12.勇敢の巫女
純潔の扉へと向かえば、そこにいたサヤも朱鷺も、そして朱鷺の弟子達も、何処か不安げな表情を浮かべて私を見ていた。
私の姿の異質さにすぐに気付いたのだろう。
手も足もすっかり元通りだが、破れた服と血の痕までは元通りといかないものだ。
この異常の根源が何なのか、朱鷺ならば察しがついたのだろう。
「……カタナ。話は後でお聞かせください」
いつものように叱るのではなく、怯えを含んだ目で彼女は言った。
静かに頷いてから、私はそっとサヤに近づいた。
「待たせて済まない。サヤ、お疲れ様」
扉は二重になっている。私がこうして迎えに来られるのは外扉と内扉の間だけ。内扉の向こうでいつも何が行われているのか、恐らく滅多な事では見せられないだろう。
その内扉から逃れるように、サヤは私に抱きついてきた。
「外に出ても大丈夫なの?」
不安げなその声に、私は頷いた。
「大丈夫。結界がサヤを守ってくれる。聖樹に会いたいだろう? 連れていってあげるよ」
「カタナ……」
血の臭いがまだこびりついているだろうに。私の身体に抱きついて、サヤは顔を埋めた。
「これは何? 何があなたを襲ったの? 狼の御婦人? ああ……何であったとしても、あなたが無事でよかった。何処にも連れて行かれなくてよかった」
その言葉に、はっとした。
サヤは日頃、どんな目で世界を見つめているのだろう。
いつも不死の身で戦う私をサヤは哀れんでいる。しかし、今のサヤのこの言葉は単なる憐憫ではなかった。サヤは分かっている。私に振りかかった恐怖を、死よりも恐ろしい事態に気付いている。
この子は人間ではないのだ。
果実は聖樹の娘。赤い天使の孫娘。この世界に害をなす悪魔のことをもっとも恐れてきただろう果実そのものなのだ。
私の魂も、悪魔という存在に触れた過去があるのだろうか。
だとしたら、教えて欲しい。過去の剣達の亡霊の話を聞きたい。どうしたらいいのか。どうしたら、悪魔からこの子を守れるのか、どうか教えて欲しい。
「外に出ましょう」
朱鷺が静かな声で言ってきた。
「あまり長く此処に居ては、サヤ様の御心に響きます」
内扉は閉まっている。それでも、此処は外扉の内がわ。清めの儀式以上に此処に居続けるのは危険な事。朱鷺を始めとした果実の専門医は必ず気をつけるらしい。
純潔の扉の向こうは果実の心を蝕む場所。適度に身を浸らせることは必要でも、過度に浸れば心を壊す。太古の昔は敢えて此処に果実を閉じ込めたこともあったらしい。果実に心などいらない。そう信じた民は、果実と剣を此処に閉じ込め、生き永らえさせるだけの存在として管理した。
今はそんな時代じゃない。そうしてはならないと民が気づくような歴史があったのだろう。いつから変わったのかという具体的な記録は戦火の向こうに消えてしまったが、「果実の心を守れ」という古人の言葉だけが伝わり、現代にいたるまで人々はその言葉を常に頭の片隅に置いている。
誰もがサヤの心を壊さぬように気を付けながら、巫女の役目を担わせる。それは、意味のある事でもあるのだ。心ある巫女の願いは聖樹と結界を強めてくれる。心優しいサヤの祈りは勇敢の民の幸福を願うもの。その想いこそ、この国をより強固なものにしてくれるはずなのだと王家もまた信じている。
だが、朱鷺のようにいかなる場合も気をつけてくれる者ばかりとは限らない。
サヤの手を引いて純潔の扉から出る間、私は静かに思っていた。
この場に居る神官、魔術師、番人といった人間たち。彼らの中のどれだけが、サヤの心を守る事に意味を見出しているだろうか。
先代が亡くなった時の混乱を聞いたことがある。
次の果実と剣は閉じ込めてしまおうという主張があったらしい。その前も、そのまた前も短命だったものだから、そうしなければならないと主張する者は当然現れた。
