14.飛び立つ鳥
ようやく部屋に戻ると、夕暮が表情の変わらぬ顔でありながら心配そうに私を迎えた。
暫く、サヤの部屋に寝泊まりする事になった事を告げたものの反応は薄く、それよりも知りたい事は別にあるようだった。
夕暮は非戦闘員。機械人形であるが非常時は真っ先に避難しなくてはならない立場の者だ。買われた当初は戦闘用に改造しなおす計画もあったらしいが、信頼の国の懇意で買われたという背景もあって、その計画は頓挫したという話を聞いたことがある。
それでよかった。
夕暮はあまり血の臭いが好きではない。私の姿を怖々見ている理由もきっと、引き千切られた衣服とすっかり渇いてしまった血の滲みの所為であるだろうから。
軽く汗を流し、新しい衣の袖を通す頃には、夕暮は何処かへと行ってしまっていた。私の新しい任務に合わせて、彼女は彼女で準備する事があるのだろう。
――休んでいる暇はもうない。
さっそく、サヤの元に行かなければ。
そんな思いと共に寝台から立ち上がろうとしたその時、縁側の扉がひとりでに開いた。夜風に当たりながら目を向けてみれば、そこにはやや疲れた様子の鴉がいた。
「今、サヤ様を害する者はいないわ」
部屋に入るなり、鴉はそう言った。
「そう急がなくても大丈夫よ」
「大丈夫だとしても、これが言いつけだからね。それに、サヤの傍に居られるのならそう悪くはないさ」
「それでも、疲れているはず。少しだけでも休んでから行った方がいいわ」
「疲れているのは君の方だろう? どうやらあちこち回っていたようだね。顔色があまりよくないよ」
美しい目も何処か曇っている。何を見回ってきたかは分からないが、年端も行かぬ少女があまり無理をするのはよくないことだ。
だが、鴉は首を横に振り、寝台に座ったままの私にそっと訊ねてきた。
「少しだけ、話を聞いてくれる?」
黙って促せば、鴉は私の隣に座りこんだ。
「サヤ様と魔術師長たちにお会いしてきたわ」
「いつの間に?」
驚く私に鴉は微かに笑いかける。その姿はまだまだ子供らしいものだった。
「どちらもあなたがちょうど立ち去った頃だったかしら。三人とも私を怖がらずに受け入れてくださった。魔術師長の方々に関しては、あなたの言った通りだったわ」
「そうだろうとも」
そう言ったものの、心の何処かでほっとしていた。
朱鷺と鵺を疑う訳ではないが、無責任に勧めたような事になれば恐ろしい。二人が私の思っているような人物で本当によかった。
「サヤ様はわたしの事を分かっている様子だった。やはり、果実は天使の系譜の者なのね。この慈愛は罪深さに心が苦しくなるくらいのものだったわ」
「果実の力にあてられたようだね」
そう言ってやると、鴉は大きく溜め息を吐いた。
「そうなのかも知れないわね。でも、話してみて、はっきりとしたわ。悪魔の話を聞いたわたしが馬鹿だった。罪人となってまで願いを叶えても、茜が浮かばれるはずがない。分かっていたはずだったのに」
「茜って?」
「わたしが悪魔に手を差し伸べられた原因の子よ。大切な友達だった女の子……詳細はあまり言いたくないけれど……死んでしまったの」
鴉は項垂れる。その様子はあまりにも痛々しげで、言われずともそれ以上聞く気にはなれなかった。
「茜とまた会いたかった。もう一度だけ会いたいだけだったの。黄金の果実の力があれば、死者は甦る。そんな魔術も使える。悪魔にそう言われて、それを信じて、わたしは此処まで来てしまったのよ……」
「――そうか」
初めて会った時の鴉の表情を思い出した。
私から恐れて逃げて、追い詰められれば、必死な様子で歯向かってきた。サヤが果実である事をしって衝撃を受けつつも、引き返すわけにはいかないと。あの時は死ぬ気だったのだろう。殺されてでも叶えたい願いであったのだろう。
根源は、友にまた会いたいと言う純粋な願い。その純粋さを悪魔は利用しようとした。
