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第三話

 ロウジは浜辺にいた。穏やかな波が打ち寄せる晴れた日だった。

 彼の背後では砂浜に降り立ったレイヴンが黙って見守っている。


 ロウジは身にまとっていたローブを脱ぎ捨てた。あらわになった全身の皮膚は半透明で、血管や筋肉が皮下に透けて見えた。頭髪や体毛、性器はなくなっていた。打ち寄せる波に足を浸すと、そのまま沖合に向かって進んでいく。頭まで水没すると、首筋に並ぶ鰓列が開き、海水から酸素を取り込み始めた。

 ロウジはヒレのように広く変形した足を動かし、ゆっくりと泳いでいった。海中には茶色い懸濁物の粒子が漂い、透明度はほぼゼロに等しかった。視界の利かない海中を自分の直感に従いながら進んでいく。何を目指しているのか、自分でもよくわからない。


 数日後、ロウジは理想的な場所に到着したことを悟った。そこは水深三十メートルほどの岩場だった。岩の形が直線的なので水没したビルの廃墟かもしれない。そこはプランクトンをたっぷり含んだ暖かい海流が流れていた。

 ロウジは岩にしがみ付いた。手のひらと足の裏から粘着物が分泌され、接着剤のように岩肌に張り付いた。全身からは別のもやもやとした粘液が煙のように分泌されはじめ、それはやがて彼の姿を覆い隠していった。分泌物は硬化し、鮮やかなオレンジ色に変わった。ロウジは海水の入り口と出口だけが開いた、ゴツゴツとした壺型の物体になった。壺の中で、ロウジの肉体も劇的な変容を迎えていた。手足が縮み、頭部と胴体も融合した。全身の骨格も失われていった。


 今回のトライアルはホヤだった。

 その姿に似合わず、脊索動物門のホヤは脊椎動物に近縁だった。成体は固着性だが、幼生はオタマジャクシのような姿で自由に泳ぎ回ることができる。そして成長に適した場所を見つけると岩や海底に固着し、動かなくなる。そしてただ海水中の有機物やプランクトンをろ過して生きるだけの存在になる。脳さえも失われる。もはや必要ないからだ。

 ロウジもまた、同じ過程を経て変態することになっていた。

 彼のいる海域では、高濃度の栄養塩類を餌に爆発的にプランクトンが増殖していた。食べ物には一生困らなかった。自分で動いて餌を捕まえたり、集めたりする必要もない。ただ口だけ開けて、埃のように漂ってくる高濃度のプランクトンを吸い込んでいればいい。

 もう何も考えたり、心配したりする必要はない。そもそも脳がなくなるのだ。

 むしろ、人間や動物は脳があるから苦しんで生きているんじゃないのか。厳しい現実を認識するから苦しみ、不確かな未来を思うから悩むのだ。自分はまもなくそれから永遠に解放される。

 おめでとう、俺。これまでよく頑張ったよ。

 だけど、本当にこれでいいのか。これって実質的な自殺じゃないのか。やっぱりこんなのは違う。

 ロウジは溶け行く脳の最後の思考の力をかき集め、海上にいるレイヴンに向けて強く念じた。


「リ…タイア……しま……す」

 ロウジに残されたチャンスはあと一回になった。



 十年後。

 レイヴンは海岸地帯の上空を飛んでいた。その羽にはかなり白いものが混じっていた。老化にともない、人間の白髪のように羽毛の色が白く変わったのだ。彼はすでに退職し、トライアルの審査員を辞めていた。今は悠々自適に世界を旅して暮らしていた。


 眼下で波打つ海面は、昔に比べかなり浄化が進んでいた。かつて海面を覆っていた浮遊ゴミやマイクロプラスチック、異常繁殖した植物プランクトンによる赤潮は影も形もない。海は青く透き通っていた。海底に転がる岩まで見える。はるか遠方に鯨系リワイルダーが泳いでいる。全長20メートルに達するその青白い巨体から判断して、おそらくシロナガスクジラの遺伝子を導入したのだろう。