話し合いは収まらず、産まれたばかりの卵が孵る七年後までの決着すら難しいのではないかとさえ言われたそうだ。
しかし、卵が孵った頃になっても、勇敢の剣は見つからなかった。
私を見つけたのは何も知らない孤児たち。ろくに教育も受けず、果実や勇敢の剣という名前くらいしか知らないような子たち。赤子の私の胸に刻まれた印の意味など知らず、知識不足なまま私を養育したらしい。今思えば、彼らが私を育てられたのも、私が不死だったからなのだろう。その証拠に、彼らがあのようにして拾った赤子は、私以外全て死んでしまったというのだから。
ともあれ、私は隠れたまま、大人も信用出来ないまま育ち、自分が何者なのかも知らずに過ごし続けた。信用出来るのは一部だけ。相手が純血の人間であるほど、信用出来ないものだった。
だから、此処に来るのは遅れてしまった。
当時の神官たちは――特に神官長は、この遅れを天罰だと思ったらしい。過去の間違いを繰り返そうとした民への罰として、勇敢の剣を隠してしまったのだと。
その真偽は分からない。そう納得して、サヤをあんな暗い場所に閉じ込めようだなんて計画が頓挫したことは有難い。
けれど、天罰だとしたら、私は神に訴えたい。
なんて事をしてくれたのだろうと。
私が此処へ来たのは恐らく十歳になっていただろう頃。当時は自分の年齢すらまともに分からなかったが、サヤが卵より孵って三年という時がそれを教えてくれた。三年。三年だ。孵化を見守られずに三年も私はサヤに不安な想いをさせてしまっていた。
「ただいま」
中庭に辿り着くなり、サヤは私の手を離れて走り出す。
庭と呼ぶには広すぎるこの美しい場所で、神々しく天へと伸びる聖樹。その根元で心細い表情を愛らしい顔いっぱいに浮かべた赤い礼服の小さな女の子。初めてその姿を見たあの日は、いつの間にかこんなにも遠い昔の事。
「ただいま、お母様。身体を清めてまいりました」
サヤは聖樹の根元に寝そべり、しみじみと語りかける。
その声に反応して聖樹は枝をざわつかせた。
私には分からないその言葉を受けて、サヤはふと顔を上げた。
「……悪魔?」
その単語に、私は思わず引き寄せられた。
「サヤ……聖樹がそう言ったの?」
必死に訊ねてみれば、サヤは不安げに頷いた。
「悪魔が近くに居るって。こんな事、初めてよ。お母様が怖がられているの。悪魔が来てしまった。果実を食べに来てしまった、って」
「聖樹……ああ、私にもその声が聞こえたら」
そうだ。聖樹はずっと此処で見てきたのだ。鴉が言っていたのは本当の事。悪魔は存在し、これまでも果実を狙って暴れていたのだ。
剣と果実の短命は、悪魔の所為なのだろう。
「……カタナ?」
サヤの隣で聖樹の根に触れてみても、私には何も感じられない。
勇敢の剣は天使の羽根が変じたもの。聖樹から生まれたわけではなく、いわば姉妹のようなもの。そして果実にとっては両親のようなもの。
――聖樹……あなたの記憶が欲しい。
深みに入りすぎた明松は此処までは来られない。鴉はそう言っていたけれど、悪魔を宿しているのがいつまでも明松であるわけではない。殺してはならず、殺した者が新たな宿主になってしまうのなら、簡単に此処まで入りこめるということ。
それに、あの人狼のこと。悪魔に接触された人間は、この国にどれだけ存在するのだろう。
悪魔のしもべとは何なのか。
鴉から聞き出せたことはあまりにも少ない。
そもそも一人だと考えてもいいものなのか。それとも、周囲は敵ばかりだと思っていたほうがいいのだろうか。答えの得られぬ疑問に胸が張り裂けそうだった。
次に鴉にあったときに、聞くべき質問は増えていく一方だ。
悪魔。
今にでも悪魔の宿主は変わっているかもしれない。ひょっとしたら既に、あの結界を越えているかもしれない。