「サヤ様は悪魔の事も聖樹から御聞きのようね」
鴉は俯きながら言った。
「赤い悪魔は艶やかな女の姿で目をつけた人に付きまとうの。明松がもうすぐ限界を迎えると知っていた頃から、候補者を探し始めた。その一人がわたしだったの。きっと他にも候補はいたはずよ。その中に、あなたを傷つけた人狼もいたのでしょうね」
「白椿か」
「人狼は魔物の血を引く者。純血の人間よりもずっと優秀な駒になるでしょう」
「……奴も悪魔のしもべとやらなのだろうか」
思いつく限りの最悪の恐れを口にすれば、鴉は静かに首を振った。
「今、どうなっているかは分からないけれど、明松が生きている限りは違うわ。悪魔は一人しかしもべを持てない。だから、候補者だけを集めてその中から後継者を選ぶの」
「――そうか」
少しだけ気が抜けた。だが、気を抜いている場合じゃない。いつ、その関係が変わってもおかしくはない。白椿の持っていた悪魔の小刀が、赤い悪魔から貰ったものであるのならば――。
「万が一、新しいしもべが誕生したとしても、逃れる術はあるわ。この神殿には素晴らしい場所があるようね。強すぎるほどの魔術もまた古のもの。御殿に張られた結界以上に力をなし、悪魔どころか天使までも排除する勢い。あの場所なら、悪魔も近づけないでしょう」
「やはり、純潔の扉か……」
サヤが恐れる場所。私も本心では嫌っている場所。
天使の系譜のものだけではなく、悪魔にも効果をなすという鴉の見解が正しいのならば、やはりあの場所が最後の砦なのだ。
「悪魔のしもべになるか、その誘いを断るかは彼女次第でしょうね」
この任務が穏便に終わるかどうかは、一人の人狼に委ねられている。
これでいいはずがない。神殿で働くものの中には、不満や疑問を唱えるものがいっぱいいるだろう。
だが、私はどうしても、言われたとおりに動きたかった。
理屈におこせない感情だ。
異様な力で私を襲ってきた明松。その明松に力を与えている悪魔。悪魔の力の宿った小刀を手にしていた白椿。この条件ならば、「自分の手で毛皮を返したい」というサヤの願いを叶えてやるのは危険すぎることだろう。
分かっているはずなのに、どうしても私はサヤの望むことが出来るように守ってあげたかった。
我ながら腑に落ちずに黙ってもやもやしていると、鴉がふと声をかけてきた。
「滅んだ五カ国の話は知っている?」
黙って肯くと、鴉は安心したように語りだした。
「かつて大陸の北にあった達成の国では、エルリクという名前の不老不死の怪物が魔物の国を築いているの。今では本当か分からないけれど、元々は純粋な魔物ではなくて、達成の国の一国民である魔族だったとわたしの師匠は言っていたわ」
「……エルリクっていう名前は聞いたことがあるな。白銀に光る宝物を守りながら聖域の外の人間達を虐げている。とても高価な宝物で、怪物の権力を守るものなのだと……子供の頃に聞かされた昔話だけれどね」
懐かしい。たしか夕暮が話してくれたのだ。遠い異国の話だから、聞き慣れない風の名前に不思議な気持ちになったのをよく覚えている。
「単なるおとぎ話じゃないのだと師匠は言っていたわ。エルリクはかつてヴァルヴァラという名前をした魔族……達成の民だった。そして、宝物はアナスタシアという女性――達成の鎚だったの」
達成の国等、私は見た事がない。達成も、夢幻も、平穏も、我が国の近辺にあると聞いてはいるが、実際に見た事はない。それでも、鴉の言葉は私の心に強く響いた。
ただの民が怪物になってしまう。それはまさしく、果実を奪われた際に起こる最悪の展開に間違いない。
武器が負けて滅ぶと言っても、武器は死なないはずなのだ。ならば、滅んだ五カ国の武器は何処へ消えてしまったのか。宝物を守りながら魔物の国を築いているエルリク。宝物が達成の鎚であるのなら、彼女は今、どうなってしまっているのか。
