#さんのじゅう
主に精神的に疲労困憊で、ジムを辞した。
そりゃーもー、今日一日で一生分のマッチョを見た気がする。
でもこれからそのマッチョを描かなきゃならないんだよねー……はぁ。
駅までの道すがら、お仕事のためにも情報収集だ。
「先生。それで、今回はどういったお話になる予定なんでしょうか」
ボディビルに憧れる少女って、……想像できるか? いや、世の中広いんだし実際いたら申し訳ないんだけど。
「お話したとおり、ボディビルに憧れて自分も鍛えようとする少女が主人公です。家庭環境が複雑で、自分が女子であることを嫌悪している、という心理から、ボディビルに嵌るという設定ですね。肉体の否定というより性の否定でしょうか」
おおお。なるほど。その辺は分かります。分かりやすいです。そうかマッスルが男っぽいものの象徴になるわけね。
「自己を否定して否定して、それでも否定できない自分を削りだすところまで追い込む予定です。……が、今日の話を聞いて、多少予定が変わりそうです」
へぇええ。なるほどなるほど。
……で、絵のヒントは?
「自由に描いてください」
そー言われてもね、それこそ一番難しい注文なんだけどね。
「ええと。じゃあ、最初の家庭環境って、どんな感じですか」
話す間に駅について、またしても何も言わずに先生が切符買ってくれる。
来るときの惨劇がちと脳裏をよぎる。いやいや、もうあんな最終兵器は出てこない、……はず。
今度は座れないくらいに混んでいた。ドア近くのつり革つかまって並んで立つ。
今、先生の半径2m以内に、人は5、6人だ。
あたしは盾になれませんから、最悪、隣の車両に逃げてください。お願いします。
先生は、来るときの悲劇なんか気付いてもいないようで、普通に話を続行した。
「主人公の家庭は、片親ですよ。母親が家出して、父親と二人だけです」
ああ。
「小学生低学年で、母親に捨てられたと思い込んだら、まあ多少は性格も捻くれるでしょう。もともと勝気な性格なので弱みを晒すこともできない。必要以上に正義漢。幼稚な男子になんて負けたくない。自分がしっかりして父親の助けにならなければならない。自分に課すものが沢山ある。そのために強くならなければならないと思い込んでいる」
うんうん。
「しかし中学ともなれば男女の体格差というのが目に見えてくる。背の高さも力強さも」
分かる分かる。
「そこで、自分も鍛えなければならない、と考える」
……。
「はい、先生。鍛えようと思いたって、中学の部活にあるような運動じゃなくてボディビルにいく女子中学生は、いないと思います」
「はい。分かっています。主人公とボディビルとの出会いは、なるべくインパクトのあるものにしたいと考えています」
にやり、と先生が笑う。ああ。もうなんか腹積もりがあるんですね。読者にサプライズですか。お金払って本読んでくれる人に、なんてことを。
「あれ? じゃあ、その出会いのシーンって、挿絵はいります?」
「あったほうがいいだろうと思いますよ。是非描いて欲しいですね」
藤埜さんとも相談かな。実際文章書きあがってからでも普通は間に合うんだし。間に合うように進行してるはずだし。今回は先生前倒しに動いてるから実際の締め切りは大分先のはずだし。
「先生、それだけイメージはっきりしてるなら、あたし文章出来上がってから取り掛かってもいいんじゃないですか?」
「いえ。重要な脇役を、先に描いて欲しいと思っています」
脇役? 今回は脇役にもスポット?
「どんな脇役?」
ナニその笑顔。
……悪寒が。
「震度4で逃げ出すボディビルダーです」