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私と貴方

片親の家庭に生まれた私――御剣一葉は、忙しい母親に代わって自分の世話をしてくれていた叔母、御剣和歌に特別な感情を抱いていた。


しかし、所詮は叔母と姪、さらに、同性同士。

世間の目は冷たいことを知り、一葉は不貞腐れるようにして日々を過ごしてきた。


一葉の全ては、母のお古であるギター、それで奏でる音楽、そして、孤独の中だけにあった。


高校生になったある日、一葉は母に自らの和歌への気持ちを知られてしまい、逃げるようにして早朝から登校した。


一葉がその日、誰もいない教室でギターを弾き、歌を歌っていると、偶然それを聞いていた、全く親交のないクラスメイトに軽音楽部に誘われるのだが…。

 (1)


 私用に割り当てられた部屋の壁に、ところせましと貼り付けられているポスターを睨みつける。


 お気に入りのロックバンドの女性ヴォーカルと目が合う。


 濃いアイシャドウの引かれた瞳が、情けのない想いを引きずり続けている私を、軽蔑するように見下ろしている。


 そう感じてしまうのが、気に食わなくて、私――御剣一葉(みつるぎひとひら)は舌を打ち鳴らした。


 くそ、そんな目で私を見るな。


 だって、私にはどうしようもないんだよ。


 しょうがないだろ、簡単に忘れられるものでもないんだし。


 記憶も、恋情も、波の打ち寄せる砂浜に描いた絵みたいに、ぱっと消えてくれるものではないんだ。


 分かってる…。


 どうにもならないことが、世の中にはたくさんあって、


 これもまた、その一つだ。


 法律が、周囲が、常識が、


 私の想いを否定する。


 もう、なんでもいいから黙ってくれ。


 私が叔母に――御剣和歌(みつるぎわか)に抱いている恋情が、醜く歪んだ気持ちの悪いものだってことは、ちゃんと分かってるから。


 分を弁えるよ。

 私みたいに、親からの愛情を半分貰いそこねた女は、まともに幸せなんてなれないんだよな。


 ガタガタと、扉の外で忙しない足音がする。


 机の上の、楽譜の形をした置き時計を見ると、時間はもう5時過ぎ。シングルマザーである母が工場の夜勤に出かける時間だった。


 母にはちゃんと感謝しているつもりだ。


 女手一人で私を育ててくれていること。


 大事にしていた愛用のギターを譲ってくれたこと。


 歌詞の書き方、音楽の奏で方を教えてくれたこと。


 忙しいのに、出来る限りのことをしようとしてくれていること、全部知っている。


 感謝している、母さん。


 ただ、二つだけ…母さんを恨んでいることがある。


 ――どうして、私を女に産んだんだ。


 ――どうして、和歌さんと血が繋がってるんだ。


 あぁ、人生はままならない。


 大好きな人に、会いたくないと思わなければならないこの人生は、とてもではないが、幸せとは縁遠い。


 少なくとも、幸せというものは、私と和歌の血縁関係よりは自分からは遠いのだ。


 部屋の外から、母の声が聞こえる。


「一葉、もう少しで和歌が来るから、鍵開けとくよ!」


「はい」


 玄関の扉が閉まる音を聞いてから、チェアの部品を軋ませ、ゆっくりと立ち上がる。


 黒の遮光カーテンの隙間から、夕暮れの光が入り込んでくる。鮮やかなオレンジを視界の隅に入れながら、ふぅ、とため息をこぼす。


 和歌が来る前に色々と準備をして、彼女が帰るまで自室に閉じこもれるようにしておこう。


 会えば、言葉を交わさずにはいられなくなり、言葉を交わせば、酷い自己嫌悪をもたらす八つ当たりをしてしまうと分かっている。


 学校の制服は一時間ほど前に脱ぎ捨てており、今の私は部屋着である黒のショートパンツと、無地のTシャツ一枚という出で立ちだった。


 こんな洒落っ気のない格好を見られたくない、というのも本音だ。


 叔母である和歌とは、私がかつて期待していたような夢物語など起こり得ないと、すでに知っている。それなのに、ちゃんと割り切れない情けなさを、忌々しく思う。


 念のため、外の気配に注意しながら扉を開ける。うん、まだ和歌は来ていないようだ。


 ドリップ式のインスタント珈琲の準備をしながら、お風呂を洗いに移動する。腕をまくり、ささっと浴槽をスポンジと洗剤でこすっていると、ケトルがお湯を沸かした音が聞こえてきた。


 付着した泡をシャワーで流す。立ち上がり浴槽から離れた私の目に、長身で、目つきが悪い女の顔が映った。


 黒々とした肩までの髪を、内側にカールさせた女は、眉間に皺を寄せると、ゆっくり私に近寄ってきた。


 鏡面の女の頬に触れる。


 ―――…似ていない。私と和歌さんの顔は、こんなにも似ていないのに。


 中学生に上がり、叔母とは結婚できないということを知って以降、血の繋がりが嘘だった、という奇跡を、ずっと待っていた。


 だが、福音を待ち続けていた少女は、もうここにはいない。


 彼女は、現実や常識という巨悪に打ちのめされて、孤独を飼い慣らすことを選んだ。


 同性婚が認められたとしても、血が濃くなることを是としない法律が私たちの邪魔をする。


 くだらない、女同士で、血を濃くする術は今のところ現実的ではないというのに。


 はぁ、と一つ深いため息を漏らす。


 陰気な私は、この苦悩を語らい、和らげることの出来る友人も持ち得ず、生まれたときから持ち続けている孤独と友好を深めているのだった。


 バスマットで足を拭きながら、浴室を出る。そうして台所に戻り、ポットのお湯を用意していたカップに注いでいると、不運なことに、玄関の扉が開く音がした。


 しまった。もう来たのか。


 入り口のほうからか細い声で、「お邪魔します…」と呟く声を無視して、ボタンを押し続ける。


 もっと、もっと速く出ろ、お湯。


 焦ってお湯を注いでいたせいで、フィルターからお湯が溢れる。粒の大きい粉が珈琲の中に流れ出て、思わず顔をしかめる。


「あ、こんばんは、一葉ちゃん」


 のんびりとした、邪気を一切感じない女性の声が背後から聞こえる。


 彼女の声を聞いていると、真面目に苦しんでいるのが自分だけなのだと思い知らされるようで、いつも釈然としない苛立ちが込み上げてきていた。


 完全に無視するか、一瞬迷う。だが、前回そうしたときに、悲しそうに自分の名前を呼ぶ彼女の声に、凄まじい罪悪感を覚え、結局無視を突き通せなかったのを思い出し、ため息まじりに振り返る。


「…こんばんは」


「珈琲かぁ、いい匂いだね」


 彼女――御剣和歌は、いつも通り大学の帰りなのだろう。膝が見えるか見えないかといった丈のライムグリーンのスカートを履き、上は薄黄色のブラウスを着ていた。


 晩夏の時期とはいえ、まだ暑いためか、ボタンは上から二番目まで開いていて、日に焼けない白い肌と鎖骨を惜しみなく晒している。


 私がじっと佇み、珈琲を片手に彼女の愛らしい容姿を観察する。和歌は照れたようにはにかみ、小首を傾げ、とことこと近寄ってきた。


 くそ、何だ、そのトロい歩き方は。

 いちいち可愛いんだよ。


 そばに並び立つと、すっかり身長差が開いてきたことを改めて実感する。


 台所の古い木目のテーブルは、私の腰より下ぐらいまでの高さしかないのに、和歌の腰より上の位置にある。


 …足が短いのか?


