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Share a quarter -貴方のための唄-

別サイトで更新していたものを、こちらでも更新させて頂きます!

 パシッ。


 振り払われた自分の右手が、間抜けにも虚空で静止しているのを私は他人事みたいに横目で見つめていた。


 そうして数秒、私は、目の前で可愛い顔を歪めて(それでも可愛いことには変わりはないが)こちらを睨む叔母であり、そして自分の大事な人――御剣和歌から放たれた言葉にぎゅっと心臓を掴まれていた。


「あのね、一葉ひとひらちゃん」


 一葉、というのは当て字だが、私の名前である。若くしてシングルマザーとなった私の母、御剣和葉がその生まれながらにしてある種の孤独を運命づけられた私に与えられたものだ。


 たった一枚の葉となっても、最後まで諦めない人間に育ってほしいと祈り、与えられた、人生最初のプレゼント。実際、孤独にはなかなか耐性のある人間に育った自負があったが、目の前の和歌や、お節介な友人たちのおかげで、それも弱まりつつあった。


「今のはダメだよ」


 じろり、と和歌が私を睨む。普段は過剰なほどに寛容な彼女のことを鑑みれば、まぁ、異常事態であった。


「わ、和歌さん?あの、今のは…」


 私は和歌を前にしどろもどろになる。


 普段、高飛車とも言えるほどに気が強く、物怖じしない話し方の目立つ私がこんなふうに情けのないトーンで声を発したのはほかでもない。目の前にいる愛しく大事な人が、明らかに本気で怒っていることが分かっていたからだ。


「今のは?」と和歌が追い詰めるように繰り返してくる。


 逃げるべきか、受け入れるべきか。


 冷静になって考えてみれば簡単なことなのに、その瞬間、私は情けないことに前者へと傾いてしまった。


「ほ、本気で触るつもりじゃなかったというか…不可抗力、というか…」


「は?」


 和歌の顔が引きつる。


 やばい。いよいよ爆発寸前だ。いや、和歌の堪忍袋の緒が切れたところなんて見たことないのだけれど、それでもなんとなく、やばいことは確信できた。


「いや、だから、わ、和歌さんなら、許してくれるかなって思って」


 相手の殺気を感じ取った野生動物と同じ理屈で、私は身を守るべくさらに言葉を重ねてしまう。しかし…あぁ、本当に余計な言葉しか出て来ない。


 案の定、和歌は怒りを強くしたのだが、そのときの彼女の様子といったら、噴火とはまるで真逆で、足裏のたこに当てるドライアイスみたいにピリピリしていて、冷ややか極まりなかったのである。


「ふぅーん…」


 和歌はすっかり冷たくなった眼差しでそう相槌を打つと、何も言わないまま私の部屋の床に置いていた自分の荷物をバッグに片づけて、そのまま立ち上がってこちらに背を向けた。


「わ、和歌さん?」和歌は私の声掛けを無視して、キッチンへと続く扉に手をかけた。「あの、その、和歌さん、待って」


 首にかけていたヘッドフォンを机の上に置きながら私も立ち上がり、繰り返し彼女の名前を呼ぶ。そうすれば、和歌は酷く緩慢な動きで振り返ってくれたのだが、その瞳には先程以上の冷たい炎が青く揺れていた。


「一葉ちゃん。私、もう帰るから」


「あ…」


 すうっと、和歌の瞳が細められる。明らかにこちらを責めている様子だった。


「……親しき仲にも礼儀あり、だよ。ちゃんと反省するように」


「ちょ、まっ…」


 無情にも扉の向こうへと消えていく和歌の背中。数秒すれば、廊下へと続く扉が開閉する音がして、最後に、分厚い玄関扉が開いて、閉まる音が聞こえた。


「うぅ、あー…!」


 私は内巻きにしたボブヘアをぐしゃぐしゃに両手でかき回しながら、悶絶の声を上げてしゃがみ込む。


 今、私に呆れと怒りの眼光を閃かせたのは、御剣和歌。私の叔母であり、ある種、親代わりとも言えるくらいに幼少期の私を世話してくれた人であり、そして…――私の恋人である。


 私と和歌の間には性別の壁があり、さらに、血のつながりというとても重厚な壁が常に立ちはだかっているのだが、今日、私が和歌の怒りを買うきっかけになったのはそれらとは全く無縁の事情のせいだった。


 ありていに言えば、私の抑えの利かない情動のせい。いや、もっと正直に表現するなら、私が和歌に抱いている、どうしようもならないくらいの愛情と劣情のせいなのだ。




 およそ、十分前のことだ。




「…わ、和歌さん」


 心臓を高鳴らせつつ椅子から降りて、床に座った和歌の前に正座する。小説か何かを読んでいたらしい彼女は、「なぁに?」と可愛い声と一緒に顔を上げる。


 和歌は、いくら私の母である和葉と年が離れた妹だったとはいえ、当たり前だが私よりもだいぶ年上で、6、7歳くらいは離れている。


 年齢の壁は無常だ、と私はよく考える。


 どれだけ背中を追いかけても、決して追いつくことも、触れることもできない。


 勝手に先に生まれるなよ、と唇を尖らせることも少なくはなかった。特に、私がようやく高校生になった頃に、和歌のほうは働き始めるなんてことになったときは。


 とどのつまり、何が言いたいかというと…私は常に、焦燥に背中を突き動かされていたということだ。


 子どもであることは十分な自覚があったが、奇跡みたいにして手に入れた和歌の特別枠を誰にも譲りたくない気持ちが強かった。


 よく分からないが、きっと、若気の至りとかいうものの影響もあったのだろう。そうでなければ、こんな無謀なことを何のきっかけもないその状況で口にしたりはしなかったはずだ。


「あのさ…その…」


 拍動する心臓。乾く口。


 やっぱり、やめようかな。


 そんな弱音が脳裏をよぎったとき、こてん、と和歌が小首を傾げる。


「どうしたの?珍しいね、一葉ちゃんが言い淀むなんて」


 きらきらした瞳が、童顔も相まってとても可愛らしく見える。


 その庇護欲を、独占欲をそそるキュートさを見せつけられた私の口に下ろせるシャッターなんてどこにもなかった。


「さ、触ってもいい?」


 数秒間、隙間風が吹いたような沈黙が流れる。


 その間も、和歌は目を白黒させ、自分が何を言われたのかを一生懸命考えているようだったのだが、その様子がまた可愛くて、私は前言を撤回しようなどとは思いもしなかった。


 やがて、和歌が苦笑しながらこう答えた。


「えーっとぉ…何をかな?」


 分かっていながら、関係性の発展を恐れて分かっていないフリをしているのか。それとも、本気で分かっていないのか?


 …いや、分からないはずがない。17歳になる私が分かるのだ。22、23歳の大人の女性である和歌にこの焦げ付くような感情が分からないなんて言わせない。


 つまり、これは敵前逃亡。和歌がよくやるやつだ。


 ちょっとムッとした気持ちにさせられた私は、ずいっと和歌ににじり寄って、彼女よりも10センチ以上大きな体を折り曲げるようにして下から覗き込む。


「それはもちろん、和歌さんを、だよ」


「わ、私?」


「うん」


 和歌はぽかんとした後、今度は引きつったような苦笑いを浮かべる。


「その、手、つなぎたいってことかな?」


 それならいいよ、とでも続けるつもりだろう和歌の眼前に、私はノーを突き付ける。


「違うよ。和歌さんと手をつなぐのも好きだけど、その先も、私はしたいの」


 顔を真っ赤にした和歌の反応を待たずして、私はぐっとさらに距離を縮める。


 すでに私と和歌の間は、膝一つ分すら存在しない。


 それなのに触れてはいけないなんて、妙な話じゃないか。


 愛している。私は和歌を。


 この世にあふれているたくさんの物語が、歌が、証明している。気持ちの強さがすべてを解決するってことを。


 だったら――…。


「いいよね、和歌さん」


 すうっ、と和歌に右手を伸ばす。


 和歌だって、喜んでくれると私は思ってた。


 だけど、和歌は私の期待とは裏腹にブロックするみたいに両の手のひらを真っすぐ突き出すと、早口になってこう言った。


「ま、ま、待ってね。それはさすがに時期尚早だと思うの。分かる?時期尚早」


「む…分かるよ、それぐらい」子ども扱いされた気がして、私は不機嫌に顔を歪める。「でも、早くなんてないでしょ。私たち、恋人なんだし」


 去年、友だちに勇気を貰って伝えたこの気持ち。それが種になって、ようやく二か月くらい前に実り恋人の座を獲得したのだ。


 おかげでここ最近ずっと、私は幸せの中にいた。


 手を伸ばしても手に入らないと思っていたものが、この手の中にある。


 それは筆舌尽くし難いほどに価値あるものだった。


 でもどうやら、私と和歌さんとでは、その価値とか、意味が違ったようで…。


「あのね、一葉ちゃん。恋人なのは確かなんだけど、こういうのを焦っても良いことないよ?ゆっくりやろう?ね?」


「…いいじゃん」


「だーめ。まだ高校生なんだよ?」


 私は和歌が口にしたその言葉から、まるで子どもをあやしているような印象を受けた。だから私は彼女の警告めいた発言は、ただ自分自身が逃げたいだけのものなんだと思ってしまった。


(それなら、また私がリードしてあげるしかないじゃん)


 しょうがないなぁ、と勝手に頭が思い込む。今思えば、そうすることで自分の行動を正当化しようとしていたのだろう。


 私は情動に突き動かされるままに指先を伸ばした。


 自分で言うのもなんだが、白魚のように美しい曲線を描く指。それが向かう先は…ずっと触ってみたいと思っていた、和歌の一番柔らかそうな部分。


 刹那、指先が触れる――そのときだった。


 パシッ。


 和歌に、手を払われたのだ。




 独り部屋に取り残された私は、古ぼけたワークチェアに腰かけると、大きなため息と共に背もたれになだれかかった。


 部屋の四方の壁には、私の好きなロックバンドのポスター。


 自己主張の激しいメイクをした彼ら彼女らは、自分の魂を叫び、打ち鳴らすべく、マイクや楽器を手にしている。


 忙しいシングルマザーの母、一滴もの愛情を注がなかったどこにいるとも知れない父、ひねくれた性格。それらの環境によって自然と孤独に生きることになった私を救ったものは、何も和歌や友人だけではない。


 音楽だ。音楽だって、そうなんだ。


「はぁ…くそっ」


 こういうときは、音と音の間にこもるに限る。


 ヘッドフォンを装着し、無線でつないだ携帯からアップテンポのロックを流す。


 かき鳴らすメロディが、意志を叩きつけるべくして生まれた歌詞が、私の心をその場所から連れ去っていく。


 やっぱり、ロックは最高だ。


 葛藤も迷いも振り切る強さが、私の世界を満たしていく。篠突く雨の如き音に満たされているうちは、和歌との衝突も忘れさせてくれたのである。




 ――とはいえ、それは旋律の怒涛に身を浸していられるうちだけの話であって…。




「ちっ」


 きちんと眠ることができなかった重々しい頭が、放課後、部活に向かう私の口から大きな舌打ちを漏らさせた。それをすれ違いざまに聞いていたらしい同級生が、少しだけ私から距離を取ったことさえ苛立たしく思ってしまう。


 昨日の自分の行動を振り返る。


 あぁ、どうしてあんな考え無しの行動を取ってしまったんだ。ダメって言われているのに無理やり触ろうとしたら、それはいくら温厚な和歌でも怒るに決まっている。


 嫌われてしまっていないだろうか?それにしても、あのときの和歌の表情が忘れられない。明らかに呆れていたし、怒っていた。あんなふうに冷たく私を見るようなこと、今まで一度もなかったんじゃないか?


 私は誇張無しに和歌無しでは生きていけない。働き始めた今でも週末は、忙しい母に代わって私の面倒を見てくれる。いや、もちろん身の回りのことぐらい一人でできるのだが…そういう問題だけじゃない。


 とにかく、和歌がいないと喉が渇くのだ。


 ただ、最近は彼女がそばにいても違う渇きに苛まれてしまって…。


 ぐるぐると、滑車を回すハムスターみたいに同じ思考を繰り返しているうちに、部室の目の前に到着した。


 こういう日は、さっさとギターを鳴らして、声を張り上げよう。中から声が聞こえてくることからも、すでにメンバーの小板霞こいたかすみ志藤奏しどうかなでが到着しているのは間違いない。早速あいつらを巻き込んで演奏しよう。


 自然と誰かを頼りにすることができている自分の成長にも気づかないままに私は、部室の扉に手をかけようとした。だが、内側から漏れ聞こえてきた声にぴたりと指を止める。


「…えー、ダメだって奏。一葉きちゃう」


「大丈夫、大丈夫。一葉って足音大きいから、気づくよぉ、たぶん」


「…本当?」


「うん。本当、本当」


「……じゃあ…」


 開いた口が塞がらない事態に、私はしばし硬直してその場に棒立ちしてしまっていたのだが、廊下の向こうからやって来る他の生徒の姿や、中から続けて聞こえてくる楽しそうな二人の小さな笑い声に、ぎゅっと拳を握る。


(じゃあ、じゃねぇよっ…!)


