今夜の宵飲はサイゼリヤ【後半】
ガーリックの香りが広がる。
目の前にはエスカルゴのオーブン焼きに小エビを継ぎ足したものがふわりと湯気をあげる。
私はデカンタ大から赤ワインをグラスに注ぎ入れる。
もう警戒心は0だ。
なぜならデカンタ大の戦闘力はすでに尽きているからだ。
反撃の心配はない。
だが私は決して油断しない。
露のついたグラスが指を弾く可能性が残っているからだ。
そんなことで残りのワインを失い、さらにシャツをピンクに染めるなんて大人がすることではない。
私はしっかりと指を広げ、グラスを掴んだ。
ゆっくりと斜めに傾け、自身の口につけた。
口端が緩み、一筋の赤い道がテーブルにポタリと落ちた。
私は目を見開き、テーブルに落ちた赤い水粒に視線を落とした。
大人になると口元が緩くなる。
よく上司が大きな声を出すと米粒ほどの大きさになった飛沫が私のデスクに落ちていた。
キーボードの間に挟まる水粒を何度アルコール除菌シートで拭き取ったことだろうか。
あの現象が私にも。
人生はまだ長い。
加齢を受け入れる他ない。
私は小さく息を吐くと紙ナプキンを一枚手に取り、顎から口元にかけてを逆走するように拭きあげた。
その紙ナプキンを丁寧に半分に折ると、テーブルに落ちた赤い粒もそっと染み込ませた。
「危なかった」
思わず声が漏れる。
隣からクスッと笑い声が聞こえた。
ちらりと横目にカプレーゼを映す。
トマトは全部食されていた。
思わずテーブルを隅々まで目で追う。
トマトの飛沫はないだろうか。
テーブルは綺麗なまま。
カプレーゼの冷えた皿の結露のみがテーブルに跡となり照明を反射させていた。
「そんなはず……」
私は思わず隣の女性のシャツに視線を移した。
首元にピンク色の染み。
これはワインのシミ。
ではなく、シャツの模様のようだ。
ピンク色の百合の花が美しく咲き乱れる。
「……ややこしいな」
私は静かに呟くと、隣からは空気を吹き出すような音がなった。
「ねえ?」
私に声をかけているのだろうか?
ゆっくりと女性の目を見つめた。
酔っているのだろうか。
頬が薄らと赤く染まり、瞳は潤んで見えた。
店の照明に反射し、テーブルの結露のようにキラキラと輝いている。
「少しお話しませんか?」
「はあ、構いませんが」
私は少々胸を張り、精一杯の硬派を肩で語る。
ワイングラスを持ち傾けた。
グラスの中で小さな波がさざめく。
「ここ、よく来るんですか?」
こことは、サイゼリヤのことだろう。
「はい。気兼ねなく飲めますから」
「ふふっ。そうですよね」
女性は頬を上げたままワイングラスに唇をつけた。
そんなに口元を緩めては危ない。と一瞬だけ過ったが彼女の口は締まりがいいらしい。
小さく喉が上下する。
ワイングラスに付いたルージュを親指でなぞる。
思わず眉を上げた。
なぜルージュを拭き取るのだろう。
何か雑味がするのだろうか。
それとも単なる癖なのか。
私は唇を赤く潤ませるルージュの味を思い出そうと記憶を辿ったが、残念ながら到達することはなかった。
「他におすすめのメニューとかあります?」
唐突な難問に私は、眉を寄せた。
頭の中でサイゼリヤのグランドメニューを走らせる。
「……浅漬け、ですかね」
「浅漬け?」
彼女はクスッと微笑む。
口元に手を置く。
すらりと伸びた指先には控えめなネイルが艶めく。
「あっ。それは愛称で……」
私はグランドメニューを横から引き出すと、慣れた手つきでパラパラと捲る。
彼女に向けて指をさした。
「これです。キャロットラペ」
彼女はメニューを覗き込むと、長い髪を耳にかけた。
私はほんのりと色付いた耳を見つめた。
小さな輝く石がついた華奢なピアスが揺れる。
人の耳を見るとつい穴の奥を覗いてしまう。
私だけではないはずだ。
通勤中の満員電車では、斜めに立つ人の耳穴がよく目に飛び込んでくる。
