1.勇敢の剣
※旧版から内容・設定を大幅に修正しました。
もともと、勇敢という言葉は嫌いだった。
その名を誇る我が国の都はいつだって血の臭いがした。
両親もなく、ただ仲間の子供たちと肩を寄せ合って生き延びるしかなかった幼い私の心を散々傷つけてきた。
だから、勇敢という言葉自体が嫌いだった。
人々は幼い私を軽蔑した。
野良犬少女と呼んで、忌み嫌った。
私も勇敢の民として生まれたはずなのに、都の大人たちは、そして大人たちに守られる子供たちは、私や私の仲間を見るたびに石を投げて敵意を示した。
あの日、毎日のように見つめていた夕日は、血のように赤かった。
気づけば、あれから十年以上経っている。
襤褸を着て、壊れかけたブロック塀に身を隠し、土埃と汗で汚れた体を仲間に寄せて、悪臭と共に飢えと寒さと、そして寂しさを紛らわせていた日々はもう遠い昔の事だ。
今や私は簡素ながら高級な黒の衣に身を包み、蚤などいない柔らかな髪を涼しげな風に遊ばせて、美しく立派な装飾の施された大神殿の壁に囲まれながら暮らしている。取り囲む者たちも、皆、飢えも凍えも寂しさすらも知らない者ばかり。
それでも、私の心はあの時とちっとも変わらなかった。
今でも勇敢という言葉は好きじゃない。
見つめる夕日の色も変わらない。血のような赤。そして、鼻が曲がるような血の香りがとても近い。まるで私を呪っているかのよう。死という救済から見捨てられた私を、馬鹿にしているようだ。
――今日もその臭いが近づいてきている。
沈みゆく夕日の不吉な赤色を見送りながら、ざわざわとした血の興奮を感じていた。鼻に届く臭気は、ケダモノのもの。影に支配されていく大神殿の西口。閉ざされたままのはずの背の高い格子扉より、隠せぬ殺気を宿しながら此方を見つめているらしい。
――また、あいつか。
その場所を真っ直ぐ見据えていると、観念したようにそのケダモノは闇より這い出してきた。日がさらに沈み、暗くなっていく。日の入りの逆光を浴びながら、強まる影に身を潜めるそのケダモノは、闇とは対照的に、一目見るだけでもまぶしく思ってしまうほど真っ白な姿をしていた。
四足のケダモノ。犬ではなく、狼である。だが、ただのケダモノではない。
「たしか昨日も会ったね、お嬢さん」
低い女の声でその白狼は話しかけてきた。
「今日は一人か。なるほど、気が進まないな。いかに番人とは言え、年下の女子供を傷つける趣味はないんだ。それも、お前のような憐れな子は特にね。大人しく見過ごしてくれないかい?」
そう言って伸びをすると同時に、白狼は真っ白な肌と髪をした女性の姿へと変わった。
――人狼。
べらべらと人の言葉で喋り、その姿を人のものへと変えるのは、もちろんただの狼であるわけがない。この女の祖先をたどれば勇敢の国の外を跋扈し、人間の血肉を求めて暴れまわる魔物のどれかに行きつくだろう。だが、だからといって人狼は魔物であると断言するのも間違っている。
人狼は獣人。厄介なことに、魔物の血と人間の血が混ざりあって生まれた魔族という存在。この国でも一応、勇敢の民として認められているはずの者であり、身元を隠さずに善良に生きる賢狼だってたくさんいる。かつては神と崇められた人狼の一族もいるくらいだ。
だがこの女はどうだろう。賢狼がこんな風に不法な訪問をするだろうか。
「気が乗らないのは同じだ。でも悪いけれど、そうは行かないんだ」
真っ白な女人狼を見つめ、私はそう答えた。
「この場所は聖地。許可なく立ち入ることは禁じられている。昨日もそう言ったね、狼のご婦人。話が通じるのなら、立ち去ってくれないか?」