 …私が長いのか。


 ほとんど毎回晩ごはんを作ってくれる和歌が、冷蔵庫の一番下の段にある、野菜室を開けて覗き込む。


 しゃがんで調べればいいのに、半端に立ったまま腰を折り曲げているせいで、私の目線の高さからは、すっかり彼女の白の下着と、白い双丘が見通せていた。


 何度も頭の中で夢想した、柔らかそうな感触を味わいたい。

 そのために、手を伸ばしたい。

 伸ばせば、届く。

 例え、心の距離は開いても。


 私は、ごくりと唾液を飲んで、赤く頬を染めつつ、バッと目を背けた。


 加速する劣情が自分のものだとは思いたくなくて、奥歯を噛みしめる。


 それから、呑気に今日の献立の希望を尋ねてくる彼女の声に振り向く。

 また同じ光景を目の当たりにして、拳をギュッと握りしめて誤魔化すというのを何度か繰り返した。


 そうしているうちに、嫌なタイミングで彼女と目が合ってしまう。私が覗き込んでいるタイミングだ。


 和歌は、こういうときだけ敏感に、素早く私の視線の先を追うと、かぁっと紅葉を散らしたように赤面し、胸元のボタンを閉めた。


「あ、ご、ごめん。だらしないよね、本当」


「…別に」


「はは、一葉ちゃんは駄目だよ?こんな大人になったら」


「大人ぶらないでよ、私より小さいくせに」


 子ども扱いされているように感じ、つい反射的に揶揄すると、和歌は可愛らしく頬を膨らませて反論する。


「ち、小さくないよ。一葉ちゃんが大きくなりすぎたんでしょ」


 確かに、和歌さんのバストは小さくない。平均よりかなり上だろう。

 いや、そういう話じゃない。

 あぁ、さっきの光景が網膜に焼き付いて消えてくれない…!


「まあ、大人ぶるなら、もうちょっと人目を気にすれば」


「うぅ…」


 痛いところをつかれると、すぐに口をつぐむのが彼女の癖だった。


 無意識なのか、それとも可愛いと分かってやっているのか、言葉を詰まらせるときの和歌は、必ずといっていいほど、両手の指をいじってみせる。


 その仕草が小動物じみていて愛らしいが、それが私の手の中には落ちてこないことを知った今、むしろ苛立ちさえ募る。


 チッ、と舌を鳴らして彼女に背を向ける。


「どうせ大学でも、でかい胸を男にアピールしてるんでしょ」


「…っ!」


 言ってしまってから、ハッとする。


 ヤバい、これは言いすぎだ。


 謝らなくちゃ。


 首だけを動かして、無言になった和歌を確認する。


 キッ、とまなじりを吊り上げて私を見る和歌は、今度は怒り混じりの羞恥で顔を赤くし、両手を握りしめ震わせていた。


 こんなふうに怒りを発露してみせる和歌を、私は初めて見た。


 そのときだった。


 私の胸に空いた穴が、ほんのわずかに満たされるような心地になったのは。


 今、彼女の頭は私のことでいっぱいになっている。

 その事実が、私の全身を粟立たせ、ぞくぞくした昂揚感を与える。


 口元がにやけそうになって、慌ててその場を離れた。


 テーブルにぶつかりながら移動したため、手に持っていたカップの中で珈琲が跳ね、手首に飛び散る。


 肌を赤く染める熱さに気付いたのは、自室に戻り、カップをテーブルに置いてからのことだった。


 まだ、心臓がドキドキしている。


 こんなの、無意味で、歪だ。

 だが、私たちの年頃では、歪なものこそ美しく、価値あるものに見えるということは決して珍しい話ではない。拗らせている、と言ってもらっても構わない。


 私はすぐにギターを抱えた。


 普段は壊れ物を扱うようにするのに、今ばかりは違った。興奮のため、アンプもヘッドフォンも、振り回すようにセッティングした。


 即興で、メロディをかき鳴らす。


 ――叩きつけるように、断ち切るように。


 詩は、頭の中のノートに書きなぐる。


 ――祈るように、呪うように。


 大きな声で喚き散らしたかったが、さすがにそれは抑え、ひたすら指先と耳と、頭の中にだけ存在する紙面に集中する。


 この時間だけは、私は私を取り巻くつまらない運命を忘れられた。


 純度の高い時間が流れるのだ。


 叩きつけるような愛を、音楽という形で遮二無二なって具現する。


 もっと、傷つけばいい。

 その程度の痛み、私の味わっている不幸感の、何分の一にも満たないんだ。


 頼んでもないのに私の前に現れて、いつまでも続かない希望と幸せの味を教えたアンタは。


 傷ついちゃえよ。


 それぐらい願っても、許されるだろう。

 



(2)



