題知らず ~もしくは、雑輩に依るmadrigale~
「おいは、あん稚児で良か」
背後で声がするのを、鈴若は振り返らずに聞いた。目の前を行く夕顔が、細い首を傾げて後ろを見たのと目があった。湯を使ったばかりの彼の支度はまだこれからだ。それに今宵の相手は、もう決まっている。
この陰間茶屋一番の売れっ子である夕顔を指名するのはわかるとして、「あの稚児で」と野暮な物言いをするとは、やはり薩摩は無骨な田舎者だなと、鈴若は眉間に皺を寄せた。人気の色子ともなれば、吉原の太夫と同等かそれ以上の代物。お客は高僧やお大尽ばかりで、本来なら一見の客など相手にしない――しなかった。しかし討幕軍が江戸に入り、江戸城が開城されると、客筋が変わった。時代の急速な流れを鈴若は感じている。
夕顔がそんな鈴若の様子を見て小さく笑うので、顎で先に進むように促した。夕顔が前を向き直り一歩踏み出した時、「鈴若」と呼び止められる。
「支度はまだこれからだし、夕顔の今夜のお相手は決まってやがるよ?」
先約を反故にして、夕顔を出そうとする腹なのかと言う意味合いを込め、鈴若は振り返って言った。
「いんや、こちらさんはおまえが良いと仰せだ。夕顔は虹太郎に任せて、支度おし」
店を仕切る番頭の喜助が隣に立つ総髪の侍を横目で見た。
年のころは二十四になる鈴若とさほど変わらない。違っても一つか二つ年上と言ったところだろう。背は高く、陽に焼けて肌が浅黒い。そのせいか白目の白さがやけに目立ち、三白眼の強面に見える。
連れらしい二人の侍は、今夜の相手と決めた色子を見て鼻の下を伸ばしているが、彼はムスッと口元を引き結び、鋭い目つきを和らげもしない。望んできたのではないのか、それとも照れているのか。
「支度はせんでよか」
「それはいけません。これはもう薹が立って、ここんとこ色子としては使っておりませんから、興ざめいたしますよ?」
とんでもないと言わんばかりに喜助が首を振った。連れの二人は早々に座敷に上がって行ったが、「構う」「構わない」の押し問答が続く。その間に夕顔も虹太郎と言う別の小者に連れられて行った。
「とりあえず湯に浸かってくっから」
無粋なやり取りを横目に、鈴若は風呂場に向かった。
慶応四年閏四月、江戸城に東征大総督である有栖川宮熾仁親王が入城し、ここに二百六十余年続いた徳川の世は終わりを告げた。
討幕軍が来ると言うことで一時は騒然となった市中は、江戸城の無血開城で戦火に晒されずに済んだ。ひと月も経つ頃には、逞しい市井の人々は戸惑いながらも、来るべき新しい世を受け入れつつある。彼らにとっては、お上が代わっただけであり、江戸がなくなるわけではない。討幕軍もその気はないからこそ、戦場にすることを極力避けたのだろう。当然だ、江戸は日本一の町なのだから。そうとなれば、自分達の生活を営むだけである。
現に商人はもう、幕府方から倒幕方へと旗色を変え始めている。武家の払いは滞りが日常的になっていた。いよいよ幕府が失くなる今となっては、用立てた金品の回収は絶望的だった。確かに討幕軍の懐具合は未知数ではあったが、『花のお江戸』に進軍して来た田舎者集団は格好を付けたがるもので、支払いだけは良かった。もっとも時勢が変わったばかりで商人の立場は危ういから、うんと下手に『勉強してやっている』ので、儲けは度外視だったが。
鈴若が働く陰間茶屋もそんな機を見て敏なる商売の一つであった。いつの世も色事は廃れることがなかったが、寛政以来、陰間茶屋の衰退は進むばかりで、門前町では二軒も残っていない。それだとて贔屓筋の大名や寺院、数寄ものの大店の行く末次第でどうなってしまうか知れなかった。花魁ばりの隆盛を誇る売れっ子がいたところで、女色と男色とでは圧倒的に客数が違う。生き残るには、客筋は上流のみと言う自尊心を封印し、一見であろうと無粋な田舎者であろうと、金子を落とす客であるかぎり敷居を跨がせる必要があった。
さて鈴若は、その『田舎者』の部類に入る客の前に座っていた。化粧も結髪もせず、振袖でもなく、一応は持ち物の中で一番上等な着流しを身につけてはいるが、こんな素面な姿で座敷に出るのは、十二の頃からこの世界に身を置いて初めてのことである。陰間茶屋での遊び方を知らないのだろう。
鈴若はとっくに色子の旬を過ぎていた。大年増の上臈や後家相手か年下の色子の世話が主な仕事だ。細身ではあるが華奢とは違う。抱き心地の悪そうな、言わば男の体つきとなった鈴若を選ぶあたりからも、遊び慣れしていないことが知れた。
その薩摩侍は湯上りで丁子油の匂いがプンプンする鈴若を前にしても、一人で黙々と酒を飲んでいる。
湯から上がると喜助の使いが待ち構えていて、
「化粧もなぁんもいらねぇとよ。後ろ支度して、さっさと行きな」
と言われ、洗い髪が乾くのもそこそこに座敷へと追い立てられた。身支度を端折ってまで急がせるのだから、早く閨事に入りたいのかと思いきや、これである。鈴若は拍子抜けしていた。
せめて酒を注ごうと銚子に手を伸ばしたが、「いい」と断られた。声がかかるのを待っても、一向にその気配がない。この手持ち無沙汰をどうしたらよいのか。
「あの、お武家様、」
沈黙に堪りかね鈴若から声をかけると、侍は「向坂だ」と名乗った。
「ほな向坂様、私は何をしたらええんでしょう?」
半ば投げやりな鈴若の口調に、向坂は目を上げる。
「京の生まれか?」
やっとだんまり以外の反応を見せた。鈴若は頷いて、話の糸口を広げようと次の言葉を探した。それを吐き出すために息を吸ったほんの刹那に、向坂が続ける。
「でん、さっきは京ことばやなかった」
正しくは近江の生まれである。と言っても、鈴若が親元を離れて東に下ったのは十一で、もう倍の年以上を江戸で過ごしていた。柔らかな子供の頭が生国の訛りを忘れるのはそう難しくなく、今では江戸言葉の方が自然に出るのだが、陰間茶屋では京ことばの方が普通に使われた。その方がおっとりと上品で、客に喜ばれたからである。だから接客の際には、鈴若は努めて京ことばを使った。
