公爵家の養子
「奥様、少しお休みされてはいかがですか?」
「あと少しなの。今、あの子いい顔してるでしょ。」
芽吹く大地が待ち遠しい季節。雪は未だ降り続き、白銀の世界は終わることを知らない。レーヴェ公爵別邸の白い壁は純白の大地と一体となって、まるで雪の城だった。
その日は珍しく雲の隙間から陽光が差し、中庭に積もった雪が美しく光を反射していた。公爵夫人は窓辺に腰掛け、既に色の付いたキャンバスに筆を置いた。描かれた庭の景色の中にぼんやり浮かび上がるのは、夫人に良く似た少年。時計の針と筆と布が擦れる音だけが辺りに響いている。その様子を見ていたメイドが言葉を続けた。
問いかけに、夫人は腕を休めずに答えた。キャンバスには楽しげに雪遊びをする少年の姿がある。
「では、終わりましたら、温かいお茶をお入れいたします。」
「ありがとう。あの子分もお願いね。」
夫人は笑顔でそう言うと、またキャンバスに向き直った。メイドは困った顔をした。
「坊っちゃまはお紅茶がお嫌いなはずでは?」
「あら、そうだったわ!」
夫人は愛おしそうに帆布の先を見つめた。メイドも同じように、白銀の庭を見回して眉をひそめた。目線の先に雪遊びをする子どもの姿などない。そこには最初から白銀の庭があるだけだった。メイドは悲しげな目で夫人を見た。夫人は息子が死んだあの日から、存在しない息子の絵を描き続けている。
レーヴェ領の西、辺境の村を統べるフックス男爵家は貴族とは名ばかりで、村の農民たちと同じような生活をしていた。おかげで村人たちからは愛され、この国では珍しく身分による確執のない暮らしをしていた。だが、男爵は貴族社会では笑い者だった。屋敷の使用人は、村で生まれ育った若者と決まっていた。貴族の出を雇おうものなら、庶民のような暮らしに耐えられず数日もしないうちに逃げ出してしまうからだ。しかし、今では若い者も減ってしまって、屋敷の人手に困っていた。加えて今年は悪天候に見舞われて、作物も十分に獲ることができず、村人たちは餓えに苦しんでいた。その様子に心を痛めた男爵は、一家も食べ物に困っているにもかかわらず、蓄えていた食料を村人に分け与えた。村人たちは感謝したが、喜びは数週間ともたなかった。いよいよ食べ物の底が尽き、男爵が頭を悩ませていたところに、一通の手紙が届いた。
「旦那様、これすごく綺麗ですよ。誰からでしょう。」
召使いの少年が封筒を見ながら尋ねた。
「見せなさい。誰からって、伯爵からじゃないのか?」
村の危機を救うため、男爵は村から最も近い街を治める伯爵に助けを求めていた。その返事がやっと来たと思ったのだ。
「いやほら、これ見たことない印ですよ。」
そう言って少年は手紙の封蝋を見せた。それは黄金に輝いていて、中央には獅子の印が押されていた。男爵は目を見開いた。
「レーヴェ公爵家の紋章!」
「え?公爵って、あの?」
「そうだ。この獅子、間違いない。だが何故……こんな田舎の貧乏貴族に手紙なんて……」
「不思議ですねぇ。旦那様、何か癪に障ること言っちゃったんじゃないですか?」
「こらお前、私は公爵と会ったことはないぞ。」
「そうですか。」
男爵は少年から受け取った封筒を丁寧に開けると中身を取り出した。二人は一緒になって手紙を覗き込む。文字を追う間、部屋は静寂に包まれた。そして二人同時に顔を上げた。
「旦那様、これって前代未聞ですよ!?」
少年はだんだん事を理解したように呟く。
「ああ、大変なことだ。こんなことが起こるとは……しかし、これは命令だ……。」
「どうしましょう、と、とりあえず今すぐ坊ちゃんに伝えた方がいいです。」
「そうだ、そうだな。お前の言うとおりだ……。今すぐ、アンソニーをここへ連れて来なさい。」
「承知しました!」
少年は急いで部屋を飛び出した。男爵は手紙を書斎の机に置き、勢いよく椅子に座った。そして机に肘をついて頭を抱えた。