一応、忠告してみたけれど、女人狼は笑い出しただけだった。
「ご丁寧にどうも。だが生憎、このまま立ち去る気はない。飼い犬なんかにそう言われて、のこのこ帰るなど狼の笑いものよ」
舐められたものだ。
だが、今更驚くことではない。
傍から見れば私など二十を超えたばかりの女。身体つきもあまり逞しくなく、そのうえ、目立った武器も持たずにうろついているのだから、同じ女と言っても力ある魔物の血を引く人狼からすればさぞ滑稽なことだろう。
それに、それだけではない。
人狼が私を下に見ている理由には心当たりがあった。
――けれど、それが何だというのだろう。
「別に笑いものになったっていいじゃないか」
いかに下に見られようと、私は私の仕事をするだけだった。
言葉が通じる相手であっても、この女人狼が忠告に従わないというのなら、私の取るべき態度は決まっている。
「どうせ、一匹狼なんだろう」
問いかけるように言えば、女人狼は美しい人間の顔をしていながら、不機嫌そうに唸った。
そんな彼女を見つめたまま、私は右手をそっと伸ばした。
普段得物を持たないのは、必要がないから。それに、丸腰の方が「この力」を見せつけることが出来る。見せつけることで、この地に不当に足を踏み入れた相手は時に畏怖し、戦意を失って心変わりしてくれることがある。
そんな期待もありながら、私は今日も素手のまま、その「剣」を呼び出した。
「お前……!」
昨日も此処へ忍び込んだ彼女。
だが、この力を見せたのは今日が初めての事だった。
何もないはずの場所から自由に剣を呼び出すこの力。鞘のない裸の刃は折れることがなく、切れ味が鈍ることもない。
天使の力と呼ばれるこれを、全く知らない者なんて此処、勇敢の国にはあまりいないだろう。
「お前が勇敢の剣だと……そんな馬鹿な」
驚きを隠せない様子で女人狼は言った。
どうやらこの女もやはり勇敢の民に間違いないらしい。呼び出したばかりの剣の輝きを見せつけ、牽制しながら答えた。
「その通り。運が悪かったね、狼のご婦人。嘘だと思うのなら、戦ってみましょうか。その目で神話のおさらいでもして、今後は善良な民として生きるがいい」
「――なんて哀れな。役目の為にその血を流し、無責任な人間どものために生きるつもりなのか。そんな役目、金の為に此処で暮らす番人共に任せればいいものを」
「無駄吠えの多い狼だな。どうする。戦うのか、此処から去るのか。答えろ、人狼!」
どう答えたとしても、構わなかった。戦わないでこの場を去るのなら、まだ罪人ではない。しかし牙を剥くのなら、その時点で大罪人。神殿を侵す者は斬って捨てよというのが上の命令。ならば、私はその通りに動くだけ。
斬る相手を憐れむなど、今更のこと。これまで何人殺してきたかなど、考えただけで混乱する。だから、たった一つの信念と共に、私はこの力を受け入れ、役立てるしかなかった。
――この場所を守らなくては。
それが赤い天使の印を受けてしまった者として、この世でたった一人の勇敢の剣として、私が戦う理由だった。そして、目の前にいるこの狼にもまた、大罪を犯してまで戦う理由があるらしい。
「無論、答えは一つだ!」
咆哮と共に走り出すその姿。
捉えるのも一苦労なほどの動きで白い光のように駆け巡る。いつの間にか日はすっかり沈み、辺りは夜の闇に包まれていた。私と同じく聖地を守る者たちも、まだ駆けつけるには早いだろう。
――私一人で止めるしかない。
人と狼の姿を瞬時に切り替えて、女人狼は私を翻弄するように動き回る。
闇雲に剣に頼ったところで、かわされて攻撃を受けるだけだろう。それでも、どんなに集中したところで、相手の動きが見えない以上、勘を頼りに斬りつけるしかなかった。
