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私と姪

以前投稿していたものを、一つにまとめてみました。


ご興味がある方は、ご覧になって頂けると嬉しいです。

  (1)



 私には一回りも歳の離れた姉がいる。


 厳格な御剣(みつるぎ)一家で、長女として育てられた反動なのか、四人姉妹の中で、唯一長女の和葉(かずは)だけが自由人に成長してしまった。


 ギターと男遊びが好きで、派手な服や香水を常に身をまとっているような人。

 頭は悪くないのに、なぜか逆に馬鹿を演じているように見えていた。


 もちろん、だからといって下の姉妹たちに冷たいわけでもなく、いつも何かと気を遣って、世話を焼いてくれるような人だった。


 特に末っ子の私――和歌(わか)のことは、まるで自分の子どものように可愛がってくれたものだ。


 そうした世話好きな面もあって、多少の勝手は父も母も見て見ぬふりをしていたのだが、実際和葉に子どもが出来たときは、さすがにその限りではなかった。


 当時、和葉は大学に進学したばかりの十八の歳であった。

 とても子どもを育てられる年齢ではなかったし、相手の男が雲隠れしてしまったことも、事態の収束を不可能にした大きな原因だった。


 親の反対を押し切り、頑として子どもを生むことを決めていた和葉が、蛇蝎のごとく両親から疎まれ、文句を言われているのを見て、六歳の私は、どうして男の人を責めないのだろうか、と不思議になったものだった。


 大人になった今なら分かる。


 どこにいるかも分からない相手を責めるより、目の前にいる相手を延々と責め続けるほうが、人間楽で、安心するものだ。


 勘当同然に追い出される和葉の後ろ姿は、あまりにも孤独で、私の知っている彼女のそれではなかったことを覚えている。


 そして、去り際に私の頭を撫でてくれた、温かく、柔らかな手が震えていたことも。


 それから六年の月日がこんこんと流れ、中学生に上がった頃、ネットで注文していた本が届いたかどうか確かめるため、郵便受けを漁っていたときに、それを見つけた。


 大人しそうな小さな女の子と、より大人っぽく成長した姉の写真が貼られた、一枚の葉書。


 姉からのものだと気付いたときには、思わず隠すようにして両手で胸に抱き、自室に駆け込んでいた。本のことなんて、すっかり忘れてしまっていた。


 中身は本当に簡単なものだった。特段何かが書かれているわけでもなかったが、文面からして、姉が今までも時折手紙を送っていたことを汲み取ることぐらいは出来た。


 幸せなそうな姉の笑顔には安心したが、初めて見る姪っ子の顔が酷く陰鬱に見えたことには不安を覚えた。


 シングルマザーとして、働き続けている和葉には、自分の娘との時間をきちんと作ることすら難しいのではないか。


 心配性の私は、そこから悶々と悪い方面のことばかりを考えてしまって、ろくに眠れなかった。


 睡眠不足に悩まされた頭で学校に向かい、授業を受けていた私は、『じゃあ、私がお世話すればいいんじゃない』とまるで画期的なアイデアでも思いついたかのように、気分が昂揚した。


 今振り返れば、本当にただの思いつきで、相手のことも、自分の家族のことも考えていない短絡的な行動だったとは思う。ただ、それが間違っていたとは、思っていない。


 そして、次の休日には早速、葉書に記載されていた住所に向かった。


 遥か彼方、外国にでも消えた気になっていた和葉の所在は、他県どころか、たった一駅分しか離れていない町にあった。


 大冒険にでも赴くような心地で、いつもは乗らない電車に乗り、見慣れぬ風景を眺めながら一駅先の町に辿り着く。


 その頃には、冒険の熱も急速に冷め始め、いよいよ目的地である姉の住んでいるボロボロのアパートの目の前に立ったときなぞには、やっぱり帰ろうかとすら本気で考えるほどだった。


