16.絶望の日
夢は唐突に終わった。
とりとめもない夢だった。サヤと共に聖樹の下で穏やかに過ごすだけの時間が続く夢。誰も襲ってはこない。邪魔する者はいない。夢であると分かっていても、心から安心出来る素晴らしい世界だった。
だが、夢から覚めた私が真っ先に感じたのは、その夢とは対極的な雰囲気だった。
異様なほど肌がぴりぴりとする。辺りはまだ夜の世界に包まれている。御殿を歩いている者も殆ど居ない。夜回りの番人くらいのものだろう。そんな中で、私の敏感な鼻は神殿の敷地内をさまよう不吉な悪臭を嗅ぎ取っていた。
――嫌な臭気だ。
起きあがり、窓の外を眺めてみれば、外は不気味なほど静かだった。
夜回りの番人はそう少なくないはずだ。御殿の中を見張っている者の他にも、建物の外を見張っている者は沢山いる。しかし、そういった者の影すら見当たらなかった。異様に静かな外を弱々しい月明かりと風に揺れる木々の動きが目にちらつく。
サヤはまだ気付いていない。誰もまだ気付いていない。
寝台に横たわっているその吐息を背中で感じながら、私は物音をたてぬように「剣」を呼びだそうとしていた。
敵の姿は何処にも見えなかった。
しかし、それは夢の終わりのように唐突に現れた。
夜風が運んだかのように、サヤの部屋の縁側にいきなり現れた白い人影。
「白椿?」
その名を呼んだ瞬間、私の周囲で窓が割られた。
激しい音が響き渡る。耳をつんざくその音は、きっと御殿にいる全ての者を目覚めさせた事だろう。だが、当の白椿は全く気にせずにそこにいた。
縁側から割れた窓の向こうを覗き、私の顔を見つめて笑う。全く動かなかった彼女がどうやって窓を割ったのか、私には分からなかった。
「白椿……どうして……」
異様さはそれだけじゃない。
待ち焦がれていたはずの白椿の身体の周囲。あの赤い影が彼女を守るように漂っているのがはっきりと見えたのだ。
――まさか……。
その可能性にようやく気付けた時、背後で小さな悲鳴があがった。轟音で目覚めたサヤの声。白椿の視線が真っ先にそちらへと向いた。
ゆっくりと近づいて来る彼女の動きに気付いて、私は慌ててサヤの元へと下がった。
「待て、近づくな」
すぐさま「剣」を呼びだして牽制するも、白椿は全く恐れない。
「斬りたいなら斬られてやろう。だが、その前に『彼』に会わせてくれないかな」
目を細める彼女は全く恐れていない。
私に斬り殺されたとしても、構わないと言うのだろうか。誰かにそう思わせられているのだとしたら、とても怖かった。サヤを背負い、私は寝台から離れた。正しくは、寝台に近い場所にある黄金の毛皮から。
白椿は私達を無視する形で毛皮に近づくと、涙を流しながら呟いた。
「ああ……丹。確かに君だ……」
滑らかな毛並みに触れると、愛おしそうに頬ずりをする。
「会いたかった……会いたかったよ、丹」
悲痛な声ですすり泣く彼女を守るように、赤い翼が包みこんでいる。その様子をサヤが震えながら見つめていた。
「なんで……白椿……どうして……」
サヤは何度も呟きながら、白椿へと言ったのだった。
「彼はあなたを待っていた。愛していると、強く生きて欲しいと。あなたがあなたのままで会いに来るのを待っていたの。それなのに、どうして……どうしてこんな事に」
絶望は段々はっきりとしてきた。
丹と呼んで縋りついた毛皮を抱きしめると、白椿はふらりと振り返り、私とサヤの姿をじっくりと眺めてきた。
「私も聞きたいくらいだ」
白椿は低い声でそう言った。
「でも、言い訳させて欲しい。仕方がなかった。この女の手を握らねば、私は丹に会えなかった。私は死にたくなかったのだ。だから、許せ……黄金の果実よ」
目にもとまらぬ速さで白い人狼が襲いかかって来る。
――まずい。
もはや話し合いなど不可能だった。
サヤを背負い、「剣」を構え、私はその一撃をどうにか掻い潜った。白椿の狙いはサヤ。だが、白椿を殺せば私の方がサヤにとっての脅威となってしまう。ならばどうするべきか。これまでさんざん想像してきたことだ。逃げるしかない。この神殿で一番安全な場所――純潔の扉をくぐるしかない!