しかし考えてみれば向坂がこの茶屋を訪れた時、よもや自分に声がかかると思わなかったから、遠慮なく江戸ことばを使っていたのではなかったか。所作もぞんざいだった。
「生まれは上方でも、こっちでの暮らしのが長いですからね」
今更取り繕ったところで、どうしようもない。多少は丁寧な物言いを選んで、鈴若は言葉を元に戻した。向坂の真一文字の口元が、ほんの少し緩んだように見える。
顔の力が抜けて表情が和らぐと、なかなかの男前だとわかった。薩摩人にありがちな彫りの深さはあるものの、田舎侍然とした泥臭い濃さではなく、色黒はかえって精悍さを際立たせた。居住まいも悪くない。この侍は訛りはあるが、案外、出自は良いのかも知れないと鈴若は思った。
鈴若がじっと自分を見つめるのは、口元に運んだ杯を見ているのだろうと思ったのか、一つ余った杯を向坂は差し出した。
「これはどうも」
「足を崩してよかぞ」
客には逆らわないことにしている。言われた通り正座の足を崩し、胡坐を組んだ。裾が割れて白い脹脛が覗く。向坂の視線が一瞬そこに動いたのを、鈴若は見逃さなかった。注がれた杯の中身をぐいと飲み干すと、片膝を立てて座り直した。今度は太ももから股にかけての線が見えるはずだが、向坂の目は動かない。何だか気恥ずかしくなり、さりげなく着物の裾を深く被せ、肘を乗せた。
素っぴんで男衆姿のままの無防備な様は居心地が悪い。これは何とかしたかった。そのためにも寝間に入って、さっさと勤めを済まさなければ。最初はどんな格好をしていようと、房事の後はみな裸だ。いつものことと変わらない。
向坂もまったくその気がないわけではないだろう。女色が良いなら遊郭に行くはず。話の種に江戸の陰間茶屋を訪なうにしても、興味がなければ来ようとは思うまい。
「ねぇ旦那、飲むのはいい加減にして、そろそろ寝間に入りませんか? ほどほどにしておかないと、立派な『持ちモノ』が役に立たなくなりますよ?」
鈴若はゆっくり湯に浸かった。男の相手をするのは久しぶりで念入りの準備も必要だったし、一緒に過ごす時間は短いに越したことはなかったからだ。向坂はその間に銚子を数本、空けていた。鈴若はそれを指差す。
「そんつもいでここに来たわけじゃなか。おいのこたぁこんまま放っておいてくうっちゅうとあいがたか」
低く深みある声で訛りがあると聞き取りにくい。鈴若は「え?」と聞き返した。向坂は「放っておいてくれて構わない」と、旗本や大名と変わらない武家ことばで言い直した。
(ああ、やっぱり。この男は育ちが良いんだ)
地方藩士であっても中流以上の子女となれば、国の訛りは矯正されると聞く。連れの二人はあきらかに田舎者然としていたが、同格の口をきいていた。向坂は彼らに合わせているのかも知れない。
「じゃあ、何のためにこんなとこへお出ましなんです?」
「つきあいだ。おいがどこいも出かけんで、気を回してくれた」
「それで陰間? 吉原の方が楽しいでしょうに」
「興味はん。それにまだすっぱい終わったわけじゃなか」
「はあ?」
「興味はない」
向坂は杯を空けた。手酌しようとする銚子を、鈴若が寸ででさらう。銚子は軽かった。他も同様で、追加を頼むかと尋ねると、つきあうなら頼んで良いと言った。
こうなったら呑むまでだ。薹の立った鈴若を望む男客はない。女客も、このご時勢で足が遠のいていた。年若い色子の世話で日々を過ごす鈴若が口にするのは、ここのところ安酒ばかり。上物だと気持ちよく酔える。居心地の悪さも払拭されるだろう。
黙って呑むだけでは、なかなか酔えない。話をしながらなら気も紛れる。鈴若は途切れ途切れながら、向坂に話を振った。振られた彼は短く答えるだけだ。会話になりようはずがない。そのうち種もつき、鈴若は口をつぐんだ。
開け放った張り出しから月が見えた。高いところに上っている。どれくらい時間が経ったのか、朝までどれくらい時間があるのか。経験から、まだまだ夜は長そうだと読む。客の前では厳禁のため息が出掛かっていた。鈴若は月を見上げることで、辛うじてそれを押しとどめた。
「名はなんと言うのだ?」
すぐ近くで声がした。いつの間に向坂が張り出しに背をもたせかけて座り、同じように月を見上げていた。鈴若は銚子を引き寄せ、相手と自分の杯に注いだ。
「月ですかい?」
「いや、その方の名だ」
今更と思ったがそんな素振りは脇にどけて、「鈴若ですよ」と答えた。
「それは本名ではないだろう?」
会話の中で何度も鈴若が聞き返すので、向坂は武家ことばになっていた。遊びもしない、会話も続かない、そう言うところはやはり田舎者の野暮天だが、声音は良いと鈴若は思った。
「本名なんか聞いて、どうするんです?」
「知りたいだけだ」
十二から『鈴若』だった。親元を離れた時に、本来の名は捨てた。
「忘れちまいましたよ。もうずいぶんと昔だから」
「そんなことはあるまい。親が付けてくれた名だ」
「お侍と違ってね、それほど思い入れのある名じゃないんですよ」
鈴若は貧しい小作の末の子だった。彼の上には六人の兄や姉がおり、望まれて生まれたわけではない。従って名前も仕舞いを意味するものだった。喧嘩になるたび兄や姉に「おまえなんか要らない子だった」と詰られたことや、口減らしに一人だけ江戸へ送られた理由が、名前の意味するところからわかると、覚えておく未練はなくなった。
「『鈴若』と言う名は、泣いたり笑ったりする声が、鈴が転がるようだってんでつけられたんですよ」
正しくは『仕込み』の最中に出た声が…だが。それでも自分のためだけに付けられた名である。何人もの客が、「鈴若、鈴若」と愛おしんでくれた名でもある。本名よりはどんなにかましだった。
そんな聞かれたこと以上のことを口にしてしまいそうになる。かなり酒量が進んでいるせいだろう。
「そう言う向坂様は、何と言うお名なんで?」
鈴若自身のことではなく、向坂のことに話を摩り替える。