 海底にオレンジ色の物体が広がっていた。ホヤになったリワイルダーたちだ。彼らは豊富な有機性の懸濁物を摂取し、爆発的に増殖した。おそらく、現在の地球上でもっとも繁栄しているリワイルダーは彼らに違いない。それに彼らは地球環境の改善にも貢献していた。彼らが海水中の有機物や汚染物質をろ過してくれたおかげで海は浄化されたのだ。

 ロウジはその選択肢を拒絶したが、その後、多くの者がホヤになる道を選んだ。

 実際の所、最近のリワイルダー志願者たちが求めているのは社会からの逃避だった。前世紀のラディカルな改革者たちとは違って、責任と自由から、人間であることの重圧から逃げたいだけなのだ。たとえそれが実質的な自殺だったとしても。


 水平線の彼方の空に、白く輝く糸のようなものが見えていた。

 千年以上前に作られた軌道エレベーターだ。


 ロウジは今、そこで働いていた。レイヴンの長い審査員の経験でも、彼は極めてまれなケースだった。レイヴンはその時のことを思い出した。


 残されたチャンスが最後の一回になったとき、レイヴンはコーディネーターから伝えられたロウジの発言に違和感を覚えた。もしかして、彼はただの現実逃避志願者ではないのでは?

 レイヴンは彼のゲノム情報記録にアクセスした。さらに市当局に戸籍情報の調査を依頼した。

 彼の予感は的中した。

 硫黄原ロウジは純粋な人間ではなかった。彼はリワイルダー三世だったのだ。


 レイヴンが得た様々な情報を接ぎ合わせると、真相は次のようなものだと考えられた。

 法整備が進む前の時代、ロウジの祖父はもぐりのバイオエンジニアに依頼してリワイルダーになった。しかもキメラカクテルと呼ばれる、複数種のDNAを同時注入する無謀な方法だった。そのため、生殖細胞への遺伝子導入が不完全にしか進まず断片的な遺伝子だけがゲノムに混入した。

 その後、ロウジの祖父は彼の祖母となる人間の女と交わった。このあたりの経緯は不明だが、強姦だった可能性が高い。そしてロウジの母親が生まれた。母親は遺伝的にはリワイルダーだったが外見的には完全な人間だった。祖母から捨てられ施設で育った母はやがて結婚し、ロウジを産んだ。母親は若くして死亡し、ロウジは父親の手だけで育てられた。自分の出自も知らされずに。


 つまり、不完全なリワイルダーだったことがロウジの生きづらさの原因だった。

 レイヴンはロウジに提案した。不完全な動物DNAを除去し、完全な人間になることを。最終的に、彼はその選択肢を選び取った。

 処置の後、文明社会に適応できるようになった彼は教育を受けなおし、今は宇宙関連のプロジェクトで働いていた。

 軌道エレベーター復興計画。再び人類を宇宙へもたらす全世界的な巨大計画だった。


 酸素濃度が低下していた時代、人類は絶滅を回避するため、滅びかけた地球を捨て他の恒星系に移住しようとした。その時、巨大な移民船団がいくつかの系外地球型惑星に送り込まれた。

 だが、宇宙は人間が想定したよりも厳しい世界だった。ほとんどの移住計画が失敗に終わった。 

 やがて人類は地球環境を回復させると、宇宙への進出を諦めた。そして地球での持続可能な生存に目を転じた。今では太陽系内で科学調査目的の無人探査機や衛星が細々と稼働しているだけだった。

 数年前、ある植民星から救難信号が届いた。かろうじて定住に成功したある植民星社会が深刻な危機に陥っていた。彼らを救うため、人類は再び宇宙に踏み出そうとしていた。ロウジが働いているのはその最前線だった。機能を停止したエレベーターを復旧し、宇宙への道を再び開くために。

 レイヴンはロウジと再会するため、南に向かって飛び続ける。立派に成長し働いている彼の姿を見たかった。赤道にそびえる軌道エレバーターはまだはるか彼方だった。

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[気になる点] 狩りの仕方を子に教える生き物については文化の断絶は起こり得ると思うのですが、、、ホヤかあ・・・。 卵生は放置プレイで種族ごと再生できそうな気がしました。 実際どうなんだろう。人間がわか…
[良い点] オリジナルストーリーで日本語も正確ですね。 ちゅうに感にあふれてわくわくします。 [一言] いいね星5いれておきましたので今後に期待してます
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