 なんだって度が過ぎれば、自分に跳ね返ってくるものだ。


 自分の歪な感情を満たすために、和歌に冷たく当たる日々を続けていたところ、ついに彼女はもう私の家に来ないと告げてきた。


 思い切りの良さなんて欠片も持ち合わせていない彼女がそんなことを言っても、どうせ、また来週頃には戻ってくるんだろう。

 そう考えていた私の予感は外れ、和歌は本当に私の家を尋ねなくなった。


 別にいい。和歌さんの顔を見なくなったほうが、自分の精神衛生上は良いに決まっているのだから。


 だが、その予想も外れた。


 彼女と会わない時間が積み重なっていくにつれて、私の吐ききれないストレスも蓄積されていった。


 もう、彼女と離れて二年が経つ。

 私は晴れて高校生になっていた。


 あれぐらいで来なくなるなんて、ふざけないでよ。


 苛々が何重もの層を描いていく中で、ある日、母が食卓でふと出した話題が、私をいよいよどん底に叩き落とすこととなった。


 珍しく一日仕事が休みだった母は、私が高校から帰ってくると、すぐにご飯の用意を整えた。


 何でも器用にこなしているイメージのある母だったが、料理の腕だけは問題を抱えていると言わざるを得ない。


 砂糖と塩を間違える、なんて漫画みたいなこと以外にも、何を思ったのか、味付け無しで食材を並べることもある。

 食材そのままの味を活かすにも、限度はあると思う。


 そのため、出来合いのものを買ってきたり、冷凍ものを並べたりということも少なくなかった。


 実際今日も、食卓に並んだのはレトルトカレーと冷凍唐揚げだ。


 別に不満はないので、黙々とスプーンとお箸を動かしていた私の正面で、母が独り言のように呟いた。


「和歌、就職決まったって」


 久しぶりに母の口から彼女の名前を耳にして、一瞬だけ体の動きが止まる。


「…そう、なんだ」


 和歌さん。もう社会人になるんだ。

 いよいよ、彼女が遠く離れるのか。


「あの子、男っ気もないまま学生時代を終えちゃうなんて…、私心配だわ」


 その発言に、ムッと、私は険しい顔をした。


「別に、そんなの和歌さんの勝手じゃない?」


「それはそうだけど、年の離れた姉からすると、心配になるの」


「心配しても意味ないよ。出来ることなんて、ない」


 冷淡かつ赤の他人のように言い放つ私の口調に、今度は母のほうが怒りを露わにした。


「そんなの分からないじゃない?発破かけることぐらいは出来るし、良い人がいれば紹介出来る」


「…望んでもないのに、余計なお世話」


 ことん、と母が箸を置いた。明らかに怒っている。


「まるで、和歌の気持ちが分かるみたいに言うのね」


「分からないよ。和歌さんの気持ちなんて」


「そうでしょうね。そうじゃなかったら、和歌をあれだけ怒らせたりしないもの」


 私と和歌の溝を決定的なものにした一件のことを言っているのだろう。

 忘れようとしていることを、再び、はっきりと思い出させられて、私はこめかみ辺りが熱く、ドクドクと脈動するのを感じた。


 チッ、と怒りのあまり舌打ちがこぼれる。鳴らしてしまってから、しまった、と思った。


 癖とは恐ろしいものだ。


「なに、今の」


「別に」今回は謝る気になんてなれない。


「別に、じゃないでしょう。親に向かって、なんなのその態度は」


 その発言を受けたとき、私の中の堪忍袋の緒がとうとう切れてしまった。酸欠みたいになって、呼吸が荒くなる。


 私の気持ちなんて、これっぽっちも考えたことないんでしょうが。


 ドン、と音を立てて、白米の入ったお椀をテーブルに叩きつけた。幸い何も倒れたり、こぼれたりもしなかったが、母と娘の上っ面の平穏にはとうとう亀裂が入ることとなった。


「こんなときだけ、母親ぶらないでよ」


「なんですって?」


「私のそばにずっといてくれたのは、母さんじゃない…!」


 母は、そんな鋭い言葉をぶつけられるとは、考えもしなかったのだろう。


 目を大きく見開き、言葉を詰まらせた彼女は、一瞬、驚愕と憤りに支配された目の色をしたのだが、すぐに悲壮を滲ませると、無言で俯いた。


 怒りも、悲しみも、同情も…。何も口にしなかった母の姿が、私の目には逃げているように見えた。


 言いたいことがあれば言えばいい。

 ずっと、アンタはそうしてきただろう。


 どうして、そんな態度を取る?


 まるで、私をこんなふうに育てたことについてだけは、己の人生の汚点で、見たくもない現実みたいな顔をして…!


