【短編】もう少しだけこのままで
「セシリア、だから言ってるだろ、その手綱の持ち方じゃ――」
「……いちいち指図しないでくださる? 私は、アレクシスの部下じゃありませんわ」
言った瞬間、自分の声が思ったよりも鋭くて、冷たかったことに気づいた。しまった、と思ったが、もう遅い。言葉は風に乗って、彼のもとへ届いてしまった。
アレクシスの眉がぴくりと動いた。
ああ、またやってしまった――。
秋の風が、紅く染まった木々の枝を揺らす。
また、口喧嘩。もう何度目だろう。
学院の生徒たちも、呆れているに違いない。わかっているのに、どうしてこうも素直になれないのか。
名門家同士の、形ばかりの婚約。でも、私は、アレクシスに不満があるわけじゃない。むしろ、彼は誰よりも冷静で、礼儀正しくまったく非の打ち所がない。
何も間違っていない彼の言葉に、私だけが苛立ってしまう。そして、苛立つ自分にまた落胆して、ぐるぐると、堂々巡り。
もっと穏やかに、優しく話せたら……少しだけ、普通に笑い合えたなら……
そう願っているのに、いざ彼と向き合うと、言葉がうまく出てこない。
「また口喧嘩? ふたりって、ほんとに仲が悪いのねぇ」
からかうような声に、私は思わず顔を上げる。
アルマ・ウィンザー。アレクシスの幼なじみ。
彼のすぐそばで笑って、肩を寄せて、それが当然だと言わんばかりに彼の過去を語る令嬢。
「喧嘩するほど仲がいいって、そういうことかしら? それとも嫌いなの?」
彼女の視線が、私とアレクシスを交互に見やる。
「……そういうわけでは」
声は平静を装っていたけれど、胸の奥は小さく波打っていた。彼のことが嫌いなわけじゃない。むしろ、誰よりも――
風がふと、またひとひらの葉を運んできた。それはアレクシスの肩に舞い落ち、そして地面へと落ちる。
私たちの距離のように、埋まらないまま、そっと地に触れた。
私の知らないアレクシスを、彼女は知っている。
ふたりの距離の近さに、いつだって私の感情がざわつく。
笑いながら腕を組む仕草ひとつさえ、どこか見てはいけないものを見てしまったようで、目を逸らしたくなるのに、逸らせない。
「ふふ、セシリアも少しは男心、わかってあげなくっちゃね?」
アルマの声には、いつだって棘がある。
そんなの、私だって、わかってるわよ……
彼女がアレクシスをどう思っているのかなんて、言葉にしなくても伝わってくる。何より悔しいのは、彼がその想いを拒んでいるようには見えないこと。
……私だけが、なぜこんなに苦しいのか。
私が素直じゃないから?
私は何も言い返せなくて、ただ唇をきつく噛みしめることしかできなかった。
私は視線を逸らし、無意識に手綱を強く握りしめていた。
「……力を入れすぎるなと言っているだろ? 馬は、君の緊張をそのまま感じ取るんだ」
アレクシスの声は、いつも通り落ち着いていて、感情の起伏をほとんど含まない。理屈としては正しい。経験に裏打ちされた助言で、私のためを思っての言葉だということも、分かっている。
分かっているのに。
「そんなこと、分かっていますわ」
反射的に、突き放すように言ってしまった。
――違う。そうじゃない。本当は、ありがとうって言いたかっただけなのに。
どうして私は、こういうときに限って、可愛げのない言葉しか選べないのだろう。
アレクシスはそれ以上何も言わず、ただ一度、短く息を吐いた。責めるでも、怒るでもないその沈黙が、かえって私を追い詰める。
この人は、いつも正しい。正しくて、穏やかで、私よりずっと大人で――だからこそ、並んで立つたびに、私は自分がひどく未熟に思えてしまう。
このままじゃ、ずっとこうだ。
分かり合いたいと思うほど、言葉がぶつかって、距離ができる。歩み寄ろうとすればするほど、互いの足並みはずれていく。
この婚約も、私たちも、このまま変われないまま、形だけを保って続いていくのだろう。
*****
その日も、心のもやもやを振り払いたくて、私は馬場へ向かった。
冷たい空気が、頬をかすかに刺す。
――それは、突然だった。
強く吹いた風が、木の葉を一斉に舞い上げたかと思えば、馬が激しくいなないた。前脚を滑らせ、ぐらりと傾く視界。紅く染まった空がぐるぐると回転し、遠のいていく。
痛みも、恐怖も、感じる暇さえなかった。
「セシリア――!」
名前を呼ぶ声が、遠くで響いた気がした。
目を覚ますと、そこは私室の天蓋の下だった。
柔らかな光がレースのカーテンを透かして、天井に淡い模様を描いている。
しばらくは、何が起きたのか分からず、ただぼんやりと見上げていた。
「セシリア様、お目覚めですか?」
聞き慣れた侍女の声が、遠くの波音のように響いた。その声に応える間もなく、慌ただしい足音が部屋へと近づいてくる。
「セシリア!! ああ、よかった……!」
母の声が震えている。続いて、低く落ち着いた、でも動揺を含んだ父の声。
「痛みはどうだ?」
「大丈夫です、お父様、お母様」
そう返した私の声は、驚くほど静かだった。
身体は痛むけれど、幸い、骨にも脳にも異常はなかったらしい。打撲と軽い捻挫、それだけ。けれど、静まり返った室内でひとりになると、奇妙な考えがふと胸をよぎった。
このまま、記憶をなくしたふりをすれば、婚約も、なかったことにできるのかもしれない。
婚約破棄なんて、令嬢の口から軽々しく言えるはずもないけど、もしも、記憶をなくしたとしたら?