女人狼は幻影のように私の周囲をぐるぐると回る。いると思った場所にはすでにおらず、全く別の場所から私を狙って襲い掛かってくる。それらを避けながら、私は何度も反撃を試みた。
多少の獣の勘なら私にだってあるはずだ。幼少期、恵まれない環境に身を置くことになった私を支えてきたのは、いつだって勘だった。
「こっちか!」
一瞬だけ見えた真っ白な姿。消えるところではなく、現れるところだ。それに向かって思い切り剣をぶつけた。
闇の中では不利な毛色をしていたのが幸いなこと。剣は確かに狼に当たった。そんな手ごたえが私の手に伝わった。だが、捉えられたのは確かでも、ぶつけた相手はただの不審者ではない。
「見事だ。だが、甘かったな!」
魔物の血を継ぐと言われる人狼。戦ったことがないわけではないが、一対一でぶつかり合ったことはなかった。女であっても純血の人間の男よりも手ごわいとされる人狼相手に、そう苦労しないわけもなかった。
嫌な音と衝撃が耳ではなく体の内部で起こった。
剣を弾いた人狼の爪が、そのまま私の左目を貫いたのだ。慌ててその爪を逃れるも、すでに辺りは不快な自分の血の臭いで充満していた。左顔面が抉られた。痛みと熱さでどうかなりそうだ。
右目だけで捉える世界すらも歪んでいく。虫に食い荒らされた衣服のように視界が疎らとなっていき、やがて膝から下の感覚すらなくなった。
「悪いね、お嬢さん」
遠くで女人狼の澄まし声が響く。冷たい地面の感触を頬で味わいながら、私はようやく自分が倒れていることに気づいた。
「手加減したつもりだったが、ついやり過ぎてしまったらしい。これで懲りたなら、もう私の邪魔をするな。もっとも、今後一切邪魔する事は出来ないかもしれないけれどね」
そう言い残し、女人狼は背を向ける。
――舐められたものだ。
その白い背中をじっと見つめ、私はゆっくりと起き上がった。手で左目を抑えながら、痛みと衝撃の味を確かめる。
あの攻撃。手加減したつもりとは抜かしていたが、普通ならば脳にまで達するほどの強さだっただろう。ひょっとしたら、今だって一瞬でも脳に達していたのかもしれない。
「待て、狼」
しかし、私は平気だった。
私だから、平気だった。
手を離せば左目はすっかり前のように美しい光景を見せてくれる。血をぬぐえば、その下には傷一つない肌が現れる。視界はもうぐらつかず、立ち上がる力も十分回復していた。
女人狼が振り向き、そんな私の姿を見つめて眉を顰めた。
「戦いはまだ終わってないぞ」
剣を手にそう吠えれば、女人狼は驚きを隠せない目で私を見つめていた。
「馬鹿な。その目は抉ったはず。まさか神話は本当なのか……?」
「疑うのなら、私の首を落としてみるか。すぐに落とした首は赤い血だまりの中に消え、切り口から新たな首が生まれる。心臓を抉っても、腹を掻っ捌いても、腕を切り落としても、脳を抉っても、同じこと。お前に私を殺すことは出来ない。これが、勇敢の剣。赤い天使が黄金の果実を守るために授けた、お前たち民のための武器の姿だ」
体が燃えるように熱い。
「私のこともまた民だとお前は言うのだな……」
戸惑いを露わにしながらも女人狼は私を恐れている。
血まみれになりながらも、すっかり無傷の体となった私を恐れ始めている。
近づこうとすれば、女人狼は後ずさりした。
「哀れな化け物。そこまでして果実を守るというのか。この神殿に身を捧げ、誇りを失い、番犬になり果ててまで生きるお前は幸せなのか……」
「部外者にどうこう言われることじゃないな、狼のご婦人。これで分かっただろう。何か事情があるのなら、然るべきときに然るべき立場で来い。その時は、私が邪魔することもないはずだ」