 和葉のような決断力を欠片も持ち合わせなかった私は、いつまでもアパートの前で立ち止まって、塗装が剥がれた外壁を見上げていた。


 間もなくして、アパートの一階から、皺くちゃで不潔な服装をした中年の男性が出てきて、じっとこちらを見つめているのに気付き、慌てて階段を上った。


 二階建ての木造アパートの廊下を、黙って早足になりながら進む。一度進みだしたら、私の動きは小動物みたく素早い。


 一番端の部屋の前で立ち止まり、表札を見るが、そこはくすんだ白のままで何も書かれていない。何かと物騒な世の中だし、名前を記入したりしないのだろうか。


 ただ、部屋番号だけは間違いなく合っている。


 躊躇いながら、インターホンを押す。


 チープな音が聞こえる中、出ないなら出ないで構わない、と弱気なことを私が考えていると、すぐに、「はーい」と元気な声が返ってきた。


 その声を聞いただけで、中にいるのが和葉なのだと確信した。


 あの頃と、変わらない、自由に満ちた青天井に舞い上がる資格を持つ、自分のことは自分で決められる類の人間の声質だ。


 心臓の鼓動が激しくなり、喉の奥に何かがつっかえているような息苦しさを感じていた私だったが、扉が開き、中から見慣れたような、でも何か違うような顔が現れ、怪訝な様子から、満面の笑みに変わったとき、それらも霧散していた。


「もしかして、和歌?」私の制服姿を、爪先からつむじまで眺めて言う。


「あ、うん。久しぶり、和葉姉ちゃん」


「やだぁ、もう!来るなら来るって連絡してくれればいいのにさぁ。ほら、上がって!」


「お、お邪魔します?」


 どうしてか疑問形になった私の声に、和葉は優しく、おかしそうに笑った。


 中は酷く質素であった。物で散らかってはいるが、そのどれもが安っぽく、貧相に思える。


 少なくとも、一緒に暮らしていた頃に比べると、何倍も苦労していそうなのが分かるぐらいには。


 ――…これが、幸せなのだろうか。和葉が、私たちから離れてでも欲しかったもの?


 私にはそうは思えない。しかし、和葉が幸せそうなのもまた事実だ。


 理解できないものが凝縮されたような空間に、私が些か及び腰になっていると、不意に後ろのほうから扉が開く音がした。


 そのときまで忘れていたが、和葉にはちょうど六歳になる娘がいたのだった。


 ひょっこり顔を出した彼女は、皺だらけのシャツとスカートを着て、細い手足をしていた。だが、そうした貧困の影を感じる中にも、姉に似た、凛とした気丈さを覗かせている。


 将来、必ずや美人になるだろうという、端麗な感じもある顔立ちで、私と和葉を見比べている。


「お、一葉(ひとひら)、お母さんの妹だよぉ」


 少女はじろり、と無言で睨みつけるようにして私を見てくる。


 急な出会いに、何も考えていなかった私は狼狽え、何とか手を振って、「こんにちは」と応えるのが精一杯だった。


 一葉は、そんな私をたっぷり十秒ぐらい見つめたかと思うと、顔を逸らしてから、「こんにちは」と呟いた。


 人見知りする子どもなのかもしれない。


 なにはともあれ、私も子どもが苦手なので、嬉々として寄り付いてこないのは救いでもあったが…。


 そこでやっと、私は自分が何をしに来たのかを思い出した。


 そう、子どもが苦手なくせに、私はこの子の世話を買って出ようとしていたのだ。


「もぅ、一葉は誰に似たのか無愛想ねぇ」と和葉は腰に手を当てながらも、「でも挨拶出来たのは凄いぞぉ」としゃがんで一葉の頭を撫でる。


 対する一葉は面倒そうに目を細めただけで、母親の手が離れるや否や、部屋の奥に置いてあるソファに腰掛け、ノートパソコンに繋がったイヤホンを耳にはめて音楽を聞き始めた。


「本当、誰に似たんだか…」


 肩を竦めながら呟いた和葉の横顔には、私の知らない思い出がたくさん詰まっているように思えて、何だか見ていられなくなる。


 それから私たちは、この狭苦しいワンルームにて、互いに虫食い状態になった過去を埋め合うための一席を設けた。


 父も母も、他の姉たちも元気にやっていること、次女は姉と同じ大学に受かったこと、三女は高校総体で上位に入るほど柔道が強くなったこと、そして私は、相変わらず何の取り柄もなくだらだらと生きていること…。