部屋の扉を突き破る勢いで廊下に逃れ、私は咆哮するように絶叫した。
「人狼だ! 人狼が侵入した! 皆、起きろ! 逃げるんだ!」
戦ってはならない。
そう言われて守ってくれる番人がどれだけいるだろうか。純粋な人間の一平卒ならまだ恐れてくれるだろうが、獣人を始めとした魔族の玄人となればまた変わって来る。それでも、通りすがる人々の一人ひとりに詳しく忠告してやる余裕なんてなかった。
逃げ始めてすぐに恐ろしい絶叫と嫌な臭気が漂い始めた。白椿はもういない。サヤが待ち焦がれていた善良なる勇敢の民はもういない。何があったかは分からない。だが、これだけは確かだった。
白椿は悪魔のしもべとなっている。
では、鴉は?
奴の異変をいち早く報告するはずだった彼女はいったい――。
ともかく奴はサヤを狙っている。
逃れる先は一つしかない。サヤや私の身体に害が及ぼうとも、純潔の扉を開けてもらうしかない。状況が伝わればすぐにでも逃げ込めるだろう。それを期待して、私はとにかく中庭を目指した。
「カタナ! カタナ、何処に居るのです!」
「返事をしてくれ、カタナ!」
時折、朱鷺や鵺の悲鳴染みた声が響き渡る。すぐに返事をしたかったが、白椿に居場所が知られるのが怖くて出来なかった。
だが、いかに息を潜めていても相手は人狼。私よりもずっと鼻の敏感な相手なのだから、身を隠していれば安心というわけはない。聖樹を目指して逃れる道すがら、私の行く手には何度もあの白い姿が見え隠れした。
回を増すごとに、白椿の白い姿は赤く染まっていく。悲鳴が上がるごとに、臭気が深まるごとに、死がこの御殿を穢しているのだと私は知った。
サヤも同じだろう。震えながら彼女は嘆いた。
「……どうして。どうしてなの。どうしてこんな事に」
サヤにも死は伝わっているだろう。
逃げる私達を見つける度に、白椿は嬉しそうに目を細めた。どんなにその手を血に染めても、犠牲者の血肉を貪っても、彼女は満たされたりしない。
求めているのはただ一つ。黄金の果実であるサヤだけだ。
見つかる度に逃げまどい、ただひたすらに中庭を目指す。サヤの部屋からその場所まで、いったいどれだけの人々が身代わりとなってしまったのか、考え出せばきりがない。とにかくもつれそうな足を動かして、這いつくばるように私はサヤと「剣」を抱えて中庭へと逃れていった。
もはや身を隠す事は出来ない。
それでも、ここを突っ切れば純潔の扉はすぐそこなのだ。
「逃がさない」
しかし、そんな冷たい声が響いた直後、突如私の足に激しい痛みが走った。前のめりに倒れた衝動で、サヤの身体が聖樹の根元まで放り出されていく。すぐさま受け身を取ってそちらへ向かおうとしたが、上手く身体が動かなかった。
ふりかえるサヤの小さな悲鳴で私は気付いた。足元の地面が気持ち悪いほど赤く染まっている。血だまりの中にゆっくりと溶けていくのは、人形のような肉片。そのとき、ようやく私は自分の足が切り取られ、復元していることに気付いた。
「カタナ!」
サヤの声に我に返り、復活したばかりの足を駆使して立ち上がろうとしたのも束の間、背後から頭を強く掴まれ、無様に地面に抑えこまれた。
息苦しさと屈辱の合間に感じたのは、荒々しい吐息だった。ケダモノの匂いをすっかり覆い尽くす死の臭気がすぐ近くに漂っていた。嫌に身を寄せて腕を、足を、腹部を、荒々しく撫でていくのは異様に白い手。まさしく白椿のものだった。
「捕まえたぞ、勇敢の剣。お前さえ倒せば、もう誰にも邪魔はされない。物言わぬ剣となれ。紅よ、私にあの力を寄越せ。勇敢の覇者として、奴らに鉄槌をくらわしてやろうじゃないか」
――紅?