 いつ私が来てもおかしくないような場所にも関わらず、イチャイチャしようとする奏が諸悪の根源だが、霞も霞でまんざらでもない様子だ。それが奏を調子づかせることが分かっていないわけでもあるまいに。


 こんな状況で、なんで私が遠慮すんだ、と苛立ちを眉間に刻んだ私は、あえてハッキリ分るように大きな咳払いをした後、ウサギがするタッピングみたいに足音を一つ立てて、扉を開けた。


 弾かれたように奏の膝から離れる霞。その赤らんだ頬を見る必要もなく、彼女らが恋人らしく睦まじい時間を過ごしていたことは明らかだ。


(別にそれ自体はいいけどさ…)


 私はじろりと二人を睨みつけながら、「…おはようございます」とあえて他人行儀に挨拶する。そうすれば、霞は酷く狼狽した感じで返事をした。一方の奏は、間の抜けた口調で返事を返しつつ、ひらひらと手のひらを振ってみせる有様だった。全くもって可愛げがない。


 私は机の上に自分の鞄を置くと、早速、ギターを取り出し、組んだ膝に寝かせて演奏をする準備を始める。


 奏は飄々とした態度を崩さない一方、霞のほうは、私から何の追及もないことで明らかに安心したふうに自分のキーボードへと向かっていった。私はそんな彼女らを横目にしながらチューナーで音を確認しつつ標的を定める。


 奏はダメだ。私が何を言おうと二枚舌で巧みにかわし、反撃してくる。こういうことで攻めるべきポイントは…。


「霞」


 びくっ、と霞の肩が跳ねたのを視界の隅で確認する。


「え、え?な、なに?」


 同い年のくせにグラマラスな奏と違い、霞はだいぶ小柄だ。いや、平均的なのかもしれない。なにぶん、私と奏の身長が高いから、感覚が麻痺してしまう。


「ちゃんと奏の手綱引っ張っておいてよ。扉を開けたら目も当てられないことを二人がやってる――なんて、私、嫌だから。マジで」


「あ、うっ…!」


 口をパクパクさせて顔を真っ赤にする霞。庇護欲をそそる小動物、というか少女然とした態度は私も見ていて可愛らしいとは思う。…が、学校でくらい我慢しろよ、とも奏に対して思った。


「わ、私じゃなくて、奏が…」


「なんでも奏のせいにしてどーすんの。あいつが頭おかしいのは元からなんだから、霞がしっかりしてよね」


「うぅ…」


 不思議なことに、霞がモジモジとして呟いているのを見ると、今度は加虐心に駆られる。これは確かに奏のようなお調子者でなくとも霞を困らせたくなるのも頷けるだろう。


 しかしながら、もちろんそれは奏が許さない。


「まあまあ、そのへんにしておいてあげてよ、一葉ぁ」


 妙に間延びした口調の奏が霞と私の間にやって来る。どうでもいいが、モデルみたいな歩き方が似合うのがどこか腹が立つ。


「ほら、弾こう?新曲」


 くいっ、といつの間にか肩から下げていたベースを掲げてみせた奏は、話の矛先を音楽へと向ける。


 普段であれば、私もこれだけで音の流れに飛び込もうと気持ちを切り替えることができただろう。だが、今日は違った。


「あんたがところ構わず霞にセクハラしようとするから、私が文句言ってやってんでしょうが。ほんと…たまには反省しなよ」


 じろりと奏を睨みつけながらも、私の頭は違うことを考える。


 セクハラ、反省…。


 昨日ことが脳裏をよぎる。


 和歌の胸に触れかけた指先。それを払われたこと。


 …セクハラの誹りを受けるのも、反省するべきなのも、私だ。でも、そんなことを奏に知られるわけにはいかないし、今は鬱憤を晴らしたいという気持ちもあった。


 だが、奏は本当に異様なまでに勘の鋭いやつで…。


「なに」


 私は、こちらの顔を穴が空くくらいジーっと見つめてくる奏に言った。


 奏はしばらく黙って私の顔を観察していたかと思うと、憎たらしい微笑みを浮かべた後、霞の耳元でわざと私に聞こえるような声でこう告げる。


「気にしないでいいよ、霞。あれは絶対、和歌さんと喧嘩してる。一葉ちゃんの八つ当たり」


「え」


 私と霞の声が重なる。


(ど、どうして分かったの…!?こ、こいつ、エスパーか何か!?)


 私の顔色から図星であることを察したのだろう。霞は急に憐れむような顔でこちらを見たかと思うと、「その、大丈夫?」なんて気遣いをしてきた。


「くっ…!別に、何ともないしっ!」


 私はやけっぱちになってチューニングを終えたギターを振りかざす。


 勘が鋭すぎるうえに人をおちょくってくる奏も、人がよすぎる霞も、こういうときは大っ嫌いだ。


「ほらっ、弾くよ!ごちゃごちゃ言ってないで準備してよ――おいっ、笑うな、奏!」


 ただ…こいつらと一緒にメロディをかき鳴らして、叫んでいる時間は…大好きだった。




 叫んで乾いた喉に透明の液体を流し込んで潤す。私はそのまま、「ぷはっ」と思わず声を漏らしながら、なかなかどうして、この新曲のリズム感が持つ激動は燃える、と心を震わせていた。


 やはり、歌うのも、音を刻むのもいい。とりわけバンドで行うとなると、何物にも代えがたい魂がある。他人との関わりなんて面倒なことも多いが、“これ”はそこでしか得られない。そして、麻薬みたいなもので、一度知ったら離れられないものでもあった。


 まぁつまり、私は耽溺していたのだ。奏と霞と共に打ち鳴らした音楽の余韻の中に。


 だからこそ、奏が間延びした口調で投げかけてきた質問に対し、本気で余計なことをと思ったし、鼻白んだのである。


「で、何で怒らせちゃったのぉ?」


 私は無言のままに奏を睨む。


(…せっかく人が忘れてたことを…ほんと、奏って嫌なやつ)


 明らかに触れてほしくない話題であることも、私が瞬く間に現実へと引き戻されて不機嫌になったことも分からない奏ではない。私をからかって面白がるような奴なのだ。奏は。


 グラマラスで身長も高く、飄々とした態度を一切崩さない志藤奏は、いっそOLであると言われたほうが納得できるくらいには大人びていて、およそ学生らしからぬ色香を放っている。そんな彼女がガーリーな容姿をしている霞と付き合っているというのだから、どこか危なげな関係に見えてしまうのも無理はなかった。


 一方、内面は洗練された大人の女性とはまるで違う。からかい好きで、楽しいことが好きなタイプである。子どもっぽいと形容すると違和感が残るが、おおよそ慎ましやかな女性ではないことは確かだ。


 そんな奏からの問いかけなのだから、それがただの親切心からくる質問でないこと誰が聞いたって明白だった。だからこそ、私は顔を歪めてこう返すのだ。


「別に、喧嘩してないし」


「へぇ」面白い玩具を見つけた、と奏の血色の良い唇が弧を描く。「本当にぃ?」


「ほんと」


「昨日、何かあったんじゃないのぉ?」


「…」


 私は図星を突かれて黙り込んだ。これ以上、何か口にすれば、自分の立場を悪くするようなことになると分かっていたからである。


 でも、奏は相手がちょっと引いたくらいで食い下がるのをやめるような女ではなく…。


「んー…何か余計なことを言った?」


「…」


 反応しない。すれば、奏を面白がらせるだけだ。


「じゃぁ…んー…、一葉って、和歌さんと付き合いだして三か月も経ってないよねぇ」


「…」


「それなら、うん、あれだね」


 きらり、と奏の瞳が光る。


 嫌な光だった。


「一葉、焦って何かしたんでしょ。――例えば、無理やり触ろうとしたとか」


「してない」


 より核心を突かれた私はとっさに反論した。しかし、これでは自白しているのと何ら変わりないではないか、と気づいた頃には時すでに遅し。


「図星だ。ふふっ」


 どこか幸せそうに微笑む奏は、緩やかにウェーブのかかった髪を自分の手で撫でると、「ね?」と気まずそうな顔をしている霞にウインクする。


「やめなよ、奏。人様の事情をさぁ…」


「えぇ?こんなに面白いこと、スルーできるぅ?」


 私の堪忍袋の緒は、奏がふざけていることがありありと分かる発言にぷちっ、と音を立てて切れた。


「ちっ!あんたってやつはさぁ…!どうしてそう人格が歪んでんの?人が真剣に悩んでることを取り上げて面白がるなんて」


 そうして私が、牙を剥き出しにして威嚇する獣みたいに奏を睨むと、彼女は肩を竦めて軽く謝罪してから、「でもぉ」と相変わらず間延びした口調で応える。


「隠されると、なんでも暴きたくなるのが人の性じゃない?それにほら、また私たちが何かの役に立つかもしれないよ?」


 そう言うと、彼女はなにやらよく分からないジェスチャーをしたのだが、それがキューピッドが矢を射る真似をしていたらしいことに気づいたのは、その日、ベッドに入る頃だった。


 確かにこの二人、奏と霞には、和歌と自分の関係が希望の欠片もないまま終わらずに済むのを手伝ってもらったことがあり、恋のキューピッドと言われても大げさではなかった。


 しかし、奏にキューピッドを自称されるなんて鳥肌モノでしかない。


 私はすぐさま両手で自分の二の腕をさすると、「勘弁して。霞には話してもあんたには話さないよ、奏」と奏に嫌味を言った。


 そうしてしばらくの間、私たちは冗談を飛ばし合ったり、愚痴を吐いたり、とにかく、音楽以外のもので満たされた会話を続けた。


 一年前の私が今の自分を見たら、目を丸くするだろう。もしかすると、怒るかもしれない。


『お前は、その指でかき鳴らすメロディと、叫ぶ歌だけが自分の理解者だって言ってただろ。逃げんなよ』…そんなふうに。


 そしたら、私はなんて言うかな?


 私は少しだけ黙って、馬鹿みたいに真剣にそんなことを考える。


 カーテンはためく窓の外では、眩しい春の西日が新緑を照らしていて、下校途中の生徒たちの楽しそうな笑い声が聞こえてくる。


 まるで、この世には音と歌以外にも賛美できるものであふれているとでも言わんばかりの…高校2年生の春だった。


 こぼれるような息を一つ、吐き出す。


 ため息なんかじゃない。


 笑ったのかな、私。


 ――逃げたんじゃない。きっと…。


「……変わったんだよ」


 ぼそり、と中身が聞き取れないような独り言を漏らす。奏も霞も不思議そうな顔をして、何か言ったかと首を傾げたが、私は目を細め、「別に何も」とだけ返した。


 こんな私を、私は嫌いじゃなくなっていた。


 和歌さんとの問題は確かに悩ましいけれど…今の自分なら、きちんと向き合える気がする。


 私は少しだけ晴れやかで前向きな気分で立ち上がると、新入生歓迎会での部活動紹介をどんなふうに行うか話す二人の元に移動するのだった。




 本来、私は人前で何かをするのは好きではない。


 別に周囲からの視線で緊張するとか、失敗が怖くて、とか可愛い理由ではなく、そもそも、発表みたいなものの意味がイマイチ理解できないのだ。


 一斉にみんなの前でやったほうが効率的なものなら、まぁ、理解できる。説明会とか、全校集会とか。…嫌いだけど。


「はぁ…」


 そばでそわそわ体を揺らしていた霞が、私のため息を聞き取ったらしくこちらを覗き込んでくる。


「や、やっぱり、一葉も緊張してる?してるよね?」


 今にも泣き出してしまいそうなくらいの不安で瞳を揺らしている霞。庇護欲をそそられるが、今は肩にのしかかる億劫さのほうが勝った。


「しないよ、緊張なんて。ただ、面倒だなって思っただけ」


「えぇ?」


「面倒でしょ。こんなの」


 私があからさまに嫌な顔をしてみせれば、霞は呆れたような顔で私を見た。そして、そんな私と霞のやり取りを少し離れた場所で観察していたらしい奏も、似たような顔を浮かべこう言った。


「新歓ライブを“こんなの”呼ばわりかぁ。さすがは一葉。ぶれないねぇ」


 新入生歓迎ライブ――つまり、この春で新一年生として入学してきた生徒たちを歓迎するべくして催されたライブである。


 名前の仰々しさに勘違いする者が多いが、中身は吹奏楽部がメインの普通の演奏会である。私たち軽音楽部は、所詮、吹奏楽部の演奏準備のつなぎで舞台に上がるだけなのである。


 この扱いの違いを何も思わないでもなかったが、私自身、人前での演奏にろくすっぽ興味がないことが幸いし、たいした文句は言っていない。


 私は霞と奏を一瞥すると、ゆっくり閉ざされる舞台カーテンを睨むようにして見やる。


「私の音楽は自己表現。だから、誰かの感想も、評価もいらないし興味ない。極論、オーディエンスは私にとって邪魔者でしかない」


 巷では、ちやほやされるための音楽が存在しているらしいが、全くもって度し難い。肥溜めにでも吐き捨ててほしい、音楽の“お”の字も名乗らないでほしい汚物である。


 私は頭の中に、研ぎ澄ました一振りの太刀を思い浮かべる。


 狂気をまとう美しい波紋。光を反射する無垢なる刀身。


 その一刀は、決して鑑賞のために何百回も槌で叩かれ、焼かれたわけではない。斬るべきものを斬るためにあったはずだ。


 つまり、それと同義。


 私の音楽は、私を叫ぶためにある。


 それを耳にする者がどう感じるかなんて、どうでもいい。例外があるとすれば、誰かのために叫んだ、そのときだけだ。


 続けて私は、和歌のことを思い浮かべた。


 ただ一人、私の音楽の中に存在する、私以外のもの。


 係員をしている生徒に呼ばれ、私たちは閉ざされた舞台上に移動した。霞の動きがぎこちないが、奏は飄々として私から少し離れた場所で準備を始める。


「じゃあ、なんでこんな面倒に付き合ってるの?」


 楽器の準備をしながら、奏がそんなことを尋ねる。珍しく真剣だった。


「…」


 私も同様に準備をしつつ、無言でその問いの答えを考えた。


 答えはすぐに見つかった。だが、それを口にするのを私のひねくれた精神がはばかった。


『それでは、次の演奏です。次は、軽音楽部によるロックミュージックになっております』


 そうこうしているうちに、アナウンスが私たちの紹介を始める。何がロックミュージックだ、と眉をしかめたくなったが、どう答えるべきか考えることを私の頭は止めていなかった。


