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Calamity Children  作者: 輝血鬼灯
Calamity Children
1/11

夜語り 【前編】

 闇は深く舞い降りて、木々の狭間で静謐と変わっていた。空と地を分ける境界線も、夜と言うこの時間の間はその身を休めている。世界は天も地もなく、等しく黒に塗りつぶされていた。今宵は朔月。星の影もない。

 濃い緑の葉もすべて黒々と塗りつぶされた夜陰の中、夜行性の動物たちの息づかいは慎ましく潜められている。時折どこからか、獲物を捕食する梟の羽ばたきが微かに聞こえて来た。唯一騒がしい虫たちの気配の向こうには、それ以外何もない。

 ――否、何かはあった。あったというよりも、今ようやくやってきたようだ。

 鬱蒼とした茂みの向こうから、白っぽい姿が覗く。体の部分は闇に紛れる濃い色の服を着ているようだが、顔と髪の色の色素が薄くて目立つのだ。一見すれば幽鬼のようにも見えたが、気配は紛れもなく生身の生き物のものだ。だから彼は、躊躇わずに声をあげる。

「誰だ」

 一人旅では用心などいくらしすぎてもしすぎることはない。短い旅の間ですらそれをよく知っていたファタルは、手元に引き寄せた短剣をひっそりと抜きながら誰何した。

「旅の者です――火に、当たらせてはもらえませんでしょうか。火打石を失くして困っていたところに、こちらから灯りが見えたもので。もしも火種を分けていただけるのであれば、すぐに立ち去りますから」

 滑らかに紡がれた声は、困っていると言う割には落ち着いていた。現れた顔とその声音から確信できたことに、ファタルのもとへとやってきたのはまだ年若い少年だった。十三、四歳と言ったところか。

 周囲を伺う限り他に人影はなく、少年もまた一人のようだった。仲間が茂みに潜んでいるようでもないし、何より少年の身なりから察するに、追剥の類ではなさそうだ。

 ファタルはしばし逡巡した後に、少年に向けて軽く顎を引き頷いた。

「……かまわない。どうやら、そちらにも事情がありそうだしな」

「ありがとうございます」

 少年はほっとした様子で、ファタルが手で示した丸太の上に腰を下ろした。その様子には、歩きづめで疲労した者が休む場所を見つけた時特有の安堵がある。

 こんな夜分に明かりも持たず、簡素だが上質な衣装を身につけて深い森の中。少年の姿は限りなく不審であったが、ファタルは結局のところ彼の頼みを断ることはできなかった。この少年が真実困窮している人間であるならば見捨てるのは後味が悪いし、そうでない――憐れさを装って獲物に近づく魔性の類である――ならば、決してそういった存在にファタルが害されることはない。

 人に嫌われるという体験は祖国でこれ以上ないほどに経験したのだ。たまには人に恩を売って感謝されたり、良い人だと好意的な眼差しで見られるような行動をしてみたくなるものである。それでもやってきた相手があからさまに胡散臭げな風体の大男だったならば考えただろうが、今ファタルに頼ってきたのは、年端もいかない可憐な少年なのだ。

 ファタルは一瞬焚き火の具合を見た眼差しを、再び少年に向ける。こちらを見つめていた彼と目が合った。

 間近で炎の明かりを頼りに見てみれば、少年は本当に綺麗な顔立ちをしていた。線が細く、微かに憂いを帯びた目元をしている。焚き火の照り返しで赤く染まる髪は、日の下ではきらきらと光を放つのだろう見事な銀髪だ。瞳の色は、たぶん緑。衣装は若干ラフだがどこか貴族的な雰囲気のする暗い色の上下で、シャツの襟元に結ばれたリボンが彼の少女めいた美貌を引きたてていた。