それにしても、この男は酒が強い。いっそ酔い潰してしまえと、干す側から注いでやるのに、顔色は変わらず、呂律も確かだった。鈴若の方が先に正体を失くしそうだ。実際、少し酔いが回っている。言葉がだんだんと普段遣いに変わっていた。向坂がその方が気を遣わなくて良いと言うから余計だった。
「れんしょう」
向坂は新たに注がれた酒を一口含んでから答えた。
「れんしょう? なんだか坊主みたいな名だなぁ」
「すでに姉と三人の兄がいたので、親は次に男が生まれたならば僧侶にするつもりだったのだ。武士と言っても貧しかったのでな。七つの年に出家した」
しかし今はとても僧侶には見えない。黒々とした髪を総髪にして、飲酒もするし、手は出さないにしてもこうして色を買いに来ている。芝居や講談に、僧の身で剣を持ち戦場を駆けた話も出てくるが、そう言う類でもなさそうだった。
「今も?」
「いや。兄が次々亡くなって、跡を継がねばならなくなった。十四の時に還俗させられたのだ。ゆえに正しくは『やすきよ』というのだが、」
と、向坂は杯の中に人差し指を入れて濡らし、月明かりが照らす張り出しの板面に『廉清』と書いた。
「前の響きの方が好きなのでな、普段はそれを使っている」
「意味はあるんですかい?」
「逆にすると『清廉』となる。清廉潔白の清廉だ」
「やっぱりお武家の子だなぁ。良い名をつけておもらいだ」
たちまち乾いて消えて行く『廉清』の文字を、鈴若は見つめた。同じ子沢山の家に生まれ、同じように『口減らし』の対象になったと思われるのに、名づけ方の違いは歴然だった。ますます名乗りたくなくなる。名乗るまいと心に固く思った。
「寺にいたから、この商売も知っている。だから年端のいかぬ稚児を買う気にはなれなかったのだ。その方なら一晩、酒に付き合ってもらえそうだからな」
今度は向坂が鈴若の杯に酒を注いだ。返杯以外で客に酌をさせるなどありえない。構うものかと、鈴若は杯を煽った。
「それはそれで複雑でやんすね。床に入れるほどの色気が無ぇって、言われたようなもんだ」
鈴若は苦笑した。
「…そんなことは、ない」
(おや?)
口篭もったような向坂の物言いに、続けざまに杯の酒を流し込もうとしていた手を鈴若は止め、ちらりと彼を見る。それまでは目が合うと、まっすぐ相手――つまり鈴若の視線を受け止めていた向坂だが、
「一緒に飲むのなら、見目良い方が楽しいのは道理だろう?」
と続けて月を見上げ、さりげなく視線を外した。
鈴若が話の折々に挟みこむ誘いにも動じなかった向坂が、今夜初めて見せた『色』を含む表情。微かだが鈴若は見逃さない。
(これは案外、脈があるのかも知れない)
向坂達がここを訪れた時、店先には喜助をはじめ数人の男衆がいた。皆、陰間上がりで姿形は悪くない者ばかり、鈴若が際立って容色が良いわけではない。むしろ夕顔を連れていたから見劣りしていたはずだ。そんな十把一絡げの鈴若を選んだのだから、少なからず向坂の好みに合ったと言うことだろう。一瞬彼が見せた瞳の中の『色』は、それを暗示している。
それとわかったからには…と、鈴若は少し身体を向坂の方ににじり寄せた。胡坐を組みなおすと、片方の膝が彼の足に近づく。袴が邪魔をして目測に頼るしかなかったが、鈴若は膝小僧に彼の硬い太ももがあたるのを感じた。
向坂の緊張が伝わる。しかし彼は身体をずらして避けるようなことはしなかった。
色子としての房事から遠ざかっていたので、それがないのは楽で良い。客のすることに文句を言える身分ではないが、この夜の長さはどうもいけない。
向坂の干した杯に酒を注ぐ。酔いで身体が揺れた振りをして、彼の胸元へと傾げた。向坂が咄嗟に片方の腕で鈴若を抱きとめる。銚子は鈴若の手から離れ、零れた酒は瞬く間に畳の中に吸い込まれた。
向坂の胸板は薄からず厚からず、袷から見える肌には張りがあった。ほんのりとする汗の匂いは若い。かつて鈴若の身体の上を通り過ぎて行った色事好きの旦那衆や僧侶達の誰とも違う、精悍な男の匂いだ。不覚にも、鈴若は自分の頬が熱くなるのを感じた。
「これはとんだ粗相を」
本当は艶を含んだ目で流し見ながら、ゆっくりと、そして思わせぶりに身体を離す算段だったが、素に戻ってしまった。
向坂の胸に手を突っ張って鈴若が慌てて身を離そうとした時、目と目が合う。今度は、向坂は目を逸らさなかったし、鈴若を抱きとめた腕には、一層力がこもったようであった。
鈴若の心の臓の鼓動が早くなる。自分の初心な反応に戸惑った。年齢の半分はこの商売に身をやつしていると言うのに、これではまるで初出しの夜ではないか。
そんな戸惑いの中にあっても、どうやら向坂がその気になり始めていることには安堵した。このまま一挙に事に及んでしまえば、戸惑いも消えるだろう。鈴若は首を伸ばし、向坂の唇に触れた。
その後はもう、聞こえるのは互いの口を吸い合う音のみだった。
熱く荒々しい舌の動きを鈴若のそれが追う。夢中で絡め、その勢いに息をするのもままならない。それでも緩めることはなく貪りあう。順じて下肢の奥の昂りを感じた。
体勢が崩れて、二人は畳の上に倒れ込む。向坂の手が鈴若の着流しの裾を割った。首元に埋められた彼の頭を、鈴若がかき抱く。この先に待つ愉悦を思うとたまらなかった。
大きな手が鈴若の太ももを下から上へと滑ったその時――向坂はいきなり身体を離した。
「向坂様」と言いかけた鈴若の口を向坂は手で塞ぎ、「しっ」ともう一方の人差し指をたてて自分の口にあてた。
静寂の中、廊下の敷板の軋む音が微かに聞こえる。向坂は鈴若から離れた。床の間の刀掛けから刀を取り、柄に手をかける。
軋みは部屋の前で止まった。向坂は左手の親指で鍔を押し上げる。次に何かが動く気配を感じたなら抜刀するだろう殺気を、鈴若は彼から感じた。
開城し朝廷に政を返還したとは言え、徳川将軍家が望んでしたことではない。現に憤懣やる方ない旧幕府側が、あちこちに集結し機会を狙っている。どこに刺客が紛れ込んでいてもおかしくなかった。
「待っておくんなせぇ」
鈴若は身を起こした。乱れた着流しを手早く整えながら、向坂が止めるのも聞かず廊下に面した障子戸に近づき、そっと引き開けた。
