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ヴェルサイユ宮殿での精神的疲労と、本日二度目となる馬車を経て、俺はどうにかルクレール家の屋敷へと帰還した。
自室の扉が閉まった瞬間、俺は淑女の皮をかなぐり捨てた。
「脱がせて。今すぐ。死ぬ」
メイドに泣きつき、拷問器具みたいなコルセットから解放された時の、あの肺の隅々にまで酸素が行き渡る感覚。
文字通り、生き返った心地がした。
大きく息を吸い込むと、自室の控えめな花の香りが鼻腔をくすぐる。
宮殿のあの絶望的な臭いを嗅いだ後だと、この普通の空気がいかに尊いか思い知らされる。
人払いをして、柔らかいベッドに大の字になって天井を見つめる。
さて、どうしたものか。
アントワネット王妃に顔を覚えられてしまった以上、普通に生活しているだけで俺の死亡フラグは日々スクスクと育っていくことになる。
回避するためには、革命が本格化する前に国外(イギリスかスイスあたり?)へ逃亡するしかない。
だが、家出をするにしても色々用意する必要がある。
何より身の安全を確保するとなれば、1人では不可能。
言うまでもなく、お金も必要となるだろう。
ここらへんの事情はよく分からない。
歴史というのは往々にして一般人の生活環境はあまり明らかにならない。
仮に家出をして、普通に生活するとして、どれくらいの蓄えがあればどれだけ生活できるのか、持続的な生活を営むための職として、どうやって働き始めればよいのか。
ルクレール家は腐っても貴族だが、悲しいかな、領地からのわずかな収入に頼る絵に描いたような貧乏貴族である。
逃走資金なんてどこにもないし、生涯に渡ってくらしていける蓄えもない。
と、その時。
コンコン、と。
控えめなノックの音が、俺の思考を遮った。
「お嬢様、お茶をお持ちしました」
入ってきたのは、見目麗しい……というよりは、どこか胡散臭いくらいに整った顔立ちをした青年だった。
ジャン。
このルクレール家に仕える従者であり、マリーの身の回りの世話から雑務、何なら領地の面倒な書類仕事まで一人でこなす超有能な平民である。
記憶を探る限り、彼はマリーに絶対の忠誠を誓っている……ように見える。
だが、ここは革命前夜のフランスだ。
あと数年もすれば「自由、平等、博愛」の旗の下、彼ら平民が俺たち貴族の首を物理的に刈り取りに来るのである。
いくら温厚そうな彼であっても、いざ革命の熱狂に当てられれば、「貴族憎し」で俺を売り飛ばさないとも限らない。
果たして、彼を手放しで信用していいものか。
俺は身を起こし、ジャンが手際よく淹れてくれた紅茶(よく分からんが、現世の紅茶より美味しいかも)を一口すすった。
どうしたもんか。
彼が本当にいい人なら、課題の一つは解決するのだけれど。
まぁいいや。
聞いてみよう。
「……ジャン。単刀直入に聞くわ」
「はい。何なりと」
「もし、この国が……ううん、私たち貴族が、民衆の怒りを買って全てを失う日が来たら、あなたはどうする?」
カチャリ、と。
ティーカップのソーサーを整えていたジャンの手が、ほんの一瞬だけ止まった。
彼は静かに俺の顔を見つめ返してくる。その深緑の瞳からは、一切の感情が読み取れない。
「……随分と、また突飛なご質問ですね。ヴェルサイユで何か嫌なことでも?」
「質問に答えて」
少しだけ凄んでみせる。
中身は冴えない大学生だが、今は腐っても貴族の令嬢だ。
謎の威圧感くらいは出ていると信じたい。
ジャンは小さくため息をつき、姿勢を正した。
「お嬢様をお守りしますよ。どこまでも」
模範解答。
だが、その声のトーンはどこか冷ややかで、同時にこちらの出方を試しているようにも聞こえた。
「嘘ね」
「おや、心外な」
「あなたは賢いもの。泥舟と一緒に沈むような真似はしないはずよ」
そうだ、俺には金も権力もないが、未来の歴史を知っている。
そして、生き残るためには手足となって動いてくれる有能な協力者が絶対に必要だ。
一人で隣国まで逃げるサバイバル能力など、現代日本育ちの俺にあるはずがない。
「ジャン。私はね、近いうちにこの国は破綻すると思っているわ。王妃様のあの無自覚な浪費ぶり、そしてパリの街の貧困……いつまでも暴動が起きない方がおかしいもの」
現代知識と大学の講義の受け売りを、さも自分が今思いついたかのように語る俺。
ジャンは目を少しだけ見開き、今日初めて明確な驚愕の色を見せた。
普段はドレスと恋バナにしか興味のない世間知らずの令嬢の口から、国家の財政破綻と革命の予見が飛び出したのだから当然だろう。
「……お嬢様。そのお言葉、他所で口にすれば不敬罪でバスティーユ牢獄行きですよ」
「だから、あなたにしか言わないの」
バスティーユ牢獄というのは、政治犯を収容しているところだ。
俺は立ち上がり、ジャンの目の前まで歩み寄った。
「私は死にたくない。だから、逃げるわ。この国から」
「……逃げる?」
「ええ。安全な他国へね。でも、それには莫大な資金が必要よ。今のルクレール家の財力じゃ到底足りない」
俺はジャンの肩に手をポンと置いた。
彼の方が見背が高いので、少し見上げる形になるのが癪だが仕方ない。
「というわけでジャン。もし本当に私に忠誠を誓ってくれるのなら、協力してちょうだい。今日から私たちは、全力でお金を稼ぐわよ。ギロチン……じゃなくて、断頭台の露と消えたくなければ、私の手足となって働きなさい」
「は……?」
常にポーカーフェイスを崩さなかった有能な従者が、ついに素っ頓狂な声を上げた。
少しだけ、胸がすく思いだった。
どうせ死ぬ運命なら、最後にひと足掻きしてやる。
歴史の強制力という名の無理ゲーをクリアするための、俺とジャンの壮大で極めて個人的なサバイバルが、今、ひっそりと幕を開けたのだった。




