11.狂信者
夕焼け色に染まる世界が怖い。
都の裏通りで目にした赤い景色と、鼻も曲がりそうな臭気を思い出し、何故か落ち着かない。御殿へと帰る私の影は酷く伸び、鴉が言っていた悪魔という存在のようにも見えた。
――悪魔、か……。
今宵もあの女人狼は来るだろうか。
来ない日もあるから当てには出来ないが、もし来るのなら彼女にも聞きたい事がある。彼女の目的はよく分かった。私に刃を向けたのも、頭の固い番人共から逃れる為だったのだろう。脅威は脅威だが、それでもサヤを傷つけるのが目的ではなく、サヤもまた彼女の訪れを待っているのなら、敵として見るわけにはいかなかった。
――だが、あの悪魔の力を宿した小刀。
不穏は大きくなるばかりだった。
あれは誰から貰ったのか。どうして、彼女が貰ったのか。
――悪魔は常に複数の候補者に目をつけている。
鴉はそう言っていた。
「ならば、あの人狼に小刀を渡したのは……」
と、そこで私の歩みは止められた。
伸びゆく影を見ながら歩いていれば、その先端が誰かの足に到達したのだ。その足。特に防具などつけておらず、靴は履いているがぼろぼろで、やけに白い肌も所々酷く汚れているようだった。
見上げてみれば、帰路を塞ぐ形で一人の女が立っていた。
見慣れない顔をしていた。私と同じ年頃だろう。夕暮が時折見せる機械人形特有の表情によく似た顔だちで、じっと私の顔を見つめていた。
その身形は、野良仕事を終えた民にしても異様だった。
薄汚れてはいるが、よくよく見れば身に付けている衣服も装飾も、あのぼろぼろの靴も、元は高貴と思われるもので、かつての私が身をくるんでいたような襤褸ではなかった。あれほどまでに汚れてしまったのは、ずっと着たまま動き続けているからだろう。
――それにしても、何だろう。
お互いに見つめあったまま、立ち止まってしまった。
此処は神殿の外れ。果実と剣の墓への入り口は外壁にも守られておらず、一般人の立ち入りも許可されている場所である。しかし、こんな時間に、それも女性一人で立ち入るのは異様な事に違いない。
それに、彼女の瞳には異様なほど暗いものが宿っていてそこもまた気になった。
――まさかとは思うが、飛び降りにきたのではないだろうな。
そういうこともある。あの絶景の場所は相当の高さを誇っている。居場所を失くした民が時折身投げすることがあるとも噂されている。
「参拝ですか?」
私は思い切って彼女に話しかけた。
一応は神殿の関係者と言う事で、放っておくわけにもいかなかった。
「日が暮れれば、猛獣や魔獣が出てきます。蛇や毒虫もいるので危険です。それに盗賊だっているかもしれない。申し訳ないが、女性一人ではとても危険です。どうか明日の朝にまた――」
「剣」
その時、ぽつりと彼女は口を開いた。
淀んだ瞳で私を見つめ、そっと指をさすその姿は、絵巻物などに描かれた亡霊のように異様だった。
「あなたが、剣なのね」
「……何故、それを」
呆気にとられたその時、身体に衝撃が加わった。
反射的に身を逸らしてみれば、右腕に激痛が走った。何事かと確認する間もなく、今度は左足。立つこともままならず、その場に崩れるしかなかった。
――何だ、一体。何が起こっている……。
混乱と共に地面を見つめ、流れ出している血の色を目に焼き付けている内に、私はやっと状況を飲みこんだ。飛び散ったのは血だけではなかった。失われた手と足の感覚が戻ってくる不快な感覚を味わっているうちに、私は次第に理解していった。
腕と足を引き千切られていたのだ。
痛みよりも先に混乱でどうかなりそうだった。
既に飛ばされた腕と脚は血だまりの中に消え、新たな腕と足が生えていた。しかし、すぐに動く事は出来なかった。動く前に、彼女が来てしまったからだ。
「ああ、やっぱりあなたが勇敢の剣。不死の身体。ちぎっても生えてくる身体。嬉しい。会えて嬉しいわ、黒き雌狼」
しゃがんで私と目を合わせ、彼女はにっこりと笑った。
「いくら殺してもあなたは死なないのよね。なんて素晴らしいの。好きなだけ遊ばせて。わたしを可愛がって下さる天使様が御止になるその時まで、あなたと一緒に隠り世の狭間で遊びたいの」
「お前は……まさか……」
その時、私には見えた。
この名も知らぬ女の周りで真っ赤な翼が広がっていくのを。
「天使様が言っている。もうそろそろ行きなさいって。さあ、剣、わたしと行きましょう。無粋な邪魔が入る前に」
――天使様? この翼が?