「夕顔」
はたしてそこには、半泣きの夕顔が座っていた。
「どうしたんだ、今頃。今夜は阿波田屋さんがお見えのはずだろう?」
薄桃色の長襦袢一枚の夕顔を隠すようにして向坂に背を向け、鈴若は抑えた声で言った。
夕顔は今夜、贔屓筋の紙問屋、阿波田屋の座敷のはずだった。阿波田屋が何らかの理由で来られなくなったのだとしても、解けて乱れた結髪から別の客がついているのだとわかる。よほどのことがないかぎり、夜明けまでは座敷を離れないのが決まりだ。それとも、客に何かあったのか。
「お客に何かあったのかい?」
それとも何かひどいことをされたのかと続けて尋ねた。夕顔に大甘の阿波田屋が無体をするとは考えられないが、客が変わったのならそれもありうる。
夕顔は両手で顔を覆って首を振った。鈴若は暗がりの中、部屋の行灯から漏れる明かりで目を凝らし、袖から見える夕顔の細い手首や、首を検分した。掴まれたり、縛られた跡はない。そっと顔を覆う手を外してやり、目元や口元も見る。涙の伝う跡以外、おかしなことはなかった。
覗き込むかっこうの鈴若と目が合って、
「鈴若兄さがお客様を取ると聞いて、居ても立ってもおられんようになって…」
とやっとのことでそう言うと、夕顔はぽろぽろと涙を零し、鈴若の胸にしがみついた。
「お客を放って抜け出してきたってぇのか?」
鈴若は慌てて引き剥がした。向坂に見られていることを憚ってではなく、夕顔が大事な客を一人にして来たことに驚いてである。
「阿波田屋様は、ようお休みです。そやから、そやから…」
そこのところは売れっ子の自覚が働いたと見える。阿波田屋は気を放って寝こけると、半時は起きないので有名であった。ただしそれを繰り返し、明るくなるまで色子――夕顔を離さないことでも知られている。温厚な旦那ではあるが、寝間を抜け出して行った先が別の男の部屋だと知れば、いい気はしないだろう。
「お立ち。送って行くから」
あれこれと考えている場合ではなかった。すぐに阿波田屋の寝間に戻さなければ、ごまかしもきかなくなる。
そろりと振り返ると、向坂はすでに刀を元の場所に戻し、張り出しのところで静かに呑んでいる。「すぐ戻ります」と鈴若が言うと頷いたので、夕顔を伴って暗い廊下を進んだ。
夕顔は今年が四年目、十五になる。上方の生まれであれば、たとえ大坂や紀州が出自であっても「京育ち」と偽る色子が多い中、夕顔は正真正銘、京生まれ京育ちであった。
色が抜けるように白く、頬は紅を差さずともほんのりと塩梅良く桜色を帯びていた。涼しげな目元、形良い弓なりの眉、通った鼻筋を挟んで左右対称の面立ち。稀に見る美形だと評判の色子である。
言葉遣いや物腰が柔らかく上品な京育ちの陰間は客に喜ばれたが、花の命は短いもので匂うように美しい色子でも、かならずいつかは成長して体型が変わってしまう。男客の相手が務まるのは、せいぜい二十までだった。ゆえに陰間茶屋の主人は、決まった時期に上京したり人を介したりして、定期的に美童を調達しなければならなかった。夕顔もそのようにして茶屋主の眼鏡にかなった子供だったが、ご他聞に漏れず貧しい家の出である。
『夕顔』の名は水下げ客として選ばれた廻船問屋の高田屋がつけた。風流人で古典に造詣が深い高田屋は、儚く稚い風情から源氏物語に出てくる『夕顔』を思い浮かべたのだと言う。既に『帰蝶』の名を持っていたが、高田屋は響きが硬くて「らしくない」と言い、その夜のうちに変えさせてしまったのだった。
(今、何ん時だろう?)
廊下を歩きながら、鈴若は落ち着かない。どの部屋の灯りも落ちていて、辺りは静まり返っていた。切羽詰った甲高い声が聞こえてくるがそれも時折だった。皆、何度か気を放った後で寝入っているのだろう。
そんな時刻に客を放って抜け出し、暗い廊下を二人きりで歩いているところを見られでもしたら、変に勘繰る者が出てこないとも限らない。よりによって鈴若が今夜使っている部屋は、夕顔が使う部屋から一番遠かった。
阿波田屋に限らず夕顔が客を迎える時に使うのは、渡り廊下で他の座敷と隔てられた離れだった。店の玄関からは最も離れているので、俗で雑多な音も聞こえない。庭に面して縁側が設えられ、手入れの行き届いた庭木と、山水画を模して配された庭石が見せる四季折々の気配を、楽しむことが出来た。調度を凝らし、寝具は上質の絹、贅を極めた一室である。一番の色子には大名や大店、脇門跡など、地位も財力も並ならぬ客がつく。彼らを迎えて恥ずかしくない、特別な座敷だった。もちろん他の色子も上客の指名を受ければ使えないことはないのだが、ここ二年ほど、夕顔以外が使うことは滅多となかった。ちなみに鈴若は一度も足を踏み入れたことがない。
それほど広くない小ぢんまりとした店ではあるが、敷地の端から端では焦る気持ちと合わせて、更に遠く感じる。他の色子、店の男衆に出会わないようにと祈るばかりであった。やっと離れへの短い渡り廊下が見えた時、鈴若は心底安堵した。
「そら、こっからは一人で行きな。俺は戻るから」
鈴若がそう言うと、夕顔の瞳が見る間に潤んだ。
「兄さ、あのお客のところに戻ってしまうん?」
「あたりまえだろう? お客は朝までってことで大枚を払っているんだから」
夕顔は鈴若の着物の袖をギュッと掴んだ。
「いやや、戻らんとって、戻らんとって」
鈴若は慌てて夕顔の口を押さえた。声が高くなると周りに聞こえる。どんな些細な声も、この静けさの中では響いてしまう。
「何、聞き分けのねぇこと言ってんだ。十五にもなってガキだな、まったく」
声音を一層潜めて鈴若は夕顔を諭しにかかった。夕顔は鈴若の袖口を掴んだまま、小さく、途切れなく首を振った。ようやっと乾いた頬を、またも涙が伝って濡らす。
「兄さが他の男はんとお床入りするの、嫌や。我慢出来へんのです。胸が苦しゅうなって、お勤めに身がはいらへんようになってしまう」
普段は聞き分けが良く、「お客第一」の教えを忠実に守って勤めに励んでいる夕顔とは、別人のようであった。
