#さんのにじゅうに
いろは坂ってヤツは九十九折の山道で、途中で具合を悪くしても路肩に止めて休めるような道幅なんてほとんど無い。とゆーかうっかり停車なんかさせられない状況だそうな。
先生サマは大変気を使いながらも、さほどスピードを緩めることなく坂を登りきった。
なぜなら、週末のいろは坂ともなると、イワユル峠を攻める走り屋さん系が大勢いて、つまりあたしがのん気に地元の車だと思っていた車はほとんどが攻めに来た車だそうだ。
大抵は一般車に対してそこそこマナーも良いらしいけど、やっぱりヤンチャな連中もいない訳ではない。無用な面倒事を避けるためにも、車の流れに逆らわず通り過ぎるのが一番、とゆーことで。
……先生サマよ。ならなんでこんなトコに来たんだ。知ってたなら避ければいいじゃんか。
視界がぐるぐるする。吐き気も酷い。
ドライブでこんな悪路誰が想定する?
っつーか先生が平然としてるのもなんだか理不尽だ。あたしがこんなに酷い目に遭っているというのに。
「ちょっと車止めてください。もー吐く。マジ吐く。胃液どころか内臓まで吐きそう」
ハッキリ言葉にできたかわからないけど、唸って言ったら先生、もうちょっとの辛抱ですとかなんとか。とりあえず一番近いところに、って言ったから、聞こえてはいたんだろうな。
もー吐き気をこらえるだけでイッパイイッパイで、いつの間にか車が止まったとか気付いてなかったけど、先生サマが一度車を降りて、しばらくして戻って来た頃には、こみ上げる酸っぱいモノも少し静まった。
「大丈夫ですか? 部屋を取れましたから、歩けます?」
あー。車降りられるのか。助かった。
差し出された手に縋って、フラフラする頭をどうにかこうにかスッキリさせようと辺りを見回して、へぇ、て目を見張った。
レトロな瓦屋根の、でも立派な建物がある。控えめな照明が、雰囲気良い。凄く良い。
くそうこんな体調じゃなきゃスケッチするのに。せめて写真。和服美人がいれば尚良し。
……と思って見ていたら、和服の中年の女性がいた。おお、良い感じ、……違う、アレはイワユル仲居サンだ。
「お連れ様、いかがですか? 宜しければ、車椅子かストレッチャーをご利用になりますか」
……え?
「いいえ。支えれば大丈夫です。案内を」
「はい。こちらです。お部屋、今ご用意致しておりますので、直ぐに横になっていただけます。市販のもので宜しければお薬をお持ちいたしますが、いかがなさいますか」
………なにごとだ。
「一先ず休んでみて、それでもどうにもならなかったらその時お願いします」
「かしこまりました」
吐き気を堪えつつも必死に考える。今何がどうなってる。
先生サマに支えられつつ歩む先は純和風の立派な建物で、中に入れるのは実はちょっと嬉しい。黒光りする太い柱とか、年代を感じる。赤じゅうたんのロビーとか畳敷きの廊下とか、趣のある建物は、ちょっと本気でスケッチしたい。ええい何でこんなときに吐き気と戦わなきゃならないんだ、スケッチブック寄越せ。
「先生、ここ、何処ですか」
「大丈夫ですか? 直ぐに部屋ですからもう少し頑張ってください」
「部屋って何、それよりスケブくださいスケブと鉛筆」
「はい?」
「なんて雰囲気ある廊下! このレトロな空気、歪みのある板ガラスと木の窓枠、抑えた照明、さいっこうの景色が目の前に! 吐いてなんかいらんない、ぶっ倒れてる場合じゃない」
吐き気より景色だ。
「……大丈夫なんですか? まだ顔色は悪いですが」
「顔色が何、この趣ある廊下で誰が吐くかってんですよ、この景色を見られただけであのいろは坂登った甲斐があります」
大正浪漫な廊下に心奪われていると、脇からくすくすと笑い声がした。
「お気に召していただいたようで光栄でございます。この建物は、当ホテル創業以来、当時のままの趣を残しております」
案内してくれていた仲居さんだ。
「細かい意匠も、全体のバランスが素晴らしいです!」