その名に疑問を抱く間もなく、背後より圧し掛かる白椿の身体からすっと赤い翼が伸びてきた。鴉が悪魔と呼んだあの力。私の身体に触れようとするその翼を目にした途端、気が狂いそうなほどの抵抗感が生じた。
「放せ……放せ!」
死に物狂いで暴れ出せば、白椿もそれだけ強い力で抑え込んで来る。それでもどうにか私が逃れようとすれば、狼らしく猛々しい声が耳元で放たれ、新たな激痛が起こった。
頭の中が真っ白になった。地面の芝を掴み、痛みに耐えながら、身体が無抵抗のまま動いているのを感じた。しばらくして私の耳は、他ならぬ自分の悲鳴が上がっているのを聞いた。絶叫したと言う感覚すらはっきりとしなかった。ただ、苦しみから逃れるように地面の上に寝そべったまま、流れ出す血と熱さ、そして牙の当たる感触のなかでぼんやりと私は理解していた。
これが喰い殺される者の痛みなのだと。
「ふん、そうか。あの手品の力はもうないのか。好きに出来ると言ったじゃないか、詐欺師め。だが、悪魔なんて信じた私が馬鹿だったんだ。いいよ、それならこうして食べるだけ。カタナよ、もっとその血と肉を寄越せ」
白椿の声が肌に針のように突き刺さる。誰と話しているのかなんてはっきりとは分からない。ただ、白椿を守るように現れる赤い翼が不快だった。
「……カタナ……いや……お願い、やめて!」
サヤの声が聞こえ、ふと遠ざかっていた意識が甦った。
途端に激しい痛みも生じたが、それよりも私は聖樹の下にまだ蹲っているサヤの事が気になった。逃げろと言いたいが、声が出ない。抑えつけられている身体から力は出ず、ただ殺されるごとに生き返ることしか出来ていない。
幾ら喰っても次々に復活する血肉を味わいながら、白椿はやがて笑みを漏らした。
「ああ、なんて美味しいんだ。このままずっと味わい続けたい。お前の血肉はまさしく人間の味に近い。とりわけどの珍味よりも素晴らしい味がする。それでいて同胞を食っているという背徳感がたまらない。だが、私には分かっている。この場にお前よりももっと美味い子がいる事をね」
恍惚とした様子が此方にも伝わってきた。
私を抑えつけ、項から背中にかけてのあらゆる肉を食いちぎりながら、白椿は聖樹に縋りつくサヤへ言ったのだ。
「やめて欲しいのなら、こっちへおいで」
優しげな声が傷を治していく肌に沁み込んだ。
「剣はもはや戦えない。あとはお前だけだ、果実の巫女。痛いのは一瞬だけ。一瞬で私のものにしてあげるよ。約束するよ、サヤだったね。悪いようにはしない。だからおいで」
「……サヤ」
どうにかその言葉を声に出せた。
「行くんだ……扉に……一人で逃げて……」
不死ということが辛いほどだった。
声を出せると分かれば、白椿は容赦なく私の喉元に指を這わせた。人狼の指。長い爪は鋭利な刃物よりも恐ろしい。その矛先で喉元をさまよい、血の乾かぬ項に舌を這わせながら私を脅した。
「もっと喰って欲しいのかな、カタナ。私は一向に構わないのだよ。お前の血と肉ならばいくら喰っても飽き足らない。項と背中でこの味だ。他の場所はどんな味がするのだろうね。試させて貰おうか」
その直後、喉と腹部を始めとして身体のあちこちで刺激は加わった。
サヤの悲鳴と嘆きが聞こえてくる。逃げることを許さぬ光景がサヤの頭を縛りつけているのだろう。私は私で痛みを堪えるだけで精一杯だった。なんて事だろう。赤い天使の印が泣いている。血の涙を流している。白椿の攻撃は激しさを増す一方で、服は破られ、身体も血と体液でべとべとだった。