「参ったな……」
『貴殿のご子息、アンソニーを公爵家の嫡男として迎え入れようと考えている。』
その手紙は、王国でも類を見ない、異例の事態を告げていた。十二年前に死んだ公爵嫡男の代わりに、一族の中から同じ年に生まれた子どもを養子に取ると言うのだ。その候補にフックス男爵家の長男、アンソニーが選ばれたという。
屋敷の広間には杖を構えた人影が二人あった。薄く赤みのある金髪の少年と白髪混じりの男が距離をとって向かい合っている。沈黙が続いたあと、男が杖を振り上げると、どこからか大きな波が床を覆った。少年が杖を振ると、体が宙を浮いた。波は激しさを増し、部屋が水で満たされていく。少年が杖を床の方に向ける。
「《大地を裂く魔法》!!」
すると床だったところが地割れを起こし、波は谷へと落ちていった。それでも構わず男は大きな波を生み出す。少年は杖を大きく振った。
「《雷を放つ魔法》!!」
天井から激しい雷が落ち、水気に反応してバチバチと大きな音を立てる。煙が部屋を覆う。少年はゆっくり足を地面につけた。煙の向こう側から、拍手の音が聞こえた。
「お見事です坊ちゃん。また腕を上げられましたね。」
男はそう言って、微笑みをたたえている。
「どうだか。またお前の海に飲まれた。」
少年は不満そうに言った。そして男の方に向かって歩き始めた。
「しっかり前回の反省が生かされています。さらなる波を生まないよう魔法の弱点をついている。大地と雷の元素魔法を上手に扱えていますね。素晴らしい成長です。」
少年は男を見上げた。
「そうだが、俺はまず、この部屋を水でいっぱいにしちゃいけない。」
「わかっていらっしゃるではないですか。さらにいえば、大地と雷の神聖魔法であればより適切な対処法といえたでしょう。」
「それはまだ……練習中で……!!」
少年は口ごもる。すると突然、部屋の扉が勢いよく開いた。
「坊ちゃん!大変です……よ……って、すみません訓練のお邪魔でしたか?」
召使いの少年は、二人を交互に見た。
「いいえ。ちょうど終わったところですから、問題ありませんよ。どうしたんです?そんなに急いで。」
「詳しいことは旦那様から聞いてください!坊ちゃんは急いで書斎へ!」
「何かあったの?」
「はい!大変なことが起こりました!坊ちゃんは選ばれたんです!」
「何言ってるんだ?」
「だからレーヴェ公爵家の養子に、坊ちゃんが選ばれたんです!!」
「はぁ!?」
会話が噛み合わないまま、坊ちゃんと呼ばれた少年、アンソニーは召使いに連れられて父のいる書斎へと急いだ。
馬車に揺られて数時間。アンソニーは頬杖をついて窓の外を眺めていた。目線を左手に移し、父から受け取った例の手紙の文字を追う。何度読み返したかわからないが、いくら読んでもその内容を理解することはできなかった。ぼんやりとあの日の書斎での出来事を思い出していた。
「十二年前、レーヴェ公爵家のご子息が亡くなられたことは知っているか。」
「はい。お話は聞いたことがあります。」
「生きていれば、お前と同じ歳になる。」
男爵は静かに語り始めた。
「今まで公爵家の跡取り問題はうやむやになっていたが……公爵は一族から養子を取るおつもりらしい。」
時計の針の音がやけに大きく響いている。
男爵はアンソニーに背を向けたまま黙ったままだった。
「なんで俺が……?」
「それはきっと、お前の優秀さを買ってのことだろう。」
これはきっと、名誉なことなのだろう。王家に次ぐ権力を持つ三つの公爵家のその一員になれるというのだ。そんなチャンスは後にも先にも起こりえないだろう。男爵は貴族の最下層で、一生のうち、公爵に会えればそれは良い人生と言えるのだ。嫡男の代わりということは、公爵の爵位が手に入る。アンソニーの頭の中には不安と期待が入り混じり、それと同時に心に穴が空いてしまったようだった。
「この家はどうするんですか……?」