赤い翼は女を守るように包みこむ。その光景は奇妙なほど神々しいものだった。
伸ばされた女の手が私の頬に触れる。その瞬間、寒気が広がった。今すぐに「剣」を呼びだして粛清を。そんな過激な想いと、戸惑いとの間で動けなくなっていた。
だが、この緊張も長くは続かなかった。
「カタナ!」
聞き覚えのあるその声が響いた瞬間、私の周りを夕焼けよりずっと赤い色が血脈のように広がっていった。瞬く間にその線は親しみなれた世界を覆い尽くし、不快な臓器のような色形へと変わっていく。聞こえてくるのは鳥や虫の声ではなく、私を嘲笑する都の人々の声だった。
――何だこれは。何が起こっている。
動揺で一杯になる私の手を、誰かが掴んだ。
息が止まりそうになったのも束の間、私は気づいた。
手を掴んでいたのはあの恐ろしい力をもつ女ではなく、鴉であった。
「鴉? いつから此処に?」
私を傷つけた女が居た位置で、鴉は私の手をそっと引き上げて立たせてくれた。
「今来たばかりよ。逃げましょう」
「此処は?」
「幻影の中。わたしの傍から離れないで。この魔術に囚われた者は精神を食い荒らされる。術者が選んだ人だけが無事でいられるの」
鴉はそう言って、私の手を引っ張って歩きだした。
周囲を見渡せば、赤い光景はさほど変わらない。だが、少しの間聞こえてきた不快な声は全くしなくなっていた。
――幻影の魔術。
此処に居るのは私と鴉だけ。先程まで居た奇妙な女は何処にもいなかった。
「あの女は?」
「幻影の外よ。消えたあなたを探してうろついている。見つからない内に、御殿に戻りましょう。あの女はあなたを諦めたりしない。あなたが最も果実に近いと分かっているから」
「あの女が――君の言っていた明松という女なのか?」
「そうよ。あれが明松。都で沢山の人を殺した犯人。あなたも味わったでしょう、あの奇っ怪な力を。ついに辿り着いてしまったのよ」
「ならば、私が止めなければ。あのまま放っておけば、神殿の者が犠牲になってしまう」
私は不死だ。殺されても死にはしない。あの明松という殺人鬼を喜ばせることになったとしても、一矢報いて止める事は出来るはず。
「駄目よ!」
しかし、鴉は強い言葉で私を制した。
「戦っては駄目。悪魔を受け入れた者を殺してはいけないの。命を奪えば、罪を被ることになる」
「罪を被るって?」
「命を奪った罰として、強制的に悪魔憑きになってしまうということ。悪魔はそれを狙っていたの。あなたを手に入れるために、わざと明松をけし掛けた」
その言葉にぞっとした。
心の何処かで引っかかっていたものは何だったのだろう。本能的に、だろうか。はたまた神や天使、印の導きか。痛めつけられ、脅威を与えられていても、何故だかすぐに反撃する気になれなかった。
それは、悪魔を恐れてのことだったのか。
「あの赤い翼が悪魔なのか? あの明松とか言う女が、天使だと言っていた……」
「あなたにも少しは見えたのね。ええ、あれが悪魔よ」
低い声で鴉は言った。
「彼女は自分を天使だと言う。でも、そんなわけがない。あの翼は穴だらけ。優しい姿は偽りのもの。悲劇を重ね、人々を苦しめるあれが、天使なはずないわ」
「どうしたらいい……このまま御殿に逃げ込んでしまえば、サヤを危険な目に遭わせてしまうのではないのか?」
「大丈夫よ」
と、鴉が急に立ち止まった。
赤い幻影が崩れ始め、周囲に当り前の景色が戻る。そこは御殿の外扉を潜った先だった。人気のない外庭の隅より内扉を眺める形で鴉と私は佇んでいる。
鴉は振り返り、恐らく幻影の中で通ったのであろう外扉と外門を指差した。
「あの人はあの扉を越えられない。あの扉と繋がっている壁を越えられない。結界が張られているから」
「でも、その結界って……」
「本来、人は通れるもの。でも、明松は人から外れ過ぎてしまった。あそこまで悪魔に浸食され、狂ってしまえば、悪魔そのものと変わらない」
そう言って、鴉は両手で顔を覆った。
「彼女はね、好んで人を殺す殺人鬼なの。もともとは心優しい人だったと聞いている。監視し続けながら、その名残を見たこともあった。でも、もう明松という人はいない。悪魔の手を握った時に、明松という人は死んでしまった。深い恨みが彼女を殺人鬼にした。恨みを晴らしても、彼女の心は治まらない。今はただ飢えた獣のように人の命を貪り尽しているだけなの」
――だから、死なない私を前に、あんなに嬉しそうだったのか。
明松。彼女を化け物にしたのはあの赤い翼。天使なはずがない。人の命で弄ぶあれが、天使であるはずがない。赤い天使は聖樹を産み、勇敢の剣を与えたのだ。この国の民を魔物から守るために、神に願って勇気を振りまいた。
そんな天使があんなことをさせるわけがない。
しかし、明松は信じていた。自分を導いているのは、天使なのだと。
「ともあれ、結界の中に居れば大丈夫。あの女は此処まで来られない」
息を切らしながら、鴉は言った。
大きな魔術を使った直後だ。
本来ただの人間である鴉では、余りあるほどの魔力も妖力も霊力もないだろう。その証拠に、既に鴉の疲れはまだ落ち着きそうにない。しかし、そんな身の上でも、鴉はすぐに息を整えると、いつものように風に紛れてしまった。
「あなたは果実と一緒に居て」
そんな言葉を残して、彼女を隠した風は何処へともなく去ってしまった。




