第十八話:座学だけ、受けられませんか
その日の朝、見慣れない顔がギルドの前に立っていた。
十六歳くらいだろうか。細い体に、くたびれた上着を着ている。髪は短く、目だけが妙に落ち着いていた。
しばらくギルドの扉を見ていた。それから、入ってきた。
カウンターにベックがいた。
「何のご用でしょうか」
「座学、受けたい、です」
ベックが少し止まった。
「座学は冒険者登録が前提となっております」
「道具も装備も買えない。冒険者になるには金がない」
「規則上、対象外となります」
「わかった」
少年が振り返った。
「待ってください」
通りかかったところだった。カウンター越しに少年を見た。
その時、書庫の方で何かが滑る音がした。紙が一枚、棚から落ちたような音だ。ほとんど聞こえないような音だった。
でも少年の体が、そちらへ向いた。一瞬だけ。誰も気づいていないような音に。
「何を学びたいんですか」
「字が読めないから、読めるようになりたくて」
「誰から聞きましたか」
「荷運びで知り合った冒険者から。登録したら読み書き教えてもらえるって」
ベックがこちらを見た。「規則では——」
「少し待ってください」
少年を改めて見た。細い。でも立ち方がしっかりしている。さっきの音への反応も気になった。意識してやっているとは思えない。体に染み付いた習慣だ。
「今日、何の仕事をしてきましたか」
「荷運び。北の倉庫から市場まで、四往復」
「道順は」
「裏通りだったら十分ぐらい早い、大きな通りは混むから」
「荷物の量は」
「木箱三つまでなら走れる。四つ目からは崩れるから歩く」
ベックが口を開きかけて、閉じた。
「名前は」
「ジン」
「ジン、少し手伝ってもらえますか」
◇
書庫に案内した。棚が三つある。依頼書の控えが年別に積んである。
「これを種類別に分けてもらえますか。護衛、討伐、調査、輸送の四種類です」
「字が読めないけど、やってみる」
「表紙に絵が入っています。試してみてください」
ジンが棚の前に立った。一枚取り出して、確認した。また一枚。確認して、床に置く。また一枚。
速かった。五分もしないうちに、四つの山ができていた。
確認した。全部正しかった。
「どうやって分けましたか」
「護衛は人と矢印、討伐は剣、調査は目、輸送は荷車」
「それだけで分けましたか」
「あと紙の重さも違う。討伐は厚い紙が多い、依頼が多いから在庫が厚くなるんだと思って」
ベックが扉の外から覗いていた。
「次をお願いします」
◇
次は棚の整理を頼んだ。順番がバラバラになっている台帳を、日付順に並べ直す作業だ。
ジンが台帳を手に取った。ぺらぺらとめくった。それから棚に並べ始めた。
「日付が読めますか」
「数字は読める、字は読めないけど数字は」
「どこで覚えましたか」
「荷運びで使うから。銅貨がいくつ、木箱が何個、みたいな」
並べ終わった台帳を確認した。完璧だった。一冊も間違っていなかった。
ベックが静かに入ってきた。台帳を一冊取り出して確認した。それからもう一冊。何も言わなかった。
「他には?」
「少し待ってください」
◇
執務室をノックした。
「なんだ」
入った。
「採用したい者がいます。字が書けないですが、空間把握と記憶力が突出しています。荷物の整理も速い。音にも敏感です」
「冒険者か」
「違います。座学だけ受けに来た十六歳です」
ガドが少し止まった。
「座学だけ」
「字が読めるようになりたいと。装備が揃えられないので冒険者にはなれないと言っていました」
「……試用期間を設けるか」
「そのつもりです。ベックさんも今、確認しています」
ガドが少し間を置いた。
「わかった。一ヶ月だ」
「ありがとうございます。もう一つ話があります」
「なんだ」
「アンピークの祭りをやりたいんです。商品のお披露目を兼ねて、街の人向けに屋台を出す形で。人手はギルドの冒険者に依頼として出します」
