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絶望の朝から数時間後。
俺は今、ガタガタと激しく揺れる箱の中に閉じ込められていた。
いわゆる馬車というやつである。
おとぎ話や映画に出てくるような、優雅でロマンチックな乗り物を想像している現代人には申し訳ないが、まじでひどい。
サスペンションだよサスペンション。
失ってから始めて気がつく君の大切さ。
この時代の馬車は、石畳の段差を拾うたびに、容赦なく乗客の尻と腰にダイレクトアタック! を仕掛けてくる。
しかもバーサーカーソウルでも発動しているのか、ずっと俺のターン来ないし。
それに加えて、親の仇のように締め上げられたコルセットのせいで、ただ座っているだけでも呼吸困難に陥りそうだ。
だれだよコルセット作ったやつ。
殺してやる。
優しい気持ちで他人の立場にたって言われたらやだよね? とか諭されて絞り出した俺の良心が表現するけど、これは多分間違いなく拷問器具の類だよ。
え?
昔の女の子って、もしかしてみんなイジメられてたの?
革命起こしたほうがいいよ。
「お嬢様、もうすぐヴェルサイユ宮殿に到着いたしますよ」
向かいの席に座るメイドが、呑気な声で告げる。
俺は吐き気を必死に堪えながら、窓の外へと視線を向けた。
見えてきたのは、太陽王ルイ14世が建造したとされる、泣く子も黙る絶対王政の象徴、ヴェルサイユ宮殿。
左右対称の巨大な建築物に、金ピカの装飾。広大な庭園。
確かに、歴史の教科書で見た通りの豪華絢爛さだ。世界遺産に登録されるのも納得の美しさである。
「ふわぁ」
これは一見の価値あるね。
一瞬だけどコルセットの苦しみを忘れられた。
ありがとう太陽王。
ありがとうルイ14世。
結構ひどい痔だったらしいね。
お礼に馬車乗せたげる。
しかし──。
馬車を降りて宮殿の廊下を歩き始めた途端、俺の現代人としての美意識は音を立てて崩れ去ることになる。
くさせぇ。
とにかく、くさい。
ゲロ以下の匂いがプンプンするぜ。
何がって?
そりゃあ決まってるだろ。
プンプン丸だよ。
この時代、宮殿内にまともなトイレが存在しないことは、もはや教養番組が擦り過ぎて日本人の間では有名な話だ。
貴族たちは庭の茂みや、廊下の隅っこ、おまるを使ってその辺で用を足していたという。
いくら香水をぶち撒けてごまかそうとしたところで、根本的な衛生観念が中世から大して進歩していないのだからどうしようもない。
煌びやかなシルクのドレスの裾を引きずりながら、見えない地雷(物理)を避けて歩くこのスリル。
こんなR指定スレスレの現実を、誰が想像できただろうか。
「あ、マリー! ごきげんよう!」
地雷原を抜けた先のサロンで、甲高い声が俺を呼んだ。
振り返ると、これまた装飾過多なドレスを着た同年代の令嬢たちが、扇子を片手に群がっている。
マリー・ルクレールの記憶が、彼女たちが王妃の取り巻きの「その他大勢」であることを教えてくれた。
ルクレール家は歴史こそあるものの、金も権力もない小貴族。いわば、賑やかしのモブキャラである。
「ごきげんよう、皆様……」
俺は引き攣る顔を扇子で隠しながら、見よう見まねで優雅にお辞儀をした。
「聞いてマリー、ポリニャック夫人がまた新しいドレスを仕立てたらしいのよ。それにあのギャンブルの掛け金ときたら!」
「まぁ、恐ろしいわね。でも、王妃様はまたお気に召すのでしょうね」
始まるのは、中身がスッカラカンの噂話と、ファッション談義、そして誰が王妃のお気に入りかというマウンティング合戦。
国の財政が破綻寸前だというのに、彼女たちの頭の中には「節約」という辞書がないらしい。
俺のなけなしの精神力が、ゴリゴリと削られていく。
女の子って普段どんな会話してんの?
もう愛想笑いしかしてないんだけど。
俺のコミュ力が仕事しない。
休暇にだしちゃったかな。
とその時、サロンの扉が仰々しく開かれた。
おしゃべりに夢中だった令嬢たちが、一斉に口を閉ざし、深く頭を下げる。
俺も慌ててそれに倣う。
「皆様、ごきげんよう」
鈴を転がすような、それでいて誰もが聞き入ってしまう不思議な魅力を持った声。
顔を上げると、そこには一人の女性が立っていた。
透き通るような白い肌、高く結い上げられた輝くような金髪、そして、どんな高価な宝石よりも目を惹く、無邪気で美しい青い瞳。
絵画から抜け出してきたかのような、圧倒的な「華」があった。
間違いない。
彼女が、のちに「赤字夫人」と罵られ、断頭台の露と消えるフランス王妃。
マリー・アントワネット、その人である。
史実で散々悪女扱いされたり、悲劇のヒロイン扱いされたりしている彼女だが、目の前にいるのは、ただただ無邪気で浮世離れした、綺麗なお姉さんだった。
ていうか革命政府からしたら「敵」だから、口汚く罵るのは当たり前なんだけど、この時代の貴族は良くも悪くも世間知らずなので、人間性を語るならば間違いなくよい人で、ぶっちゃけ当時の世間一般では王様と合わせて結構人気だったらしい。
まぁ、そりゃあそうか。
こんだけ可愛ければ、アイドルみたいな感じになるだろう。
現状の危機的状況など微塵も理解していないことが、その屈託のない笑顔から痛いほど伝わってくる。
「まぁ、マリーじゃない。あなたのその胸元のリボン、とっても可愛らしいわね。今度、私にも同じようなものを仕立てさせてちょうだい」
アントワネットが、群衆の中にいた俺をパッと見つけ、気さくに声をかけてきた。
「は、はい……恐悦至極に存じます、王妃殿下……」
俺は恭しく頭を下げながら、内心で滝のような冷や汗を流していた。
(ちょっと待て。お願いだから俺に構わないでくれ!)
王妃に気に入られる。
それはこの宮廷において最大の誉れかもしれない。
だが、俺からしてみれば、それは「歩く死亡フラグ」にロックオンされたに等しい。
あんたと親しくなればなるほど、数年後のギロチン台への距離がマッハで縮まるんですけど!
周囲の令嬢たちが、俺に向かって羨望と嫉妬の入り混じった視線を向けてくる。
代われるものなら今すぐ代わってやりたい。
目の前で朗らかに笑う王妃と、それに寄生して国庫を食い潰す貴族たち。
こんな泥舟を、一介の小貴族の娘(中身は冴えない男子大学生)が内部から改革する?
無理だ。絶対に不可能である。
国の未来よりも、まずは自分の首(物理)だ。
この沈みゆく泥舟からどうやって脱出するか。
俺の脳内で、本格的なギロチン回避サバイバル計画の立案がスタートした。




