてはいませんか」
「忘れてなんかないよ」
サヤの手を離し、ふと風の匂いを嗅いだ。死臭もせず、腐りもしないのは、やはりサヤが人間ではないからなのだろう。それでも彼女の肉体は死んだ。今は白椿とかいう化け物の身体の中で、囚われながら苦しんでいるのだろう。
サヤは私を呼んでいる。殺してくれと叫んでいる。心から愛した勇敢の国をその手で壊す事を望んではいない。
だから、叶えてやらなくては。私の命を費やしてでも。
「今度こそ……あなた達には……長生きして欲しかった」
朱鷺の嘆きに偽りはない。
それだけで十分だ。私を想い、嘆いてくれる人がいる。それだけで十分恵まれている。
「暫く一人にさせて欲しい。サヤに別れを告げたい。墓下でもまた会えるかなんて分からないから」
そう言うと、朱鷺も鵺もすんなりとそうしてくれた。
今すぐに発ってもいい。発たなくてもいい。
神官長を始め、この勇敢の国の民が恐れているのは聖樹に何かが起こる事。果実を手に入れた白椿が遠方からこの聖樹を操れるのかどうかさえも分からないはずだが、それでも神官長がそう言ったのは、最悪でも勇敢の剣さえ手元にあれば幾らでも取り返せると判断してのことだろう。
私の事を白椿は恐れているだろうか。紅とかいう悪魔は恐れているだろうか。それとも、恐れるふりをして私の剣を掻い潜る術でも知っているのだろうか。
守る者はもういない。
私に残されたのは復讐のみ。
こうなったら負ける気なんてしない。黒き雌狼を怒らせた罪を存分に思い知らせてやろう。あの白くて美しい毛皮を汚らしい血の穢れで黒く染めてやろう。そんな強い怒りで頭がどうにかなってしまいそうな中、私はただサヤを見つめていた。
――サヤ……。
幾ら時間を費やしても意味はない。この追悼に意味はない。サヤは此処にはいないのだ。サヤに見えるこの身体は抜け殻。どんなに触れても、どんなに声をかけても元には戻らない。なんて残酷な事なのだろう。
「――……カタナ様」
その時、誰もいなくなったはずの中庭に足を踏み入れる者がいた。
夕暮だ。振り返ってみれば、いつものように表情の乏しいはずの顔と透き通るような美しい硝子玉の目に悲しみがはっきりと宿っていた。
「……行ってしまわれるのですか」
世話係の神官というものはさほど身分は高くない。勇敢の剣のより近くに居られるといっても、所詮は神官。朱鷺や鵺の言いつけは守らねばならないだろう。何も言われていないとも思えないのだが、それでも夕暮は躊躇うことなく私に近づいてきたのだった。
「あなたも……行ってしまわれるのですか」
「――夕暮」
百年以上も変わらず年を取らないその人形に向かって、私は小声で言った。
「今まで世話になった。君が常に居てくれたから、居心地が悪いなんて事は決してなかった」
「カタナ様……どうしても……どうしても行ってしまわれるのですか」
言いかけて、そのまま黙した。
その姿はまさに血の通った人間そのもの。機械人形であることを忘れてしまうほどだ。百年以上も前に信頼の国が作りだしたヘルツとかいう核は、それほどまでに精巧なものなのだと呑気にもしみじみと思った。
「別れを惜しんでくれて嬉しい。世話係の者にそこまで愛されてきたとあれば、私も堂々としていられる。だが夕暮、もう下がりなさい。あまり私情を出せば睨む者もいる。側近と親密な番人たちが私を見ている。神官長の耳に入れば今後の君の立場に関わる。私は、生まれ変わっても君の世話になりたいと思っている甘えん坊なんだ」
「……カタナ様」
涙を流す事が出来ないその目が潤んでいるように見えるのは何故だろう。
彼女の姿を見ていると、自分がもしも勇敢の剣でなかったとしたらと虚しい想像を膨らませてしまう。ただの人間としてサヤや夕暮と過ごす事が許される身分だったら。
それはきっと幸せな生活だっただろう。
未だ下がりきれない夕暮に私は近づいた。動きがぎこちないのは、作られた身体に宿った感情によるものだろう。そんな彼女の震える手に触れれば、ぴたりと動きは止まった。硝子玉の目で私を見つめ、自らも手を伸ばして私の髪にそっと触れた。
幼い頃、引き取られたばかりで不安しかなかった私を機械人形ながらも温かく迎えてくれた夕暮。あの時は私よりもずっと背が高く思えたのに、私はすっかり大人になってしまった。
夕暮の背中を撫でて、私は静かに言った。
「今まで有難う、夕暮」
せめて、この国を滅んだ五カ国のようにしないようにしたい。私を支えてくれた人々の為にも、腐っているだけではない良い部分もあったこの国の為にも、つまらないこの命をかけてサヤを救いだそう。
そんな思いで礼を述べれば、夕暮は機械の身体を小刻みに震わせていた。