そして襤褸雑巾のように捨てられ地面に這いつくばる私の頭を、白椿は強く抑えながら今一度サヤヘと声をかけた。
「……素晴らしい味だ。サヤ、君の飼い犬は本当に美味しい味がするよ。このまま飽きるまで食べ続けたい。ああ、でも、果実の君はもっと美味しいんだ。紅がそう教えてくれた。おいでよ、サヤ。ぼんやりとしていないで。痛くはしないよ。優しく食べてあげるよ。だからこっちにおいで」
――駄目だ。逃げて。
声がもう出ない。
喉は治りかけているけれど、漏れだすのは吐息ばかりだ。
もたらされた痛みが私の身体を縛っていた。左胸に刻まれた赤い印が泣いている。いつか彼女に小刀で刺された時のように苦しかった。そして、その苦しみが少しはましになった頃に、すぐにまた新たな苦しみがもたらされるのだ。
咀嚼音と振動ばかりが伝わってくる。痛みはその後。混乱が晴れた頃に、少しだけ冷静さを取り戻した頃に、苦痛となって押し寄せてくる。
「……カタナ……カタナ」
私の名を呼んでサヤが泣いている。
どうにかその顔を見たかったけれど、顔をあげることも辛かった。
伸ばそうとした手さえも白椿に握られ、地面に抑えつけられる。わざと私を蹂躙して、サヤの心を縛っている。私なんてどんなに痛めつけられても構わないのに、サヤはまだ私を見捨てられないでいるのだ。
それではいけない。見捨てなくては駄目だ。
サヤさえ守られればいい。不死の私は死ぬ事なんてない。サヤさえこの悪魔から逃れられれば、それでいいはずなのだ。
「サヤ様!」
神官か番人だかの声が響いた。
動けぬ彼女に業を煮やして叫んだのだろう。ほぼ同時に、私の名を呼ぶ声も聞こえた気がした。気のせいかもしれないけれど。
「おのれ人狼! カタナ様から汚らわしいその手を退けろ!」
「駄目よ! むやみに近づいては駄目。その狼は異常者よ!」
怒声を上げる誰かに忠告するのは、朱鷺だった。白椿が振り返る振動が伝わってくる。朱鷺の声に興味を抱いたらしい。私の身体を抑えたまま、白椿はじっと朱鷺のいる方向を見つめ、そして低く笑った。
「ああ……鬼族だ。鬼族の匂いがする。なあ、紅。あの女もお前の姿が見えるようだ……目印を付けた? 貰ってもいいのか? ……ああ、鬼族は嫌いだ。残らず悔い殺してやりたいくらい憎い奴らだ……本当だな? いいんだな? あの鬼を喰い殺しても!」
興奮を抑えきれない様子の白椿に、身体に力が籠った。
「……やめろ、白椿。これ以上犠牲者を増やすな」
思わず立ち上がろうとした私を、白椿は強く抑え込んだ。
「馬鹿な奴。今更私を咎めるのか。もう既に私の牙は血まみれだ。この短時間に、お前以外の血をどれだけ流したと思っている。犠牲者が一人増えたところで変わらないよ」
からかうようにそう言うと、白椿は思いっきり咆哮し、周囲の人間たちに向かってわめき散らした。
「剣を取り返したければ私を襲え。どうした、出来ないのか? 腰ぬけ共。お前、鬼族の血を引いているのだろう? お前も、そしてお前も、魔族の血を引いているものばかりじゃないか! どうした私を殺してみろ。勇気あるものには夫ともども毛皮をくれてやるぞ。この腐った国ならば一生遊んで暮らせる金が手に入るだろうよ!」
狂ったように笑いながら白椿はそう言った。しかし、誰も近づかなかった。朱鷺や鵺が既に皆に忠告しているのだろう。