「そうね、貴方の言う通り」


 落ち着いた声で、冷静なふりをして、私を馬鹿にしているんだ。


「貴方のそばにいたのは、和歌だもんね」


「…そうだよ。和歌さんだけが――」


「…ねえ、一葉」


 言葉を途中で遮られた私は、深く鼻息を漏らしてから、ゆっくりと、「なに」と返事をした。そうしなければ、話が進まないと思ったからだ。


 不服でなかったといえば嘘になる。ただ、彼女のほうも真剣そのものという表情をしていたので、黙らざるを得ない。


「和歌と、ちゃんと話さなくていいの?」


 今、その話はしてほしくない。

 私は肩を竦めた。


「ちゃんとって、なに」


「話し合う時間を作って、誤解がないようにするってこと」


「別に…、いらない」


「あのねぇ、さっきの話はどうなるのよ」


「あれは、母さんが…」私は俯く。「人のせいにしない」


 ぴしゃりと言い放たれた言葉は、先ほどまでとは違って反論を許さない鋭さがあった。

 自分は間違っていない、という、正しいことをしているという思い込みによる語調の強さだろう。


 まあ、確かにそうかもしれないが…。


「話が逸れたわね。そうね、今回の件は私が悪かったわ。確かに、どうしたいのかは和歌が決めることだもの」


 でも、と母は前置きしてから続ける。


「和歌に提案することは問題ないでしょう?押し付けたりはしないから」


「…好きにすれば」


 母の言うことは、道理は通っている。こちらに、それを否定することの出来る筋の通った理屈はない。筋の通らない理由ならたくさんあるのだが。


 ――例えば、和歌さんは私のものだ、とか。和歌さんのことを一番に考えられるのは私しかいない、とか。


 根拠のない、また、実行したこともない理由ならこんなにも簡単に浮かぶ。


 明らかに不服そうな私を見て、母は苦笑いした。


「あのねぇ、別に和歌に彼氏が出来ても、貴方と縁が切れるわけじゃないのよ?」


 母は、和歌に誰かを紹介することについて、私が子どもっぽい独占欲で異を唱えていると考えているのだろうが、それは違う。


 これは、そんな綺麗なものではない。


 子どもながらの純な気持ちなら、こんなにも苦心することはなく、相手に伝えることが出来ていただろう。


 ドロドロとした、粘り気の強い嫉妬、不安、苛立ち…。


 どうにもすることの出来ない感情なんだ。


「分かってるよ、そんなこと」


 ぼそり、と小さな呟きがこぼれる。ほとんど自分に言い聞かせるような口調だった。


 ふぅ、と母は息を漏らした。呆れていることがありありと伝わった。


「一葉は本当に、和歌のことが好きなのね。そのうち貴方が恋人に立候補しちゃいそう」


 何気ない冗談だったのだろうが、私の心臓はドクンと、跳ねた。


 鼻で笑って流して、まあね、と一言言えば問題なかったのに、跳ねた心臓は、私の口と心に差し込まれていたつっかえ棒をへし折り、私自身に勝手を許してしまった。


「ち、違う!」


 こんな大声が出るのだと、自分でも驚いたが、それ以上に、母は驚愕していた。


 その丸々と見開かれた瞳と口を見て、私は致命的な誤解をした。母が、私の歪な気持ちに気付いてしまったと思ったのだ。


「ど、どうし――」


 その焦りから、まだ母が何か言葉を紡ごうとしているのに、無理やり遮ってまで声を発した。


「和歌さんのことなんて、好きじゃないから!」


 血反吐を吐くような思いでリビングを揺らした言葉は、母の表情も、時の流れも凍らせた。静かに湯気を昇らせるカレーの熱だけが、異教徒じみていた。


 直後、母の表情がゆらめき、動揺したように眼球が小刻みに左右へ振れた。それから何かを口にしようと、息を吸った後、やはり決断出来ず、口を閉ざした。


 それを見て、私は血の気の引くような思いをまざまざと感じた。母の考えていることが、その顔に如実に表れていたからだ。


 ――知られた。


 私の、醜く歪んだ恋情が。


 悔しくて、恥ずかしくてたまらなかった。


 正しいかどうかはさておいて、何に対しても決断力を遺憾なく発揮する母が、明確に迷い、躊躇し、気付かないフリをするかどうかを考えている。


 それほどの恥だと、今さらながらに思い知らされた。


 母が内心で、自分の娘が、そんな、と不安がるような、慄いているような気さえして、私は息を詰まらせながら席を立つ。


 普段なら、電話がかかって来ようが、用事があろうが、一緒に食卓を囲んでいるときは離席を許さない母が、何も言ってこなかった。


 いつもは鬱陶しく感じられる叱責が、自分の背中に追いついてこなかったことを、私は生まれて初めて怖いと思った。


 自分の部屋に戻った私は、和歌と自分を結びつける、あらゆる物をゴミ箱に叩きつけた。

 



(3)



 次の日は、普段よりも二時間近く早く起きて、母と顔を合わせないで済むように家を出た。


 友達にも恵まれなかった私は、家こそ安住の地と思っていたのに、それも昨夜の出来事で変わってしまった。


 ギターを背負い、電車に乗り、駅に着いたら徒歩で十分。私の通っている高校はトータルで家から三十分ほどの距離にあった。


 普段なら、朝のホームルーム5分前ぐらいに到着するのに、今日は二時間ほど余裕があった。そんな朝早くから登校するような変わった生徒は、部活動の朝練がある連中以外、誰もいなかった。


 教室の隅、窓際の席に腰を下ろす。ギターも肩から下ろして、壁に立てかけた。しかし、すぐに手持ち無沙汰になってしまい、私は余計なことを考えることとなる。


 ――…母さんは、自分が和歌さんに向けた想いを、どう受け取っただろうか。


 変人だとか、病気だとか思ってくれればそれでいい。


 一番辛いのは、母が、自分がちゃんと母親として満足に接することが出来なかったせいで、娘は、代わりに愛情を与えていた和歌に恋慕を募らせたのだと、そう思われることだった。


 …いや、果たして、違うだろうか。


 私が、血縁関係にある和歌を好きになったのは、ちゃんと育ててもらえなかったからではないのか?


 心の底では、家族からの愛情を物足りなく思っていて、それを和歌に求めた?


 歪んだ家庭環境が、私をこういう不完全な生き物へと成長させたのではないのか?


 …私の想いは、とどのつまり、赤ん坊が母親にミルクをねだるようなものなのか?


 私は軽く机の脚を蹴りつけた。

 愚かだが、物に当たれば多少は落ち着く。


 駄目だ。今は何も考えない方がいい。


 これ以上考えては、自分が一等嫌いなものに成り下がってしまいそうだ。

 そうなれば、私は、手放しで信じることの出来る唯一無二のものを失うことになるのだ。


 心を落ち着けるために、私はギターに触れた。時計を見る。まだまだ、誰も来ない時間だろう。


 ケースから母のお古のギターを取り出し、足を組み、それを支えにして構える。


 アンプがないが、どうせ誰も来ない。滅茶苦茶にかき鳴らさなければ問題ないとしよう。


 足先をコツ、コツ、コツと、テンポ良く鳴らし、弦を弾き出す。


 ゆっくりと、静かな朝に似合う曲を。


 そうだ、こんな死んだような心地で迎える朝には、ブルース調の、悲しい曲こそが相応しい。


 即興で歌詞を旋律に乗せる。こういうのは得意だ。


 気持ちを声に出して相手に伝えることは苦手だが、言葉そのものとしてアウトプットすることは得意だ。例えば、歌詞とか。


 部活をしている生徒の声が遠くでしている。


 不完全な静寂の中に響く、自分の情けない、哀愁と悲壮とを帯びた歌声。こういう時間だけは、やはり何もかもを忘れることが出来た。


 血縁も、性別も、ひょっとすると、愛すらも煩わしい。

 私の邪魔をする全てに引導を渡して、

 ただ、この本音だけを伝えることが出来ないだろうか。


 ――…出来ないだろう。


 私には、一切合切を投げ出す勇気や覚悟なんてないから。


 薄氷の上で踊るように危険な真似をするぐらいなら、ずっとそこそこの関係でいいから、一緒にいられることのほうを選ぶ。


 そんな女なのだ。私は。

 臆病者、根性なし。

 大いに結構。

 笑いたければ笑え、

 むしろ、自分では笑えないから、誰かに代わりに笑ってほしい。


 もちろん、そんなことする奴はグーで殴る。


 本当は、そういう自分をぶち壊したくてしょうがないけれど、

 立ちはだかる大きな壁に戦意を喪失している。


 諦めて生きることに慣れている。

 孤独と慣れ親しみ、くだらない、同情すらも得られないブルースを口にしているほうが、私に似つかわしいのだ。


 叩きつけるように、最後のメロディを刻んだ。

 長く余韻を引いた響きが、窓の外へと飛び出す前に消える。


 それは、彼女への届かない想いにも似ていた。


 気づけば、汗をかいていた。

 私の中に蓄積した、老廃物――和歌への想い――を全身から放出することに成功し、大きく、息を吐き出す。


 だらりと両腕を下げて、教室の天井を見つめた。それから這うようにして視線を掛け時計に移し、時間を確認する。


 どうやら、けっこうギターを触っていたらしい。


 私はゆっくりと、目を閉じた。

 満たされない欲望が、自然と抜け落ちていくのを心の目で観察していた私の耳に、乾いた音が聞こえた。


 パチパチ、とリズミカルに鳴る音に目蓋を持ち上げ、そちらを首だけで振り向く。


「上手だねぇ、御剣さん」見知った顔がそこにはあった。「…どうも」


 余韻に浸っていたというのに、余計なことを…。


 確か、同じクラスの志藤奏(しどうかなで)とかいう女子生徒だ。

 私と同じで、ギターケースをいつも背負っている、長身の女。バストがやたらと大きいことだけを覚えている。ただ、和歌のように身長が伴っていないわけではないので、いわゆるグラマラスというやつだ。