この関係を“なかったこと”にできる?
この苦しさから、逃れられるなら。彼の隣で笑う誰かを見て、胸が痛むくらいなら。素直になれない自分を、責めずに済むのなら――
その方が、きっと楽だわ。
そう思う自分に、少し驚きながらも、私はただ静かにベッドに横たわった。
「……ほんとは、仲良くなりたいのに」
窓の外に目をやったまま、ふと漏らした声は、秋の風にさらわれていった。
誰にも届かないほど、弱くて、頼りない声だった。
夕方、アレクシスがお見舞いに来た。
扉が開き、影が差す。やわらかい夕陽の中で、彼の金茶の髪が淡く揺れた。
「セシリア……大丈夫か?」
低く震えるような声。私の包帯姿を見た瞬間、彼の顔がゆがむのが分かった。
その声に、私は反射的に体をこわばらせた。
何度も名前を呼ばれた、その声。
だけど私は、目を伏せたまま、呼吸を吐き出すように言った。
「……貴方、誰?」
部屋の空気が、一瞬にして凍りついた。
アレクシスの気配が、止まる。音もなく、静寂だけが流れる。
見なくても分かる。きっと今、彼の瞳は驚きと苦しみに、歪んでいる。けれど、私は顔を上げなかった。何も知らないふりをして、何も思い出せないふりをして。
これは、私が選んだ、ささやかな逃げ道だった。
ごめんなさい。だけど……もう、戻れない。
「セシリア……本当に、覚えていないのか?」
父の声が、低く震える。悲しげなその様子に、思わず手をぎゅっと握る。
急ぎ呼ばれた医師が到着し、父と母が顔を見合わせ、使用人たちは戸惑いを隠せず、屋敷じゅうに緊張が走った。時間だけが、ゆっくりと、妙に遠く感じられた。
母が手を握ってきた。けれど私は、その手を握り返せなかった。
ただ、虚ろな目をし、手をさらに強く握るだけ。
それが今の私にできる、唯一の選択だった。
「頭を打った衝撃による一時的な記憶障害でしょう。しばらく様子を見ましょう」
医師の声が、何か別の世界の話のように聞こえる。
そのとき彼の気配が、近づいてきた。
罪悪感が胸をかすめた。でも、もう後戻りはできない。そう思っていた。
けれど。
彼の瞳が、いつも冷たく見えていたその目が、震えていた。
「俺は……君の婚約者だ」
低く、でもどこか優しく呟かれたその言葉に、私は心臓をぎゅっと締めつけられるような感覚に襲われた。
数秒の沈黙。
そして、彼はやわらかな笑みを浮かべるような声で言った。
「安心しろ。俺たちは、とても仲の良い恋人だったんだ」
「……え?」
思わず、声が漏れた。目を見開いたまま、彼を見つめる。
「いつも手をつないで散歩して、君は俺をアレクって呼んでた。君は俺の紅茶の好みもちゃんと覚えていて……本当に、誰もが羨むような恋人同士だったよ」
穏やかな声。嘘を並べるには、あまりにも優しすぎる声だった。
誰もが羨むような恋人同士? そんな馬鹿な……。
紅茶の好みなら知っている。でも、アレクなんて、そんな呼び方をしたことはない。
けれど、どうして、そんな嘘を――?
不安定な私を動揺させないためかしら?