『えー、私たちは、諸事情により、部員が二年生三名だけの軽音楽部ですが…えー…あー…うちのとっても可愛いギター兼ボーカルのパワフルな歌声をどうかお楽しみ下さい』


 直後、カーテンの向こう側で笑い声が上がる。


 その耳障りな音が、この隣でニヤニヤしている女がしたためた部活動紹介文のせいだと理解したとき、思わず私は舌を打って彼女を睨んだ。


「奏…あんたねぇ…」


「やだ、怖い顔」


 ぱちっ、とウインクしてみせる奏。後ろから霞が、「も、もう始まるよ」と焦った声を上げているが、まともに頭に入って来なかった。


 カーテンが少しずつ開かれ、舞台の上の光が客席の暗黒を照らす。


 こと音楽に関して、私は手を抜かない主義だ。だから元々、興味のない新歓ライブであっても本気でやってやるつもりではあった。


 だが、こうやって奏に焚きつけられて、舞台を用意されたとあってはそれだけでは済まされない気分になっていた。


 カーテンが完全に開ききり、お手本みたいに用意された拍手がパチパチと鳴るが、それでも私は奏を睨んでいた。


 ざわざわと私語に勤しむ観衆。それらは私たちの様子を訝しがっていた声もあるだろうが、“可愛いギター兼ボーカル”という馬鹿みたいな冗談の味見をするような声も多くあったと思う。


 ――私が、この面倒で馬鹿馬鹿しいライブに付き合う理由。


 そんなものは、分かりきっている。


 私はオーディエンスのノイズでかき消すことはできない声で、奏に淡々と告げる。


「あの日、あんたの挑発に乗ったからだよ」


 独りで奏でていた音楽。その終焉を、彼女は運んできた。


「だから今日も、乗ってやる。奏は特等席で聴いてろ、私が可愛いボーカルかどうか」


 直後、マイクのスイッチをオンにしつつ、予定のない旋律をギターで響かせる。


 体育館を震わせる弦の絶叫。


 指先で感じる、一音、一音の脈動。


 消えずにどこまでもハウリングしていく、音響。


 小汚いノイズを走らせていた群衆共は、すぐに沈黙を余儀なくされた。


 見ろ。


 これが音楽だ。音楽の輝きだ。


 冗談みたいに真剣にやってきた、私の魂。それを五感で感じられる者ならば、笑うことなんて出来ないはずなんだ。


 そのままアドリブで予定通り、曲のイントロに入る。霞は少し遅れて入ってきた形になってしまったが、奏は一瞬たりともずれなかった。その事実が酷く気に入らないし、同時に酷く興奮した。


 Aメロが始まり、私が歌い始めると、またざわめきが生まれた。


 もっと真剣に聞け、と気持ちを込めてBメロに移れば、いくらかの聴衆が手を振ったり、体を揺らしたりし始める。


(そうだ、それでいい…!)


 そして、サビが始まる――…。




 稲妻のように、あるいは、突風のように。


 私たちの時間は過ぎていった。


 ややもすれば、遠くへ行ってしまいたくなる私が、どこにも行かぬよう支える奏のベース音と、霞のキーボードの響き。


 繊細というにはあまりにラウドで、騒音というにはあまりに完成された鮮烈さを持つメロディに酔いしれた私は、最後の一音を天高く轟かせると、この時間を惜しむように固く、長く、目をつむった。


『なんで面倒に付き合うのか』。


 その答えは、この余韻の中で肌を粟立たせるグルーヴィーな感覚にある。


 和歌と同じで、独りでは得られなかったものだ。


 演奏が終わると、聴衆は万雷の拍手をくれた。指笛を鳴らす者もいたが、私にとってはどれも耳障りなものでしかなく、少しずつ、少しずつ指先と喉の熱がひいていった。


(…っ、みじ、かい…!)


 砂漠に落ちた水滴は、あっという間にどこかへと失われていく。演奏しているとき、歌っているときにしか満たされない渇きが、またも私を支配した。


 でも、こういうときにワガママを言っても仕方がない。さっさと部室に戻って演奏するほうがよほど建設的なのだ。


 だが、そのうち、私の脳みそが次に弾きたい楽曲を考え始めているのを、やたらとテンションの高いアナウンスが打ち消した。


『はい!とてもすごい演奏でしたね!会場のみなさん、もう一度大きな拍手をお願いします』


 アナウンスにつられ、再び拍手と指笛が鳴る。私は思わず辟易して、眉をひそめて聴衆を睥睨していた。


 そのときまで、私は実に失念していたことを認めざるを得ない。この新入生歓迎ライブが部活動紹介を兼ねていたことを。


 しかしながら、志藤奏という身勝手で楽しいこと好きな人間の行動まで予測しろというのは、いささか酷というものだっただろう。


『それでは、最後に部長の御剣一葉さんから、新1年生へ何か一言お願いします』


 アナウンスの後、しばしの静寂が流れる。それは私の言葉を待つ沈黙でもあったのだが、同時に、私自身が状況を理解するために必要な時間でもあった。


「…は?」


 漏れ出た言葉はそれだけだった。そしてそれは、マイクに乗って体育館ホールに響き渡った。


 少しずつ、少しずつだが生徒や先生たちがざわめき立つも、私の思考はそこには向けられていない。行く先はもちろん、“部長の御剣一葉”という文言に対してだ。


 まず、アナウンスをしている生徒が何か間違えているのではないか、と思った。だが、次の数秒後には、私はちゃんとした真実に――実質幽霊部員だった三年生が引退した際、志藤奏が勝手に私を部長にして学校に届けていることに気づいた。


 私が、部長?


 私は顔をさらにしかめる。


 よく分からないが、あれこれ面倒そうなのは分かったし、何よりも、私のことを私以外の誰かが勝手に決めてしまったことが許せなかった。


 演奏の熱が急速に奪われていく不愉快さを隠すことなく表情と態度に出した私は、こちらの反応を楽しみだと言わんばかりの顔で待っている奏を最大火力で睨みつける。


「奏の馬鹿が、また勝手なこと言いやがって。部長なんて、やんないからな!」


 マイクに乗って体育館中に響き渡る、荒い口調の宣言。それを聞いてもヘラヘラした顔で私を見る奏にさらなる文句を叩きつけようとしたとき、慌てた様子の霞に割って入られたことで、私は感情収まらぬ中、舞台から退場することになった。


 …もちろん、すぐにやって来た教師にこっぴどく叱られたわけだが、私は怒り心頭で一切反省の言葉を口にしなかったし、奏は適当な謝罪を繰り返す始末だった。その結果、無関係な霞だけが酷く申し訳なさそうに何度も頭を下げることになっていた。




 その日の夕方。毎週金曜日には顔を出してくれる和歌が今週もちゃんと来てくれるかどうか不安に思っていた私は、待ち人が玄関扉を開けて姿を現すや否や、猛烈な勢いで駆け寄った。


「ちょっと聞いてよ、和歌さん!」


「え?な、なに?」


 いつも以上にびっくりした様子の和歌。その違和感に気づくこともなく、私は自分の話したいことを怒涛のように話し始める。


「今日さ、新歓ライブがあったんだけど。奏のやつ、マジで勝手しやがんの。もう、マジでありえない。先生たちもなんでか私を中心に説教するし。謝れば満足すんのかよって話。形だけの謝罪なんて意味ないでしょ…!霞も霞で奏には甘くてさぁ、『一葉も挑発に乗ったら駄目だよぉ』なんて。奏には適当な注意しかしないくせに」


 私が文句言ってもヘラヘラしている奏、奏に頭を撫でられながら説得力のない叱責を行う霞。あぁ、あの場所に私の味方はいない。あいつらは甘やかし合うことに慣れ切っている。


「なぁに?また奏ちゃんにからかわれたの?」


 和歌は靴を脱ぎ、リビングへと足を踏み入れながら私にそう尋ねた。


「違うよ」


「じゃあ、演奏合わせてくれなかったとか?」


「そんなんじゃない。奏の合わせはいつも完璧」


「あ、そう、なんだ…」


 和歌の顔がほんの少しだけ歪むも、私はやはりそれに一ミリも気づくことなく自分の話を続ける。


「あいつ、勝手に私を部長にして学校に出してたの。ありえなくない?」


「部長?」


 ここで初めて和歌は話題に興味を示したようだった。広い場所に腰を下ろし、くりくりとした丸い瞳が、きちんと私を捉えたのである。


「そう。部長」


「一葉ちゃんが?軽音楽部の?」


「そうだよ」


「へぇ…いいんじゃない?何事も経験だし」


 てっきり、私の性格を知っている和歌なら、一緒になって猛反対してくれると考えていたものだから、その返答はかえって私を不服にさせる。


「よくない!こんな経験したくないし。何の役に立つの?」


「んー…集団行動?」


「なんで疑問形」


 人差し指を顎に添えて小首を傾げる姿は可愛いの一言に尽きるが、やはり面白くない。


「集団行動なんてものもしたくないし」


「あはは…一葉ちゃんならそう言うと思った。でもね、社会に出たら――」


「ストップ」片手を和歌の前に突き出して、言葉を遮る。「続く言葉は分かってる。先生たちも腐るほど言ってくるから。…でもさ、だから私もサボらず学校に行ってるわけじゃん。これ以上を求められても困るって」


「…でも、一葉ちゃんも色々学ぶべきことがあるというか…」


「ないよ。ない。私は私のままで生きられる場所でしか生きない」


 学校なんてもの自体が集団行動を学ぶ場だ。否が応でもそこに属し、多感な青春時代を過ごさざるを得ないことを受け入れているだけマシな人間だと思ってほしい。本気で集団行動を拒絶する人間は、まず学校にすら来ない。


 ひとしきり私の言い分を聞いた和歌だったが、だからといって納得してくれることはなく、むしろ、聞き分けの悪い子どもに接するかの如く、曖昧な微笑みを向けてくる。


「一葉ちゃん…あのね、一葉ちゃんは分かってるようで分かってないと私は思うよ」


「む…」


 正式に付き合うようになってから、和歌はこんなふうに私を否定することが増えた。


 別に全否定してきたりとか、言い分も聞かずに一方的に否定したりするということはないのだが、私の考え方について、昔のような受け止めをしてくれなくなったのである。


 それはきっと、私のためを思っての変化だったのだろう。しかしながら、それが分かっているからといって大人しく聞き入れられないのが御剣一葉という人間なのだ。


 私は和歌の顔を少し上から睨むと、唇を尖らせて可愛くない問いを投げる。


「なんでそう思うの?根拠は」


「根拠?」


 どうせたいした根拠なんてないに決まっている。あっても、こんなにすぐには言語化できないだろう。


 和歌は素早い切り返しが得意なタイプではない。だいたいぼーっとしている印象が強いし、日和見主義的なところもある。和歌が正面切って言い返してくるときなんて…。


 そこまで考えてから私はハッとした。数日前の一幕を思い出したのである。


(そ、そういえば私、和歌さんに怒られたんだった…!)


 謝らなくては、と青ざめたのも束の間、和歌はすうっと瞳を細めると、温度のない声音で言葉を発する。


「んー……学ぶべきことがない、って言ったよね、今」


「あ…え、う、うん…」


 まずい。


 嫌な風が吹いていた。


「それって、この間のこと、反省していないってことだよね」


「ちょ、いや、その」


 逃げようとしても、すでに帆を張るタイミングを逃している。


「正直、私の顔を見るなり謝罪してくれるかなぁ、って期待してたけど…」


 その和歌の期待とは裏腹に、私がとった行動は『自分の愚痴を聞かせること』だ。


 心底、がっかりしたことだろう…。今さらだが、それでもきちんと話を聞いてくれていた和歌には本当に頭が下がる思いがした。


「……まだ反省が足りないどころか、してないみたいだから、私帰るね。本当は授業参観の話をしなきゃいけなかったんだけど」


「ま、待って、和歌さん」


 すっ、と立ち上がる和歌に、私は手を伸ばす。


「なに?」


 彼女は私の声を聞き、一応振り向いてくれたのだが、その瞳が酷く冷えていることに怖気づいた私が口をパクパクさせているうちに、数分前と同じように玄関を通って外に出て行ってしまった。


「…っ…あぁー…!」


 情けない。


 何も言葉が出なかった自分自身が、和歌を怒らせたことすら忘れかけていた自分が、そして、そんな状況で自分の愚痴ばかりを吐き散らかしていた自分が…。


 私は後悔の濁流に押し流されると、そのままフローリングの上に突っ伏し、しばらくの間うめき声を上げ続けるのだった。



 がらり、と部室の扉を開けて入ってきたのは、珍しく霞だけだった。


「はよーっす」


 私は休憩がてら、現在進行形で練習している曲の楽譜と睨めっこしながら紙コップに注がれたコーヒーを片手に霞へ挨拶する。そうすれば彼女も、「おはよ」と人好きのする笑みを浮かべる。


 二人して『おはよう』なのは、ぼけてしまっているからではない。今日は土曜日、昼まで部活動の日である。…まあ、盛り上がり具合によってはそのまま夕方まで演奏しているのだが。