 彼女の人を小馬鹿にしたような微笑とタレ目が鬱陶しくて、私はすぐさま顔を逸らし、イヤホンを着けた。


 しかし、彼女は真っ直ぐに私のほうへやって来ると、こちらを向いた状態で前の座席に腰を下ろした。


 足を大きく開いて、椅子の背もたれを抱き枕のようにしている姿勢だった。

 ただでさえ短くしているスカートの裾から白い肌が無防備に露出しているのに、さらに大胆に太腿が覗いている。


 そういうのに、自然と視線が吸い寄せられる自分が、汚くて、イライラして、大嫌いだった。


 音量を上げて、志藤の声を聴かないようにするが、勝手にイヤホンを外される。私はムッとした表情で相手を咎めた。


「ちょっと、返してよ」


「まあまあ、少しだけお話しようよ」人畜無害そうな、のんびりとした口調だったが、それがかえって嘘くさい。


「生憎と、志藤さんと話すことなんて、私にはない」


「あ、私の名前覚えてたんだぁ」


 無視して窓のほうへと顔を向ける。段々青く、明るくなってきた空は、私の気持ちなんて気にも留めないらしい。


「御剣さんってギター上手なんだね」ムッチリとした体つきを見ないよう、顔を上げて答える。「普通」


「そんなことないよ。それに、歌も上手」


「普通」


「御剣さんの声って、見た目に対して結構かわいい系なんだね」


 どういう意味だ、それは。私の見た目に文句があるのか。少なくとも、平均以上の自信はあるぞ。


「もうちょっと、ハスキー系なのかと思ってた」


「同じクラスなんだから、それくらい分かるでしょ」


「お、やっとまともに喋った」


 チッ、と舌を打つ。まるで口車に乗せられたみたいで気に入らなかった。


 志藤は上機嫌で続ける。


「そうは言うけどさ、御剣さん誰とも喋んないじゃん?声なんて分からないよ」


「あっそ」


 いつまでもしつこい奴だ。私は、お前なんぞに興味はない。


 志藤奏、いつもキャッキャッとうるさい連中の中心にいる人間だ。つまり、私とは対角線上に位置する存在。


 静と騒、相容れないことは初めから分かっている。


「ねえ、御剣さん」


 目線だけで、彼女の言葉を抑えようと睨みつける。しかし、それは鈍感な、あるいはそう装っている志藤には伝わらず、何の問題もなさそうに言葉は続けられる。


「一緒にバンドしようよ」


「あぁ?」すさまじく威圧的な声が出てしまう。まあ、相手が気にしていないから、別にいいが。


「先輩たちが受験シーズンに入るからって全く来なくなってさぁ。二年のおまぬけさんは退部したし。ギター、私たち足りないんだよねぇ」


「そんなの、私には関係ない。お断り」


 たまたま作業があって下校が遅くなったとき、彼女ら軽音楽部の演奏を聞いたことがあるが、全くもって論外だった。


 こいつらは、音楽を青春の一ページとでも思っている。アルバムに飾る一枚の写真と同じだ。ただ自分たちにとって綺麗であればそれでいい、という類の身勝手さをうちに秘めている。


 冗談じゃない、音楽は、私にとって魂の拠り所なんだ。


 誰からも理解されず、生まれついた孤独を癒やす術を持たない…私にとっての、光。


 こいつらみたいなお遊びで、汚すことなんて許せなかった。


「お願い、考えておいてよ」


「嫌」淡白にそう告げる。


「今度、また返事を聞きに来るからさぁ?」


「おい志藤、いい加減に――」


 しろ、と相手を切り裂かんばかりの冷たさで、言葉を放とうとしていたところ、教室に数名のクラスメイトが入ってきたので、思い留まる。


 彼女らは、珍しい組み合わせの二人に目を白黒させながら、その間に流れていた物々しい雰囲気を察知して、心配そうに声をかけてきた。


 邪魔が入ったことで、私の断固とした拒絶の意思を上手く示せなかったが、まあ、彼女ももう二度と誘わないだろう。私はそう、たかをくくっていた。


 それが、甘かったことを知るのは、今回の件から一週間経った放課後のある日だった。


 相変わらずすれ違いばかりで、母とはあれからまともに会話していなかった私は、早めに学校に行くことを半ば習慣化させ始めていた。


 人の生活リズムは二週間もあれば変わるというが、私の場合はその半分で安定期に入りそうだ。


 暇なので、ギターに触ることも多かったのだが、意外にも早朝の時間に人が少なくないことに今更ながらに気が付いて、可能な限り自重するようにしていた。


 どのみち、ギターは帰り際に誰もいない公園とかで弾くだけだ。気分が乗るときは、だが。


 その日も、いつも通り適当に授業を受けて、時間になったら定時退社するように帰宅しようとしていたのだが、鞄に荷物を入れている途中で、また鬱陶しい顔と突き合わせる形になった。


「やっほぉ、この間の返事は決まった?」


 体を斜めにした志藤が私の前に立った。癖なのか、ゆらゆらと揺れている。


 私は、顔をしかめて迷惑さを隠さずに告げた。


「…その気はないって、言ったと思うけど」


 その日の私は気が立っていた。

 自分でゴミ箱に捨てて、ゴミ袋にまとめたはずの和歌との思い出の数々を、涙ながら、朝から掘り返すというあまりにも情けのない行為をしていたからだ。


 さめざめと泣いた、なんて、哀れみを誘う気取ったことを言うつもりはない。だが、母に聞かれぬよう、声を押し殺してなかなければならなかったので、結果としてそのようになった。