彼が言ったその嘘に、責める言葉を投げかけることはできなかった。なぜなら私だって、嘘をついているから。
*****
秋の空は、高く澄みわたり、朝露に濡れたバルコニーに出ると、ひんやりとした風が頬を撫でた。けれどそのすぐあとに、温かな紅茶の香りが漂ってくる。
「アレクシス様が、セシリア様の好きな紅茶の葉を届けてくださいました」
侍女の声に、思わず目を伏せる。紅茶の好みを知っていたのね。
テーブルの上に置かれたティーカップ。
ほんの少し、蜂蜜を垂らしたような甘い香りが立ちのぼる。ひと口飲めば、心までふんわりとほどけるようだった。
それからの日々、彼はまるで別人だった。部屋には季節はずれの花が絶えず飾られ、そこだけ春が訪れたようだった。
「秋が寂しいなら、春を贈る」
と、彼が笑いながら言ったのを思い出す。
散歩に誘われることも増えた。
屋敷の庭だけでなく、少し足を延ばして、学院の外れにある並木道まで。
「あれ? ここ……」
前に大げんかしたところと言いかけて、あわてて口を閉じた。隣を歩いていたアレクシスの足が、わずかに止まった。
ほんの一瞬。気づかなければ見逃してしまうほどの、ほんの僅かな間。
彼は何も言わずにそっと、違う道に私を誘導する。
「今日は風が気持ちいいな」
そう言って、彼は話題を変えた。差し出された手を、そっと握る。
――嘘が、また一枚。重なっていく。
そういえば不思議なことに、彼は馬場へ行こうとはしなかった。以前なら、私を連れていきたがっていたはずなのに。
「少し体調が万全じゃないだろう」
「今日は寒いからやめておこう」
そんな理由をつけて、いつも別の場所へと導く。
きっと、私に思い出させたくないのだ。あの場所で、何度も言い争ったことを。
――私の嘘は、彼の優しさの上に、成り立っている。
誰もいない部屋で、ランプの灯りだけを頼りに、私は天蓋を見つめていた。
「……私、最低だわ」
声に出してみると、その言葉は思ったよりも軽く、そして重かった。
心配させて。
嘘をついて。
優しさを、当然のように受け取って。
それなのに、心のどこかで、安堵している自分がいる。優しくされるほど、戻れなくなる。でも本当の関係に戻ったとき、失うかもしれない。
そう思うと、怖くてたまらなかった。
だから私は、何も言わない。
何も思い出さないふりをする。
両親は、明らかに安心していた。私に聞こえないように安堵の声を漏らす。
「婚約者らしくなったな」
「これで、やっと落ち着くわ」
その言葉を聞くたび、胸が少しずつ締めつけられる。
皆が望んでいた姿。
皆が喜ぶ関係。
外に出ると、彼は必ず私の隣にいる。
何も言わなくても、当たり前のように手を差し出し、私が戸惑えばそっと指を絡め、「寒くないか?」と、言いながら自分のマントを肩にかけてくれる。
ずっと前から私のことだけを見ていたかのように――
ずっと前から私たちは恋人だったかのように。
彼の嘘は、優しかった。触れるたびに、優しさの形をしていた。アレクシスが私の手を取るたび、指を絡めるたび、その温度に、嬉しくなるたび。苦しくなっても、その手を振りほどけなかった。
壊れると分かっている夢ほど、どうしてこんなにも、甘いのだろう。
だからこそ、私は怖くなった。
嘘の上に築かれたこの甘やかな日々が、いつか終わると知っているから。終わりを告げる勇気もないまま、私は今日も、彼の差し出す手に、そっと自分の手を重ねた。
――嘘でもいい、もう少しだけ、この夢を見ていたい。
*****
やわらかな日差しに包まれた庭で、アレクが取り寄せたという小さな花を一緒に眺めていた。
淡い色合いの花弁が、風に揺れる。
名前も知らないその花が、なぜだか今の自分に似ている気がして、視線を落とした、そのときだった。
「ねえ、本当に……見違えたわ」
振り返ると、そこにアルマ・ウィンザーが立っていた。いつものように微笑みを浮かべ、軽やかな声音で、けれどどこか含みを持たせて。
「前は、庭を歩くだけでも、あなたたち火花散らしていたでしょう? それが今じゃ……まるで絵に描いた恋人同士」
からかうように肩をすくめる。
「記憶をなくすって、人を、ここまで変えてしまうものなのね」
軽い皮肉。
冗談めいた口調。
けれど、その目は、笑っていなかった。
「……そう、でしょうか」
言葉を選ぶ私を、アルマは一歩だけ近づいて見つめてくる。
「ええ。不思議で仕方ないの」
そう言って、ふっと声を落とした。
「本当に、何も覚えていないの?」
空気が、わずかに張りつめる。
「廊下ですれ違えば、必ず言い争っていたでしょう。馬場では、周囲が止めに入るくらい、いつも険悪で……」
淡々と語られる過去に、心がざわつく。
「……喧嘩、ばかり……」
問い返した自分の声が、少し震えていたのが分かった。
アルマは、その反応を見逃さなかった。
「ええ。だから、今のあなたを見るとね……」
言葉を切り、視線を、ゆっくりと下へ落とす。その先、私と、アレクシスの、重なった手を見ている。
気づいた瞬間、胸が跳ねた。
指先に、ぎゅっと力が入る。無意識だった。
アルマの目が、わずかに細められる。
「記憶がないのに、こんなふうに、昔と同じ癖が、出るものなのね」
癖? 一体何のこと?