果実が目的とは限らない。
大罪だと知りながら、この場所へ忍び込む理由は様々だ。
しかし、どんな理由があろうと、簡単に通してしまうわけにはならない。勇敢の剣として、この聖地で守られる勇敢の国の要――人々の願いが籠められた黄金の果実を守るためにも、こればかりは譲れない。
「ふざけた事を……」
恨めしそうに言いながら、女人狼は更に後ずさりする。
その姿から察するに、どうやらその事情とやらは誰にも告げられないようなものであるらしい。
――やはり、狙いは果実か……。
この神殿で厳重に守られる黄金の果実を狙った侵入も少なくない。大罪だとしっているはずなのに、果実に含まれる有り余るほどの魔力を欲して手を伸ばしてしまう民も多いのだ。
黄金の果実を手に入れた者は、世界を支配する力を持つだろう。
赤い天使が遺したというその言葉を信じて、世の中に不満のある者たちはこの場所を目指して侵入する。
――この女もその一人なのだろうか。
悔しそうに、恨めしそうに、私を睨みながら女人狼は段々と神殿の外へと近寄っていく。そして、その背中が格子扉に当たると、両手で顔を覆った。
何かを呟いたが、私にまでは聞こえない。
見守っている内に、彼女は諦めたようにそのまま闇の向こうへと消えて行ってしまった。姿を晦ましただけではない。夜風に訊ねてみれば、隠せないほどのケダモノの臭いが遠ざかったことが分かった。
――これでいい。
他の番人が駆けつける前でよかった。
過激な者は、相手が戦意を失っても攻撃をやめない。神殿を侵すは極刑と信じ、命を奪ってしまうこともある。
血の臭いはあまり好きではない。
幼い頃に嗅いできた呪詛にまみれた汚らしいもので、この場所を無駄に汚したくはなかった。
何故ならここは聖地。
この国にとっても、そして、私にとっても大事な果実が守られている。
――サヤ……。
騒がしい声が聞こえてくる。私の名前を呼びながら近寄ってくる男たちの声を耳にしながら、私は暗い夜空を見上げた。
高い壁に守られた大神殿の中心から、この聖地の全てを見下ろすように母なる聖樹はそびえている。夜風で枝を揺らしながら、私の事も見下ろしているのだろうか。音を立てながら囁くように訴えてくるその言葉は、勇敢の剣として生まれた私であっても何を意味しているのか分からない。
――彼女の言葉が分かるのは、あの子だけ。
「カタナ様、ご無事ですか!」
番人たちの声が近づいて来た。重たい鎧と重たい武器でその身を整えて、彼らは私の顔や、地面に残した血痕を目にして、やや動揺を見せた。皆、きっと新人なのだろう。だから、私に向かって「無事か」なんて尋ねるのだ。
「侵入者は消えた。遠くへ逃げたようだ。だが、様子を見た方がいいかもね。相手は人狼だからくれぐれも気を付けて」
「は、はい……」
「他にも暇そうな番人を見かけたら手伝うように言っておくよ」
「カタナ様……どこへ?」
「サヤを見てくる。此処は君たちに任せてもいいかな」
「えっ、ええ」
「分かりました。任せてください」
分かり易く動揺している者もいれば、必要以上にやる気を見せる者もいる。しかし、根底にあるのは緊張だろう。そのくらい、一度しか死を許されない者にとって、人狼は怖い存在だ。
だが、心配しなくても、あの女人狼がまた現れれば、すぐにでも駆けつけられる自信があった。貴重な命を散らさずとも、私が盾になればどうにでもなるだろう。
「頼む」
一言だけ言い残し、私はその場を立ち去った。
目指すは聖樹の根元。この神殿唯一の巫女サヤの数少ない居場所へ向かって、黙々と歩き続けた。