慕ってくれているのは知っていたが、こんな所業に出るほどに思いつめているようとは。これは非常にまずい。
色子同士で情を通じることは禁じられていた。色子の中には勤めとの線引きが出来ず、客に身体を開けなくなる者もいるからだ。夕顔はその類であった。
一途さに絆されてうっかり情を交わし、「客を取りたくない」と言い出されでもしたなら、そしてその理由を上の者に知られようものなら――二人の末路を考えるとそら恐ろしい。
小便くさい最下層の女郎横丁の店に売り飛ばし、下卑た客を日に何人も取らすぞ、人足寄場に無宿人として放り込み、昼は労役、夜は外に出られない人足の慰み者にされるぞと、禁を破ったならどうなるかを見習いの頃から散々に聞かされ脅されてきた。仕込みに入って閨でどのようなことをされるのか身を持って知るようになると、その恐ろしさがいや増し、夜中の寝間で粗相してしまう子供もいる。
知れば上得意が不憫に思って身請けを申し出ることもあるだろうが、たいていは見せしめもあって秘密裏に落とし、客には事後に知らされる。客も決まりには逆らわず、新たな贔屓を作るのだった。つまりはどれほどの売れっ子でも待つのは地獄と言うわけだ。執着のある客が行方を探し出し、その地獄から救った例があったとかなかったとか聞くが、それは夕顔であれば考えられる夢物語でも、鈴若の身には万が一にも起こらないだろう。脅しがどこまで本当のことなのか怪しいが、何らかの仕置きがあるのは確かだった。
心底惚れぬいた相手とのことでそうなるのは受け入れられても、根も葉も無い疑いをかけられて罰を受けるのは困る。夕顔のことは可愛いと思うが、それは弟のようにと言うことで恋情ではないのだから。
末っ子に生まれた鈴若は兄や姉に邪険にされて育った。自分に弟や妹が出来たなら、うんと可愛がってやるのにといつも思っていた。ゆえに他の年長者に比べ、年下の色子に多少は甘く接している節がある。特に夕顔はここに来た当初から面倒を見ていた。夕顔が仕込み係を恐がったので、初期の仕立て――棒薬などを使って菊座を慣らす――を鈴若が一、二度施したこともある。他の色子以上に構っていたかも知れない。それが夕顔に変な期待を抱かせたのか。あるいはここに来た最初から接している鈴若に、孵化した雛のごとく追従し、それを恋慕と強く勘違いしているのか。
「あのな、夕顔、今夜の客はそんなんじゃねぇんだ。朝まで酒に付き合うだけよ。それが証拠にほら、普通の格好をしてっだろう? 床入りしていたように見えるかい?」
嘘ではない。ついさっきには良い雰囲気になったが、それまで向坂は毛ほどもその気を見せなかった。鈴若が一芝居打たなければ、朝まで酒を飲むだけだったろう。これから戻って二人きりになっても、一度冷えてしまった情欲の熱が再び上がるとは限らないのだ。
下手に「勤めだから割り切れ」と叱ったところで、今の夕顔には逆効果だとわかっている。鈴若がこれからまた床入りするのだと知ればますます思い余って、客が寝入っている間に部屋を抜け出す以上のとんでもないことを仕出かしかねなかった。
とにかく宥めて阿波田屋の元に戻さなければ――と思った矢先、離れの灯りがともった。阿波田屋が目を覚ましたと察した。
「夕顔、手洗いに行ったと言うんだぞ。泣きべそのわけを聞かれたら、闇が恐かったとかなんとか誤魔化すんだ。余計なことは言っちゃなんねぇ。俺のためだと思って。いいな、わかったな?」
鈴若は暗闇の中、夕顔の目を見つめて言った。夕顔は一度小さくしゃくり上げて頷く。離れの灯りがついて、正気がもどったらしく、掴んでいた鈴若の着物の袖を離した。夕顔も馬鹿ではない。禁を破った後にはどう言う仕置きが待っているか思い出したことだろう。俯いていた顔を何とか上げて、流すままだった涙を襦袢の袖で拭った。それからそろりそろりと歩き出す。
離れにたどり着き、障子を開ける前に一度鈴若を振り返ったが、こちらの姿は見えないはずだ。鈴若は夕顔からは死角になる位置にいた。夕顔が中に入るのを見届けると、浅く息を吐いて、来た道を戻る。
朝になって客を帰したら、喜助のもとに行かなければならない。今夜のことをきちんと話し、夕顔の世話は今後、別の男衆にさせてくれと頼むつもりだった。黙っていては、どこから誰が何を言うか知れない。
まだ大丈夫だ。鈴若が憚って口を塞いでからは、夕顔は極力、泣き声を抑えたし、離れの灯りを見て自分を取り戻した。綻びが今以上に広がる前に、離れておいた方が良い。
喜助は先代の番頭と違って話のわかる男だった。鈴若がこの店に来た当初は彼もやはり色子だったが、頭の回転が早く算術や商いの才があるのを客が見抜き、それを茶屋主が見込んで番頭の仕事を覚えさせた。少々短気なところはあるが、筋を通せば公正な目で判断してくれる。隠して知れた時の方が、きっと事態は悪くなる。
(それは夜が明けてからとして、とにかく『向坂様』を何とかしないと)
廊下の小窓から月が見えた。部屋で見ていた高さより少し傾いたように見えなくもないが、夜明けにはまだまだ遠そうだ。
こんな時刻に部屋を出た言い訳も兼ねて、鈴若は厨に寄り酒の追加を頼んだ。
部屋に戻ると、向坂は張り出しのところで呑んでいた。着物のどこにも乱れた様子はなく、まるで何事もなかったかのような居住まいである。
せっかくいつもの勤めらしくなりかけたと言うのに、邪魔が入って振り出しに戻ってしまった。見せてはならない色子の現つの部分を晒したのだから、客としては興を削がれたろう。それでなくとも、向坂はもともと房事を楽しみにきたわけではない。また一からその気にさせるのは一苦労だった。鈴若にしても、夕顔の件が尾を引いている。本音は勤めをする気分ではなかった。
浴びるほどに呑んで酔いつぶれてしまいたかったが、朝一番に喜助に話に行く算段をしているのでそれは出来ない。
今夜は最初から勝手が違った。この向坂と言う客が来てからだ。向坂が来なければ、鈴若に客がつくことはなかった。鈴若に男客がつかなければ、夕顔が夜中に客の寝間から抜け出すようなことをしでかすこともなかった。