静かな声。責めるでもなく、問い詰めるでもない。
でも、それは、確信の言葉だった。何か、気付かれた?
私の手元から、ゆっくりと視線を戻し、アルマは小さく息を吐く。
「……嘘、つくの、向いてないわよ。セシリア」
何かが音を立てて、崩れ始める。言い返そうとしても、言葉が見つからない。視線を逸らせば、負けだと分かっているのに、目が泳ぐ。
その瞬間――
隣にいたアレクシスの気配が、変わった。ぴたりと、時間が止まったように。彼は、何も言わず、ただ強く、私を見つめていた。
逃げ場は、もうどこにもない。
――そろそろ、終わりなのだ。
嘘で繋ぎ止めていた、この穏やかな時間は。
「……ごめんなさい、アレク……私、本当は、記憶、なくしてなんていなかったの」
そう告げたとき、彼はどこか悲しそうに、それでも優しく笑った。
「知っていたよ」
「え……?」
「君は嘘をつくとき、手をぎゅっと握るんだ」
「知っていたのになんで?」
「喧嘩ばかりで、どうしたら君と話せるかわからなかった……でも、君に優しくする理由ができたから、嬉しかったんだ。……好きだったから」
アレクシスは、肩を落として笑った。その笑みに、胸が痛んだ。
「好きって……本当に? 喧嘩ばかりしていたのに?」
戸惑いと戸惑いが重なったまま、矢継ぎ早に問いかける私に、アレクシスは目を細め、そっと言った。
「ああ、君が初めて会ったときに言ったんだ。“何でも言い合える仲になりたい”って」
思い出す。顔合わせの日、たしかにそう言った。
「でも、あるときアルマに言われたんだ。婚約者に優しくしなさいって」
そっとアルマを見ると、彼女は肩をすくめ、照れたように笑っていた。アレクシスは、視線を伏せたまま、静かに続けた。
「俺は、正しいことを言えば、分かり合えると思っていた」
その言葉は、どこか自嘲を含んでいた。
「君が間違えていると思えば指摘したし、危ないと思えば止めた。それが何でも言い合える仲、君のためだと、本気で信じていた」
ゆっくりと、私を見る。
「でも……正しさは、優しさじゃなかった。君が言い返すたび、俺は“嫌われていると思い込んでいた。だから、余計に距離を詰められなくなって……臆病だったんだ」
小さく、息を吐いた。
「何でも言い合うって、こんなことじゃないって気づいたときには、もうどうすることもできなくて……セシリア、実はな、アルマにはずっと協力してもらってたんだ」
私は思わず、顔を上げてアレクの瞳を見つめた。
「協力……って?」
彼は軽く息を吐いて、ふっと笑った。
「関係を変えたいって言う俺を、応援してくれてたんだ。だから、君に少しでも嫉妬してもらえるようにって、俺に好意があるふりをしてもらってた」
アルマを見ると、彼女は呆れた顔で小さくため息をついた。
「大変だったのよ。私の好みの男性、アレクシスとは真逆だもの」
紅葉が、ふわりと舞い落ちる。
――なんだ、そうだったの。
気づけば、笑い声が庭を包んでいた。アレクシスはまっすぐに私を見つめて言った。
「君が好きだ。だからーー」
私はそっと彼の手を取り、微笑んで答えた。
「はい、アレク。今度こそ、嘘じゃない気持ちで」
そう言って、彼の手を握り返す。
「私もアレクが、好きです」
風が、ふわりと吹き抜けた。
ふたりの指先に触れた秋風が、そっと頬を撫でる。恋の始まりを、祝福しているかのように。
再び馬場に立ったのは、それから少し経ってからだった。
「今度は、ちゃんと見てて。手綱は、こう」
アレクシスが後ろで、私の手を包むように導く。背中越しに伝わる体温に、胸がくすぐったくなる。
「……力を抜く。馬と、呼吸を合わせるんだ」
言われた通りにすると、馬は穏やかに歩き出した。
「できてるぞ」
その声に、私は思わず振り返る。
「ありがとう、アレク」
自然に出たその言葉に、彼が少し驚いたように目を瞬かせ、そして笑った。
秋の空は高く、澄みわたっている。
嘘から始まった恋は、ようやく、本当の一歩を踏み出したのだ。
END