 自分の不断さに嫌気が差した。母から譲り受けられなかったそれは、自分の首を絞めるときにだけやってくる。


 例えば、今回みたいに。


「えぇ、いいじゃん。あ、じゃあせめて、私たちの演奏を一曲だけ聞いてよ。そしたらさ、みんなで弾いてみたいって思うかもよ」


 ぴくっ、と青筋を立てた私の横で、志藤のバンドメンバーらしき人物が、「もうやめなよ」と彼女を制した。


 小柄で、同年代にして棒切れみたいに起伏の無い体つき。志藤とは対極の位置に属している女だ。後で思い出すが、小板という生徒だった。


 それでも諦めきれないのか、それとも、私の拒絶を真剣に受け止めていないのか、志藤はいつまでもへらへらとしたままで、小板の制止を軽く受け流した。


 その呑気な様が――孤独も怒りも、社会からの隔絶感も知らない様――が、とうとう私の苛立ちを臨界点まで押し上げる。


「アンタらの遊びに付き合うつもりはないから」


 大声ではないが、酷く澄み渡った声がクラスメイトたちの間をすり抜けて行く。何人かは私の異変を察し、その場を離れるか、好奇心をくすぐられこちらを注視していた。


 しっかりと声の届いた志藤と小板は、各々違った表情を見せた。


 小板のほうは、侮辱されたことで顔を赤くし、私を睨みつけていたが、志藤は依然として愉快そうなままだ。


「御剣、アンタ何様のつもり?」


 小柄なわりに度胸はあるらしい。目くじらを立てた小板の姿は、牙を剥いたリスに似ている。まあ、迫力がないということだ。


 立ち上がり、相手を威圧するように近寄って、真上から見下ろす。すでに身長が170cmを越えている私からすれば、彼女はあまりにも小さい。


 一瞬で気圧されたような瞳になった小板へ、ちゃんと聞こえるように、一音一音はっきりと口にする。


「怒るくらいなら、そいつの手綱をしっかり握ってなよ。目障りだし、耳障り」


「な、なにその言い方…」


「いいから」まだ何か言おうとしている小板の言葉を遮る。そこには、明確な敵意が宿っていた。「もう黙って」


 じっ、と小板を上から睨みつける。彼女がたじろいだのを確認してから鼻を鳴らし、荷物を背負い直した。


 本当に、この世界のことごとくが、私を不愉快にすることに関しては、力を合わせて向かってくるからたちが悪い。


 ここが路上なら、思い切り唾を吐き捨てるところだ。意味がないのなんて、分かっていても。


「大丈夫ぅ?霞」


 背中越しに、メンバーを案じる志藤の声が聞こえる。


 そうだ、あの小さい生徒は小板霞(こいたかすみ)という名前だった。カスミソウが脳裏をよぎり、なるほど、名前通りだなと思う。


「どうせ、あいつの音楽なんて口だけなんでしょ…!」


 肩を撫でられていた小板が呟くその一言が、私の中の炎に油を注いだ。それで、教室のほうから反射的に二人のほうを振り返ると、両者とも私を見ていた。


 殺意にすら近いものを込めて、小板を睨みつける。


 あまりにも直接的な敵意をぶつけられて、目を丸くした小板の前に、庇うようにして志藤が立ち塞がった。


 相変わらずのにやけ面だが、瞳には以外なほどの知性がきらめいており、その一瞬だけ見え隠れしたしたたかさに、思わず舌を巻きかける。


 誘導されている、と直感した。

 牧羊犬が羊を追い立てるようなものではなく、もっと小賢しい感じだ。


「だって、御剣さん」


「…何が言いたいの」


「いやぁ、別に?霞の言う通りなのかなって思って」


 明らかな挑発だった。


 勝手に言ってろ、と心の中だけでなじる。


 これ以上、無駄な時間を割く必要も、目立つ必要もない。


 そう思って踵を返そうとすると、唐突に志藤がタレ目を大きく開き、私のほう、正確にはギターを指差して言った。


「あぁー、そのギター、ファッションなんだぁ?」


 堪忍袋の緒が、悲鳴を上げる音が頭の奥から聞こえた。憤怒に染まった瞳で、小板の次は彼女を睨みつけるも、相手は飄々とした態度を崩さない。


 ――乗るな、安い挑発だ。


 志藤は私が弾いているところを目撃している。つまり、ファッションギターではないことだと知っている。分かったうえで挑発しているのだ。


 目的は不明だが、私を煽っていることだけは確かだ。


 相手の思惑に乗ってやる理由はない…が、何とも許しがたい侮蔑。


「そうじゃないならぁ、ここで弾いてみたら?幸いオーディエンスもたくさんいるし」


 温厚さを演じた笑みで志藤が言う。


 もしかすると…、自分のバンドメンバーである小板が威圧されたことで、怒っているのだろうか。


 だが、だとすればそれは逆恨みだ。


「断る。そんな安い挑発、乗ると思ってんの?」


 ぎりぎりのところで踏み留まりつつ、至極、冷静に見えるように努める。かなり上手くいっている自信があったが、それは勘違いだった。


「あっそぉ。じゃ、お家で一人で弾いてれば?」志藤は肩を竦めて、今度はしっかりと嘲笑を浮かべて言った。「口だけの音楽を」


 気付いたときには、私は誰のとも知らない生徒の椅子を蹴飛ばしていた。


 私は、沸き立つクラスの喧騒も聞こえないままギターを取り出すと、鼻息荒く音楽を志藤奏に叩きつける準備を整えた。


 自分の力を誇示するつもりはないが、これ以上、こんな奴らに、私の音楽をコケにされるのは我慢ならない。


 私が上だと証明する。そのためには、知名度があって、なおかつ私らしい激しいロック調のやつがいい。


 素早く選曲し、志藤を睨む。


「吠え面かくなよ、くそ女」


「わぁ、悪役っぽい」


 呆然と事態を傍観する小板を一瞥すると、意外なことに彼女は心配そうに私を見ていた。それにどんな意図があるかは不明だが、舐められていると勝手に判断する。


 弦に指を這わせ、息を吸い込む瞬間…心はいつだって、凪いだ湖面のようになった。


 頭はドクドクと血液を循環させているのに、ギターの感触は私の感情を透明にして、ひたすらに旋律へと誘ってくれる。


 ギターを鳴らし始めたら、もう彼女は自分の世界に没入していた。


 これだ、これだよ。


 最高なんだ。


 リズムを刻む一瞬一瞬の隙間に光って見える、音のきらめき、その美しさが…!


 孤独を打ち鳴らす快感に、私がどっぷりと浸かり、酔いしれていたとき、驚くほど異質な感触が割り込んできた。


 それの正体が最初は分からなかった。

 自分の部屋に他人が入り込んでいるような…。


 視線を上げる。視線が、志藤とぶつかる。


 彼女は、ベースを握って私とセッションしていた。


 くそ、こいつ、最初からこうするつもりだったのか。


 Aメロが始まる。

 逡巡する。

 乗るか、反るか。


 普段の、沈着な私であれば、こんな見え見えのやり方、従わずに跳ね除けるところだった。


 だが、徐々に全身に湧き上がってくる、筆舌尽くしがたい昂揚感が私を麻痺させていた。


 ――こんな分かりやすい挑発、乗るしかないだろ。


 歌が始まり、澄んだ響きが教室を巡り始める。どうやら志藤のほうは歌まで口にするつもりはないらしい。


 恥ずかしいことに、サビが始まれば、もう私の頭の中は興奮と感動でいっぱいだった。


 一音一音が、私の手足になって音楽を奏でる。


 ざわつき出したオーディエンスにも、教室の外に分厚い壁を築き始めた連中のことも気付かず、私はひたすらに志藤とのセッションを駆け抜けた。


 拍動する全神経が、一気に時間を加速させ、曲が閉幕のテープを切ったとき、私は自分の口元が大きく綻んでいることを察した。


 笑っている。私が、笑っているのか。


 拍手万雷の最中、自分でもわけの分からないぐらい興奮したまま志藤を見やる。


 私と目が合った彼女は、『ほらね?』と意味深に口の形だけで私に伝えると、先ほどまでの怒りを私同様に忘れ、ぴょんぴょんはしゃいでいた小板の頭を撫でた。


 騒ぎを聞きつけた生徒指導の教師が私たちを引きずり出すまで、昂揚感と、拍手は消えなかった。


 とぼとぼと放心状態で教師の背中をついていく私は、この奇妙な感覚の正体に気付いて、あっと、声を上げそうになる。


 ――これが、グルーヴィー(音楽的昂揚感)というやつか。

 