「君は……一人かい?」

「ええ」

 ファタルの問いかけに、少年は穏やかに頷く。

「夕食は?」

「もう、食べました」

 お気づかいなく、と告げるその言葉に、ファタルは違和感を覚える。ファタルの目から見れば、少年は巧妙に隠しているようだが腹を空かしているように見えたからだ。しかし謙虚な旅人の遠慮という本人がどうであれいささかわざとらしく見える辞退の台詞というようなものでもなく、少年は本当にファタルから食料を恵んでもらおうと考えてはいない様子だった。ならば、とファタルは少年を放っておくことにした。これから自身も食事を始めるならば一緒にどうですかと誘いやすいが、生憎とファタル自身は夕食を済ませている。

「ああ、その前に、これを聞くべきだった。私はファタル。ファルディランタル。――君の名前は?」

「ソーン」

「ソーン、か」

 囁くように零された名前を、ファタルは口の中で転がすように鸚鵡返しに呟く。同じようにファタルの本名を口にしようとした少年が、舌をもつれさせているのが見えた。

「ファルディ……」

「ファタルでいいよ。呼びにくいだろう?」

「すみません、ファタルさん」

 ソーン少年は綺麗に整った面をすまなさそうに歪めて謝罪した。ファタルとしては彼の態度はファタルの本名を聞いた人々にありがちなものだったのでまったく気にしていないのだが、少年自身は相手の名前を呼べなかったことに罪悪感を抱いているようだ。

 それよりも、とファタルは声をかけた。

「何か話をしないかい? 沈黙の静寂というのは、一人旅でならいざ知らず二人になると途端に気づまりになるものだ」

「話……」

 ソーンは戸惑ったようだった。ファタルは彼のそんな反応を予想していたため、先陣切って自ら口を開いた。

「とは言ってもいきなりじゃ当然難しいだろう。だからここは私が一つ、物語でもさせてもらおうか。何せそれが本職なのでね」

「本職?」

 きょとんとした顔を見せるソーンの目に入るよう、ファタルは自分の体の脇に置いてあった竪琴を指し示す。

「これだよ」

「あなたは……吟遊詩人なんですか?」

「正解だ。歌に命をかけるほどの真面目な熱血詩人ではないが、どうやって食い扶持を稼ぐかと問われればこれだね。でも生憎と、今は竪琴を弾く気分じゃなくて悪いね」

「……いいですよ。僕も、あなたの竪琴に金を払えるほど、今は余裕がないので」

 ソーンの返答は、素っ気ないとも言える言葉だった。この少年は人との付き合い方を上手くは知らないものと見え、相手の様子を気にかけながらも、なかなか気の利いた言葉は選びとれないようだ。今もそっとファタルの顔から視線をそらしながら言う。

「代わりに今は、むしょうに語りたい気分なんだ。付き合ってくれるかい?」

「――いいですよ」

 先程と同じ言葉を返しながらも、今度はソーンの視線は物語を紡ぎだそうとするファタルの顔にまっすぐ向けられた。ファタルはそれを受けて、薄く笑みを浮かべる。

 この一晩を何事もなく無事に過ぎれば、明日にはさよならと手を振って別れる相手だ。相手の素性を根掘り葉掘り聞き出して酒の肴にしたところで、二度と会わなければ三日もすれば忘れてしまう。向かう方角が同じならば意気投合してこのまま次の街まで共に旅を、というやりとりも世にはありえるだろうが、生憎と目の前の少年の態度に人肌を切望するような必死さはない。それはファタルも同じことで、眠りにつくまでのほんの僅かな間の時間潰しとして、相手の身分を詮索するのではなく、物語という手段を選んだ。

 語り。物語。

 便利な言葉だ。“これは物語なんだよ”と前置きしておけば、何を言ったところで話者が咎めたてられるところではない。そうして作中の人々の苦痛も悲しみも、いかに現実めいて聞こえたところで、聴衆にそれを解決する義務を負わせるべきものとはなりえない。

