第二話
前の二回の失敗の原因はわかっていた。高望みしすぎたのだ。
一回目はオオカミだった。草原に生きる孤高の捕食者を夢見たのだ。
個体数調整のため、捕食者系リワイルダーは食料目的に限り他のリワイルダーを殺害する権利が認められていた。だけど、ロウジは獲物を捕らえることができなかった。それに、いくら人間ばなれした姿になっているとはいえ、元人間だった者を口にするなんて実際には自分には無理だと悟った。捕食者としての生き方に憧れる者は多い。だが、トライアルでその厳しい実生活を体験し、大半のものが諦めるか審査をふるい落とされた。
二回目はクジラになろうと思った。DNAはカズハゴンドウという小型鯨類のものだった。自由に海を泳ぐのは楽しかった。餌の魚もちゃんと捕まえられた。だけど、今度は同族に馴染めなかった。鯨イルカ系のリワイルダーはエコキリスト教徒がやたら多かった。いつもベタベタ馴れ合って、聖グレタへの祈りだとか宗教臭い話ばかりしてるあいつらとは絶望的にノリが合わなかった。
だから今回、ロウジは堅実な選択肢をとった。ニホンイノシシ。温帯の落葉樹林の雑食動物。木の実や昆虫、カニやトカゲまで何でも食べられるし、同族にはエコキリスト教徒や妙な連中はあまりいないはずだ。
三回目のトライアル開始から数日が経過した。イノシシとしての生活にはすっかりなじみつつあった。鋭い嗅覚で餌のありかはなんなく見つかった。ドングリやサワガニをそのまま嚙み砕き、夜は落ち葉の寝床にそのまま実を横たえた。満ち足りた生活だった。
遠く、文明社会からの騒音が聞こえてくることがあった。ここから数十キロ離れたところに数十万人が居住する秩父ドームがあったはずだ。たまに森の上空を運搬ドローンの巨体が通過した。それ以外は文明を感じさせるものはない。
あちら側の世界に戻りたいとはまったく思わなかった。あそこは過密状態のゴミ箱だった。
昼間は安い賃金で長時間働かされ、夜は高カロリー食を流し込み、ぶっ倒れるようにして眠るだけの毎日。現実逃避のために用意されているジャンクな娯楽と下劣なポルノ。誰もがAIの友人や恋人たちに取り囲まれ、人間同士が直接言葉を交わし合うことはほとんどない。そして、大半の人間がそんな日々に不満を抱くこともなく当然のように受け入れていた。だけど、ロウジには耐えられなかった。
そのとき、そばの笹薮がガサガサと音を立てた。ロウジは身構えた。笹の中からうっそりと現れたのは、黒い毛皮に覆われた生き物だった。ツキノワグマのリワイルダーだ。ロウジよりも一回り以上体格が大きい。他のリワイルダー、それも異種と遭遇するのは今回のトライアルで初めてだった。
「俺の縄張りで何している」熊は言った。
「すまんな、ここがあんたの縄張りだとは知らなかったんだ」そいつから目をそらさずにロウジは言った。
熊は口の端から白い唾液を垂らしていた。それに目つきが妙だった。厄介な相手に出会ってしまったかもしれない。
「てめぇ、この山で何か食ったか?食ったよな!わかってるんだ。カニの甲羅が散らばってたのを見たからな。その側にイノシシの足跡も付いていた。知らなかったでは済まされねぇぞ」そう言って熊野郎は迫ってきた。
こいつは話し合いが通じないタイプだ。力で切り抜けるしかない。
「だったらどうなんだよ。ごちゃごちゃうるせえな。縄張りが有効なのは同種間だけだ。知ったことかノロマ野郎」ロウジは言った。
「何だとキサマ!」
激高した熊は鋭い爪の生えた手を振り下ろしてきた。ロウジは飛び退いてそれをかわし、四足歩行になると、逆にそいつめがけて全速力で突進した。まさに猪突猛進だ。ロウジは熊の下腹部にまともにぶつかり、その巨体を弾き飛ばした。
吹っ飛んだ熊は落ち葉を巻き散らしながら斜面を転がり落ち、はるか下に見えなくなった。
ロウジはほっと息をついた。とにかく切り抜けた。
だが、この辺からは早く離れたほうがよさそうだった。
その夜、ロウジは熱を出した。さらに吐き気におそわれ昼間食べたカニを嘔吐した。症状は見る間に悪化し、全身の筋肉痛と激しい頭痛で動けなくなった。
この症状は、まさか……。ロウジは全身を探った。そして、脇腹に大きく膨れたマダニが張り付いているのを見つけた。発症の原因はこのマダニからの感染症に違いない。たぶん何日か前から吸血されていたのだろう。
ロウジは苦しみにあえいだ。ほとんどのリワイルダーは病気や重い怪我を負えば運命を受け入れる。文明社会の諸義務から解放される代わり、その恩恵も受けない。それがリワイルダーたちの矜持だった。リワイルダーになればこんな末路が待っている可能性もあるのだ。その覚悟が自分にはあるのだろうか。
でも、やっぱり死にたくない。こんな孤独で苦しい最期は絶対に嫌だった。
「リ、リタイアします……」言ってしまった。
次の瞬間、ロウジの周囲に広がっていた夜の森は消え失せた。
そして、彼の姿も人間のものに、硫黄原ロウジ、二十七歳男性のものに戻っていた。
リワイルダー化にともなう異種DNA移植手術は、一度行ってしまうと元に戻すのがきわめて困難だ。だから、これまでのトライアルは細胞レベルで精巧に作られた有機的ロボットをブレイン・マシン・インターフェースで遠隔操作し、疑似体験することで行われていたのだ。
硫黄原ロウジはよろめく足で疑似体験ポッドから外に出て、頭にかぶった神経接続ヘルメットを脱いだ。
こうしてニホンイノシシで挑んだ三回目のトライアルも失敗に終わった。
チャンスはあと二回。
ロウジは途方に暮れた。自分では次の候補が考えつかなかったので、トライアルを運営している再野生化事業団体のコーディネーターに相談することにした。応対したコーディネーターは二十代くらいの女だった。
「おそらく次も失敗するでしょうね。厳しいことを言いますが、リワイルダーとしての資質に欠けていると言わざるを得ませんね。自由と引き換えに理不尽な死も引き受ける。そこまでの覚悟がないと。人間として生きながら、娯楽として仮想現実で楽しむだけに留めるのをお勧めしますよ。気にすることはない。そういう方は大勢いますからね」彼女は容赦がなかった。
「でも、それじゃダメなんです。一生この人間社会で生きていくかと思うと、気が狂いそうなんだ。この灰色の閉塞感。閉じ込められている感じ……。時々、衣服を引き裂いて、大声で叫びながら飛び出していきたい衝動にかられるんだ。俺はまちがって人間に生まれてきてしまった。これまでの人生で、ずっとそう感じてきたんです。学校にも職場にもなじめなかった。お願いします。どんな種族でもいい。人間をやめることがでさえすればいいんです」ロウジは言った。
「そうですか……」コーディネーターは少し悩んだ末に、決意して口を開いた。
「実は、これまでのトライアルの結果から、あなたの心理特性を分析させてもらいました。その結果、最適な候補が見つかったのですが……」
「なんだって。なぜそれを早く紹介してくれなかったんです」
「実はまだ実験段階の生物で、それも哺乳類や鳥類でさえないのです。それに……」
「構わない、次はその生物でトライアルを受けさせてください」