「悪魔というものは元から力のある魔族を好んで利用する。達成の国だけの話じゃないわ。他の四カ国も、そしてまだ聖樹の残る七カ国も同じ。白椿という人はきっとわたしよりもしつこく狙われることになるでしょうね……」
鴉はそう言って私をじっと見つめた。
「それに、厄介な事に、その白椿という人をサヤ様は待っているそうじゃない」
「知っているのか」
「ええ、サヤ様に訊ねられたから」
「……ああ、そうだ。サヤの元に彼女の求める形見がある。どうにかして返したいが、そもそも彼女が此処に来ない」
探しに行ければいいが、サヤの元を長く離れるわけにもいかない。明松がうろついている以上、下手に御殿を離れるのも怖いことだ。
白椿の願いはあの毛皮だろう。返せばこの神殿にもう用はないはずだ。その心のわだかまりも少しはましになるかもしれない。恨みは深くても、私たちに出来る精一杯の事は毛皮を返してやる事くらいだ。それなのに、肝心の白椿が来ないとなるとどうにもならない。
もどかしさに顔を歪めていると、鴉は念を押すように訊ねてきた。
「白椿という人の目的は毛皮だけね?」
「ああ、恐らくね。きっと遺族なのだろう。サヤは今すぐにでも返したいらしい。直接取りに来てほしいと言っていた。頭の固い番人共に見つからぬように来てほしいと。直接会って、彼の言葉を伝えたいそうだ」
「じゃあ、わたしが探してみましょうか」
鴉はすぐさまそう言った。
「白椿というその人は、たしか真っ白な人狼なのよね? あまりいない毛色だもの。きっと見つけられるわ。わたしが探して、彼女に伝えてみる。まだまともでいるのなら、きっと彼女も困っているでしょうから」
「危険だぞ。相手は純血の人狼だ。下手に近づけば警戒されるだろう。本来ならば刺激すれば獲物として見られないとも言えないような輩だぞ」
人狼とはそういうもの。一般的にそう言われてきたが、自分の口で言ってみれば心に重たいものが圧し掛かってきた。差別的なものを他ならぬ自分が持っているのだと初めて自覚したからかもしれない。
「あら、わたしは聖域の外から来たのよ。半分も人間じゃないような魔物とだって会話してきた。半分人間であるのなら、少しはやりやすいはずよ」
妙に説得力のある言葉だった。
忘れがちだが、そうだった。この子は幼く見えつつも、聖域に守られずに暮らしていた子。魔物との付き合い方を心得ていると言うのなら、人狼など普通の人間とさほど変わらないのだろう。
「明松が死に、白椿がもしも悪魔のしもべになり果ててしまっていたら、すぐに戻って来てあなた達に伝える。悪魔との戦いは持久戦よ。しもべの心が折れるまで、耐えなくてはならない。――でも、白椿がまともだったら、そんな心配もいらないでしょう? わたしが彼女を案内して、此処に連れてくれば、悪魔に縋りたくなる状況ではなくなるはず」
「そんな危険なことを頼んでもいいのか。子供の君に」
「わたしの村では魔女は師匠の元を離れた時に大人になるの。わたしはもう大人よ。この国では子供扱いだったとしても、故郷では既に大人なのよ」
そんな慣習など、この国の大人に分類される私が頼っていいはずもない。しかし、今はそんな悠長な事を言っていられない状況でもあった。
「……すまない。ならば、頼む。あの人を探してくれ」
「ええ、任せて」
鴉はこの上なくしっかりと頷いた。
その純粋な瞳に多くを期待するのは間違っているだろう。たった一握りの希望を乗せて、その翼に賭けることしか出来ないだけだ。
相手は子供。その行き先は人狼である上に、危険な悪魔が潜んでいるかもしれない。そんな状況で言伝を託す自分が、果てしなく弱い存在に思えた。
劣等感など気付かないだろう鴉は、さっそく寝台から立ち上がると開けっぱなしの窓へと近づいて、今一度私を振り返った。
「伝えたらすぐに戻って来るわ。それまで――」
「有難う、鴉」
夜風に攫われ消えていくその姿を見送りながら、私は心から無事を祈った。