(4)



 一度あの昂揚感を味わってしまえば、もうおしまいだった。中毒性が高い薬物を投与されたのと同じで、後は勝手に私のほうから志藤らの元を訪れてしまった。


 志藤のにやにやとした面構えが鬱陶しくて仕方がなかったし、揉めた手前、バツの悪い表情で自分を迎え入れた小板とは、しばらく余所余所しさが拭えなかった。


 驚いたことに、軽音楽部のメンバーはそれだけだった。三年の先輩はすでに受験シーズンでいないし、二年の先輩は一人を除いて不祥事で退部していた。


 二年の部員に一人だけ、ドラム担当がいるそうだが、今は休部しているらしい。理由を尋ねても、口を揃えて、「美景(みかげ)さんは引きこもりの介護中」としか答えてくれなかった。


 そういうふうに誤魔化すことが、暗黙の了解となっているのかもしれない。


 むしろ、部員が三、四人だということは、なんだかんだいって人見知りしやすく、コミュ障気味な私にとっては、過ごしやすい環境だった。


 ドラムのいない物足りなさも、元々一人で弾き続けてきた私にとっては、大した問題ではない。


 ベースの志藤、キーボードの小板。三人でセッションさえ出来れば、しばらくの間は満足だった。


 一人ではない音楽だからこそ感じられるグルーヴが、私の深海みたいに深く、暗い孤独を照らした。


 そして、漆黒の水底に差す光条は、それだけではなかった。


 入部当初の私は、いたく困惑させられたのだが、部室に入った途端、志藤と小板は人目も憚らずにベタベタとし始めた。

 いや、小板の名誉を守るために補足すると、彼女は初めのうちは抵抗するのだ。


 例えば、急に、志藤に後ろから抱きつかれても、迷惑そうな顔で離れるよう命じていたし、部室の奥で眠っているフリをしていた志藤が、近寄ってきた小板の不意を突いて唇を奪ったときなどは、本気で怒鳴り散らしていた。


 …ただ、志藤がそれでもゴリ押ししてくるとき、小板は甘んじてそれを受け入れるのだ。


 そして段々、私が軽音楽部にとって異質ではなくなってくると、その抵抗は本当に形だけのものになっていった。


 あまりに堂々としていたため、一応、アンタッチャブルなものに触れるような、細心の注意を払いつつ、彼女らにこう問いかけたことがある。


「あ、あのさぁ、私、ずっと気になってたんだけど…」


「どうしたの」と小板が小首を傾げる。本当に小動物みたいだ。椅子に座った志藤の、そのまた上に座っている点も含めて。


「ふ、二人は…つ、付き合ってるの?」


「うん」即答したのは志藤だった。小板のほうを一瞥すると、彼女もささやかに頬を赤らめて頷いた。


「あ、そう…」


 別に、おかしなところなんて一切ない。そう言わんばかりの態度に、私は心の奥で彼女らを称賛していた。


「怖くない?周りに何を言われるか、とか」


「んー、もう気にしてないよ」


 逆にそれは、昔は気にしていたということの表れだ。面の皮が厚い志藤がそうなら、神経質そうな小板はなおのことだろう。


「まあ、今の時代、少しは私たちみたいなのの扱いも良くなってるからね。ほら、百合とか、BLとか、言うじゃん」


「ああいうのと完全に一緒かと言われると…ちょっと、違う気がするけど」


 この話題になって初めて口を開いた小板に問い返す。


「どういう意味?」


「えーと…、あんなに綺麗なものじゃないっていうか…。現実は、もっと差別とか、白い目とかされるよね。まぁ、女子同士はくっついていても何も言われないから、多少はマシだけど…。男の人同士は大変そう」


 その発言を受けて、私は思わず唸った。


 確かに、彼女の言う通りだ。現実は甘くないし、男性同士なんて、この古臭いしきたりを捨てられない愚かな国の元では、理解者を得ることがより難しく、大変だろう。


 男性同士を想像すると、なぜか、強く立ち向かってほしいと思えた。自分はリングに上がることすら避けてきたくせに、偉そうなものだ。

 自分も同種ではあるが、少しだけ、他人事に近いからだろう。


「それが分かってても、平気で人前でベタベタするわけだ」


 かあっと紅潮した小板に代わって、志藤が平然と答える。


「失敬だなぁ、こっちもちゃんとイチャつく場所は考えてますぅ。人目を憚っているわけですよぉ」


「嘘つけ、私の前では最初からベタベタしてたでしょ」


「ふぅん」と志藤が興味なさそうに呟きつつ、ブラウスのボタンを少し開けた。


 夏とはいえ、ああいうのはやめてほしい。目線が吸い寄せられる。


 一旦、小板を下ろした彼女は座ったままの姿勢で前屈みになり、私に向かって甘ったるい声で質問した。


「ねぇ、それってどうしてだと思う?」


「知らないし」


 正直、質問の内容よりも、角度が緩くなったことで覗いた、志藤の白い豊かな谷間と、黒の下着のほうが気になる。


 すると彼女は、その視線に元から気付いていたかのように、さっと胸元を手で抑えると、とても意地の悪い笑顔で告げた。


「こういうことだよぉ」


「ど、どういうこと」


 やばい、見られていた、という焦りしか頭になかった私だったが、志藤が続けた言葉と、それによって私に向けられた小板の鋭い視線によって、いよいよ追い詰められることとなる。


「私、同族をかき分けることに関しては、一家言(いっかげん)あるわけ。中でも御剣さんは分かりやすすぎる。ちょっとエロい目で見すぎ」


「はぁ!?わ、私はそんなんじゃないし!」


「はいダウト。入学当初からそうだったよ。もしかして、私みたいにムッチリしてるのが好み?それともただのムッツリ?」


「あぁもう、うるさい!言いがかりつけんなぁ!」


 そのときは慌てて否定を繰り返したが、私の性的嗜好が露呈するのに、大して時間はかからなかった。


 口ではどう言っても、志藤がわざとチラ見せしてきたり、小板が隙のある姿勢をしたりするせいで、私の言い訳は、最早言い訳として機能せず、秋が来る前には、それに関して白旗を振ることとなった。


