013 浮き立つ風に華は舞う
桜童子が決死の攻撃を試みようとしたのとほぼ同じ時――。
ユイは川を挟んだ隣の山中にいた。
ユイがバジルとイクスとともに戦っていれば、イクスが死ぬことはなかったかもしれない。しかし、ユイがここに来ていなければこの戦いは終わっていなかったかもしれない。
それほど重要な場所にヴィバーナム=ユイ=ロイはいた。
<欺きの典災>カホルは、触手の化物の本体部分から誘引突起部分をダリエルとして切り離していたように、本体の核となる部分を戦いの最中に分離させていた。
イクスのキックを受けたとき、増援の可能性を感じたカホルはマントの中こそが核であるように欺き、こっそりと核の部分を切り離していた。
仔猫ほどのサイズの生き物として背後から逃げ出したのを、ユイだけは見逃さなかった。
ユイはその場から立ち去ってこの生物を追いかけた。その姿を見失ったのが、この桃の花のように赤く色づく満開の森の下である。
<冒険者>がこの地に来てから、ユイは花見という風習を覚えた。昨年の五月の頃に<大災害>があったから、今年になって初めて知った。
花を見るという行為自体がなかったわけではない。ただし、その花の下まで来て酒食を楽しむというのは、貴族の遊興の範疇だ。
満開の花の下というのは、ユイは今でも空恐ろしい気分になる。
ユイを鍛えあげた<古来種>の青年と出会ったのが満開の花の下であった。
<古来種>であり、元<暗殺者>であった青年は心に毒を受けていた。死に向かう毒だ。ユイに技を仕込みながら、日に日に衰弱していった。
彼はいつも、預言者のように「もうすぐ恐ろしい事が起こる」と口にしていた。
たった一度、彼は心に毒を与えた敵の名前を言った。
<典災>と。
だから、ユイは満開の花の下にいると心に恐ろしい気分が蘇ってくる。
「オレは<古来種>になって、兄ちゃんを助けるからな」
決意を口にしなければ、この恐ろしい気分に飲み込まれてしまいそうだ。
だが、その過去こそが、その決意こそが、彼に特別な嗅覚を与えていた。
<典災>に対する鋭い嗅覚。
そして絶対に逃さないという信念。
「うまく欺いたつもりかもしれねえけど、オレにはもう分かったよ。お前、<典災>ってやつだろ? 腐ったような臭いがプンプンする」
満開の花の下、ユイは虚空を睨んでそう言った。
風で花や枝がさわさわと鳴りはじめた。
師匠譲りの<爆砕の旋棍>を腰から外し、満開の下を歩く。
一本の木の前で立ち止まると腰だめに構えた。
「タイガーエコーフィスト」
技名を静かに告げたユイは、右のトンファーを幹に恐ろしい勢いで叩き込んだ。
幹が抉られていく瞬間、狼のような顔が浮かび上がってギイイイイイイイイと断末魔の叫びを上げる。
満開の花が一気に黒く染まる。
黒い花は一斉に散り、地面に落ちる前に泡となって消えた。
幹も大きく傾ぎ、やがて大きな音とともに倒れた。虹色の泡が虚空へと吸い込まれていく。
地面に倒れた木は禍々しさを失い、他の木と一切変わらぬ姿でそこにあった。
カホルの核は、木の一本に巻きつくようにして擬態していたようだ。それを正確にユイは撃ち抜いた。
菜の花畑で氷のフェンスに激突したカホルの触手が泡と化したのはそれと同じ時だった。
満開の花の下から、青い空の白い月を見上げてユイは言った。
「オレは、許さない」
■◇■
イクスは目を開けた。
青々とした森に切り取られたように空が丸く見える。
「まぶしいにゃ」
辺りはしんと静まり返っている。イクスはこれが死の世界かと思った。
「そうにゃ。イクスは死んじゃったにゃか」
少し身を起こして辺りを見る。
小さな祠の前の石畳の上に横たわっていた。
いつか見たような景色だが、これが既視感というものかとイクスは考えた。
腰の笛をほぼ慣習的に吹いてみる。イクスの可聴範囲すら超えた音なので吹いても音は聞こえない。
何も起きず、空を見つめて虚無感を味わう。
しばらくすると、イクスの鼻と耳が小さく蠢いた。
陽光をいっぱいに浴びた干し草の中にまだ熟れていないキウイを置いたような甘く懐かしい匂いがした。
裏の笹がガサリと揺れる。
「山丹!」
「がう」
山丹は主人の姿を見つけると愛おしそうに首を擦りつけてきた。
イクスは山丹の頭をいっぱい撫でた。そして急に表情を曇らせた。
「山丹も、死んじゃったにゃか」
「がう?」
山丹の首筋に抱きついて強く抱きしめる。
「少し夢を見ていた気がするにゃ。夢の中で浮かんでくるのは【工房】のみんなのことばっかりにゃ。特にアイツのこと」
だらしなく舌を垂れた狼面の男。いつも喧嘩するように話していたこと。からかいあった日のこと。一緒に旅したこと。
腹に敵の攻撃を受けたとき、悲しげな目で見つめていたこと。力が入らずアイツにもたれかかったときなにかひどく叫び続けていたこと。膝の上から見上げているとなにか必死に喋りかけていたこと。
場面は思い出すのだが、あの狼人間がなんと喋っていたか、その言葉を思い出せない。それよりもっと思い出せないものがあった。
「山丹、アイツの名前、覚えてるかにゃ? 狼人間の名前」
「があう」
「うーん、分かんにゃいにゃ! いいにゃ、思い出せないからきっと重要じゃないにゃ」
山丹をもうひと撫でしてから背中にまたがる。
「この道、どこに続いてるのかにゃ」