ありがとうございます、と慇懃に頭を下げる仲居さんは、しかし流石客商売だ。
「廊下は逃げませんし、具合がよくなりましたら改めてご覧いただきたく存じます。お連れ様の仰るとおり、まだお顔の色が真っ青です。先ずはゆっくりお休み下さい」
ハッキリキッパリといわれ、有無を言わさず部屋に通された。
具合が悪いってことで先に床を用意してくれていたらしい。そんなに酷い顔色してたのか、妙な押しの強さで布団に押し込まれてしまった。
「…………今更確認なんですが、先生、ここって何処ですか」
見回せばホテルの和室で、しかも上等なお部屋であることは間違いない。床の間の掛け軸もなんか曰くありそう。
「いろは坂を登って近場のホテルです。予約もなかったので空いている部屋を適当に」
……車を止めろと言ったのは、とりあえず路肩でもどこでも、という意味だったのだが。
「…………でもこの建物見られたので、モロモロ良しとします」
もー建物中見て回りたい。他のお客さんの迷惑になるかな。怒られちゃうかな。
横になってみたら眩暈がして、やっぱり血の気が引いていたみたいだから大人しくしてるけど。でも小一時間も休めば充分だし。
「つくづく、絵のことなんですね」
感心したように先生が言う。
「先生だって人の事言えるんですか」
自分だって、所構わず思考の迷宮に迷い込むくせに。
「…ですね。このホテルは、文豪が定宿にしていて、ゆかりの品なども残されているそうです。ロビーに展示コーナーがあるらしい」
はいはい。
「あたし大丈夫ですから、行ってきたらどうですか。何かあったら仲居さん呼びますから」
先生サマはいそいそと出て行った。
……近場のホテル。
近いのは嘘じゃないかもしれないけど、でもわざわざココを選んだ可能性は高いだろうな。
…………。
でも、一部屋ですよ。
泊まっちゃう気なんですか先生サマ。
警戒する理由があるのにそれを怠るのはどーだこーだと言っていたのは先生だと思うんだが。
…まあ、突発的に出てきたんだし、わざわざ追っかけてくる記者もいないだろうし、いいのかな。
お布団に寝転がったままバッグ引き寄せて、常に持ち歩いてる小さいスケブを引っ張り出した。
今見た廊下と、この室内と。簡単に線を引く。
うーん。やっぱ、細かいところがイマイチ見えてなかった。もうちょっと休んだら、スケッチしに行こうかな。
眩暈が治まるまで、と思って目をつぶって、……目が覚めたら、早朝の空気だった。
ぼけっと見回すと、壁際に寄せた机で先生サマが書きものしていた。ひょっとしてこの人ずっと執筆してたのか。
「……オハヨーございます…?」
背中に声かけたら、はっと振り返る。
「ああ、……今何時ですか」
起き抜けのあたしに聞きますかそれ。
枕元に置きっぱなしだったバッグから携帯電話取り出すと、早朝5時半だった。
「5時半……。運転に支障があるので、チェックアウトまで少し休みます」
先生はこめかみを揉みながら、もう一組並べて敷かれてた布団に潜り込んだ。
………なんだろな、この状況。
……。
まあ、いいや。
あたしは自分が寝ていた布団を上げて隅っこ寄せると、枕元に放り出したままだったスケッチブック持って、館内探検に出かけた。
うん。やっぱり歴史ある建物は良い。
ロビーにはホテルのパンフレットが置いてあって、それによるとこの建物は明治に建てられ、何度か増改築を経て今のようになったらしい。
6時も過ぎると、従業員が忙しく立ち働くようになって、のん気にスケッチしてもいられなくなった。
仲居さんが気遣って、大浴場はもう開いてると教えてくれたから、朝風呂に行ってみた。
お風呂の脱衣所も、レトロなステンドグラスがあったり使い込まれた籐籠が良い感じだったりで、他にお客さんがいなければスケッチできるだろうと長風呂して人が切れる頃合を見計らったけど、ボチボチ人が入れ替わり立ち代りで、逆上せそうで諦めた。
部屋に戻ったら、先生まだ寝てるし。
………ホント、何なんだろな、この状況。