「一人?奏は?」


「先生に呼ばれたから少し遅くなるって」


「はっ、くっつき虫も先生には適わない、か。…なんか呼び出されるようなことしたの?あいつ」


「違うよ、むしろ逆。このまま成績を維持していければ、受験のときには国立の推薦を出せるだろうって…そういう話みたい。詳しくは教えてくれなかったけど」


「国立ぅ?推薦?」私はその話に目を剥いた。「か、奏が?推薦?冗談でしょ」


「冗談じゃなくて…奏、特進だよ?一葉だって、奏が頭良いの知ってるでしょ」


「それは、まぁ…」


 悔しいかな、奏には中間テストや期末テストの際にお世話になったことがある私は頷くしかない。


 あんな間の抜けた話し方をするくせに、奏は学年全体で見ても上から数えたほうが圧倒的に速いほどの成績優秀者だった。いや、まあ、奏と言葉を交わしていれば馬鹿でもその地頭の良さは理解できるのだが…問題はそこではなかった。


「私もあいつの頭の良さは知ってるよ。疑ってるのはそこじゃなくて、奏みたいに日頃の行いが怪しい人間が推薦されるかもってところ」


「あぁ…」


 霞も思うところはあったのかもしれない。しかし、「奏は昔から要領がいいから…上手に他の人に責任押しつけちゃうんだよね」と肩を竦めた。


「あー、例えば私とかにね。くそっ」


 この間だってそれで上手くやられた。思い出すだけでムカムカするが、それをこの慈悲深い幼馴染にぶつけたところで、適当に流されるのが関の山だ。


 とにかく、まだ奏は遅くなるということらしい。私のギターと歌と、霞のキーボードだけで演奏を始めるのも妙だし…。


 私はちらり、と霞の横顔を盗み見る。彼女はのんびりとキーボードの準備をしているらしかったが、今すぐに弾きたいという雰囲気でもない。


 しばし、私は逡巡する。和歌との件を相談するのであれば、奏という愉快犯がいない今がチャンスなのではないか、と。


 霞であれば、茶化さず真面目に聞いてくれるだろう。親身になったアドバイスをもくれるはずだ。何より、彼女は私よりも恋愛については経験がある。色々と“進んでいる”可能性だってある。


 防音仕様のため、無数の穴が空けられた壁を見つめる。焦点が合わなくなるような感覚を覚えながら、あくまでなんとなくを装い、私は霞に尋ねる。


「あのさぁ、霞。ちょっと質問していい?」


「んー?もちろん」


 準備しながらで反応する霞。ちょうどいい。このまま、自然に…。


「ぶっちゃけ、霞と奏ってさ、どこまでやったの」


 一瞬の静寂。凍りついた空気には、ナチュラルテイストなど微塵もなかった。


 おそるおそる、顔を霞に向ける。そうすれば、顔を真っ赤にして口を何度も開け閉めしている霞と目が合った。


(うっわー…顔、真っ赤。熱あんじゃない、あれ)


 ちょっと可愛い、なんてことを考えてしまった数秒後、霞は酷く狼狽した様子でなぜか数歩後退したのだが、その拍子に自分の右足に左足をひっかけてしまい、派手な音を立てて椅子を薙ぎ倒しながら後ろに倒れてしまった。


「い、いたた…」


 霞は椅子で打った背中をさすりながら上体を起こしていたのだが、それよりも先に、まくれ上がったスカートをどうにかするべきだと思った。なぜなら、水色の下着が半分ほど見えてしまっているからだ。


「か、霞、大丈夫?」


 何気ない顔でそばに近づき、片手を伸ばす…が、小柄な彼女の艶めかしい太ももに視線が吸い寄せられてたまらない。


「うぅ…大丈夫じゃないよぉ…ばか」


「なんで私が怒られんの…?」


 ぐいっと霞を引き起こしながら愚痴を垂れれば、当然というかなんと言うか、霞にじろりと睨みつけられる。


「一葉が急に変なこと聞くからだよぉ!」


「う…」


 変なことを聞いている自覚のある私は、それで何も言えなくなる。


 霞は依然として、下から私を睨み上げていたのだが、ややあって、すっと視線を逸らすと、「別に、私たちは何も…」と滑舌悪く言った。


「何もぉ?」


 奏の顔が浮かぶと同時に、そんなわけないだろ、と勝手に顔が歪む。


「何も!」


「嘘じゃん。それ」


「ほんとなの!プラトニックな関係なの!私たち!」


「ぷ、プラトニックぅ…!?」


 奏のにやけ顔が浮かぶ。残念ながら、純愛とは程遠い面構えだ。


「いいじゃん!別に!放っておいてよ!」


 顔を真っ赤にして激昂する霞の様子はとても珍しいものだったし、少し可愛くも思えたのだが、さすがに勢いが強く、それに気圧された私は、「ご、ごめんってば」とぼやきながら後退を余儀なくされる。


 彼女は一定の距離を保った私をじろりと睨み続けたまま、「前々から思っていたけど」という前置きの後にこちらを責め立てた。


「一葉って、デリカシーがないよ。言いたいと思ったことをすぐ口にして、やりたいと思ったことをすぐに行動に移してるでしょ。我慢を知らないよね、ばか」


 途端、私は雷鳴に打たれたような衝撃を受けた。


 霞が怒り心頭でぶつけてきた言葉たちは、まさに、私が和歌に怒られるときによく指摘されることそのものだったのだ。


 そしておそらく、今回、和歌が反省しろと私に叱責したのも同じ内容だっただろう。なんということだ、それを霞からすらも言われるなんて…――いや、それだけ周囲から私はそういう人間に見えるということなのだろう。


 いつもなら、『周りからどう見られようと結構。興味なし』と鼻を鳴らして一蹴することだが、今回は話が違う。和歌から反省を命じられているのだから。


 私という人間の中心にあるものは、そう多くない。


 音楽と、和歌さん。たったそれだけなのだ。


 その片方が危ぶまれているこの状況…もはや、是非もない。


「霞!」


 突然大声を出した私に対し、びくっ。と霞が肩を震わせる。


「な、なに。癇癪起こしたって、今日は譲らないんだからね」


 私は彼女の肩を両手でがしりと掴んだ。「ひえっ」と情けない声を上げる霞のことなど無視して、『私の悪いところ、教えて下さい!』とでも全力懇願しようとしていた、まさにそのときだった。


 がらり、と部室の扉が開かれる。姿を現したのは志藤奏だった。


 また間の悪いときに来た、とその瞬間は何となくそう思ったのだが、いつもならすぐに減らず口を叩くだろう場面にも関わらず、奏は私と霞をちらりと見ても、真面目腐った声を出した。


「霞、一葉。何やってるの?」


 当然だが、私よりも霞のほうが慌てていた。まぁ、一見すれば他の女とじゃれているように見えないこともないから、しょうがないだろう。


「ち、ちがくてね、奏。一葉が急に意味の分からないこと言ってくるから…」


「意味の分からないってなに。私は真剣に――」


 自分がまだ言葉足らずのまま状況を説明していないことも忘れ、霞に反論しようとしたところで、珍しく奏がそれを制した。


「はいはぁい。静粛に。後で聞くからぁ」


 おや、と私は内心首をひねる。きっと霞も同じだったことだろう。


 こんな美味しいシーン、からかい好きな奏が見過ごすはずがない。どこか調子でも悪いのではないだろうか…。


 そんなことを私と霞が考えていたところ、不意に、奏が静かで無感情な声音でこう告げた。


「霞、一葉…お客さんだよ」




「お客?」


 声を揃えた私たちの前から、すぅっと奏が横にスライドする。そうすれば、廊下へと続くドアが開かれたままそこにあったのだが、そのすぐ裏側で、何やら人影が二つほど揺らめいていた。


 無言のまま、私と霞は目を合わせる。そしてそれから、奏のほうに視線を投げたのだが、彼女は芝居がかったふうに肩を竦めただけで何も言わなかった。


 やがて、人影が動いた。


 ドアの後ろから姿を見せたのは、髪をポニーテールに結った女の子。


 瞳は少し吊り上がっていて、きつめの印象を受ける。ただ、私とは違って真面目腐った感じがした。


 緊張からか、きゅっと引き締められた唇が、意を決したように開く。


「初めまして、私、一年の長瀬友希と言います。よろしくお願いします」


 用意してきたのかと思ってしまうほど、丁寧で体裁の整った自己紹介。それを一言も詰まらずに口にできているあたりが、この長瀬とかいう人間の人格を端的に表しているような気がする。


 目は口ほどにものを言うらしいが、なるほど、確かに彼女はその典型例だ。礼儀を重んじる言葉以上に、気の強さが伝わってくる。


「は、初めまして…」と一拍遅れて霞が反応する一方、私は突如自分たちの領地に入り込んできた異物を受け入れきれず、ただ黙って彼女らを見つめるばかりだ。


「はい。よろしくお願いします!」


 ぺこり、と深く頭を下げる長瀬。何をよろしくするのか、微塵も理解できなかった。


 私は奏に状況の説明を求めようとしたのだが、それよりも早く、長瀬が一歩廊下のほうに後退し、未だ扉の陰に隠れているらしいもう一人に向かってこんなことを言った。


「真那も、ほら、挨拶しなくちゃ」


「あ、う、うん…」


 長瀬に促されるようにして陰から出てきたのは、気弱そうな――もとい、陰気臭そうな女の子だった。


「い、伊藤真那です…」浅く頭を下げた伊東は、ゆっくり顔を上げると、思い出したかのように、「よ、よろしく、お願いします」と付け足した。


 こちらは正直、どんくさそう、という印象を抱いた。


 ピンで留めるか切るかすればいいのに、と考えずにはいられないほど長く伸びた前髪が両目を隠している。また、話し終わるや否や長瀬の背中に隠れる彼女の姿には、わずかな苛立ちも覚える。もっと堂々としていればいいのに、と。


 私の感情が態度に出ていたのか、伊藤は徹底的にこちらと視線を合わせないようにしている気がしたのだが、それがますます私の感情を苛立たせた。


 霞がまたよく分からない様子のまま、「初めまして…」と返す傍らで、私は奏をじろりと横目にして問う。


「誰、この子たち」


「長瀬友希さんと伊藤真那さんだよぉ。話、ちゃんと聞いてたぁ?」


「聞いてたよ。私が質問してんのは、そういうことじゃないって分かってんでしょ」


 段々と苛立ちを隠しきれなくなってきた私の詰問を目の当たりにして、伊藤がよりいっそう怯えたように長瀬の背後に隠れる中、奏はこちらを煽っているとしか思えないほど仰々しいため息を吐くと、「一葉ちゃんこわぁい」などとほざいた。


「あんたねぇ…!」


「ちょっと、一葉、落ち着いて…」


 今にも掴みかかりそうな私に、霞が何か声をかける。だが、それはむしろ逆効果で、私は眉間に皺を寄せて彼女も睨んだ。


「だから霞!あんたがこいつを甘やかすから――」


 怒りの矛先が霞にも向こうというそのとき、ようやく奏が事態の説明を行った。


「入部希望者だって」


 しん、と一瞬の静寂が訪れる。


 私と霞は目をパチパチさせてから長瀬と、それからほとんど姿の見えなくなっている伊藤を見やった。


 生真面目で優等生タイプに見える長瀬に、どう見ても目立つことが嫌いそうな伊藤。


「誰が?」


 聞き間違いだと思った私は、思わずそう尋ねていた。今思えば、まぬけな反応だ。


「この子たち」と奏が二人を交互に指差す。


「どこに?」


「ウチに決まってるでしょぉ。一葉、脳みそにプリンでも詰まってるぅ?」


「あぁ?」


 シンプルに煽られて威圧的な声が出るが、奏はどこ吹く風、半笑いのままだ。


「とにかくぅ、今日は一先ず見学だけさせておいてって、言われてるのぉ。だから、よろしく」


「よろしく?誰に?」


「せ・ん・せ・い。…ほら、扉閉めて。準備しようよ」


 億劫そうに片手をひらひらと動かし、扉を閉めるよう一年生たちに示した奏は、私と霞の困惑など無視して、自分だけ楽器の準備を始める。


 私は何が何だか分からないまま、長瀬と、伊藤のほうを見た。


「あ、よろしくお願い、します…御剣先輩」


 ぺこり、とまた律儀に頭を下げる長瀬。その向こうには、隠れる壁が動いたせいで慌てふためいている伊藤の姿。


「…はぁ…」


「あ、よ、よろしくね、二人とも!ゆっくりしていって!」


 ろくな返事もしない私の代わりに、霞が急にスイッチが入ったみたいに愛想のよい声で承諾する。その向こう側で私は、長瀬がいつ私の名前を知ったのかをぼんやり考えるのだった。



 あれから二週間。私は依然、和歌とまともな連絡を取れずにいた。


 まさか、こんなにも機嫌を損ねてしまうとは思っていなかった…というのは、顰蹙を買うだろうが、それが私の本音だった。


 どれだけメッセージを送ってもまともな返事はくれないし、電話をかけても出てくれない。怒らせたことは初めてではないが、こんなにも頑なに相手をしてくれない和歌は初めてだった。


 無論、その状況で私が平気なはずもなかったのだが、以前のように私の心が大きく乱れることはなかった。それはひとえに、和歌とはきちんと向き合えば分かり合えるだろうという、経験に基づいた楽観的予測を持ったことと、もう一つ、私の心を違う方向に引っ張る変化があったからである。