人によっては長い毛が入り口から顔を出していたり、ピアスの穴が閉じかけていたり案外暇つぶしになるのだ。
私は電車に揺られながら有意義な時間を過ごしているのだ。
「じゃあ、頼んじゃおうかな?浅漬け」
「いいですね」
そう言うと私達は各々のテーブルに置かれたQRコードを読み込んだ。
浅漬けはすぐにやってきた。
二つのテーブルに一つずつ冷たい皿が並ぶ。
彼女はフォークの先端に細切りにされた人参を引っかけると口に運ぶ。
ゆっくりと咀嚼するとワイングラスを傾けた。
「うん。美味しい」
また私に微笑みかけた。
さて、私もこのキャロットラペに向き合うとしよう。
この浅漬けを食すに当たってルールがある。
まず全てを手放し、手を膝に置く。
白いキャンバスに見立てた絶妙に冷えた白い皿を見下ろす。
一番に鮮やかなオレンジ色が私の目を楽しませる。
そして、麗しい人参の上にいじらしく散らばる緑色のパセリらしき物。
もうお分かりだろう。
この一皿で人参の葉から根っこまでを表現しているのだ。
私はじっくりと舐めるようにこの芸術品を見回す。
フォークで軽く全体をかき混ぜ、掬い上げる。
一口目はそのまま口に運ぶ。
ポリポリという食感が漬物を連想させる。
柑橘の酸味がほのかに香り、鼻をくすぐった。
うまい。
私はここにある一手間を加える。
オリーブオイルを覚えているだろうか。
エスカルゴのオーブン焼きを小エビのアヒージョに変貌させたあのオリーブオイルを。
私はオリーブオイルを細い糸のように回しかける。
薄い透明感のある黄緑色が皿をさらに彩っていく。
先ほどからオリーブオイルを摂取し過ぎではないかと思うかもしれない。
しかし、ここはサイゼリヤだ。
この店にいるということはオリーブオイルを吸収するために来ていると言っても過言ではないのだ。
歯で何度も噛み締め、食感と味を楽しむ。
私はデカンタに残ったワインを全てグラスに注ぐ。
デカンタは名残惜しそうにポタリと赤い涙を落とした。
私はそっと眉を落とすとデカンタの意志を継ぎ、ワインを胃の中に注ぎきるのだった。
背もたれに身を預け、深く息を吐いた。
横目に彼女を見る。
彼女はテーブルに頬杖をつき、こちらを見つめていた。
私は少しだけ首を傾げて見せる。
それだけで彼女は目を細め微笑むのだった。
私はある建物の螺旋階段の上に立っていた。
カツン、カツン。
ヒールの音が背後から近づく。
長い髪を風が靡かせる。
赤く染まる頬。
潤んで見える瞳。
ルージュで艶めく唇が動く。
「あの、この後って……」
その先は私が言うべきだろう。
これが大人の駆け引き、か。
「宜しければもう少し嗜みませんか」
彼女は大きな目を丸くすると、フッと息を漏らした。
そして、私にそっと微笑んだ。
「はい。嗜みましょう」
中途半端な螺旋階段を降りていく。
私は彼女の後ろにまわり、ゆっくりと階段をくだる。
カツン、カツン。
ヒールの音が夜空の広がるこの建物に心地よく響き渡る。
途中で隣の建物との隙間を覗き込む。
やはり、今日もあの杖は落ちていた。
螺旋階段の下に到着した。
その瞬間、足元に見覚えのある模様が浮かび上がった。
黒い四角形。
その中には複雑な模様が詰まっている。
「……QRコード!?」
私は思わず声に出す。
足元に広がるQRコードは発光を始める。
私は彼女に視線を向ける。
彼女は慌てる私には気付かずに空を見上げて何かを話している。
声が聞き取りにくい。
まるでトンネルの中のワンセグのようだ。
地面がぐにゃりと沈み、足元からゆっくりと飲み込まれていく。
私は咄嗟に周りを見渡した。
そして、あのアイテムに手を伸ばした。
大きなQRコードはそのまま私の全てを飲み込んだ。
私は老人用の杖を胸に抱きながらどこかへ落ちていくのだった。




