偽りの聖女を同じ過ちを二度犯す
聖女エミリアが王都から姿を消して、一年が経った。
「……静かになりましたね」
私は紅茶を置きながら、小さく呟いた。
向かい側に座るアルベルト王子――いや、もう王太子となった彼は、苦笑する。
「その言い方だと、エミリアが嵐みたいだな」
「違うのですか?」
「否定はできない」
王太子は肩を竦めた。
一年前。
聖女エミリアの“愛される加護”は暴走した。
誰もが彼女を疑えず。
誰もが彼女を庇い。
結果として、国中が彼女中心に歪んでいた。
それを止めたのが、悪役令嬢と呼ばれた私――クラリス・レインフォード。
……というのが、今では歴史書に書かれている。
もっとも。
「未だに私は“性格の悪い公爵令嬢”らしいですが」
「実際、口は悪い」
「殴りますよ」
王太子が笑う。
昔なら考えられない光景だった。
一年前の彼は、“聖女の涙”だけで私を断罪していたのだから。
「ですが」
私は窓の外を見る。
「本当に静かです」
王都は平和だった。
エミリアが消えてから、人々は少しずつ“自分で考える”ようになった。
聖女の言葉だから。
皆がそう言うから。
空気がそうだから。
そんな理由だけで、誰かを悪役にする人間は減った。
少なくとも以前よりは。
「……クラリス」
王太子が静かに言う。
「本当に、彼女を探さなくていいのか?」
私は答えなかった。
エミリアは、姿を消した。
誰にも告げず。
誰にも会わず。
ただ一通だけ、手紙を残して。
『私、ちゃんと一人になってみます』
そこには、それだけ書かれていた。
王都の外で。
加護に頼らず。
誰にも愛されず。
普通の人間として生きる。
……その決意は、本物だったのだろう。
だから私は、探さなかった。
「彼女は」
私は静かに言う。
「初めて、自分で人生を選んだのです」
その時だった。
コンコン、と扉が叩かれた。
「失礼します!」
騎士が慌てた様子で入ってくる。
「王太子殿下! 至急ご報告が!」
王太子が眉をひそめる。
「どうした」
「南部地方で、“奇跡”が起きています!」
私は嫌な予感がした。
「奇跡?」
「病が癒え、飢饉が収まり、人々が皆笑顔になっていると……!」
王太子の顔色が変わる。
騎士は続けた。
「しかも、その中心には――」
その瞬間。
私は、思わず立ち上がっていた。
「……誰がいるのですか」
騎士が息を呑む。
「白い髪の、聖女様が」
沈黙。
空気が止まった。
王太子が私を見る。
私はゆっくり目を閉じた。
……まさか。
すると騎士が、震える声で続ける。
「人々は皆、その聖女様を崇拝しています」
「彼女のためなら命も捧げられると」
「彼女を疑う者は、誰もいないと……」
私は小さく息を吐いた。
窓の外では、青空が広がっている。
平和な昼だった。
だからこそ。
その報告は、ひどく不気味に聞こえた。
「クラリス……」
王太子が掠れた声を出す。
私は静かに答える。
「ええ」
そして。
紅茶を机へ置いた。
「どうやら、“二度目”ですね」
南部地方、リシェル村。
そこは、異様なほど“平和”だった。
「聖女様のおかげです!」
「エミリア様が来てから病人が減って!」
「皆、笑顔になったんですよ!」
村人達は、目を輝かせながらそう語る。
……一年前と同じだ。
私は馬車の窓から村を見渡した。
畑では人々が笑い合い。
子供達は歌いながら走り回っている。
美しい光景。
だからこそ、不自然だった。
「クラリス」
隣のアルベルト王太子が小声で言う。
「本当に、また加護が暴走しているのか?」
「ええ」
私は短く答える。
「もう始まっています」
村へ入った瞬間から分かった。
空気が甘い。
人々の感情が、妙に“同じ方向”へ揃っている。
これは自然な好意ではない。
加護によって増幅された、“熱”だ。
「ですが……」
王太子が周囲を見る。
「皆、幸せそうだ」
私は目を細める。
「だから厄介なのです」
人を苦しめるだけなら、悪だと断じられる。
けれどエミリアの加護は違う。
人を笑顔にする。
救う。
幸福を与える。
だから誰も、疑えない。
「クラリス様」
突然、声がした。
振り向く。
