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農業チートが物理と経済の壁に阻まれ、あえなく散った数日後。
俺は次なる一手を考えていた。
農業がダメなら、工業(手工業)である。
とはいえ、俺に蒸気機関を発明して産業革命を前倒しにするような、ガチの理系チート知識はない。
文系大学生の広く浅い知識で作れて、なおかつこの時代の貴族たちに需要があるもの。
そこで俺の脳裏をよぎったのは、ヴェルサイユ宮殿のあの絶望的な「臭い」だった。
この時代、風呂に入るという習慣は極めて稀だ。
水は病気を媒介すると信じられていたため、貴族たちは香水で体臭や排泄物の臭いをごまかしている。
だが、根本的な清潔さを求めていないわけではない(と思いたい)。
そうだ、石鹸だ。
オリーブオイルなどの植物性油脂と、木灰から取れるアルカリ。
そして香り付けのハーブ。
作り方自体は、高校の化学の実験や、夏休みの自由研究レベルの知識でどうにかなる。
「というわけでジャン。オリーブオイルと、質のいい木灰、それにラベンダーやバラの精油を集めてちょうだい」
俺の突飛な要求にも、ジャンはもはや驚かなかった。
「また何か変なことを企んでいるな」
という呆れ顔を隠そうともせず、しかし数日後には完璧に材料を揃えてみせた。
有能すぎる。
屋敷の厨房の片隅を借りて、いざ実験開始。
油脂を温め、水に溶かした灰の上澄み
液(アルカリ水)を少しずつ加えながら、ひたすら棒でかき混ぜる。
いわゆる「けん化」という化学反応だ。
「……お嬢様。私がやりますから、少し休まれては」
「だ、大丈夫よ。これも生き残るため……」
コルセットに締め上げられた体で、長時間鍋をかき混ぜるのは重労働だった。
結局、途中から見かねたジャンに交代してもらい、俺は椅子に座ってあーだこーだと指示を出すだけの「現場監督(という名のお荷物)」に成り下がった。
数週間の熟成期間を経て。
木箱の中で固まったそれを切り分けると、滑らかな象牙色の固形物が姿を現した。
鼻を近づけると、花の品のいい香りがふわりと漂う。
「……できましたね、お嬢様」
「ええ。完璧よ」
試しに水で泡立てて手を洗ってみると、当時の粗悪な動物脂の石鹸とは比べ物にならないほど、きめ細やかな泡が立った。
洗い上がりの肌もつっぱらない。
俺は会心の笑みを浮かべた。
「これを、ヴェルサイユに出仕した時に、あの令嬢たちに見せびらかすわ。絶対に食いつくはずよ。『まぁマリー、その石鹸はどこで手に入れたの?』『ええ、少しばかり特別な伝手で……』なんて言ってね。一つ銀貨数枚でふっかけ——」
「お待ちください、お嬢様」
俺の完璧な販売計画を、ジャンが冷ややかな声で遮った。
「何か問題でも?」
「お嬢様が直接売っては、品物の価値が下がります」
ジャンは完成した石鹸を一つ手に取り、値踏みするように光に透かした。
「ルクレール家のような小貴族の令嬢が『自分で作った』などと言えば、彼女たちは見下して買い叩くか、最悪の場合、製法をタダで教えろと強要してくるでしょう」
「う……」
「ですから、これは私が売り捌きます。お嬢様は宮殿で、『最近、東方の国から素晴らしい美容の秘薬が入ってきたらしい』と噂だけを流してください」
ジャンはふっと、普段の温厚な従者からは想像もつかないような、黒い笑みを浮かべた。
「外国の希少な品。限られたルートでしか手に入らない、高貴な身分にふさわしい最高級品……そういう『箔』をつけて、裏から私の顔なじみの商人経由で宮廷に流します。そうすれば、値段は今の十倍でも飛ぶように売れるはずです」
……えっと。
君、本当にただの従者?
ブランディング戦略から希少価値の演出、さらには独自の裏ルートの確保まで。
息を吐くようにえげつない商売の算段を立てるジャンの姿に、俺は少しだけ引いていた。
同時に、ある残酷な事実に気がついてしまった。
もしこのままフランス革命が起きて、貴族という身分が何の役にも立たなくなった世界が来たとして。
この男は絶対に、たくましく生き残る。
なんなら、革命の動乱に乗じてボロ儲けし、新興ブルジョワジーとしてちゃっかり成り上がる未来すら容易に想像できる。
それに引き換え、俺はどうだ。
知識だけはあっても実行力はなく、コルセット一つ自分で脱げないポンコツ令嬢。
「……ジャン。あなた、私がいない方が絶対に出世するわよ」
「おや。急にどうなさいましたか?」
「なんでもない。一生私についてきてね。お願いだから見捨てないで」
俺は完成した石鹸をそっと置き、ジャンの腕を両手でガシリと掴んだ。
この有能な従者は、もはや俺の命綱だ。