市井の臣にしてみれば、いや少なくとも鈴若は、時代の変化による不確かな恩恵など求めていなかった。ここの客筋は良い方であったし、多少、嫌な客でも一晩我慢すれば済む。寝食の心配はなく、年季内の給金は微々たるものだったが、客からの心づけがあった。今までのような『お大尽』は心づけも弾んでくれた。
であるのに、どうだ。徳川幕府は倒れ、上客の一翼だった大名は散り散りになってしまった。生臭坊主達も戦々恐々として、以前ほどには訪なわない。商人だってそうだった。これからの行く末がわからず、財布の紐は硬くなる。自然、以前では考えられない身分の客を、破格の値段で招き入れることになる――そう、向坂達のような。
世の中がどうなって行くかわからず、漠然とした不安を誰もが持っていた。それらを見てみぬふりをし、いつも通りに過ごしていた危うい日々に、匕首を突きつけられたような夜。向坂のせいではないだろうが、恨めしく思わずに居られない。
「不細工なところをお見せしちまって、申し訳ありやせんでした。どうかさっきのことは、ご内密に願いやす。熱いの一本、つけてきましたから、やってくんなせぇ。もち、これは手前持ちですから」
盆を向坂の前に置き、銚子の首を摘むと、彼の杯に注いだ。向坂はそれに口をつけた。
「とんだ茶々が入りやしたが…」
鈴若が向坂の組んだ足に手をかける。上目遣いに彼を見るが、案の定、目の中にはもう『色』は残っていない。それでも一旦誘いをかけたからには続きの言葉を言わなければ。
そんな一瞬の躊躇いを読み取ったのか、向坂は鈴若の手首をやんわり掴んで足から外すと、「せんで良か」と言った。
「なぜ? さっきはその気におなりだったでござんしょう?」
鈴若は外された手を、今度は彼の腕に移した。鈴若だってその気は失っている。意地になっているなと思うが、酔いで我を忘れることが無理なら、せめて人肌で忘れたい。これから先の「不安」をかき消すほど、快感に身体を責め苛まれたかった。何も変わっていないのだと、身を持って知りたかった。
こんなにあからさまな誘いをかけるとは、なんたる無様、なんたる無粋。
「さっきはすまなかった」
向坂は鈴若の両肩を掴んで、しな垂れかかる身体を引き剥がした。
「俺は、その方がどんな人間なのか知りたくて相手を頼んだ。話をしてみたかったのだ。ここに来たのは付き合いで、気に入った稚児がいないとでも言って帰るつもりだった。だが店先でその方を見て、気が変わった」
向かい合う形に座り、彼は鈴若を見つめる。
「年少の色子達の世話をするその方から目を離せなかった。なぜかはわからないが、一目惚れと言うやつかも知れんな」
向坂は笑った。
思いがけない向坂の言葉に、鈴若の目が見開く。「一目惚れ」だなどと、色子相手に? 身売りを生業にしている者だとわかりながら、一目惚れしたと言うのか? 何を馬鹿なことを言っているのだ、この田舎侍は。
いや、客はひと時の「恋情」を買いに来るのだ。自分好みの色子を指名すると言うことは、刹那でも心惹かれたからであろう。一目惚れと言えば言える。そして色子はそれに応えて相愛となり成就させるのだ。たとえ仮初めであっても、欲情ありきだとしても。
「だったら」と、尚も押す鈴若に向坂は首を振った。
「まだすべきことが残っている。それゆえ未練を残すようなことはしたくないのだ。たとえ金子の結ぶ縁であっても、身体を繋げば愛おしくなる」
「向坂様」
「心騒ぐ相手なだけに、その方を欲の捌け口にしたくない」
「何を…馬鹿な」
鈴若は向坂が何を言っているのか、理解出来なかった。欲の捌け口となるのが色子。その色子に、それも今夜、初めて会った相手に、まるで本気になったかのような言い草。鈴若は彼を、呆け顔で見つめた。 「男ゆえ、人並みにその手の欲はある。きっと一時の充実を得ることは出来ようが、必ず虚しさが残る。帰りには『また必ず来てくれ』とその方は言うのだろうが、それは本心ではあるまい。そして次に逢うた時には『来てくれて嬉しい』とその口は言う。それもまた本心ではなく、どの客にも同じ事を言うに違いない。それもまた虚しさを煽るだろう。俺は欲深い男なのだ」
鈴若の目をまっすく見据えたままで、ぼそりぼそりと向坂は続ける。名は体を表すと聞いたことがある。向坂は、その名の通り清廉な性質なのだろう。堅気であろうと色ものであろうと、想いを寄せた相手に誠実なのだ。
(莫迦な客だ)
そう思うと同時に、住む世界の違いを思い知る。
成すべき何かは、この変わって行く世の中の為の「何か」なのだろう。命も厭わないほどの覚悟で臨もうとしている「何か」には、鈴若との床入りは未練になると言う。その気持ちをありがたいと感激するには、鈴若はすれ過ぎていた。
そこまで想ってくれているのなら。
「最初の考え通り、お帰りになったら良かったんだ」
そうしたら何事もなかっただろう。いつもの夜だったはずだ。鈴若の指を握りこんだ両の手が、膝の上で震える。
「それが出来ぬから、恋情なのだろう」
鈴若の頬がカッと熱くなった。
「だったら、四の五の言わずに抱けばいい。あんたはさっき、その気になっていたじゃねぇか。その気になって、あっしの口をお吸いなさった。本当はもっと、あっしに触りたいんでしょう? いやさ、触りたいはずだ。どうぞ抱いておくんなせぇ。あんたは金を払ってあっしを買ったんだ。きれいごと並べたってさぁ」
もともと気は長いほうではない。客だと思いこそすれ酔狂にも付き合ってやるが、夕顔の件もあって平常心が保てなくなっている。
その上、惚れたから抱きたくないだの、客と色子の決まり文句は嫌だの言われて、鈴若は頭が沸騰しそうだった。客を放り出して会いに来た夕顔のことを叱れた立場ではない。今の鈴若は、あと一つ箍が外れたなら向坂に杯を投げかねない心境であった。現に向坂の袷に胸倉を掴む一歩手前で鈴若の手がかけられ、握り締められていた。
(なんで、俺がこんな惨めな思いをしなきゃなんねぇんだ)