 気楽な語り、何の意味もない物語。多くの物語がそうであるように、紐解く者が現れねば、ただ時の流れに風化して忘れ去られていくだけだろう、ただの唯一の物語。どんな幸せなお伽噺も、残酷な悲劇も、いつかは必ず失われる。人の命と同じように。人が生み出す物語もまた。

 ぱちりと音を立てて弾けた薪が炎の中で崩れ落ちるのを合図に、ファタルは語り始めた。


 ◆◆◆◆◆


 やれ飽くなき人の欲望というものは、本当に恐ろしいものだ。これ以上は果てがないという境界線に至っても、その境界線すらきりきりと削り取って領域を広げてしまう。越えてはいけない一歩だろうと、禁忌を禁忌と知りつつ人はたやすく足元に引かれた線をまたぎ越えてしまうのだ。動的な作業はもちろん、物体が静止し続けるのにもエネルギーは必要だが、人は前者を意識する割に後者を忘れやすい。どんな神の御業も救えはしないこの愚かさよ。

 さて、物語を始めようか。舞台はとある小さな王国。かつては神の託宣を受けて導かれた大国だったが、神を失ったその果てに昔日の面影もない滅亡寸前の国家となった。それでも王がいて、民がいて、王が民を治めているのであれば王国と称するべきだろう。誰もが細々と自分たちの生活を営むだけで精一杯の小さな王国で、事件は起こった。

 その事件について語る前に、まずは王国の事情について補足しておかねばならないだろう。その王国の王家の人間たちについてだが、彼らは呪われていた。何故って、それは彼らが罪を犯したからだ。彼らは親を殺し兄弟を殺し我が子を殺した。夫を殺し妻を殺し舅を殺し姑を殺した。叔父叔母を殺し甥姪を殺し従兄弟同士で殺し合った。

 かつての大国の王家の末裔は残り少ない栄華を手にせんとすべく、血族同士で殺し合ったのだ。富と権力を巡って争い続けた王家の人間の様子を見かねて、神は王国を呪った。王家の人間がこの先永劫生まれ変わることのないように、不老不死という呪いをかけたのだ。それ以来、王家の人間は死ぬこともできず、また生まれ変わることもない。

 血族で殺し合うことを当然としていた王家の人間たちは、不老不死の呪いをかけられて困った。どんなに憎い相手、政敵や恨み妬みを向ける相手を殺そうと、彼らは何度でも蘇る。柔らかい腹部をめった刺しにする憎しみも笑いながら相手の皿に毒を盛る野心も決して減りはしないのに、相手は殺しても殺しても蘇ってしまうのだ。王家の血族は、皆がその苦しみに巻き込まれた。だが彼らの最も愚かなところは、それでも憎しみを捨てきれなかったところだろう。

 死なないのであれば仕方がないと、血で血を洗う謀略自体は減ったが、それで関係が改善するはずもない。むしろその王家では、相手を殺せないからこそなお憎しみが募っていった。殺したいほどに憎いが愛してもいた家族、などという幻想はもはや存在せず、永劫の時眺め続けた家族の顔を、ただ目障りな相手としか認識できなくなったのだ。

 それでも彼らは王族だった。国を維持するために、彼らはかけられた呪いを除けば表面上は常通りに振る舞った。呪いのせいでますます他国から遠ざかり、国の貴族たちも政略とはいえ王族との婚姻を望まず、死なない王族たちは何百年も変わらぬ顔ぶれを眺めながら、果てない憎しみを繰り返した。