白いワンピース。
長い白髪。
そして、柔らかい笑顔。
エミリアだった。
「……お久しぶりです」
彼女は少し困ったように笑う。
「来ると思っていました」
村人達がざわめく。
「聖女様のお知り合い?」
「なんて綺麗な人……」
その視線に、私は小さく息を吐く。
もう始まっている。
皆、彼女を好きになり始めている。
「エミリア」
アルベルトが前へ出る。
「お前、自分で何をしているか分かっているのか」
エミリアの笑顔が、少しだけ揺れた。
「……分かっています」
「なら何故!」
「だって」
彼女は俯く。
「一人は、苦しかったんです」
静かな声だった。
でも。
その一言に、私は何も返せなかった。
「最初は頑張っていました」
エミリアがぽつりぽつりと話し始める。
「加護に頼らないって決めて」
「ちゃんと嫌われても受け入れようって思って」
白い髪が揺れる。
「でも、駄目でした」
彼女は笑った。
泣きそうな顔で。
「誰も私を見てくれないんです」
村人達がざわつく。
だがエミリアは止まらない。
「皆、“普通”なんです」
「私が居ても居なくても変わらない」
「笑いかけても、少し笑い返すだけ」
「誰も、私を特別に見てくれない」
彼女の瞳が揺れる。
「怖かった」
その瞬間。
私は胸が痛くなった。
理解できてしまったから。
エミリアは、ずっと“愛されること”で生きてきた。
呼吸みたいに。
当たり前に。
だから失った瞬間、自分が空っぽになった。
「だから」
エミリアが、両手を胸元で握る。
「少しだけ、使ったんです」
その声に。
村人達の顔が、一瞬で曇った。
「少しだけ皆に好かれれば」
「少しだけ笑ってもらえれば」
「少しだけ、一人じゃなくなればって」
彼女は震えていた。
「でも、気づいたら……」
周囲を見る。
村人達は、うっとりと彼女を見ている。
子供達は、彼女の周囲へ集まる。
老人は涙を流し。
男達は、彼女のために畑仕事を始める。
まるで。
世界がエミリア中心に回っているみたいだった。
「……また、同じことをしたのですね」
私が静かに言うと。
エミリアは、小さく頷いた。
「はい」
否定しなかった。
言い訳もしなかった。
「クラリス様」
彼女が私を見る。
「私、駄目なんです」
その目は、ひどく弱々しかった。
「誰にも必要とされないと、怖くて仕方ないんです」
沈黙。
風が吹く。
畑の草が揺れる。
「だから、また加護を使った?」
「……はい」
「皆を支配してでも?」
エミリアが唇を噛む。
「支配したかったわけじゃないんです……!」
その瞬間。
周囲の村人達が、一斉にこちらを睨んだ。
「聖女様を責めるな!」
「聖女様は悪くない!」
「お前がまた傷つけるのか!」
怒号。
敵意。
私は静かに目を閉じる。
やはり。
人は簡単に流される。
幸福を与えてくれる存在へ。
安心させてくれる存在へ。
「……クラリス」
アルベルトが剣へ手をかける。
だが私は、それを止めた。
「駄目です」
「しかし!」
「今ここで否定すれば、彼らはもっとエミリアへ依存します」
私は村人達を見る。
彼らは悪人ではない。
ただ。
“楽な方”へ流されているだけだ。
その時だった。
「……やめてください」
小さな声。
エミリアだった。
彼女は、泣いていた。
「クラリス様を、そんなふうに言わないで」
村人達が戸惑う。
エミリアは震えながら続ける。
「この人だけなんです」
涙が落ちる。
「この人だけが、私を止めようとしてくれる」
その瞬間。
村人達の熱狂が、わずかに揺らいだ。
私はエミリアを見る。
彼女も、ちゃんと分かっているのだ。
自分がまた、同じ過ちを犯していることを。
それでも。
止められなかったことを。
夜だった。
リシェル村の教会。
小さな灯りだけが、静かに揺れている。
私は長椅子へ腰掛け、窓の外を見ていた。
隣には、エミリア。
彼女は俯いたまま、小さく震えている。
「……皆、優しいんです」
ぽつり、とエミリアが呟く。
「私が笑うと喜んでくれる」
「私が困ると助けてくれる」
「必要としてくれる」
彼女は自分の手を見つめた。
「だから、怖くなるんです」