向坂から純な心を見せられて、自分がひどく汚れているように思えた。年季が明けたらここを出て足を洗うつもりでも、卑しいと感じたことはただの一度もなかったのに。
些細なことで次から次、望みもしないのに変わって行く。鈴若はこぶしを解き、向坂から離れた。そして顔を背ける。背けた先にあった杯に手を伸ばし、一口ほどにも残っていない酒を煽った。
その時――大きな手に肩が掴まれ、身体が後ろに傾ぐ。倒れそうになったが、倒れなかった。引き寄せられ、鈴若の身体はすっぽりと向坂の胸の中に収まった。
宥めるように背後から抱き込まれ、次にはきつく抱きしめられた。向坂の唇が耳のすぐ側にあった。
息が動く。
「わかった。抱こう」
低い声が静かに響き、鈴若の身体が畳の上にゆっくり横たえられた。
あるいは、鈴若の姿は必死の様相を呈していたかも知れない。金を払う客と身体を繋げることで、変わっていないことを実感したかった。変わろうとする日々が急いで先へ進み、遠のいて行くことを引き止めたかった。そんな鈴若の心情を見抜き、向坂は哀れに思ったのだろうか。見下ろす彼の表情は、頼りない行灯の光が届かず、はきとはわからない。
鈴若の額にかかった髪を向坂がすき上げる。それを合図のようにして、二人の身体はようやく重なった。
背から温もりが離れ、続いて衣擦れの音が聞こえた。鈴若は薄らと目を開けて、音の方を見やる。明け初めのぼやけた光の中で、向坂が身支度をしていた。
ひと時、眠ってしまったこと、そして客よりも遅く目覚めたことは、鈴若自身を驚かせた。今までかつてなかったことだ。
慌てて身体を起こそうとして、その重さに驚く。ありとあらゆる関節が動くことを拒んでいた。もちろん、そのわけを鈴若は知っている。
若くたくましい向坂との閨事は荒々しかった。彼の腕の中で、鈴若はさしずめ、嵐の海に漕ぎ出した小船のようであった。何度も『波』に呑まれて自分を見失いそうになるのを、その都度、向坂の大きな手によって引き戻される。色子として培った手管で客を悦ばせるどころか、素のままの反応で応えてしまった。
空事ではない声は抑えても抑えきれないことを、忘れていた身体は思い出した。しかし鈴若は翻弄されて乱れることを拒まず、むしろその荒々しさに縋ってさえいたのだ。彼が与えてくれる快感に溺れきってしまいたいと。そしてついには望んだ通りになり、鈴若は正気を手放したのだった。
畳の上で始めたはずなのに、いつの間にか寝間に移っている。客用の布団の柔らかさが心地よく、再び眠りの淵へと鈴若を誘うが、何とか持ちこたえて身体を起こした。
「もうちっと寝ていろ。送らんで良か」
鈴若が目覚めたことに気づき、向坂が振り返った。場都の悪さを隠し、鈴若は布団の上にあぐらを組んだ。素っ裸であったが、構わなかった。恥じらいを見せるほど初心じゃない。喜ぶ客もいるから振りをすることはあるが、向坂のために演じてやる気持ちはさらさらなかった。
そんな鈴若の心内を見透かすように向坂が笑んだ。それがまたカチンと来る。
「誰が送るもんか」
鈴若がそう言うと、向坂は声をもらして笑った。
彼は床の間の刀かけに近寄り、刀を手に取り振り返った。
「名は、何と言うのだ?」
(またそれを聞くのか)
鈴若は無視しようとしてやめた。どうせ今日かぎりだ。次に自分を指してくれても断るつもりだった。今生の別れに教えてやろうと気を変えたのだ。
「『キリヤ』。ピンからキリまでのキリ。『ガキを作るんは、もうこれきりや』のキリヤでさぁ」
(そしてあんたと会うのもこれっきりだ)
さぞかし自分は皮肉めいた顔をしているだろうと鈴若は思った。客にこんな態度をとっていることを喜助に知られたら、きつく叱られるに決まっていたが気にしない。向坂の機嫌を損ねたところで、どうだと言うのだ。
しかし向坂は気づかないのか、それとも無視しているのか、「どんな字を書くのだ?」とまた尋ねた。
「水のみ百姓にそんな学、あるわけねぇ」
鈴若は前髪をかき上げながら答える。
向坂は手にした刀を畳の上に置き、腰から矢立(携帯用筆記用具)を抜いた。袂から多少皴の寄った懐紙を取り出すと、さらさらと何やら綴り、それを鈴若に渡す。
懐紙には『桐哉』と書かれていた。
「これでん、『これっきりのキリヤ』とは言えん」
そう言うと今度こそ刀を取って腰に差した。
少し屈んで布団の上に座る鈴若の片頬に、手を伸ばしてそっと触れる。
「またいつか、会えるといいが」
懐紙に目を落としていた鈴若は顔を上げ、その手を突っぱねた。
「もう来んな、この唐変木」
鈴若の膠も無い物言いに、向坂は一瞬目を見開いた後、吹き出して笑った。そして初めて聞く大らかな声を残して、部屋を出て行った。
慶応四年五月十五日、江戸上野に於いて旧幕府軍と新政府軍の間で戦闘が勃発する。世に言う『上野戦争』である。
戦闘はわずか一日で新政府軍の勝利に終わった。江戸から旧幕強硬派の姿は消えたが、戦いの場は北へ北へ、会津から東北諸国、蝦夷地の箱館に及ぶ。そうしてその年の一月から鳥羽・伏見の地で始まった一連の戊辰戦争は、翌年の六月にようやく終結することになる。年号は明治に変わっていた。
鈴若が勤めていた門前町の陰間茶屋は、上野戦争の後、間もなくして閉められた。最大の贔屓筋である寺院仏閣がその戦闘の際に焼き討ちに遭い焼失。加えて武家も商家も新しい時代の幕開けに生き残ることで忙しく、客足がめっきり遠のいたからだった。
年季内の色子達は二束三文に近い値での身請けや、衆道宿等に転売されて行った。さすがに一の売れっ子である夕顔は、阿波田屋に大枚で請け出されたが、それが「羨ましい」だの「果報者」だのと言えるのかどうなのか。
陰間の旬は短かった。豪勢な相手に請け出されたところで、女であれば子を成すことによって立場も保てようが、男の陰間には出来るはずもない。容色の衰えは避けられず、そうなればもうたちまちにお払い箱となってしまうのだった。たいていの場合、行く末は元の商売――つまりは売色の世界に戻って行く。しかし旬も過ぎ、所謂年増の域に入ってしまっては、売れない色子よりも惨めな境遇が待っていた。