単純な疑問だった。長男であるアンソニーがいなくなれば、新たにフックス男爵位を継承する者が必要となる。この村はどうなるのだろうか。
「それは……今考えることではない。」
「父上!」
男爵は初めてアンソニーと目を合わせた。
「私はお前を誇りに思っている。死んだお前のお母様だって、そう思っているさ。」
男爵はアンソニーを力強く抱きしめた。そして静かに告げた。
「手紙にあるように、明日、公爵家別邸に向かいなさい。」
アンソニーは耳元で父の震える声を聞いた。
「俺がレーヴェになれば、村を裕福にできるかな……」
公爵の言葉は絶対だ。アンソニーが男爵位を継ぐことはできないが、父のため、村のためにできることをしたいと思った。公爵家を利用してフックス家の納める領地を支援できないかと夢想する。
するとそのうち、翔ける馬は段々と速度を落とし、荘厳な門の前で立ち止まった。馬車を降りて横を見ると、そこには他に二台の馬車があった。どちらも豪華な装飾が施されいて、一目で男爵より格上の家のものだとわかった。
「他に誰かいる……?」
疑問を抱いたまま、アンソニーは屋敷の扉を開いた。
アンソニーは真っ赤な絨毯を踏みしめた。玄関にしては広すぎる空間は静まり返り、左右を見渡すとどちらにも長い廊下が続いている。壁は純白で、広間と廊下を覆う赤を際立たせている。頭上では光る水晶が美しく飾られ、壁や柱の色を反射していた。入ってすぐに目に入るのは横幅のある階段だ。真っ赤な床は階段の先まで伸び、広い踊り場から二手に分かれて上階へと続いていた。踊り場の壁には大きな額が掛けられ、美しい金髪の男と目が合った。金髪はレーヴェ一族の特徴で、遠縁であっても多くの子どもが金色を含んだ頭髪を持つ。この肖像の男がレーヴェ公爵だろうか。
「すごい……初めて来たこんなとこ。」
思わず呟くと、一方から人の声がした。
「また人が来た。レーヴェ公は何をお考えなのだ。」
右側に続く廊下から足音がだんだんと近づき、怒った声の主は姿を現した。
「君は……」
アンソニーは状況を理解できない。それに構わず少年は喋り続ける。
「まさか、貴殿も手紙を貰ったのだと言うつもりではないだろうね?」
「え?あ、そうそう!俺も手紙を貰って、ここに来るように言われたんだ。」
少年は大きなため息をついた。黄みの強い金髪を後ろで結び、派手な装飾の施された衣服に身を包んでいる。
「はぁ。冗談じゃない。公爵は三人も養子をとるおつもりか?」
「三人?」
すると、もう一方の廊下から声が聞こえた。
「選ばれたのは私だけではなかったようですね。勘弁していただきたい。」
三人目の少年がゆっくりとアンソニーたちの元へ歩いてきた。こちらは灰色かがった金髪を短く切り揃え、体に見合っていない大きさの服を着ている。
「どうなってんだ……?」
アンソニーは思わずそう呟いた。
集められた少年たちに会話はない。お互いになぜこの場にいるのかを探り合っている。その時、少年たちの頭上から声が降ってきた。
「お三方、お揃いですね。」
アンソニーたちが階段の方を見上げると、カツカツと踵の音を立てて女が降りてきた。
「お越しいただいたこと、公爵に代わり御礼申し上げます。」
女は淡々と述べ、三人を順々に見た。
「ジョバンニ・フォン・ベア様。」
「クリストフ・フォン・ルクス様。」
「アンソニー・フォン・フックス様。」
名前を呼ばれた少年たちは不審そうに女を見た。
「私はグレーテと申します。この度の試験において、監督の役を務めさせていただきます。」
「試験!?」
「何を仰ってるんですか?」
「公爵はいらっしゃらないのか!?」
三人同時に口を開いた。只事ではないことに巻き込まれた。アンソニーはそう思った。
「お静かに。これから皆様には、レーヴェ公爵家に相応しい方を選抜するためのいくつかの試験をお受けいただきます。」