 その変化というのが…。




「先輩!…御剣先輩!」


 音と音の間に割り込んでくるメロディに顔を上げる。ヘッドフォンで世界を閉ざしていた私に声をかけたのは、長瀬だった。


「聞こえてます?御剣先輩」


 結い上げたポニーテールが揺れる。朝焼けみたいに明るい彼女は、そのまま上体を傾け、椅子に座る私に立ったまま目線を合わせた。


 一瞬の逡巡の後、私はヘッドフォンを外した。


「なに」


 セッションはみんなが揃ってからのはずだった。今は部室に私と長瀬、そして、伊藤しかいない。


「何を聴いているんですか?」


「は?」


「は、じゃなくてですね。ヘッドフォン!――あ、待って下さい、当ててみせます」


 彼女は私の返事も待たず、ヘッドフォンから漏れ出る音に耳を澄ますと、すぐに口を開き、見事、曲名を当ててみせた。


「へぇ、やるじゃん」


 私は気に入った曲ならメジャーなロックから、インディーズのものまで聞く人間だ。今はちょうどマイナーなアーティストの曲が流れ出ていたため、それをピシャリと当ててみせた長瀬には正直に感心したのだ。


「えへへ、私、御剣先輩と音楽の趣味合うんですよ。その曲が好きなら、アレとかも好きじゃないですか?」


 嬉しそうに笑い、他のバンド名を挙げる長瀬。それらのことごとくが私の趣味ど真ん中だったから、無愛想で有名な私も嬉しくなって相好を崩す。


「よく分かるじゃん。正直、知ってる人間に現実で会うだけでも一苦労するのにさ」


 長瀬は私の顔を見ると、少し驚いた顔をして硬直していたが、ややあってまた明るく笑うと、嬉しそうに言葉を紡ぎながらケースからギターを取り出した。


「御剣先輩の歌い方も、弾き方も、見る人が見ればどんなアーティストに影響を受けてるのか一目で分かりますよ」


「ふぅん…そう?」


「そうです」使い込まれた様子の残る赤いギターが、ケースからずるりと顔を出す。「御剣先輩の演奏、私、釘付けでした」


 話の文脈が適切ではない気がしたのと、なにより唐突に褒められ、私はきょとんとした表情を浮かべ長瀬を見た。そうすれば、ギターのチューニングを始めていた長瀬が、私と目が合うや否や慌てた様子で首を振り、「あ、いえ、上手でしたから、分かりやすくて」と補足した。


 私は、その後もモゴモゴ言いながらチューニングを続ける長瀬に怪訝な顔を向けていたのだが、そのうち、どうせ出会ったばかりの後輩が考えていることなど私には分からない、と一人で割り切り、再びヘッドフォンをはめようとした。しかし、その隙間に、長瀬が早口で割り込んできた。


「み、御剣先輩!」


 勢いに驚いた私は、ヘッドフォンを両耳に当てる寸前の姿勢のまま硬直して彼女を見た。


「な、なに、大きな声出さないでよ」


「ごめんなさい。その、よろしければ、先に合わせませんか?」


「はぁ?」


 私はこの眉間に皺を寄せた、『はぁ?』が相手を威圧すると気付かないまま続ける。


「ベースもキーボードもいないのに?」


「で、でも、ドラムはいますから」


 そう言うと、長瀬は部屋の隅でドラムの準備を整えていた伊藤を指差した。指を差された伊藤はびくっ、と肩を跳ね上げながらこちらを見やったが、私と目が合うや否や、小動物が巣穴に逃げ込むように準備に戻った。


 この二週間近くで、私は伊藤ととことん相性が悪いことに気づいていた。私のように他人に興味のない人間でも気づくのだから、彼女はある種分かりやすいタイプと言えよう。


 とはいえ、実のところ私は、伊藤のことを初対面の頃ほど悪く評価していなかった。いや、むしろ高く評価していたと言えよう。あの小動物的性格さえ除けば、だが。


「それにほら、もう文化祭も近いじゃないですか」


「んー…」


 私は文化祭、という言葉に反応した。


 私たちはそこで一応、発表ステージを設けてもらっている。この間みたいに、吹奏楽部のおまけではない。きちんとメインを務めるのだ……まぁ、トリは吹奏楽部の連続演奏だが。


「……いいよ」


 私は逡巡してから、そう答えた。別に文化祭の準備をしたいわけじゃない。ただ、和歌を招待している以上、格好悪い演奏はできないのも事実だ。


「わぁ、ありがとうございます!」


 長瀬は快活に笑うと、急いで準備に取り掛かった。


 ギターの準備を終えていた私は、マイクのほうに近づくと音の具合を少しの間確かめた。そして、二人の準備が完了したのを見計らって背筋を伸ばした。


「伊藤、リズム取って。よろしく」


「は、はい」


 カツ、カツ、と助走が始まる。


 私の身に起きた変化。


 それは、長瀬友希と伊藤真那という二人の後輩の入部。


 カツ、カツ、カツ…!


 リズムに合わせて、弦を弾き始める。


 音が弧を描くように部室の壁を撫でる。


 防音材では飲み込み切れない音の濁流は、私と長瀬のツインギター、それから、伊藤のドラムから生み出されるものだ。


 教科書通りと言えば聞こえは悪いが、丁寧で安定した長瀬のメロディ。メインギターを譲るつもりはないとハッキリ言い切られても、長瀬は嫌がることなくそれを受け入れ、サブメロディを担当してくれている。これがまた、奏のベースとは別の意味で私の輪郭を際立たせる。


 伊藤のほうは、あの臆病さからは想像できないリズミカルさと力強さで音を打ち鳴らした。長瀬も経験者というだけあって十分な腕前だが、伊藤は明らかに趣味でドラムをやっている以上の技量を持っていた。これが、私に彼女の評価を改めさせる原因となったのである。


 技量の獲得には執念が必要だから…賞賛しないわけがない。


 旋律と共に、歌を乗せる。Aメロの穏やかさから一転、サビに入れば激しく歌い上げる。喉が気持ちよく拡張していくシャウトに、言葉では形容し難い昂揚感が胸を染める。


 二人の入部で、音の幅が広がった。ひねくれ者の私でもハッキリ言いたいくらいの嬉しい変化だった。


 ロックにはドラムのリズムはやっぱり必須だったし、私が複雑な音程の歌唱に集中するためにもう一本のギターも悪くはなかった。


 でも、演奏が終わるとほんの少しだけ物足りなさを覚えた。理由は考えるまでもなく、奏のベースと霞のキーボードがないからだ。


(まぁ、気持ちいいんだけどね…)


 鼻息を漏らした私の隣に、長瀬が早足で寄ってくる。


「御剣先輩、相変わらず歌もギターもお上手です!」


「…どうも」


 あまり褒められるという経験に乏しい私は、こんなふうにストレートな承認を受けることに慣れておらず、どういう返答をしたらいいのか分からなかった。こういうところが無愛想と揶揄されるのだろうが、特段気にしてはいない。


 嫌うのであれば勝手にどうぞ。


 媚びを売って生きていくことほど馬鹿らしいことはない。


 そうやって、私は多くの敵を作ってきた。


 教師、同級生、先輩。会う度、会う度、嫌われ者になった。でもまぁ、ご近所づきあいとか、親族関係は頑張っている自負がある。


 母を勘当同然で追い出したくせに家族面する祖父、祖母には初めこそ怒りを覚えたが、和歌と上手くやっていくため、そしてなにより、根本悪い人間ではないのだと母が笑うから、水に流すことにしている。


 とにかく、そんな私だから後輩ともろくな関係は築けないとふんでいたのだが…。


「御剣先輩って、どこで演奏覚えたんですか?」


「え…」


「習い事とかあったんですか?それとも、友だち?もしかして、独学!?」


 予想外なことに、この長瀬友希という人間は通例に当てはまらなかった。


「……なんで、そんなこと知りたいの」


「え、御剣先輩みたいに上手くなりたいからです!」


 尻尾があればブンブン振っているだろう勢いで答える長瀬。正直、その間合いの詰め方に私自身翻弄されていた。


「…母さんだけど」


「えぇ!?お母様も弾けるんですか!?」


 長瀬は時限爆弾でも見つけたみたいに驚くと、幼馴染らしい伊藤にも話を振っていた。だが、声が小さすぎて彼女の声はここまで聞こえなかった。不思議と長瀬には聞こえているらしかったが…。


 霞でさえ、初めのうちの関係性は最悪だった。態度も口も悪い私を避けず、否定せず、自分の懐に迎え入れたのは和歌と奏と…この長瀬ぐらいのものだ。


「まぁ…このギターも、元々は母さんの物だし」


「へぇー、ビンテージな感じでかっこいいとは思ってたんですけど…どうりで」


 自分の相棒を褒められて悪い気はしない。私は珍しく機嫌がよくなって、長瀬に言った。もしかすると、微笑んでいたかもしれない。


「昔はよく弾いてみせてくれた。上手かったよ。仕事が忙しくなって、ギターに触れる時間がなくなってからはもう見ないけど…たまに、私が弾いてるのを見た時は、なんだか嬉しそう」


「えぇ、いいなぁ…!私の家、お父さんもお母さんも『ギターなんて不良がするものよ。さっさとやめなさい』って厳しいんですよ!弾いてるところを見た日には、苦い顔しかしないです」


「ふふっ、古い価値観…ご愁傷様」


「ほんとですよ!御剣先輩のところは、お父さんもそんなふうなんですか?」


 それは、本当に何気なく放たれた一言だった。


 理由は分からなかったが、わずかに胸の奥の炎が大きくなる。しかし、それは別の何かに燃え移るようなことはなく、すぐに収まった。


「さあ、どうだか」水筒のキャップを開けながら、私は続ける。「私、父親の顔も見たことないから、知らない」


「あ――…」


 真夏の晴れ空が、一瞬にして暗雲に飲まれ、夕立が降るかの如く、長瀬の表情が真っ暗に変わっていく。


「す、すみません、私、その、そういうつもりじゃなくて…」


 空が曇る中、私のほうはというと、少し辟易とした気分にさせられていた。


 こういう反応は初めてじゃない。だいたいみんな、タブーに触れたみたいな顔で謝り、離れていく。そういう態度のほうが失礼とは思わないのだろうか。


 私は少しでも面倒なやり取りが早く終わればいいと思い、口を開く。


「いいって、そういうの。別に死んだわけじゃないし」


「え?」


「私のパパ、母さんを孕ませるなりどっか雲隠れしたんだよ。確証はないけど、遺影もないし、和歌さんの反応からしてもそんな感じみたいだし。絵に描いたようなクズだったんでしょ、きっと」


 ごくり、ごくりと水筒の中身を喉に流し込む。毎日自分で準備しているお茶だった。


 これで多少は罪悪感とやらが軽くなったか、と長瀬を見やると、彼女はますます顔を青くして言葉も出ない様子だった。


(…ちっ…そんなつもりじゃないんだけど…)


 自分の生育環境を他人に聞かせて、同情を買うつもりなんて毛頭ない。むしろ、同情するやつは張り倒してやりたい人間なのだ。


 そういう弱さとか、甘えとかを持った人間だと誤解されたくなかった私は、とっさに長瀬へ手を伸ばすと、その頭を撫でた。


「あぁもう…本人がいいって言ってんだから、そんな顔すんなって。人間きついのは、持ってたものが無くなるほうって、知らないの?一年」


 こんな、他人をフォローするようなこと、まず絶対にやらない私なりに頑張ったつもりなのに、長瀬はとうとう涙を目に浮かべてしまった。


「えぇ…」と困惑する私を見かねたのか、いつの間にか彼女のそばに伊藤がやって来て、驚いたことに口を開いた。


「友希ちゃん、涙脆いので…気にしないであげて、下さい…」


「え、あ、ああ…」


 そのまま、長瀬の背中をさする伊藤。彼女が徐々に落ち着きを取り戻しつつあることに安心したのも束の間、最悪のタイミングで霞と奏が部室に入ってきたせいで、まるで私が悪者みたいなからかわれ方をしてしまうのだった。




「え」


 思わず、声が漏れた。私はとっさに口元を覆って何もなかったフリをしようと思ったが、土曜日の夕暮れ前、部活が終わって帰宅の準備に入ろうというちょっとした静けさの中では、その声はハッキリとみんなに聞かれてしまっていた。


「どうかしたぁ?」と奏が尋ねてくる。


 さっき雨の降る中、表の自動販売機まで走っていったせいで髪に滴がついていた。それがどこか色っぽい。同じ様子の霞が子どもっぽく見えるのに不思議だった。


「…いや、別に」


 慌てて誤魔化すが、奏には通じず、しつこく食い下がってくる。私はそれに耐えきれず、羽虫でも払うかのような手振りと共に答える。


「別に。色々あって、和歌さんが迎えに来てくれるようになったってだけ」


 母は月に一度、祖父母の元に私を連れていく。曰く、親孝行らしい。


 今では金銭的にも世話になっている部分があるが、昔は何もしてくれなかった祖父母に対し、そんなことが言えるから、母は懐が深いと思う。


 それで、今日は学校帰りに仕事を早上がりした母が迎えに来る予定だったのだが…今日中に処理しなければならない仕事が出てきたから、土曜日は仕事のない和歌が代わりに来てくれるというのだ。


「へぇ、和歌さんが」


 私はニヤニヤとこちらを見やる奏を適当に無視すると、期待感でドキドキする胸を抑えつつ、和歌へメッセージの返信を行う。


『ありがとう、和歌さん。ごめんね、お休みの日に』


『いいんだよー、気にしなくて。どこに迎えに行く?近くにコンビニでもある?』


『コンビニは少し遠いから、正門近くに停めてくれると嬉しい。同じように迎えに来た車が路肩に停まってるから、そんな感じでお願いしてもいい?』


『うん。分かった』


 ぽん、と話の締めくくりに送られてくる、犬のスタンプ。ここで会話が切れるのがいつものことなのだが、私は和歌とのやり取りが久しぶりだったから、名残り惜しくてこんなことまで送った。