ゆえに鈴若は、大店に請け出されて行く夕顔との最後の会話で、可愛がってもらえる間に今まで習い覚えた三味線や謡、和歌などは続けさせてもらい、後々身を落とさずに済むように精進しろと言いそえた。夕顔は涙を溢れさせて何度も頷いたが、どこまでわかっていただろうか。
さて鈴若はと言えば、年季明け間近だったこともあり、晴れて貸し借りなしのお役御免となった。店じまいの後片付けをする喜助達の手伝いに残り、店の最後を見届けた。
喜助は才を買われて吉原のお店に小番頭として雇われることが決まっていた。「口ぞえしてやるから一緒に来るか」と言ってくれたのを、鈴若は断った。ずっと色の世界で生きてきたから、そこから抜け出したかったのだ。
堅気の仕事を探すのは難儀したが、どうにか品川宿の旅籠『丸川』で下男の口を見つけることが出来た。結局は同じ客商売と言うことになる。ただ『丸川』は普通の旅籠であったし、下働きとして雇われたため客との直接の接触はなかった。
新入りで手に職があるわけでもないので、雑用事は何でも回ってくる。鈴若も三味線は出来た。その腕を披露すれば少しはましな給金ももらえることはわかっていたが、読み書き以外の出来ることは言わずにおいた。言えば客の前に出なければならない。どこで習い覚えたのかを聞かれもするだろう。そうなれば元の素性が知れることになる。知られてもかまわないが、世の中には物好きがいる。変な目で常に見られ、「商売にしていたのだから」と納戸や座敷に引きずり込まれるのは御免だった。
額に汗して働くことは最初こそ辛かったが、慣れれば大したことはなかった。前職とは違って妙な疲れが翌日に残らず、飯も都度、美味かった。肉がつかない質なのか、背ばかり伸びた貧弱な身体付きは変わらなかったが、陰間茶屋では出ていたであろう一種独特の色気はすっかりなりを潜め、どこから見ても、誰から見ても、宿屋の下男だった。
『丸川』で働き始めてから八月、その日鈴若は注文しておいた迎え菓子を取りに、本宿界隈の和菓子屋へ使いに出された。
店先に今日配られたと思しき号外が置かれている。菓子を待つ間、鈴若はそれに目を通した。五稜郭が落ち、戊辰戦争最後の戦いである箱館戦争が終わったことを知らせる記事だ。徳川の世は一年も前に終わっている。それでもまだ戦っていた人間がいたのだなと、鈴若は感慨深かった。
記事の中に「薩摩」の字を見つける。
(そう言えば、あの侍、どうしているのやら。まだ侍をやってんのかな。今じゃ侍って言わないか)
ふと、向坂と言う侍のことを思い出した。一年ほど前、鈴若がまだ陰間茶屋勤めだった頃に出会った客。江戸入城の折、進攻してきた薩摩藩の侍だ
『またいつか、会えるといいが』
『もう来んな、この唐変木』
鈴若の捨て台詞通り、向坂は二度と来なかった。もっとも、あれからすぐに茶屋は閉店の憂き目にあったわけだが。
思えば向坂が客として訪れて以降、鈴若の周辺は激変した。年季が明ければ店を出るつもりではいたが、よもや店自体が無くなるとは思わなかったし、一年後に堅気の仕事に就いている姿は想像しなかった。
あの男は、鈴若に時代の終わりを告げに来た人ならぬ『人』だったのかも知れない。
鈴若にとっては彼が最後の客となった。しばらく向坂の手の感触が忘れられなかったが、それもいつしか生活に追われる中で失せていた。しかし新政府軍と旧幕府軍の間で起こる小競り合いの話が出るたび、なぜか彼のことを思い出す。たった一晩の、一見の客だったにもかかわらず、鈴若の中に存在を強く印象つけて行ったことは否定出来ない。
あのまま侍を続けているのだとしたら、上野戦争や会津や蝦夷に出兵しただろうか。「すべきこと」があると言っていたが、それは果たされただろうか。
(生きてんのかな)
鈴若は今、本名の『キリヤ』の名で働いていた。字は向坂がつけてくれた『桐哉』を使っている。字をもらってすぐに、懇意にしていた寺子屋の師匠に意味を聞いてみた。
「桐は古来から尊く清浄だとして好まれている木だ。ほら、名高い武家の家紋にもなっていよう? 『哉』は感心した時などに使われる字であるから、すなわちおまえのことを『尊い』と名づけているわけだ。両親に良い名をつけてもらったな」
あれだけ嫌っていた名だが、それを聞いて堅気になったら名乗る気になった。どうせ『鈴若』などと言う、いかにもな名は使えないと思っていたから、ちょうど良かった。そこのところは、向坂に感謝している。
「お待ちどう。ああ、それ、持って帰っていいよ。いよいよ『徳川は遠くなりにけり』だねぇ」
「本当に」
懐に号外を仕舞い菓子を受け取ると、鈴若、もとい桐哉は店を出た。
戊辰戦争さえも、庶民にとっては遠くになりにけりだった。一年以上前の江戸開城の折もそうだったが、火の粉が自分に降りかからないかぎり、今日の天気ほどには関心はない。
(いい天気だなぁ。明日の休み、晴れたら良いけど)
桐哉の休みはここのところ雨にたたられている。雨降りだとどこにも出かける気になれないから、損をした気分になった。季節は梅雨の最中。一昨日、昨日、今日と梅雨の中休みの晴天が続いているので、明日あたりは怪しかった。『丸川』に帰ったら、天気を読むのが得意な仲居に聞いてみようと思った。
「ちっと尋ねるが、『丸川』と言う旅籠へは、いけん行ったらよかかな」
歩きだそうとした時、後ろから声をかけられた。懐かしい薩摩訛りだ。
「ああ、それなら」
今から帰るところだから一緒に…と続けようとして、言葉が途切れる。
男が立っていた――総髪と散切り頭の違いはある。眼光もあれほどの鋭さは消えていた。しかし見覚えある面差しだった。
「あんたは」
「来るなち言われたが」
低く響く、耳に心地よい声。忘れてはいたが、思い出せないわけではない。
「向坂…様」
「『様』はよしてくれ」
向坂はそう言うと微笑んだ。
madrigale=世俗歌曲