ガドが少し考えた。
「……祭りか」
「はい」
「やれ。町長には俺から言っておく」
執務室を出た。廊下でベックと鉢合わせた。
「試用期間、一ヶ月で問題ありません」
「そうですね」
「ただし」ベックが腕を組んだ。「私が字を教えます。それが条件です」
少し意外だった。
「わかりました。よろしくお願いします」
ベックが無言で戻っていった。
◇
カウンターに戻ると、ジンがまだ待っていた。
「採用します。一ヶ月の試用期間です」
ジンが少し止まった。
「……俺でいいのか?」
「その為の試用期間です」
「字が書けなくても」
「字はベックさんが教えます。読むのは早いと思います」
ジンがしばらく黙った。
「給料は?」
「出ます」
「飯は」
「アンばあさんの食堂があります」
ジンがまた黙った。少し長い沈黙だった。
「……おばあちゃんに、美味いもの食わせたい」
「そうですか」
「そのために、もっと稼がなきゃと思って」
「ここで頑張れば稼げます」
ジンが少し顔を上げた。
「……試用期間」
「明日から来てください。その前に、一つ付き合ってもらえますか」
「何を」
「採用祝いです。仕事で使う服を買いに行きます」
ジンが少し固まった。
「……なんで」
「その服で毎日来られると、アンばあさんが心配します」
ジンが自分の上着を見下ろした。
「……払う」
「採用祝いですから、いいです」
ジンがまだ迷っている顔をしていた。少し間があってから、小さく頷いた。
布屋のエルミのところへ連れていった。
エルミがジンを見て、すぐに採寸を始めた。ジンが少し身を固くした。
「動かなくていいですよ」とエルミが言った。
「……わかった」
動かないようにしているジンが、少し可笑しかった。
エルミが棚から何枚か生地を出した。丈夫で動きやすいもの、長持ちするもの。
「これでいかがですか」
ジンが服を受け取って、しばらく見ていた。
「……新しい服、初めてかもしれない」
エルミが少し手を止めた。
ケンジも何も言わなかった。
ジンが「ありがとう、です」と言った。語尾がぎこちなかった。でも本人なりに精一杯の言葉だとわかった。
◇
翌朝、ジンが来た。
開店前の時間だった。ギルドの鍵を開けると、扉の前に立っていた。新しい服を着ていた。
「早いですね」
「いつもこの時間から仕事してた」
中に入った。ジンがギルドを見回した。
「広い」
「そうですか」
「天井が高い。荷物を縦に積めばもっと収納できる」
朝一番から改善案を出してきた。
ミーデルがちょうど出勤してきた。ジンを見た。ジンがミーデルを見た。
「ミーデルさん、ジンです。今日から試用期間で来ます」
「ミーデルです。よろしく」
「……よろしく、です」
ミーデルがジンを少し観察した。ジンもミーデルを少し観察した。二人とも、観察が得意なタイプだ。
しばらくして、ミーデルが口を開いた。
「字、読めますか」
「読めない」
「教えましょうか」
ジンが少し驚いた顔をした。
「ベックが教えるって聞いたけど」
「二人から教わった方が早いです」
ジンがしばらく考えた。
「……頼む」
ミーデルが小さく頷いた。
ゲッツが出勤してきて、二人を見た。それからケンジを見た。
「また増えたのか」
「一人増えました」
「賑やかになるな」
ゲッツがジンに目を向けた。
「仕事わからないことがあったら聞け。教えてやる」
「……わかった」
「返事はちゃんとしろ」
「わかった」
「もう少し大きい声で」
「わかった!」
「……まあいい」
「ゲッツさん、言葉遣いもお願いします」
ゲッツが振り返った。
「……俺がか」
「はい」
ゲッツが少し間を置いた。
「……ったく、わざとだろ」
「はい」
多少ぶつぶつ言いながらゲッツが自分の持ち場に行った。ジンがその背中を見ていた。
カウンターに座った。窓から朝の光が入ってきた。
ギルドが、少しずつ動き始めている。