今までにない不安が、私の緊張を高めていた。
「カタナ」
そんな私にサヤは触れながら、言った。
「あまり思いつめないで、カタナ。あなたは勇敢の剣。天使があなたを生みだした。その理由は果実を守り切るためではないのよ」
その言葉の意味が心に沁み込み、私は息を飲んだ。
「……やめて、サヤ」
しかし、サヤは私を見つめたまま、ただただ言うのだった。
「あなたの役目は終わらせる事。正しく死ねなかったわたしの魂を正しい場所に戻してくれる事。その役目を果たさないまま百年一緒に居られたら、どんなに幸せなことでしょう」
切なげな声が悲しかった。こんなに辛いと思ったのは初めてだった。
「けれど、お母様が言っているの。実は熟した。わたしは食べごろになり、悪魔を呼び寄せる。悪魔の囁きに耳を傾けてしまった者達を呼び寄せる。きっと今回も同じでしょう。わたしは不幸な人に喰い殺され、あなたは――」
「もうやめて、サヤ……」
聖樹の根に額をつけて、私は必死に俯いた。
涙をサヤに見られたくなかった。
自分の役目なんてずっと理解してきたと思っていた。百年何事もなくサヤと穏便に過ごすために、守り切ればいいのだと思ってきた。
しかし、此処に来て、先代や先々代の死がより身近なものになってきたのだ。
悪魔からどう身を守ればいい。サヤをどうやって守ればいい。純潔の扉に閉じ込めろというのだろうか。守られながら少しずつ壊れていくサヤを傍で見守れと、そういうことなのだろうか。
――希望があるとすれば、明松より先に新しい悪魔憑きが現れない事。
そんな事が、あり得るのだろうか。
この国は――勇敢と名の付くこの国の隅々は、あまりにも汚らしいというのに。
「カタナ、御免なさい」
震える私に身を寄せて、サヤはそう言った。
温もりが私の身体にじわりじわりと伝わってくる。まるで親鳥が卵を抱えるように、サヤは私に抱きついた。
「お母様の言う事は絶対ではないはずです。来年も、再来年も、あなたと一緒に花火を見たい。その為ならば、わたしは純潔の扉の向こうに閉じ込められても構わない」
「……駄目だよ、サヤ。あの場所にずっといると、君の心は潰えてしまう」
「わたしは恐くないわ。わたしは勇敢の巫女。御役目の為ならば、人形にだってなれる。それが民の暮らしを守るのなら」
「――私が耐えられないんだ。サヤの心が潰えてしまうなんて」
この手に伝わる温もり。サヤが人形のようになったとしても、この温もりは変わらないだろう。しかし、この温もりに包まれている心が消えてしまうのは嫌だ。こうして、触れあう事が出来る幸せを手放す事が出来るほど、私はサヤのように勇敢ではない。
――そもそも、勇敢とは何なのだ。
国の為に自分を犠牲にすることを恐れない事が勇敢なのか。その為に、誰かを悲しませてしまうことが勇敢であるのだろうか。
――ならば、私は一生腑抜けのままでいい。
勇敢の剣として生まれ、この先もきっとそう生まれてくるのかもしれないけれど、私に心がある限り、私は臆病者のまま果実を守り続けるだろう。
恨むなら、神を、そして天使を恨むがいい。
勇敢の剣をモノではなく、人として産ませた天を恨んでくれ。
「……カタナ」
恍惚とした様子でサヤが私を見つめている。聖樹から生まれたサヤ。私よりもずっと赤い天使に近しい存在の彼女。卵から殻を破って十五、六年のその瞳には、今の私がどれほど頼りなく見えただろう。
しかし、サヤはそんな私を包みこむように抱きしめ、まるで母親のように背中を撫でてくれたのだった。
「有難う、カタナ。あなたが傍に居てくれて、わたしは幸せよ。勇敢の剣が傍にいてくれるから、果実は安心して成長できるの。あなたのお陰よ」
何処までも優しいその言葉は、私が一人占めしていいものではない。