私は黙って聞く。
「もし、加護が無かったら」
「皆、離れていくんじゃないかって」
エミリアの声は掠れていた。
「私には、“エミリア”として愛される価値なんて無い気がして」
教会に静寂が落ちる。
私は小さく息を吐いた。
「……本当に面倒な人ですね」
エミリアが、びくりと肩を震わせる。
私は続けた。
「貴女は、“愛されること”を特別視しすぎです」
「……え?」
「人は、簡単に嫌います」
「簡単に離れます」
「簡単に裏切ります」
私は彼女を見る。
「ですが同時に、簡単に戻ってくるものでもあります」
エミリアが目を瞬かせる。
「貴女は極端なのです」
「“皆に愛される”か、“誰にも愛されない”かしか見えていない」
私は立ち上がる。
「ですが現実は、もっと曖昧です」
教会の扉を開く。
夜風が吹き込む。
その瞬間。
「聖女様!!」
村人達が立ち上がった。
教会の外には、大勢の村人が集まっていた。
老人。
子供。
女達。
男達。
皆、不安そうな顔でエミリアを見ている。
「……っ」
エミリアの瞳が揺れる。
一歩間違えれば、また加護へ依存する。
私は彼女を見ずに言った。
「選びなさい」
「……え?」
「また加護で愛されますか?」
村人達がざわめく。
「それとも」
私は静かに続けた。
「嫌われるかもしれない“エミリア”として立ちますか?」
沈黙。
長い沈黙だった。
エミリアの肩が震える。
怖いのだろう。
当然だ。
今まで呼吸のように使っていたものを、手放すのだから。
やがて。
彼女は、小さく息を吸った。
そして。
「……皆さん」
震える声で、前へ出た。
「私、ずっと嘘を吐いていました」
村人達がざわつく。
「私は、皆に愛されたかった」
「一人が怖かった」
「だから、加護に頼りました」
涙が零れる。
「皆さんの気持ちを、歪めました」
誰も喋らない。
エミリアは、泣きながら続ける。
「だからもし、私を嫌いになるなら」
「許せないなら」
「離れていくなら」
彼女は唇を噛んだ。
「それでも、仕方ないと思っています」
静寂。
加護は使われていない。
だから今この瞬間の感情は、“本物”だった。
すると。
「……馬鹿だなぁ」
老人が笑った。
エミリアが目を見開く。
「最初からそう言えば良かったのに」
次に、女が笑う。
「完璧な聖女様より、そっちの方が安心するわ」
「でも勝手に心いじるのは駄目だぞー!」
子供が笑った。
少しずつ。
空気が緩んでいく。
崇拝ではない。
熱狂でもない。
ただ、人と人として向き合う空気。
「……あ」
エミリアの瞳から、涙が溢れる。
「どうして……」
「どうしてって」
村の青年が苦笑する。
「そりゃ怒ってる人も居るよ」
「怖かったし」
「気持ち悪いと思った人も居る」
エミリアの顔が青ざめる。
だが。
「でも、全部終わりってわけでもないだろ」
その言葉に。
エミリアは、声を失った。
私は静かに目を閉じる。
そう。
本来、人の関係とはこういうものだ。
好きか嫌いか。
白か黒か。
そんな単純なものではない。
「クラリス様……」
エミリアが泣きながらこちらを見る。
「私……怖いです」
「また、同じことをするかもしれない」
「するでしょうね」
即答だった。
村人達が苦笑する。
エミリアも目を丸くした。
「ひ、酷い……」
「事実です」
私は腕を組む。
「人は簡単に変わりません」
「弱さも、依存も、そう簡単には消えない」
エミリアが俯く。
私は少しだけ口元を緩めた。
「ですから」
「……?」
「その度に、誰かに止めてもらいなさい」
エミリアがゆっくり顔を上げる。
「一人で完璧になろうとするから壊れるのです」
夜風が吹く。
虫の音が響く。
エミリアは涙を拭いながら、少しだけ笑った。
「……はい」
その笑顔は。
今までで一番、不格好で。
そして、今までで一番“人間らしい”笑顔だった。
後に歴史は記す。
“偽りの聖女”と呼ばれた少女を。
そして。
誰より嫌われながら、最後まで彼女を見捨てなかった悪役令嬢を。
だが。
その記録の最後には、こう残されている。
『人は、同じ過ちを繰り返す。
だからこそ、誰かと生きるのだ』