 …というか、私を誘うような真似をする志藤を見た小板が、その怒りと嫉妬の矛先を私に向けてくることに耐えられなくなったのだ。


 彼女らは、私のカミングアウトを決して笑わず、馬鹿にもせず、真剣に聞いてくれた。辿々しく、素直になれない私の言葉も、急かすことはなく待った。


 秋口には、私の孤独は終わっていた。


 夏が過ぎ去るのと同じように、気付けば、慣れ親しんだ孤独という名の友の影は、隣から消えていた。


 手を振って、見送ってあげたかったと思った。

 孤独は、今まで耐え続けてきた私の分身だと思えたから。


 そして私は、全てを二人に話した。


 私が和歌さんに、歌を通して気持ちを伝えることを提案したのは、小板だった。


 彼女らは、話を聞くだけでなく、私のために共に音楽を作ってくれた。


 作詞作曲とはこうするのだと、私は思い知った。


 むせ返るような悲壮、不満、孤独以外でも、言葉は紡げた。


 歌の生み出し方と共に、私は、孤独とは、人のあり方の一部にすぎず、その人の心持ち次第でいくらでも変わるのだと学んだのだった。

 



(5)



 天高く、馬肥ゆる秋。


 その風は透明な色をしていながらも、高い、澄んだメロディを奏でていた。


 開けた窓の外を流れる景色が、酷く輝いて見える。

 順風満帆、そのものだった。


 隣には愛する人。どれだけ手を伸ばしても、絶対に手に入れられないと疑わなかった人がいる。


 彼女は、のんびりとした顔つきで車のハンドルを操作していた。早く免許を取って、代わりを務めたいものだ。


 その横顔を見つめているうちに、彼女も私の視線に気が付いたらしい。遠慮がちに微笑みながら、その可愛らしい唇を動かして呟く。


「ひ、一葉ちゃん?そんなに見られると、照れるかなぁ…」


 朱の差した顔つきに、好きだ、という単純な、だけどずっと口にできていなかった想いがあふれ出て、我慢できなくなる。


「すいません、でも、好きです。和歌さん」


「ぴっ」と妙な声を出して反応する和歌。


 本当に可愛い、と私の表情はへにゃへにゃにだらしなくなる。


 ――あぁ、今日はなんていう素敵な日なんだろう。死ぬにはちょうど良い日だ、なんていう言葉もあるけど、彼岸でも二人でこうしていられるなら、確かに死んでもいいかもしれない。


「うわぁ、キャラと違いすぎ…。ちょっとひくわぁ」


 静かなエンジン音が鳴る車内で、うっとり恍惚に浸っていた私の耳に、水を差すような声が聞こえてくる。


 ――そうだ、こいつらさえいなければ…。


 チッ、と舌打ちをしながら、ぐるりと後部座席を振り返る。


「ちょっと、外野は引っ込んでて。折角和歌さんとのデートのはずだったのに、なんでついてくるかな…」


「いやいや、和歌さんが誘ってくれたんでしょ?じゃあ、行かないと。ね、霞?」


「え?あ、うぅん…」煮え切らない返事をしたのは、小板だ。「でもね、一葉、私はちゃんと反対したんだからね?二人のデートの邪魔するのは駄目だって。だけど、奏が聞いてくれなくて…」


 どうせそんなことだろうと思ったよ。こういうとき、小板は無害だ。むしろ、私の気持ちを汲んでくれるまである。


 それに比べて志藤は、私の気持ちを察したうえで、嬉々として邪魔をしてくるタイプだ。自分は小板と一緒ならどこでもいいのだろうが、だったら、二人でどっかいけ。


「なに言ってるの、霞。これは和歌さんからのSOSなの」


「え?」と突然話題を振られて驚く和歌。


 というか、和歌さんって呼ぶな。まあ、私も和歌も同じ御剣姓だから、しょうがないのかもしれないけれど…。


「どういうこと?」一応聞き返す小板。


「だって、二人はまだお試し期間なんだよぉ?それなのに、やたらと二人きりになりたがる一葉を警戒してるんだね、これは」


「はぁ?適当言わないでよ!」私が怒りを露わにすると、「まあまあ」と和歌がなだめた。


「ほらぁ、一葉ってムッツリじゃんかぁ?それは警戒するよねぇ」


「は、おい奏!適当言うなって」


「まあ、確かにムッツリだよね…」


 肯定する小板を睨むも、彼女はもう私の目付きの悪さに慣れてしまっているようで、苦笑いしか返さない。


 愉快そうに笑う志藤に、和歌がそれとない様子で尋ねる。


「なに、何かあったの?」


「あ、和歌さん、ちょっと…」


 焦る私を跳ね除けるように、志藤が続ける。その嬉々とした感じが、いかにも彼女らしい。


「聞いてくださいよ、和歌さん。一葉ったら、私の胸チラは見るわ、太腿はガン見するわ、あまつさえ、私の可愛い霞のことも、いやらしい目で見るんですよ…」


 泣き真似をする志藤の横で、「え?」と小板まで驚く。どうやら、神経質だが、隙の多い彼女は今の今まで私の目線のことには気が付かなかったようである。


「へぇ…」と眉をひそめる小板。「一葉って、ちょっと節操ないんだね…」


 お前の彼女のほうが節操ないだろう、と怒鳴りつけたくなったが、途端に無言になった和歌のことが気になって、彼女の顔を盗み見る。


 和歌は不安そうに顔を曇らせて、落ち込んだ様子で前方を注視していたのだが、赤信号ギリギリで停車したところを見るに、頭の中は運転に集中出来ていない様子だ。


 最悪だ、和歌さんに節操なしと思われた…。


 さすがに責任を感じたのか、慌てた口調で志藤が補足する。


「で、でもぉ、一葉ってば、ずっと和歌さんの話をするんですよ。顔が童顔で可愛いだの、身長に対してグラマラスだの、優しくて、色々と教えるのが上手だの」


「おい、やめろ…!」


 途中、私の性癖が出てたじゃないか。そんなこと言った覚えはないぞ。

 …まあ、当たっているけど。


 だが、志藤の補足は功を奏したようで、和歌の顔は赤に染まり、困った様子ながらも、どこか嬉しそうな表情でこちらを見た。


 目が合い、胸がきゅんとする。


「ご、ごめんね。いい大人なのに、なんだか、そのぉ、嫉妬、しちゃって…」


「大丈夫です。和歌さんに嫉妬されるの、正直、嬉しいです…」


 また、はにかむ彼女。


 むずがゆい雰囲気になったことが不服だったのか、志藤がまた余計なことを口にする。


「…でも、押し倒したいとも言ってました」


「ばっ…」これは、本当だった。


 確か、和歌への告白を終えた次の日、私が、動揺しながらも頬を染めた和歌の可愛さを語ったときに、口を滑らせた気がする。


 そんなことはしない、とはっきり断言したかった。


 しかし、チラリと確認した和歌の顔が、今までにないくらい真っ赤に染まっていて、思わず紳士宣告の言葉を飲み込んでしまった。


 私は、こんな可愛い和歌さんの隣で、紳士でなんていられるだろうか…。


 正直、あまり自信がない。

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