俺にできることは
目覚めるとそこは中庭ではなかった。硬い絨毯が肌に当たって痛い。アンソニーはゆっくり立ち上がると辺りを見回した。薄暗く、埃っぽい匂いがする。人の気配がして目を向けると一人の女が壁にかかる絵を熱心に見つめていた。その時、初めて気がついた。部屋の壁にはいくつもの絵が掛けられている。赤ん坊から少年まで。どうやら同じ人物を幼少から描いているようだった。アンソニーは女の方に視線を戻した。白を基調とした簡素なドレスに華やかな黄金のアクセサリーが目立つ。髪飾りに目が留まった。獅子を模った黄金の髪留めに見覚えがあった。
(黄金の獅子……まさかあの人、公爵夫人……?)
アンソニーは夫人の後ろ姿を見つめた。息遣いが聞こえる程、部屋の中は静まり返っている。中庭でグレーテに出会って、三人とも魔法で意識を飛ばされたはずだ。しかしここに、二人はいない。
(俺だけここに飛ばされたのか……?そもそもこれは、現実…?)
そんなことを考えていると、夫人が口を開いた。
「ねえ、あなた。この絵どう思う?」
突然話しかけられて、心臓が跳ねる。無視するわけにはいかず、アンソニーは恐る恐る飾られている絵に近づいた。
「……とても美しいと思います。彼の表情が、なんだか楽しそうで。」
描かれているのは、雪の中で遊ぶ少年。ちょうどアンソニーと同じくらいの年齢に見える。
その答えに夫人は笑顔でアンソニーの方に振り向いた。
「やっぱりそう思う?いい顔してるわよね。」
夫人は嬉しそうに、絵の中の少年を見つめている。
「こちらの絵は、夫人が?」
「そう、そうよ。私が描いたの。」
緊張していたが、不思議と言葉が出てきた。上級貴族に似つかわしくない、柔和な雰囲気があった。
「夫人は絵を描くのがお好きなんですか?」
「うーん、そうね。好きなのかもしれないわ。いつも描いているから。お茶の時間も忘れてしまうからロジーナに怒られてしまうの。」
夫人は思い出して笑った後、ロジーナは私のメイドのことよと付け加えた。
「おれ……僕も絵を描くのは好きですけど、上手く描けないんです。だから、鑑賞ばかりしています。」
「あら、そうなの?好きなように描けばいいのよ。たとえ上手くなくても。練習すれば良いのだし。」
「そう…ですね。」
会話はそこで終わり、再び静寂に包まれた。すると夫人はゆっくり足を動かし、隣に飾られている絵の前に立った。ついていくべきか悩んだが、アンソニーも同じように隣の絵を覗き込んだ。そこには前の絵と同じ少年が描かれていたが、幾分幼いように見えた。
(彼は誰なんだろう。)
アンソニーは心の中でそう呟いた。
「これはね、この子が学校に入ったくらいに描いたの。ほら制服着てるでしょう?絵になるのが恥ずかしかったみたいで、じっとしていられなくてね。」
疑問が口に出ていたのかと驚いたが夫人はアンソニーに見向きもせず、絵の中の少年を凝視して夫人は語り始める。絵の中の少年はアンソニーと同じ制服を着ていた。
(まさか……)
アンソニーの頭の中に一人の人物が思い浮かんだ。彼はきっとレーヴェ家の…。考え込むアンソニーを置いて夫人はまた隣の絵の前に移っていった。さらに幼くなった少年が窓辺の椅子に腰掛け、こちらに笑いかけている。夫人は少年を愛おしそうに見つめた。夫人とよく似た顔、明るい金髪。その髪の色は屋敷に入ったときに見た、大きな額縁の中の男と同じだった。夫人は右手を絵の方に伸ばすと少年の方を撫でた。
「でも、あの子がどうやって笑うかなんて、もうわからないわ。」
掠れてほとんど聞こえない声だった。微笑みを湛えていた端正な顔は糸が切れたように崩れ、眉が下がり唇が震えた。今まで押し殺していた感情が溢れ出したようだった。アンソニーは確信した。少年は公爵夫人の亡くなった息子、12年前に死んだレーヴェ公爵家の嫡男だ。そしてグレーテの言葉を思い出した。
『まだ試験は終わっていません。』
(まだ、試験は続いている。何を試されているんだ…?)
「全部、私の想像でしかないの。旦那様だって絵を見て喜んでくださったわ。優しいから。でも、きっと思ってる…。私がおかしくなってしまったって…。わかってるの…!」
「夫人……」
夫人はその場に座り込み、両手で顔を覆った。家族を失う悲しみは痛いほどわかる。夫人が絵を描き続けるのはおかしくなったからではないと、アンソニーは思った。絵を描いていないと、悲しみで押しつぶされそうで、生きていられなかったのだ。
母を亡くした時、一生分の涙を流したと思うほど泣いた。太陽の光を遮り枕を抱え込んで、部屋で一人、何も考えたくなかった。そんな時、アンソニーの手をとってくれたのは父親や使用人、村人たちだった。村中が家族となってアンソニーの悲しみに寄り添ってくれた。
夫人は12年前の悲しみを乗り越えられていない。公爵は夫人の意思を汲んで次の子をと言わなかった。しかし我が子を思えば思うほど心の穴は埋まらず、時間だけが過ぎていく。そのうち世継ぎ問題を先延ばしにはできなくなり、公爵は渋々、一族の中から最も相応しい子どもを養子にとることに決めたのだ。
アンソニーは口を開いた。
「俺は公爵家に相応しくありません。」
夫人は顔をあげた。涙で濡れた瞳は驚きを隠せずに揺れている。
「養子に、なりたいのではないの?だからここに来たんでしょう?」
「……そう…養子になればいずれ公爵位を得られると思い、来ました。貴方の気持ちなんて考えてもなかった…。こんな身勝手なやつ、上に立つべきじゃない。」
アンソニーは夫人の横にしゃがんだ。
「夫人はおかしくなってなんかいません。心が本当に壊れてしまわないようにしていただけ。」
「あなた…。」
「悲しみに寄り添わせてください。母様が死んだ時、俺の家族がそうしてくれた。俺はそれに救われたんです。」
アンソニーはそう言って、首を振った。
「俺は、こんなこと言える立場じゃないけど…。」
長い沈黙だった。少なくともアンソニーにはそう感じられた。夫人は俯いたアンソニーを見つめたまま動かなかった。しかしゆっくり体の向きを変えると、アンソニーの顔を覗き込んだ。
「あなたは…とっても優しい子ね。」
夫人は母のような優しい顔で、アンソニーを抱きしめた。
そこで記憶は途切れた。