足元の道が丸い砂利に変わって、山丹の跫が大きく鳴る。その足音を聞きつけたか一人の老婆が顔を出した。
「おのれ小娘、獣なんかに乗ってどこから現れおった」
「お、お葉バア!」
「ん? 小娘、見た顔じゃな」
「お葉バアちゃんも死んじゃったにゃか?」
それを聞いて老婆は真っ赤になって怒った。
「何を言うか、こんバカちんが! たとえ耄碌しようとも死んでおらぬことぐらい自分がよく分かっておるわ!」
「へ?」
「何が『へ?』じゃ。ここは神域じゃぞ。早ぅ去ね。ほれ、行くぞえ行くぞえ」
「え、どこにゃって?」
「し-んーいーきー、神域じゃ」
「だから、どこの?」
「はあ? <エインシェントクインの古神宮>に決まっておろうが」
「ええええええええええ! 死後の世界って<ユーエッセイ>にあるにゃかー!?」
イクスは事情がまだ飲み込めてないようだったが、お葉婆はイクスの瞳をじっと見つめて言った。
「お主、ひょっとして生まれ変わったのではないか?」
■◇■
「イクスは死んでないかもしれないってことか!?」
地面に散らばる金貨やアイテムを拾いながら、バジルは叫んだ。
「だから、死んでないわけじゃねえって。蘇ったかもしれねえっつったんだよ」
「しれねえって曖昧だなあ。にゃあの介、ちゃんと説明しろよ」
「ハギがちゃんとステータスを監視していれば面倒くさい説明なんて要らないんだっての」
潮干狩りでもする親子連れのようにヤクモと金貨探しをするハギは、「すいません」と謝った。
「説明を中途半端にしかしないのが、そこなあやかしウサギの悪い癖じゃ。もったいつけずにちゃんと喋るが佳い」
のんびりと<火雷天神>は言う。
「心配だからアタシたちにも経緯を教えてよ、にゃあちゃん」
あざみは仕事をサボりながら言った。
「お前ェらも拾えっての。まあいいさ。まず話さなければいけないのは、<ニ姫の竪琴の糸巻き>ってアイテムについてのことだな。これは、アキバの<冒険者>飛羽さんが持っていたものだ。これはギターのペグのような形をしていて、頭の部分に<ルークィンジェ・ドロップス>が嵌っている。だが、彼女が所有している頃には呪いは付与されていなかった」
「呪い?」
サクラリアが尋ねる。
「<獣を獣ならざるものに変え、人を人ならざるものに変える呪い>だ。これは舞華くんの手に渡った時に既に付与されている。つまり、仲介した<典災>が所持していたために付与されてしまったということだろう」
桜童子は手を休めて答える。
「舞華くんが偶然出会った人物に、<糸巻き>は<典災>が本来獲物とすべき価値があるものだと示唆されている。だが、奴は<糸巻き>を手放した。持っていることで変質してしまうのだろうね。己の情報を書き換えて変装するばかりではなく、持ち物の情報も変えてしまうわけだ。そして、それを舞華くんに持たせていたほうが、都合が良かったのだろうね。あの触手の化物は、その<糸巻き>の気配を追ってきたからこの地までやってきた。ともかく、イクスがかけたアイテムは<使用者の情報を書き換えてしまう呪い>と<強い魔力>を持ったアイテムだったということを言っておかなければならない」
一向にイクスの話題にならないと思ったら、ようやく触れた。自分の説明が回りくどくなってしまう上に、ほとんどの部分が推測によるものだから桜童子は説明したがらないのだ。
「そしておいらたちがどのような形でこの世界に存在するかという哲学的な話もしておこう。<ユーエッセイ>の歌姫によれば他の星から召喚された存在ということになるが、別の見方をすれば、おいらたちは現世の記憶という膨大なエネルギーをサンタクロースの袋のように抱え、この姿となってこの地にやってきたと言える。おいらたちはその袋からエネルギーを取り出すことで蘇生することができるのだ」
「それが<エンパシオム>ですか?」
舞香は聞いた。
「だろうね。だが、イクスにはおいらたちほどのエネルギーは持っていないかもしれない。その肩代わりをするのが<糸巻き>の魔力だ」
「で、でもよ。イクスは<大地人>じゃねえか」
バジルがそうやって口を挟む。随分と心配なのだろう。
「言っただろ。<人を人ならざるものに変える>って。<大地人>を<冒険者>に変えちまう呪いだったんだよ。だからハギがステータス見てれば話は早かったんだ。っていうか、お前ェも一緒にいたんだから気づけっての」
桜童子は送り出した時から気づいていたが、他の皆もステーテスさえ見ていれば簡単に気づけたことである。
イクスは首飾りのおかげで<冒険者>に変貌したのだ。うまくいけば<ユーエッセイ>で蘇生している頃だろう。
「ふへえ、安心したぜ。しかし銀色仮面に変身しただけじゃなかったのか。あー! おーい、ユイ坊! おめえどこ行ってたんだよ。聞いてくれよ、イクスはな死んじまったんだけど死んでねえかも知れないんだぜ。聞いて驚けよー! イクスはなんと<冒険者>になっちまったんだー!」
自分が発見したかのように自慢するバジル。山から下りてきたばかりのユイはきょとんとしていたが、素直に喜んだ。自分の<古来種>の夢に光明が見えた気分になったのかもしれないし、イクスが危険だったが無事であったということに安心したのかもしれない。
「今度はイクスを迎えに行ってやんなきゃなんねえな」
桜童子は菜の花畑で寝転んで空を見上げた。青い空に静かに花びらが舞っていた。