 その連鎖を歪ませたのは、二人の兄妹だった。


 ◆◆◆◆◆


 ぱちり、とまた薪が爆ぜた。炎の中でからりと音を立てて黒い墨が崩れていく。

「それで、その兄妹が何をしたっていうんです?」

 静かに話を聞いていたソーンが、社交辞令代わりか続きを促した。乾いた枝を舐める炎に新たな餌となる薪をやりながら、ファタルは言う。

「二人はね、子を成したんだよ」

「それのどこがおかしいんですか?」

 ソーンの顔ではなく、薪を燃やす炎の紅を眺めながらファタルは告げた。

「彼らは実の兄と妹でありながら、お互いの間に子を作ったんだよ。妹が兄の子を産んだんだ」

 銀髪の少年は今度こそ息を呑んだ。事の重大さがようやく彼にも呑み込めたのだ。

「兄妹で……」

 それは禁忌だ。この世界の人の社会において赦されざる禁忌。そして血族同士殺し合うのが当然だった国においては、極めて異例の事態。

 言葉を失うソーンにちらりと一瞥を向け、ファタルは物語の続きを口にする。

「殺し合い、憎み合うのが当たり前だったその国において、彼ら二人に一体何が起きたのだろうか。兄と妹が肌を重ねたのは、愛情からか、それとも何らかの思惑からか。しかし今ではそれを知る者はどこにもいない。――二人ともいなくなってしまったからだ」

「え?」

「不老不死の王国では、もちろん王族である母親が産褥で死ぬということはありえない。だが彼女は姿を消した。それと同時に、父親である兄もいずこかへと消え去った。そして王家には、禁忌の結晶とも言うべき、近親相姦の子だけが残された」


 ◆◆◆◆◆


 目の前にいない相手が何を考えているのかなどわかるものではない。――目の前にいる相手の考えていることすらわからないのに。

 華やかな虚飾に彩られし伏魔殿。王宮なんてものはどこでもそう変わりはないのかもしれないし、なまじ自分がその裏側を知っているからと言って祖国がこの世で一番陰惨だなどと思うのは間違いだ。けれどそれらの過剰すぎる装飾語を抜かせば、あそこは確かに陰惨な、伏魔殿には違いない。

 永遠に死ぬことのない王のもとで、永く王子と呼ばれ続けた男は実妹に子を産ませるという罪を犯したあと姿を消した。残された子ども――男子だったが――はやはり呪われた王家の一員らしく殺すことができなかったために、仕方なく王宮でそのまま育てられていた。

 呪われた国でも更に忌わしい禁忌の子たる王子は疎まれ、周囲からの悪意を常に感じて育った。何度も何度も彼を殺そうという試みはなされていた。火に投げ込まれ心臓を抉られ水の中に沈められた嬰児の頃の記憶が残っているというわけではなかったが、王子は自分がこの国で最も忌わしい存在なのだと知っていた。人々が自分を見る目には、鋭い氷の針のような思いが混じっていてその身を傷付ける。血塗られし王国の最も呪われた血脈の申し子が彼だった。

 彼を産んだ母親と、妹に息子を産ませた父親の方は杳として行方が知れないままだった。二人が愛し合っていて一緒にいるのか、それとも二人ばらばらに国から逃げたのかは定かではない。彼らが相愛であったならばその想いの結晶たる息子を置いていくのはおかしいし、憎み合っていたとしても国から姿を消す理由までは誰も何もわからなかった。

 不老不死の呪いにかけられた二人が死んでいないことだけは確かだったが、それ故に謎は深まるばかりだ。どこに行っても歳を重ねることなき不老不死の王子と王女だ。市井の暮らしに交じるだけでも一苦労なのに、その上国外では魔性として追われる危険のある道を、彼らは本当に選んだのだろうか。

 その末路を特に知りたいと切望したのは他でもない彼らの息子である王子だったが、しかし誰もその答を与えてはくれなかった。誰も知りようがないことは答えようがないのだ。王子が見たこともない両親の顔を思い描けはしないように。

 王子の両親への想いは、日に日に募っていく。それは愛情か、憎悪か。王子自身もそれがわからなかったに違いない。彼は両親から与えられるべき愛情というものを受け取っていないのだから。他の者たちが彼に向ける視線はどこか余所余所しくあるいは冷たく、王子はある一定の方向の感情に飢えることはあっても、決して満たされることはない。