静かにサヤの手に触れ、そのまま逃れるように立ち上がろうとすれば、サヤは大人しく抱擁を解いてくれた。
「……一旦、部屋に戻るよ」
聖樹と二人きりにしてあげよう。
私が居ては話せない事も沢山あるだろうから。
「また後で来る」
「――カタナ」
聖樹の根から離れ、その場を去ろうと背を向けた丁度その時、サヤは呼びとめた。
振り返ってみれば、息を飲むほど美しい聖樹の下で、憂いを帯びた表情で此方を見つめる愛らしい姿がある。振り返る私の目が鋭かったのか、サヤは一瞬だけ戸惑ったが、すぐに立ち直って訊ねてきた。
「今日、あなたに牙を剥いたのは、あの白い狼の御婦人なの?」
心配そうなその表情に、私はすぐさま答えた。
「いや、違うよ。あの人狼は来なかった。そもそも昨日だってきっと、最初はあんなことするつもりでもなかったのだろうし……」
あの女人狼の狙いは毛皮のはず。サヤが持っているという毛皮のためだけにあんな危険を犯したのだ。
逃げるために私に牙を剥くとは、早計なことをしでかしてはいるが、あのまま番人共に捕まっていれば、早ければ次の日にでも美しい白狼の毛皮が出来ていたかもしれない。罪なき民殺しは重罪のはずだが、獣人ではなく森で獲った狼のものだと述べる怪しい言い訳が、何故だか通用していたかもしれない。
神殿であろうと、勇敢の民なんてそんなものだ。まともな者がいる数だけ、まともでない影も多く潜んでいる。
「きっと今頃、反省しているさ」
「そう思う?」
やけに子供っぽくサヤは訊ねてきた。それにしっかりと頷くと、何故だか彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「よかった。あの狼の神様が、昨日ずっと悲しんでいたの。朱鷺にも伝えてあるのだけれど、分かってくれているかどうか……。あの御婦人は、白椿という名前なのですって。きっと心から愛していたのでしょうね」
――神様……いや、亡霊か……。
白椿という名前はあの女人狼にぴったりだ。どんな声色でその亡霊はサヤに訴えているのだろうか。その亡者の声を無視出来ないほど、サヤは優しい。
「あの御婦人がまた来られるのなら、今度は誰にも見つからないようにそっと来て貰わないといけないわね。形見をきちんと御返しするまで、わたしの心もきっと晴れないでしょうから……」
「あの人をまた見かけたら、そう伝えておくよ。どうせまた来るだろう。とても恋しがっているようだったから」
そう返しつつ、私は心苦しさを抱いていた。
黄金の毛皮と白椿は確かに言っていた。意識の狭間で聞こえたその声は覚えている。そして、サヤの部屋にある毛皮も黄金。金色の美しい毛並みを持つ人狼であったのだろう。生きていた頃は、どんな男だったのだろう。白椿が危険を冒して何度も迎えに来るあたり、きっと、そうするだけの価値ある人物だったのだろう。
――黄金の形見こそ、白椿にとっての黄金の果実なのだろう。
だが、彼女は今、何処にいるのだろう。
去り際に私に残した言葉通り、これからもサヤを傷つけないでくれるのだろうか。そう素直に信じるには、悪魔の小刀の存在と私の身体に残った恐怖が邪魔をしてくる。
「有難う、呼びとめて御免なさい」
サヤが落ち着いた様子で言った。
ほっとしているその顔を目にすると、私も何故だかほっとした。
サヤが心苦しいというのなら、早くその毛皮を遺族に返してあげなくては。きっとあまりいい別れ方をしていない。その無念は今も毛皮の中に残り、サヤの夢枕に立っているのだろう。それを受け取ることも巫女の務めと思っているのなら、早く解決させて、解放してあげたかった。
だからどうか、白椿が明松のような存在ではないと言ってほしい。
「いいんだ。またね、サヤ」
短く答え、私は今度こそその場を後にした。




