#さいごの、さん
目の前に、ことん、とコーヒーが置かれて、我に返った。
そして自分も悠々とソファに座ってマグカップを口元に運ぶ先生。
「…………」
白昼夢、じゃないよね。さっきのアレは現実だ。だってあたし原稿手に持ったまま。
「現実逃避はそれぐらいにしてください」
……ああ。どうせなら頭真っ白になったままフェードアウトしたかったな。無理か。
「逃避っつーかですね。思いもよらないこといきなり言われて、思考が追いつきません」
原稿読んで、この主人公があまりにも自分に似ているからびっくりした。主人公の行動を予測して外さないくらいに、自分の思考回路と重なる。
「んでもあたしは中学生じゃないし、画家を目指してるんじゃなくて漫画家だし、別に今描けなくなってるわけでもないし!」
そうだよ、一瞬勘違いしたけど、この主人公があたしのわけが無い。例えモデルにしたとしても、キャラクターとあたしは別だ。
「……そこから否定しますか。まあ構いませんが」
「や、だから、これ、色々違うしですね」
先生が、コト、とマグカップをテーブルに置いて、身を乗り出した。
「そうですね。色々と違います。あなたはとっくに成人しているけれど中身は精々高校生レベルの甘ったれだ。漫画家を目指しているのではなく一応デビューはしているわけですし、今、絵が描けなくなっているわけでもない。ですが、……ネーム、というんですか。漫画の下書きの下書きだと聞きましたが。そのネームは、どうなんです?」
ぐ、と言葉に詰まった。オネーサンだ。情報源はオネーサンしかいない。
「ここ数ヶ月。私はあなたがスケッチブックに落書きをしているところは何度も見ました。ですが、漫画のストーリーを考えている素振りは一度も無い。……いや、一度はあったか。ボディビルダーを描けと強要した時に、現実逃避にチラッと口にしていたけれど、でも実際その後ネームに取り掛かってはいないでしょう」
……そんなことも、あったかもしれない。
「あなたは、今、漫画が描けなくなっている。違いますか?」
……違わない。最後にネームを仕上げたのは、確か先生の挿絵の話が来るちょっと前。それだって、自分でも全く納得できない、どこかで聞いたような話のツギハギみたいな、苦し紛れに捻り出したもので。
それの前も、前も、ずっと、自分でも何描いてるのか分からないようなものばっかり。
「しかし、小説やゲームのコミック化の話は断っているとか。あくまで自分のオリジナルに拘っているんですか? しかし、仕事なら何でもやる、と口では言う。何がしたいのか良く分かりませんね」
オネーサン、そんなことまで話したの。
「ですから、あの主人公は、私が観察したあなたをデフォルメしたに過ぎません。特徴は捉えていたでしょう?」
……観察。
思わず先生の顔を見たら、無表情に、こっちを見詰めていた。
「……まさか、先生、ココで仕事しろってカンヅメしたの、…絵が問題なんじゃなく観察が目的?」
なんて失礼な! ノゾキか?
「いいえ。当然、絵も欲しかった。あなたの絵には、見るものに納得させるだけのレトリックがある。しかし、恐らく描き手であるあなたは、その辺りを意図していない。無意識にやっているものだろうと推測できる。あなたはほぼ直感だけで描き上げていますからね」
…………え、ええと。
「例えば、役者の演技には定番の手法というものがある。動揺を表すのに呼吸を乱す、これは平素から呼吸をコントロールしている必要がある。安定した呼吸が乱れるから、見る者はそこに動揺を見出すのです。役者は最初稽古でそれを意識し、本番では無意識にできるほどに体に叩きこむ。そこまでやらないと演技しているという白々しさが出てしまうからです」
ちょ、ちょっと待ってください? あたしにも分かりやすく。
「あなたの絵は、その稽古の段階をすっ飛ばしている。いきなり本番で通じるレベルで、実際通用してしまった。……稽古をしていないから、自分が何をやっているのかを分かっていないのです」
待ってってば。いや、なんか深刻な話だってのは分かるよ? 先生サマが真剣に話してるってのは分かるよ?でもさ。役者の話と、漫画の話と、違わない?
「先生。途中からお話に付いて行けていません。要するに、あたしが駄目って話?」
そもそも、レトリックって何? って辺りから、もう振り落とされてるんだが。
先生サマ、ちょっと呆れた顔して、こめかみをぐりぐりした。
「……要するに。あなたは馬鹿で、恐らく私も阿呆だという話です」
イグノーベル賞を取った犬語翻訳ツール、あれは偉大な発明ですね。言葉が通じないというのは致命的だ。
先生サマは両手に顔を埋めて呟いた。
……回りくどい例え話しなくても、何を言いたいのかは分かる。本当は、言われなくても分かってる。でもさ。
でも。じゃあ、考えろって、……ムカデは考えたら一歩も歩けなくなるんじゃないの。
説明するまでも無いですが、レトリック→修辞法。言葉を効果的に使って適切に美しく表現する言語技術。文学上の技巧表現。
……先生はこの場合、絵の表現での技巧という意味で使ってるようです。
イグノーベル賞は、……知らない人は調べてね。(←え)
…先生しゃべりすぎじゃね?