 そしてある日王子は、一つの重大な決心をした。

 彼自身も、国の外へ旅に出ることを。


 ◆◆◆◆◆


「それで」

 と、銀髪の少年は尋ねる。

「続きはどうなったんですか?」

「物語はここで終わりだよ。呪われた王子が、国の外へ出るまで」

 ファタルが言うと、ソーンは拗ねたように唇を尖らせた。微かな仕草にも炎に照らされてできた影は形を変え、少年の不機嫌を伝えて来る。

「肝心なところがないじゃないですか。この物語の主人公は、その異端の王子なんでしょう?」

「どうしてそう思うんだい?」

「え? だって……」

「私は何も言っていないよ。誰が主役だとも、誰が脇役だとも。……そうだな、強いて言えば、私が思うにこの話の主役は王国そのものだよ。決して救われない病にかかった血族殺しの王国だ。だけど君が忌子の王子を主人公だと思うのならば、それも間違いではないよ」

「忌子」

 ファタルの発言のある一語だけをぽつりと繰り返しソーンは呟いた。

「物語は物語である以上、語り手のものであると同時に、聞き手のものである。例えば私が主役として話した人物が君にとっては脇役に過ぎないと感じられるのであれば、それもまた一つの真実だろう」

 語り手と聞き手がそれぞれ別の人間である以上、同じ言葉で紡がれた物語の印象にも往々にして差異は生まれるものである。それは一人の人間に対する評価が、人によって変わるように当然のことだった。つまり、必ず誰からも好かれる人間などどこにもいないということだ。

 裏を返せば誰からも嫌われて誰にも愛されない人間もまたいないということになるが、それが誰かにとって救いになるのかどうかは、まだファタルは知らない。わからない。

 今この場で彼に出来るのはただ、焚き火の向こうに座る少年に、呪われた国にまつわる話をすることだけだった。

「私の語った物語を、君は好きなように解釈すればいい。けれど余談として付け加えさせてもらうのであれば、人が感情移入する物語の登場人物は、大概その聞き手自身と共通点のある人物だね」

「共通点?」

「そう、似たような年齢、似たような思考、あるいは――似たような境遇。君が呪われた王子に何かを感じたのであれば、それは君もまた何かに呪われているということなのかもしれないね」

「僕が?」 

 ソーンがぱちぱちと大きな翡翠色の瞳を瞠った。銀色の睫毛が零れる雪のように煌めく。

「……大変興味深い御説ですね。あなたの話は、退屈しのぎになりました」

 少年の唇が吊りあがり、笑みの形を作る。瞬間、ファタルは背筋にぞくりと寒気が走るのを感じた。焚き火の暖かな炎がこんなにも近いというのに、氷の指で撫でられたかのような強烈な冷たさが彼を襲う。

 ファタルは手元の竪琴を引き寄せた。それは剣や鎧のように敵から身を守るようなものには決してならないが、不安な夜にはいつもこの竪琴を爪弾くことによって寂寥や苛立ちを癒して来たファタルにとっては、何者にも代えがたい財産であり、武器であり、またお守りであったのだ。

 それと同時に、ファタルは油断なく目の前の少年を凝視した。先程感じた寒気の正体を、彼は漠然と殺気だと予想した。それを放ったのが目の前にいる華奢で可憐な少年だというのは俄かに納得しがたい話だったが、この場には自分たち二人以外の誰も存在しない。

 少年の薄紅色の唇が、ファタルの緊張を意に介さず滑らかに言葉を紡ぐ。話を聞いていた間は短く単語を復唱するだけのような相槌ばかりに留まったソーンの言葉は、いまや彼の意志を一分のずれもなく伝えていた。

「面白い話をしていただいた御礼に、僕もあなたに一つ、物語を披露いたしましょう。吟遊詩人殿の見識如何によってはすでに聞き古した話もあるかと思いますが、全てを語り終えたその総体はきっとあなたの知らざる物語となることでしょう」