『久しぶりに和歌さんと会えるの、楽しみ』


 数十秒待てば、スタンプが返ってきた。でも、いつのも照れたようなスタンプや、お礼を言うようなスタンプではなく、犬が、『了解』と敬礼しているだけのものだった。


 やはり物足りなくて、さらに言葉を重ねる。


『和歌さん、早く会いたい』


 しかし、返ってくるのはまた同じスタンプ。


 忙しいのか、と思いつつ、ちょっと不満げに携帯から視線を離せば、すぐ横に奏が立っていて、あろうことか私の携帯を覗き込んでいた。


「ひゃっ!」


 驚きのあまり、声を上げて飛び上がる。そんな私を見て、奏は高らかに笑い、霞は苦笑する。長瀬は不思議そうな顔をしていて、伊藤は物音に驚く小動物のようだった。


「あ、あ、あんた!急に人の隣に立つなよ!」


「ごめぇん、そんなに怒らないで、一葉」


 奏は形ばかりの謝罪をすると、意味ありげな沈黙と微笑みの後、私が、「何」と睨むのを待ってからこんなふうにこちらをからかった。


「随分とご無沙汰だったみたいだからかなぁ?熱烈だわぁ」


「あ?」


 一瞬、何のことか分からなかった私だったが、すぐに彼女が自分と和歌とのやり取りを盗み見ていたのだと気がつくと、たちまち声を荒げて激昂した。


「お前、まさか!人の携帯覗いたな!?」


「え?うふふ」


「ありえない!あー、くそっ!今日という今日は許さん!こっちに来い!無駄にデカい尻を蹴り飛ばしてやる!」


 怒りのままに奏の背中を追うが、彼女は部室の端に置かれた長机の周囲を器用にくるくる回って逃れる。それでも怒号を発して奏を追い続ける私に対し霞が、「二人ともやめなよ…友希ちゃんも真那ちゃんも、びっくりしてるって…ってか、大人げない…」と呆れた声を出すから、私は歯ぎしりしながら動きを止める。


 どうして私が子どもみたいに扱われるのか…。奏の相手をするのが悪いのか?しかし、彼女は放っておくと図に乗るし…。


 私が抑えきれぬ苛立ちから肩で息をしていると、ぼそりと長瀬が霞に問いかけているのが聞こえた。


「霞先輩。なんで御剣先輩はあんなに怒ってるんですか?」


「え?あー…携帯覗かれたからじゃないかな?」


「その通りだよ!」と私が彼女らのほうも見ずに答えれば、長瀬がきょとんとした顔で、「見られて困るものでもあるんですか?」なんて尋ねるから、私はぐっと言葉を詰まらせる。


 ここで『ない』と言えば、じゃあいいじゃん、ってなるし、逆に『ある』って答えれば、それはそれでからかわれるか、詮索されるなりする。


 さすがの私も、私と和歌の関係性が、決して世間におおっぴらにできないことは理解している。別に私は恥ずかしく思わないけど…私がよくても、和歌が困るのだ。


 和歌は当然、私との関係について誰にも言っていないそうだ。だから、それを知っているのは、本人同士と、奏と霞、そして、母――いや、母に知られているのが一番カオスな気がするが…。前にも言ったが、母は懐が深いのである。


 …だがとにかく、この場での沈黙は得策ではなかったことは間違いない。これでは、探られては痛い腹があると言外に示しているようなものだ。


 結局、私は大声を出してはぐらかすしかできない。


「――いいから、さっさと帰り支度しなよ!私、先に帰るからね!」


 長瀬は納得いっていない顔のままだったが、伊藤に片づけを促されるとゆっくり私から視線を外した。




 昇降口から出て校門に向かえば、路肩に和歌の車が見えた。


 和歌さん、と心の中で唱えると、それをなぞるように霞が口を開く。


「あ、和歌さんもう来てるね」


 霞も奏も、何度か和歌の車に乗ったことがある。一緒に遊びに行ったこともあるぐらいなのだから、一見して分かったのだろう。


「じゃ」


 久しぶりに和歌に会える嬉しさから、私はほとんど振り返らずに駆け出す。


 色とりどりの傘の塊から離れて、舞い落ちる一枚の葉のように和歌へ吸い寄せられていく私。


 車の窓が開く。中から、愛しの和歌さんの顔が現れる。


「和歌さん!」


 濡れるのも構わず少し遠めの距離から傘を閉じる。和歌は驚いた様子で、「あ、濡れちゃうよ」と口を開いたが、私はどこ吹く風、素早く助手席に滑り込んで彼女に話しかける。


「迎えに来てくれてありがとう。私、すごく嬉しい」


「え、あ、うん…どういたしまして、一葉ちゃん」


「待ってない?」


「うん。ちょっとしか」


「そっか、よかった」


 久しぶりに和歌と話せる嬉しさに、何を話したって笑みがこぼれる。愛しい人と過ごす時間はやり取り以上の価値があるものなのだ。


 不意に、運転席の窓の向こうに部員たちの姿が映った。


 奏はニヤニヤ笑い、霞は半ば呆れたふうな、でも優しい笑みを浮かべている。その一方で、長瀬と伊藤は驚きに目を丸くしていた。


 そうだ、一応人前だ。


 私はまた月曜日にからかわれることを恐れ、和歌に発進してほしいことを伝えた。しかし、それを和歌が受け入れる前に、思わぬことに長瀬が走り寄って来ていた。


「え、な、なに!?」


 ぎょっとして、私は強めの口調で言ってしまう。


「あ、いえ」青い傘を開いたままの彼女は、和歌にぺこりと頭を下げると、「御剣先輩、これ…落としましたよ」と赤色のピックをおずおずと差し出した。


「あ…」


 別にピックが必須というわけじゃない。ただ、あれは…あれは、母さんがくれたおさがりのピックだった。


 物心ついた頃には、すでに母から貰い受けていた大事な代物。


 私はすぐにお礼を言って受け取ろうとした。だが、私より先に和歌が動いた。


「ありがとうございます」


 柔和な笑みと共にピックを受け取る和歌。確かに、運転席側の窓から話しかけられているのだから、そうするのが自然だった。


「いえ…どういたしまして、です」


 長瀬はそのままぼうっとした顔で和歌を見つめていた。それを目の当たりにした私は、『さっさと帰れよ』という言葉が喉まで出かかったのだが、和歌がお礼を言うよう優しく促してきたので、大人しく、でも淡白にお礼を告げた。


「ありがと、長瀬」


「あ、はい。どういたしまして…」


 長瀬はさっきと同じような返答をしながらも、依然として和歌のことをじっと見つめていたのだが、ややあって、和歌が小首を傾げたことで口を開いた。


「御剣先輩の、お姉さん、ですか?」


「ちょっと、長瀬――」


 和歌に話しかける許可なんて出してないぞ、とムッとして咎めようとした私を和歌自身が片手で諫める。


「いえ、叔母です。一葉がお世話になっています」


「…!」


 一葉。


 和歌は、私のことを呼び捨てにしない。いつまで経っても子ども扱いするみたいに『ちゃん』を名前の後につける。


 それが今、この瞬間、初めて名前だけで呼んだ。


 和歌にとってそれはたいしたことではないのだろう。いわゆる、いつの間にか先に大人になった和歌の、年相応の対応だ。しかしながら、雨音に混じって聞こえたその言葉は、私の鼓膜を特別な響きをもって揺らしたのである。


「そ、そうなんですか。失礼しました。あまりにお若くて…」


「え?あぁ…まあ確かに、歳もそんなに離れていないんです。この間まで大学生だったくらいですし…あ、それよりも、一葉は融通の利かない人だから、大変じゃないですか?」


 私は、暗にこの間のことを責められているような気がして顔をしかめた。


「いえいえ!御剣先輩、かっこよくて、私、大好きです!」


 雨天を切り裂く、太陽みたいな笑顔で長瀬が言う。さすがに恥ずかしくて、私は唇を尖らせる。


「おい、長瀬。変な冗談やめろ」


「嘘じゃないですって!ギターも、歌も、滅茶苦茶上手で、私、尊敬してます。考え方がブレないところも…あれ?これ、何の話でしたっけ?」


「はぁ、言わんこっちゃない」


 長瀬は時折、こういうところがあった。生真面目なのでやり取りではいつも丁寧さを心掛けていることは分かるのだが、話が飛んでいったり、多弁になったりして、会話の着地点が見えなくなるのである。


「和歌さん、長瀬の言うことは適当に…」


 私は額に手を当てて軽く首を左右に振りながら、和歌に迷惑がかかっていないか、変な後輩のせいで私まで呆れられていないかを知るべく、その横顔を盗み見たのだが…。


「…」


 和歌は無言だった。


 降り注ぐ弱々しい雨に、声がかき消されているわけでないのであれば。


 しかも、表情が酷く暗澹としているような感じがした。今日はいつもより青白い。唇も半開きで話を聞いていないふうだし、目線もどこか遠い。間違いなく、彼女は今、『ココ』にはいなかった。


「和歌さん?」


 心配になって名を呼ぶが、反応がない。


 だから、私はその肩に手を伸ばし、触れた。


「ちょっと、和歌さんってば――」


 そのときだった。


 バッ、と和歌が私の手から逃れるみたいに体を動かした。


 目を丸くした彼女と視線が交差する。和歌自身、自分が取った行動に驚きを隠せない様子だった。


 埃っぽい沈黙が私たちの間に流れた。息苦しささえ覚える時間の中、ようやく動き出した和歌が長瀬に対し、「ありがとうね」と明らかな作り笑いを浮かべた後、車は重い空気の中、発進する。


 車窓を隔てて流れ行く、すっかり散ってしまった桜並木。遠く見える青い山も同様に、彩りが失われて見える。この色褪せた空気の前では。


 あえてハッキリと言おう。


 私はこのとき、問題と対峙することを恐れた。


 だから、うやむやにする笑みを浮かべてこんなことを話題にしたのである。


「わ、和歌さん。この間、言ってた文化祭の話、覚えてる?」


「…うん。覚えてるよ」


「その、来られそう?仕事、忙しい?」


「…仕事は…有給でも取れば大丈夫だけど…」


「だけど?」


 歯切れの悪さに食いついてしまう。和歌の懊悩など微塵も気づけずに。


 和歌は寸秒、遠くを見るような目をフロントガラスの先に向けた。しかし、そのうち顔をしかめると、苦しそうに言った。


「来ない、かも」


「え…?」


 私は唖然とした。赤信号で止まっている、そんなときだった。


「な、なんで?来られるなら、来てよ。こ、恋人、でしょ?」


 和歌はぐっ、と何かをこらえるようにハンドルを握ったまま俯いた。信号が変わったってそうしていたせいで、後続車にクラクションを鳴らされたので、私はムッとして後ろを睨みつけようとしたのだが、弾かれたように顔を上げた和歌が勢いよくアクセルを踏み込んだことでギョッとしてそれができなかった。


「そんな簡単に言わないでよ!」


 和歌が、前を睨みつけたまま、そう叫んだ。その瞳から二筋伸びている涙の轍に、私は言葉を失うしかなかった。


「私たち…!私、たち…血が、つながってるんだよ…!?姪と叔母だよ?」


「わ、和歌さん」


「駄目だよ、こんなの…っ!」


 苦しそうな和歌の眼差しが私を貫く。かなりの速度が出ているのに前を向いていない。


「ま、前、前見て、和歌さん。落ち着いて、前を――」


「見てるよっ!」


 叩きつけるような一言。実際、足元でも蹴ったのか、鈍い音がしていた。


「……一葉ちゃんより、ちゃんと見てる…!ずっと…ずっと前から…」


 私の青臭さが隠していた未来。それを独りで見つめていた和歌の懊悩。


 何がきっかけにしてそれが爆発したのかは分からなかった。


 ただ、私は…和歌と同じ方向を向いている気になっていたくせに、その実、全く違うところを…幸福だけでは成り立たないこの世界を知りながら、それだけが保証された未来を都合よく信じていたという事実に打ちひしがれ、何も…言えなくなるのだった。


 


「御剣先輩」


 今日、何度目かになる、後輩の苛立ち交じりの声に私は顔を上げる。


「…なに」


「なに、って…」


 心配そうにしている霞が視界に映るも、厳しく眉を曲げた長瀬に引き戻される。


「御剣先輩。ちょっとは集中して下さい。さっきから同じところ何度もミスってますよ。いや、それどころか、できてた部分まで…」


 メロディが、音色が、そのどれのひとかけらもが指先に宿らない自覚のあった私は、何も反論しようとは思わなかった。気力がなかっただけ、と言われれば、そんな気もする。


「はぁ」


 失意の一滴のようにため息だけがこぼれる。もう何度も雨どいから垂れたものだ。それを耳にして、長瀬の顔がさらに苛立たし気に歪む。


「御剣先輩、もう一回やりましょう」


 私は力なく首を振る。


「…休憩」


 私がそう告げ、肩に下げていたギターを外して壁に立てかけた矢先、長瀬が目くじらを立てる。


「さっきも休憩取ったじゃないですか!」


「友希ちゃん、ちょっと…」


 霞がすぐに間に入るも、長瀬は鬱陶しそうにそれを遮る。


「文化祭、明日なんですよ!?」


 そうだ。文化祭は明日なのだ。


 曲自体は比較的、問題なかった。しかしそれは、私が和歌と音信不通になる前の話だった。


 あれから、和歌は私の連絡に一切反応を示さなくなった。着信拒否、ブロック状態のために電話やメッセージはもはや何の頼りにもならず、母伝いに連絡を取ろうと思っても、和歌とやり取りをしているらしい彼女が、『今はそっとしてあげたほうがいいわ』なんて言うから、どうにもならなかった。