この状況が変わるとすれば、サヤが自ら純潔の扉の向こうへと隠れてしまうことくらい。そうなれば、白椿もこの場はしぶしぶ諦めるだろう。その後、私がどうなるかはともかくとして。
「お願い、カタナを放して」
だが、誰よりも早く屈服してしまったのはサヤの方だった。
逃げることも出来ず、聖樹の根元より震えた声で白椿に訴えかける。
「それ以上、酷い事をしないで。不死だからといって、痛くないわけじゃない。カタナが苦しむ所を見たくない……見たくないの」
「そうか。じゃあ、どうするんだい? どうしたら、こいつが苦しまなくて済むのだろうね、赤ずきんちゃん?」
煽る白椿の言葉を受けて、サヤがゆっくりと立ち上がる。
抑えこまれながら、私はその姿を見た。聖樹の根元で頼りなく立ち尽くす美しい少女の姿がそこにあった。震えながら私と白椿を見つめ、サヤは青ざめた顔のまま言ったのだ。
「お願い、カタナを放して」
逃げることもせずに、そう言った。
その弱々しい姿に、白椿が低く笑いだす。私になどもう興味は失い、屑を捨てるように地面に叩きつけた。解放されたという事実に逆転を狙おうと思った矢先で、動くための手足は手早く抉られた。
回復するのを待ってくれるはずもない。
白椿はゆっくりとサヤに近づいていった。止めることなど誰にも出来ない。近づけば殺されるという状況で、ようやく動けたのは魔術師たち。だが、彼らの魔術は白椿の前で不可思議に消え失せてしまった。
「サヤ様、どうか逃げて!」
誰かの悲鳴染みた声が響く中、白椿はとうとうサヤの目の前まで到達した。
聖樹の根元にサヤを座らせると、その顎にそっと手を添える。瞳を覗きこむその様子を見ている内に、ようやく私は再び立つことが出来る身体となった。
「回復が早いね。だが、もう遅いよ」
白椿はそう言うと、サヤの身体を抱きしめた。赤の礼服を破り捨て、果実を宿した身体を露わにさせていく。聖樹の見ている前で大罪は行われた。阻止しなくては駄目だと踏み込もうとしたところで、間に合わない事は重々分かっていた。
「頼む……それだけは……サヤ!」
私の見ている前で、そのケダモノはサヤに襲いかかって悲鳴を産ませた。
礼服の色より赤いものが聖樹の根元を染めていく。もがきながら痛みから逃れようとする尊い少女を逃がすはずもなく、白椿は躊躇いもなくその白い身体を血に染めていった。
「やめろ……やめてくれ!」
咀嚼音が響く。振動でサヤの身体が揺れている。
どうにか動く手で「剣」を呼びだし、私は夢中で少女を貪っている白くて美しい雌狼めがけて飛び掛かった。
「頼むから、もうやめてくれ!」
殺せばどうなるか、忘れたわけではない。
しかし奪われるくらいなら、いっそ私が。
だが、呼びだした勇敢の剣が罪人の首を刎ねようかというその直前で、全ては終わってしまった。最後の力だったのだろう。サヤが小さな声で私の名を呟いたのが聞こえた。その声が届いた瞬間、左胸に強い衝撃が加わった。動揺で「剣」は消え、白椿の首を刎ね飛ばす事は出来なかった。
私は茫然と白椿を見つめていた。
血まみれの彼女がサヤの身体から何かを噛みちぎっていた。ぴくりとも動けなくなったサヤを抱きしめたまま、荒い吐息のままその何かを貪っている。
「思った通り」
黄金の果実。
「信じられないほどの美味だった」