「なるほど、それは楽しみだ」

 ファタルは竪琴を引き寄せたまま、ソーンの言葉の続きを待った。少年の語る“物語”は、ファタル自身が語った時に比べて装飾語も抒情的な表現も最小限に抑えられ、ただ事実を述べたかのような簡素な散文に過ぎなかった。

 しかしソーンの言った通り、確かにその内容自体はこれまでファタルがまったく聞いたことのない物語だったのだ。

「あるところに吸血鬼の集落がありました。吸血鬼とはその名の通り、人の血を吸う魔性のことです。魔性とはかつて破壊神によって滅ぼされた創造の魔術師・辰砂の体から零れ落ちた魔力から生まれた異形の化け物のこと。吸血鬼はその異形の魔性の一種族です。ところがその吸血鬼の集落には、魔性と呼ばれる生き物が本来誰でも持ち合わせているはずの魔力を持っていない、できそこないの子どもがおりました」

 すらすらと語られる言葉の端々に棘が潜む。

「魔力を持たない魔性は“忌子”と呼ばれます。そのできそこないの子どもは、集落の他の吸血鬼たちのようには魔術が使えませんでした。そのために彼はまだ幼いうちに、集落を仲間たちから追い出されたのです」

「それは酷いね」

 思わず、ファタルは相槌を打った。彼が“知っている”呪われた王子は、少なくとも自国を追われてはいなかった。勝手に自分から国を出て来たが、誰かに邪魔者として追いやられたわけではない。もっとも、それ以前に存在自体を認められず闇に葬られようとしていたわけだが、結果的に生きているのだからそれは大した問題ではないのだろうとファタルは考えている。

「お話はここでおしまいです」

「私の立場からは、その子どもはどうなったのと尋ねたいにくいね。ついさっき王子の行く末についてお茶を濁した者からすると」

「そのまま世界を宛て所なく放浪しているだけでしょう。別に、あなたの物語と違ってこの話はその子どもが主人公ですから、尋ねてくれたってかまいませんよ」

「お気づかいありがとう」

「いいえ。礼には及びません」

 ぱちり、と三たび薪が爆ぜる。ファタルは銀髪の少年の一挙一動から目を離さなかった。ソーンから発せられた殺気は話の間揺らめきながらも、決して弱まってはいない。丸腰の華奢な少年が、どうしてこんなにも苛烈な殺気を放てるのだろうか。

 そして彼は仕掛けてくる。

「――冥土の土産には、これでもまだ足りないくらいでしょうから」

 十分に警戒をしていたはずなのに、ファタルは咄嗟に動けなかった。ソーンの動きは目にも止まらぬ速さであった。白く細い指先が万力のような力で彼の腕を掴むと地面に押し付ける。はずみでファタルの手から竪琴が零れ、茂みの向こうまで派手な音を立てて転がった。

 フッと音もなく焚き火の炎が消え、辺りが真の暗闇に包まれる。その中で仰ぎ見る少年の白い顔だけが、幽鬼のように浮かび上がっていた。しかし先程まで焚き火に当たっていたためか熱を持った柔らかい指先が、逃げようもなくしっかりと実体を伴ってファタルを捕まえている。

 ソーンの動作は人族というよりも、まるで獣のようだった。

「後悔をするならば、己の浅慮と人の好さに。こんな闇夜にうろつくモノが、まともな生き物であるわけないでしょう」

 淡々と紡ぐ少年の唇からは、白く尖った牙が覗いている。ああそうか、決して上等の語り手とは呼べない少年が意外にも滑らかに紡いだ、先程の“お話”に出て来た“忌子”は。

「さようなら。親切な語り部さん」

 ファタルの首筋にソーンの鋭い牙が食い込む。痛みと共に濡れていく首の感触、錆び着いた鉄のような生臭いお馴染みの匂いと共に、急激に体温が下がっていく。噛みちぎられた肉から溢れ出る紅い血。

 喉首を食い破られた哀れな獲物は、悲鳴をあげることすらできなかった。

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