 私の音楽は、私のためにある。自己表現のために。ただ、その例外があるとすれば、それは愛する者のために弾く場合だ。


「それなのに、こんなていたらくで…!」


 段々強くなっていく長瀬の言葉。それにも関わらず、私の魂は腐ってしまっていて、何も言い返そうという気になれなかった。


 そんな中、長瀬を宥めようとしていた霞や伊藤と違い、沈黙を保っていた奏がとうとう動き出す。


「友希」


 鶴の一声が響き、長瀬の動きが止まる。


「言い方、悪いよ」


「奏先輩、でも…!」


「はいはぁい、『でも』なんて言わない。誰しも調子が悪いときはあるでしょぉ」


「それは…」


 私は奏の言葉を聴きながら、自己嫌悪に陥っていた。いつも人の気持ちなんて考えていそうにない奏からもフォローされたことがショックだったのだ。そんなにも自分の状態は酷いのかと。


 しかし、長瀬はそれだけでは私を叩き直すことを諦めなかった。


「でもやっぱり、おかしいですよ。御剣先輩。調子が悪いってレベルじゃなくて…なんか、演奏そのものがどうでもよくなったみたいに…!」


 私はそれを聞いて、ふっと笑ってしまった。それが長瀬の怒りの炎を加速させることを重々理解していながら。


「何を笑っているんですか!?」


 そんなもの決まっている。長瀬の言う通りだと思ったのだ。


 魂を震わせる唯一の手段だと思っていた、音楽。それが今、私の魂に何のエネルギーも与えていなかった。


 これしかないと思っていた。そう信じられていたときは、感じたことのない虚無感。


 どうでもいいんだ。きっと。


 和歌さんが悲しんでいること、和歌と話せないこと、和歌の気持ちが理解できないことに比べれば…。


「カッコ悪いですよ、御剣先輩!」


 だからなんだ。


「先輩らしくない、新歓ライブのときとはまるで別人です!」


 私らしいって、なんだ。


「友希、もうやめなよ…」


「真那まで!」


 伊藤が幼馴染を止めに入ったその隙に、奏と霞が覇気のない私の元へ来て声をかける。


「一葉。和歌さんのことで落ち込んでるのは分かるけど、今は切り替えられない?」


 霞の優しい声にも、私は依然として首を横に振る。


「一葉はぁ、和歌さん至上主義だから」


 奏がからかい交じりで言った言葉。それは今の私の核心を突くものであると同時に、長瀬の怒りを再燃させるものであった。


「和歌さんって…この間の、叔母さん、ですよね。なんで今、親戚の名前が出るんですか」


 親戚、という表現に私はモヤッとしたものを覚える。その言葉は、私が見たくない現実の象徴だった。


「長瀬に関係ない」


「関係ない?」生真面目そうな面立ちが歪む。「関係なくないでしょ、だって、その人のせいで今、みんなが上手くいってないんでしょ!?」


 その一言は、油を差していないブリキのような私の心にさえ大きな波を立たせた。


 逆鱗を不用意に刺激された私は先ほどの無気力な装いとは打って変わって、その激情を一歩、一歩に込めた足音を立てて長瀬に近寄ると、胸倉を掴み上げる。


「何も知らないくせに、分かったような口、利くなっ!」


 長瀬も掴みかかりこそしないが、言い返してくる。


「分かりませんよ!何も教えてくれないじゃないですか!?」


 慌てて霞と伊藤が私たちを引き剝がそうとするが、至近距離で睨み合ったまま私たちは続ける。


「あんたに教える義理はない!」


「いつもカッコつけてる御剣先輩があんなカッコ悪い演奏をしておいて、よくそんなことが言えますね!?口だけですか、結局!」


「な…!?」


 一瞬、くらりとくる。さっきも似たようなことを言われていたはずなのに、何かが違ったし、いつか、誰かに同じことを言われて猛火の如く怒り散らした記憶があった。


 怯んだその隙に、長瀬は叩きつける。メロディに乗っていない魂の言葉を。


「好きじゃないんですか!?音楽!」


 好きか好きじゃないか…そんな馬鹿みたいな問いの答え、決まり切っているはずなのに、私の喉は、いつもみたいに音楽の在り方を叫ぶことはなく、ただ、詰まった古いトイレみたいに澱みを生むだけだった。


 私は苦し紛れに強く長瀬を突き放すと、たっぷり一分近く睨み合った後、自分の荷物を引っ掴んで部室を出た。


 ギターも、仲間も、もしかすると誇りさえも置き去りにして…。




 文化祭当日。私の心は暗雲立ち込めたまま、体と同様動けずにいた。


 校庭の端に座り込んで、駐車場と化しているグラウンドに出入りする車を観察し始めてから、もうどれくらいの時が経っただろう?東で光り輝いていた太陽は、すでに西へと傾き、光の色も段々赤色が強まっていた。


 そばに空っぽになった水筒と寂しそうなギターを置いて、私は体育館のほうを見やる。


 聞こえてくるのは、吹奏楽部の演奏。軽音楽部とは楽器の量も違うから、大きな建物全体が震えているような気がした。


(――もう、軽音楽部の演奏は終わっている頃だろうな…)


 よぎるのは、奏と霞、そして、苛立った長瀬の顔…ついでに、伊藤。


 私は、彼女らの求めに応じず、時間になっても体育館に向かわなかった。聞き慣れたメロディ――私たちが弾く予定だった曲は聞こえてきていたから、演奏自体は長瀬をメインギターにして行ったようだ。だが、勝手な妄想かもしれないが、どれだけ楽譜通りの演奏であっても、音からは力を感じなかった気がする。


 演奏の前に一度だけ、奏が私のところへやって来た。


 てっきり、時間がきたから役目を果たすよう伝えに来たのだと思っていたが、彼女は手短に私に質問すると、黙って時間ギリギリまで一緒にグラウンドの入口を見つめ、やがて、ふらっと体育館に戻った。


 質問というのも、「和歌さん来ない?」と「来ないなら、弾かない?」の二つだけだ。私はそのどちらにも頷きでしか反応しなかった。


 長瀬は激昂しただろう。彼女は責任感が強い。いや、普通のことを普通に守ろうとする人間というだけか。伊藤は無関心な気がするが…霞は……心配してくれている気がする。


 ぼうっと、空を眺める。東雲と共に少しずつグラデーションを描いていく天空世界は、私が思考の海に没頭することを助けた。


(和歌さん…泣いてた)


 恋人なんて、簡単に言うな。そう言って、和歌は泣いた。


(…私、やっぱり自己中なんだろうな…)


 許可なく和歌の気持ちを決めて、触ろうとしたり、問題を考えることを避けたり…今回みたいに、責任を放り出したり…。


 私は、私がしたいことだけができる世界で生きていけると思っていた。いや、まだ思っている、かも。


 でも、和歌さんはそうじゃないって言うんだ。


 自分の人生なのに、“みんな”が気になってしょうがない。“みんな”の言うことが正しくて、自分たちがダメだって?


 自分を貫くこと。それがロックであり、音楽だ。


 だけど……今、私はそれを見失っている。


 和歌のそばでは彗星みたいに過ぎていく時間が、音楽も大事な人もいない今日は酷く鈍足だった。


(…どうすればいい、私…)


 決して誰も答えてはくれない問いだ。こういうときに頼りにできるものは自分と音楽だったのに、それは今、何の頼りにもならない。


(和歌さんも、こんなふうに悩んでいたのかな…だったら、きっと、きつかったろうな…)


 項垂れ、酸素を求めてあえぐ。だけど、そうしたところで何の落ち着きも得られない。あるのは空虚な雑草の臭いだけ。


 肺の中の酸素を吐ききるべく、もう一度深く呼吸をしようとした。そのとき、私は自分の制服のポケットで携帯が小刻みに振動していることに遅れて気がついた。


 どうせ霞あたりが気を利かせて電話をかけてきているのだろう、と鈍った感情で携帯の画面を見やったとき、私はそこに表示されている人物の名前に息を止める。


『和歌さん』


 私は数秒硬直した後、慌てて通話ボタンを押して携帯を耳に押し当てた。


「も、もしもし!?」


 わずかな無音が広がってから、聞き慣れた、今一番聞きたい声が返ってくる。


『……もしもし、一葉ちゃん?』


「はい、一葉です。一葉だよ」


『…今、ちょっとだけ大丈夫?』


「もちろん、もちろん。大丈夫」


 和歌を逃がさないよう、矢継ぎ早に紡ぐ言葉。自分の心の余裕の無さをひしひしと感じたが、そんな格好悪さがどうした、と私は心の底から考えていた。


『この間は、ごめんね』


「いや、そんな別に」


『急にあんなことを言われてびっくりしたよね。一葉ちゃんに偉そうな顔してお説教してたくせに…』


「あ、謝んないで。私のほうこそ、ちゃんと考えてなくて…ごめん」


『…うん…ありがとう』


 直後、嫌な間があった。何か大事な話を、言いづらいが、言わなければならない話をしようとしている、そんな気配を私は感じ取った。


『でも、やっぱり私自身、間違ったことを言ってないと思った。私たちの関係って、おかしいよ。一葉ちゃん』


 やっぱり、そうだ。


 彼女は終わりの唄を歌おうとしている。


「待って、和歌さ――」


『女性同士は別にいいと思う。それは、私たちの気持ち次第で、どれだけでも越えられる。でも、血がつながった者同士っていうのは、越えられない。越えられないよ。誰も認めてもくれない』


 和歌の声は震えていた。遠くから聞こえてくるバイクの音に容易くかき消されてしまいそうなほどに。


「わ、私は、いいよ。私たちがいいなら、それで」


『よくない…!誰も認めてくれない恋のせいで、貴方の未来も、現在も、奪っちゃう。それが一番……よくないっ…』


 あの優しく慈愛に満ちた両目から、涙の筋が伝っているのがありありと想像できた私は、また最愛の人を悲しませてしまっている自分に酷く絶望した。


「…だから、今日も来てくれなかったの?」


『…うん…行けないよ。私たち、おかしな関係だもん』


 和歌の言うことは正しいのかもしれない、と初めて考えた。彼女を幸せにできないわたしには、共に過ごす権利はないのかもしれないと。


「……もう…そばにいられないの?」


 気づけば、私の声も震えていた。


 でも、ぎゅっと歯を食いしばって涙はこらえる。


 泣くものか。絶対に。


 打ちのめされて、立ち上がれなくったって。絶対に白旗を揚げたくはなかった。


 私と和歌さんを傷つける、この世界の常識に負けることだけは、したくなかった。


「…――」


 和歌が大事な返事をしてくれただろうその瞬間、私のすぐそばの道を大型バイクが走り去った。マフラーを改造しているらしく、酷くけたたましい音を立てており、彼女の言葉が聞き取れなかった。


(くそがっ…!)


 バイクの騒音を忌々しく思いながら、念のため、和歌の言葉を聞き返そうと携帯をしっかり耳に当てた、その刹那のことだった。


 不意に、さっきと同じバイクの音が聞こえた。最初はまだ近くにバイクがいるのかと思ったが、すでに先ほどのバイクは真っすぐ伸びた道を進み、グラウンドの角近くの道を曲がって直角になぞるように青い空を切り裂いていた。


 ――音は、携帯から聞こえていた。


 私はすぐに彼女を探した。正確には、彼女の乗った車を。


 それは十秒も経たずに見つかった。路肩のほうで小さく肩をすぼめて停止している。


 どうして嘘を吐いたんだ。和歌は、私に会いに来てくれている。電話なら家からでもよかったはずなのに、こうして視界の届く範囲に来ている。


 私は思った。


 嘘を吐いたのは私を諦めさせるためだ。


 自分が自分に嘘を吐くことで…私を…。


 私はそれに気づいた直後、立ち上がっていた。


「和歌さん」


「…なぁに?」


「私のこと、もう好きじゃない?」


「……」


 やっぱり、そうだ。


 和歌の心と体は同じ方向を向いているのに、常識がそれを捻じ曲げている。


「会いたくない?」


「…会えない、よ」


「だから、今日も来なかった?」


「うん……」


「会いに来ようとも思わなかった?」


「…うん」


 私は無意識のうちに固く拳を握りしめていた。


 拍動する心臓。怒涛の勢いで流れる血液。


 怒りだ。


 何への?これは何への怒りだろう?