サヤの体内に形として宿っていたその果実を、白椿はとうとう手に入れていた。
残さず食べてしまうと、白椿は激しく吠えた。抜け殻となった少女にもはや興味は持たず、残酷なほどに美しい赤と白の狼へと姿を変え、鋭い眼光で聖樹と私を振り返った。
「これで終わりだ」
禍々しい声で白椿は言った。
「止められなかったお前が悪い。悔しかったら殺せ。私を殺せ。全ての復讐を果たせば私は完全に悪魔となる。その前に、殺すがいい!」
吠えながら白椿は迫って来る。
だが、私はまともに相手が出来なかった。
現実が受け止められなかった。「剣」を呼びだそうという考えすらまとまらない。視線は聖樹からはなれらないまま。正しくは、その聖樹の根元で人形のように転がっている半裸の少女に向けられたまま。
――嘘だ。
強い吐き気が込み上げてきた。だが、どんなに吐いても現実は変わらない。
サヤは死んだ。殺された。目の前に居る狼に殺された。もう私の手の届かない場所にいってしまった。
「……サヤ……サヤ!」
名を呼んだところでもう、何も変わらない。起こってしまった事態は取り返せない。
沈黙が辺りを包みこんでいる。
この場に私と白椿とサヤしかいないかのようだ。そうでないのが不思議なくらいだった。だが、そうではない。絶望が怒りへと転移する。その矛先は、すぐそばにいる真っ白な悪魔。ぐるりと周囲を見渡すと、白椿は目をぎらぎらとさせ始めた。
「ああ、美味しそうな人間ばかり。でも、今は喰いたくはない。余韻が台無しになるからね。さあ、サヤ。共に行こう。これからは私がお前の主人だ」
恍惚とした様子で笑いながら白い狼は立ち去ろうとした。
――そうはさせない。
突如沸き起こったのは怒りだった。どういう経緯で白椿がこんな事になってしまったのかなんてこの際、どうだってよかった。逃がしてなるものか。私から大切なサヤを奪った化け物を、一分一秒たりとも長く呼吸させるなど耐えがたかった。
「覚悟しろ、白椿!」
新たに「剣」を呼びだして、私は所々赤く穢れた白狼めがけて飛び掛かった。先程までとは打って変わって、白椿は私の攻撃を注意深く見切っては避けてしまう。矛先のほんの少しも当たらぬように避け、思い切り大地を蹴って神官や番人などが青ざめた顔で見物していたその群集へと着地する。
悲鳴が上がる中、白椿は私に向かって吠えた。
「どうした、薄鈍。私を斬るのだろう? 殺すのだろう? 私と心中したいのなら来い。それまでサヤは私のものだ」
勝ち誇ったように吠えながら、白椿は去っていく。
誰も追いかける事は出来ない。殺される事を恐れ、或いは、今しがた起こった出来事に混乱し、誰もが道を開けてしまう。そうして逃げていく白椿を追いかけるべく、私は走り出そうとした。
だが、その最中だった。
「カタナ、駄目だ。止まれ!」
強く太い声が響いた。
鵺のものだ。この群衆の何処かからずっと見ていただけの魔術師長。サヤを奪われたというのに、彼の魔術が私の動きを止めていた。剣――あるいは果実の主治医だけが許される特殊な呪いである。赤い天使の印が締めつけられ、途端に動けなくなった。
どうしてこの状況で、そんな疑問は解消されることもなく、ただ去っていく白椿の後ろ姿を虚しく見送ることしか出来なかった。
――行ってしまう……サヤ……。
去りゆく白椿の姿に手を伸ばそうにも、呪術は私に自由をくれない。
ただ強い絶望だけが私の意識を掴みあげていた。