 和歌へのものではなかった。世間の常識――に対するものでもあったが、一番ではない。…そうだ、これは自分への怒りだ。情けのない、自分への怒り。こんなことで迷ってしまう自分の弱さを苛立つ怒り。


 それらは、私の魂を生き返らせる。


「和歌さん。ごめんね。独りで考えさせて。私が子どもで、向こう見ずだったから和歌さんを困らせたよね」


「…一葉ちゃん?」


 言葉とは裏腹に気力のみなぎった声音を聞かされた和歌が、怪訝そうに私の名前を呼ぶ。だがその頃にはもう、私はギターを担いで歩き出していた。


「これからは、ちゃんと一緒に考えるから。独りで終わりにしないで、和歌さん」


 音を広く届けるためのアンプはここにない。


 それでも、構わなかった。


 たった一人に届けばいい。


 私の音楽は、今はそのためにあった。


 朝礼台に上がり、ギターを構える。そんな私に気づいた何人かの生徒が不思議そうにしていることも、もはや一ミリも気にならない。


「口だけじゃないって、届けるから。そこから聴いていて、和歌さん」




 空ってこんなに高いんだなとか、グラウンドってこんなに広いんだな、とか。


 そういうこと、考えさせられた。私が解き放つ声が、メロディが、ことごとく飲み込まれていったから。


 和歌さんを思って歌うことは幸せと同義だったが、同時に不安も呼び寄せた。ここで和歌さんに拒絶されてしまったら、私はいよいよ血液に乗せて心臓へと運ぶ酸素をどこからも得られないと思ったからだ。


 それでも、闇雲に歌い、奏でた。


 私にはそれしかないのだ。


 自己表現。そう、音楽は自己表現だ。


 例えるならきっと、爆発に近い。芸術は爆発だなんて言った人間がいるらしいが、ちょっと理解できる気がした。そうやって破裂させるようにして表現しないと、私の中で徐々に膨らんでしまい、苦しくてしょうがないんだ。


 見る者を引き寄せて止まない、そんな自己表現がしたい。


 いつの間にか、車に乗っていたはずの和歌さんが学校のグラウンドと道の間に立てられたフェンスにしがみつくようにして現れ、こちらを見ていた。視力がよくても、その表情はハッキリとは分からなかったが、きっと複雑な顔をしているに違いなかった。


 喜びと困惑、躊躇の狭間にあるのだろう。この音と音の波間が和歌さんをそんな場所に連れて行ったのだとしたら、私も苦しい。


(足りない)


 私は自然とそう考えていた。


 もっと、リズムを、ビートを、メロディを。


 生きとし生ける者が酸素を、光を、水を、求めるように。私は私を支え導く“音”を欲した。


 あまりに自分勝手な祈りだ。私は、彼女らが求めたことを自分の都合だけで跳ね除けてしまっているのだから。


 でも、そうしないと届かないような気がした。現に、和歌さんは俯きがちになった後、ゆっくりその場を離れようとしていたのだ。


(和歌さん…っ!)


 曲の一番が終わった。和歌さんに聞かせるためだけに設えた曲。本来、文化祭などで発表する代物ではない、私の魂。


 孤独の暗雲がかかったまま二番が始まろうというとき、神は私に希望の光を差し出す。


 聞こえてきたのは、最も私のそばにある、私以外の音。


 奏のベースだった。


 朝礼台の上から、音のほうを見やれば、ぬるりと、あたかも初めからそこにいたみたいに私の奏でる旋律に合わせて笑う奏の姿があった。


 奏の唇が、何か言葉を象った。確信はないが、『しょうがないなぁ』と言ったような気がした。


 次に、霞のキーボードの音が響き始める。それは電源の都合上か、少し離れた場所からだったが、それでも十分に私の音を支えた。


 あのキーボード、重いだろうに…。奏が一緒に運んだのだろうか。


 しかし…。


(これだよ、これ…!)


 私はグルーヴィーに胸を詰まらせながら、これだけワガママな自分に付き合ってくれる友人たちを想った。生まれながらにして父親を持たない私に与えられた幸運の一つだった。


 息をしていた。


 呼吸が始まり、音楽が生まれ落ちる。


 それでも、一度蜜の味を知った私はもっとと欲した。そしてそれは、多少の悪態を伴ってやって来る。


「あぁもう、滅茶苦茶!予定通りには弾いてくれないくせに、単独路上ライブはするって、なんなんですか!?本当!」


 少し高いところにいる私をじろりと睨みつけながら、長瀬はギターを首からかけ、タイミングを計って演奏に混じった。


「ごめんってば」


 ついつい口元が綻んでしまう状況の中、歌詞と歌詞の間に私がそう謝れば、長瀬は照れたように頬を赤くしてから何か言った。でももう、聞こえなかった。もしかすると、私の声も聞こえてはいないのかもしれない。


 大サビが始まる寸前のCメロ。テンションが最高潮へと昇り詰めていく、階段を駆け上がっていくような時間、ドラムの音が滑り込んでくる。伊藤だろう。


 音はいつものような苛烈さも手数もない。さすがに楽器の全部を持ってくることは無理だったのだろうが、なんだっていい。そう、なんだって構わない。


(みんな、付き合いが良すぎ…!)


 演奏が終われば、絶対に先生たちに怒られる。演奏を止められていないのは、まだ先生たちが気づいていないからなのか、別の理由からか。


 私は叩きつけるように最後のサビに入った。


 マイク無しでも和歌さんに届くよう、声量に意識を注ぎすぎているせいで、喉が痛み始める。素人みたいな失態だったが、私の必死さを形にするのにはちょうど良かった。


 一度離れようとしていた和歌さんは、またフェンスにしがみついてこちらを見つめていた。距離があっても、今なら分かった。彼女が肩を震わせて泣いていることが。


 和歌さんの言う通り気持ちだけでは、越えられないものはあるのだろう。でも、私たちがそうとも限らないし、今がそのときとも限らない。


 未来は暗黒に閉ざされているが、闇の先が不幸の旅路とは限らない。きらきら光る星だって、漆黒の宇宙の先にあるのだから。


 つんざくように最後の一節を歌いあげる。


 青い空に私たち全員が紡ぐ残響が広がった。




 くるりと振り返れば、遠くのほうで霞が先生に囲まれているのが見えた。あたふたしている様子だったが、もしかすると少しでも時間を稼いでくれているのかもしれない。


 伊藤は汗を拭きながら、ぼうっとこちらを見ており、事の行く末を見守ろうという感じがしたが、一方で長瀬は足元でずっと小言をわめいていた。


「なんですか、これ。ほんと。なんでこんな急ごしらえのステージが、今までで一番さいっこうなんですか…!ほんと!」


 喜んでいるのか怒っているのか分からなかったが、協力してくれたことは確かだったので、適当に、「ありがとう、長瀬」と伝えておく。そうすれば、意外にも彼女は大人しくなった。


 最後に、奏に目配せする。彼女は静かにウインクすると、顎で和歌のほうを示した。


 言葉はいらなかった。あるいは、そう思いたかっただけ?


 どうでもいい。考えても仕方のないことが世の中にはたくさんあるのだ。


 私は肺一杯に空気を吸い、それから叫んだ。


「和歌さん!」


 その大声に和歌が顔を上げる。


「ワガママでごめん!自分勝手でごめん!子どもで、ごめん!」


 その謝罪にはいくつかの意味があった。一つは、勝手に彼女に触ろうとしたことへの謝罪。後は、和歌のことを考えているようで目を逸らしていたことへの謝罪、そしてほんの少し、私の馬鹿に巻き込んでしまった仲間たちへの謝罪。


「でもいつも!大事に想ってるから!」


 愛している、という言葉は飲み込んだ。


 それはきっと、後でいい。後で、二人きりのときに伝えられれば、それで。


 



 結論から言って、まず私は――いや、私と仲間たちはこっぴどく先生に叱られた。学年主任の先生に、本当にこれでもかと言わんばかりに叱られたため、霞や長瀬は目に涙を浮かべて身を固くする始末だったが、私や奏のような、元が良い子ではない二人と、意外なことに伊東も平気な顔をしていた。


 学年主任も、明らかに事の発端である私に対してはいっそう厳しく接していたものの、和歌に自分の気持ちを伝えられた実感、彼女もそれを悪いふうには解釈しなかったであろう確信、そしてなにより、自分が望む自分であれたことへの充実感が鎧となり、私はほとんど反省の姿勢を示さず、むしろ嬉しそうにニヤニヤしていた。


 ありがたいお説教の後に私を待っていたのは、今度は霞と長瀬からの叱責であったが、これにたいした効果がなかったことなど、言うまでもない。


 私は家に帰ってからすぐ、和歌に対し、どうしてあんなふうに思い詰めたのか、何かきっかけがあったのかを尋ねた。


 そうすれば、和歌自身、ずっと悩んでいたことを打ち明けてくれたのだが、私が驚かされたのは、きっかけのほうだった。


「じゅ、授業参観…?」


 知らない人はいないだろう、その学校行事は来週に迫っていた。


 和歌は私の母から、土日祝日関係なく忙しい自分に代わり、授業参観に出てほしいと依頼されていたらしいのだが、それによって、自分と私の間に確かな血縁があること、本来、自分は姪の保護者であるべき存在であることを思い知らされたとのことだ。


 そんなことで、という言葉が話を聞いた私の口から出かかったが、ぐっと飲み下した。


 私の考え方と彼女の考え方は違う。血がつながっていようとなかろうと、私たちは他人。それぞれ違う考え方や価値観を持った人間なのだ。


「ごめんね、一葉ちゃん。私、なんか悪いことしているみたいで、不安になって…」


 ちょこんと私の部屋の床に座り込み、うっすら涙を目に浮かべ始めた和歌を、私は慌てて抱きしめる。


「謝らないで、和歌さん。私が能天気にしてたからまずかったんだと思う。ちゃんと、一緒に考えないといけなかった。そういう義務が私にもあったはず」


 義務、と言うと何か受け入れがたい感じがしたが…きっと、こういうものを処理しきるようになることも成長ということだろう。


 真実、私と和歌の選んでいる道は茨の道だ。


 周りから理解されない可能性のほうが圧倒的に高いから、自分たちの中に押し隠しながら生きていくことは避けられぬだろうし、いつしか私たちのほうが疲弊してしまうのかもしれない。きっと今回、和歌を苛んだのはその氷山の一角なんだ。


 それでも…私は和歌と一緒にいたいと思う。できるだけ、永く。


「一葉ちゃん…」


「私、この間ようやく、自分が自分勝手だって気づいたんだ」


 ゆっくりと和歌の髪を撫でる。指の間を通る髪は何の抵抗もなく、透き通る水のようだった。


「少しずつ、きちんと大人になるつもり…あいつらにも、きちんと謝んなきゃいけないって思ってる。お礼も、言いたいかな。まぁ」


 今回のことでさすがの私も奏たちのことは見直さざるを得ないと思った。こっちは至極勝手な理由で彼女らとの演奏を拒否したのに、彼女らは私のためだけに協力してくれた。言葉もなく、音楽だけで響き合うみたいにして。


 この先一生、彼女らみたいな存在とは出会えないかもしれない。特に、奏や霞は。たいした付き合いもないのに、と考えると、伊藤や長瀬も特別なのかも。


 和歌は私の意志表明を受け取ると、少しだけ嬉しそうに、でもどこか、物悲しそうに微笑んだ。


「本当はね…一葉ちゃんが変わっていくのが、少しだけ怖くもあったんだ」


「え、私が変わるのが怖い?なんで?ってか、私、変わってないよ」


「うふふ、変わったよ。昔は、『友だちなんて、群れないと生きられない奴が作るもんでしょ』とか言ってたもの」


「うげぇ」


 なんだそれ。勘違いしているのにも程があるだろう。


 人間は群れないと生きられない動物だ。社会性の生き物なんだから、それが普通だ。もちろん、群れ方は人それぞれだろうが…。


 私は話の焦点をずらすべく、眉間に皺を寄せながら尋ねる。


「そこは変わったかもだけどさぁ、それが怖いって、なんで?和歌さん、普通に喜んでそうだけど」


「それは、叔母としては嬉しいんだけど…」


 和歌はそこまで言うと、さっと頬を赤く染めて俯いたのだが、それからモジモジとして、私の顔と床を何度も見比べている様は、どうにも言葉に尽くし難いほどに可愛らしかった。


「だけど?」と私が催促すれば、意を決したふうに和歌は顔を上げた。


「う、嬉しいんだけど……独り占め、できないなぁって…」


 独り占め?


 私は思わず、驚きから口をぽかんと開けて和歌の顔を呆然と見つめた。


 そんな私の態度をどう思ったのか、和歌は酷く慌てた様子で両手を顔の前で左右にぶんぶんと振ると、聞かれてもいないのに詳細をしゃべりだす。


「だ、だって!それまで、私のことばっかりだったはずなのに、奏ちゃんとか、霞ちゃんの話、すっごく増えたもん。最近は、伊藤さんと長瀬さんのことだって…私と一緒にいるのに――…」


 あふれる愛しさから、ほとんど無意識のままに和歌の手を捉え、その身を抱き寄せる。


「きゃっ」


 和歌の、甘い良い匂い。くらくらする、幸せの香り。


「和歌さん、嫉妬してくれてた…可愛い…」


 ぎゅっ、と強く、強く抱きしめる。彼女と私がもう二度と離れないように。


 …確かに、私は変わったのだろう。それは自分でも分かる。


 だけど、変わらずにいることもある。


 自分を貫いて生きていくことに、並々ならぬこだわりがあるこの人生観。


 かき鳴らす音楽が私の魂を揺さぶり続け、その音と音の隙間に魅入られていること。


 そして何より、私の人生を形作ったこの愛すべき人に、すべてを捧げて生きていきたいと願っていること。


 それらは、絶対に一生変わらない。青臭い考えと揶揄されようが構わない。


 むしろ、嗤った奴を嗤ってやる。


 お前の人生には、何も大事なものがないんだなって。


「あ、う、や、やだぁ…恥ずかしい…」


 胸が痛くなるくらい、和歌のことが好き。その気持ちを込めて、彼女を見つめる。


「和歌さん、指にキスするくらいなら、いい?」


 本当は唇にしたかった。永遠に私のモノだって信じられるようにするために。だけど、それじゃ、また和歌に呆れられるかもしれないから、一歩譲って、彼女に許可も求める。


 和歌は顔を真っ赤にした後、小さく頷いた。


 だから、私は彼女の薬指に口づけを落とす。


「予約、しとく」


 女同士なのに、血がつながっているのに、馬鹿みたいだって?


 はっ、勝手に言ってろ。


 私は和歌の顔が今までで一番真っ赤に染まっているのを見て、不敵に微笑む。


「愛してるよ、和歌さん」


 …私たちの気持ちは、私たちにしか決められないんだから。

長々とした文章にお付き合い頂き、ありがとうございました!


面白かったなぁ、という方は感想を頂けるととても嬉しいです!

ではでは。

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