 和葉どの話にも笑って答えたが、最後の私に関する話にだけは、眉をひそめて面白くなさそうに首を振った。


「和歌の悪いところだよ。自分のことを卑下しすぎ」


「そうは言っても、本当に、人より出来ることなんてないし…」


「あるじゃん。和歌にも」


 そんなもの、あるわけないよ。


「…例えば?」


 姉が答えられないと思いながらも、私は小首を傾げて尋ねた。すると彼女は、すでに準備していたかのようにスラスラと言葉を連ね始めた。


「努力家なところ、慎重なところ、何よりも優しいところ。分かる?和歌だけだよ、こうして私のことをいつまでも気にかけてくれてるの」


 その言葉を聞いても、私は何だか納得できなかった。

 どれも、やって当たり前のことのように感じられたのだ。


 努力だって、しなければ叱られるからするだけで。


 慎重さなんて、臆病さの裏返しなわけで。


 優しさだって、嫌われたくないからってだけで…。


 私は、どこか言い訳じみた口調で和葉の言葉を否定した。


「家族だもん、当然だよ」


 しかし、和葉はゆっくりと首を振ってみせた。その顔には、物悲しい、寂れた町の孤独のようなものが混じっているように思えた。


「家族なんて、血が繋がっているだけ。他人だって言い切っちゃえば、所詮それと変わらないの。いや、友達なんかよりもずっと他人かもしれない」


「そんなの変だよ。私、和葉姉ちゃんのこと他人だなんて思えないもん」


「だから、和歌は優しいんだって。いい?家族がどこも仲良しだなんて、嘘なんだから」


 どうしてそんな悲しいことを言うのか、私には分からなかった。

 分からなかったが、私の知らない六年という月日が、彼女をゆっくりとすり減らしたことだけは予測できた。


 和葉は、不服そうな私の顔を見て、小さく笑ってから、「和歌は、こんなこと分からなくていいけどね」と呟いた。


 ならばどうして私にそれを告げたのか、と文句の一つでも言いたくなったが、和葉の寂しい面持ちに躊躇し、やめた。


 あっという間に時間が流れ、夕方の四時前になった。

 和葉は時計を見やると、あっ、と声を上げて、慌てた様子で古臭いドレッサーの前に座リ、化粧を始めた。


「どうしたの、和葉姉ちゃん?出かけるの?」


「ごめん、ごめん、和歌。私これから仕事だから」


「え…」


 仕事、これから?


 水商売、という文字が脳裏に浮かび上がり、黄色と赤に点滅していると、和葉はそれを読み取ったかのように笑いながら答えた。


「工場だよ、工場。夜勤のほうが給料いいの」


「そっか…」と胸を撫で下ろしながら応じた私だったが、ふと、一葉のことが気になった。


 今から夜勤、ということは遅くなるのだろう。もしかすると、帰りは朝方になるのかもしれない。


「ねえ、一葉ちゃんはどうするの?」


「んー、いつも待ってもらってるかなぁ」


「一人にするの?」


 私の言葉のどこかに、和葉を責めるような響きが内包されていたのだろう、彼女は一瞬だけムッとした顔つきになったが、すぐにそれを改めるように顔を背け、小さく相槌を打った。


 これが、和葉姉ちゃんの幸せなの?


 そう問いかけることは簡単だったが、それを口にする権利は自分にはないと直感する。


 和葉と、一葉の苦労をまるで知らない私が、親の庇護のもとでしか生きたことのない私が、それを偉そうに語ることは何か筋違いな気がしたのだ。


 私は、和葉を説教しに来たわけではない。


 少しでも、力になれればと思ってきたのではなかったか。


「私、もう少しここにいるよ」


 私なりに、勇気を振り絞った言葉だった。


 相手もそれをしっかりと察してくれたようで、社交辞令とは受け止めず、真剣に考えているような表情をした後、遠慮がちな笑みを浮かべて言う。


「ごめんね、和歌。お願いしてもいい?」


 私の中の和葉の印象にはない、少しだけ卑屈な感じが、私の心を揺さぶった。


 そんな顔をしなければ、私が何か満たされないとでも思われたのだとすれば、随分薄情な妹だと考えられているようだ。


「もちろん。あんまり遅くまでいられないけど、町の図書館が開いてる時間までは大丈夫だから」


 帰る際に鍵をどうしておくか、晩ごはんはどうするかなどを私に伝えた和葉は、昔に比べて落ち着いた服装でアパートを出て行った。


 二人だけになった私は、とりあえず部屋の片付けでもしていようか、と思った。


 ずっと音楽ばかり聞いている一葉は、まるで今の状況に気付いていないようだったが、私が、見るからにゴミらしきものをゴミ袋に詰め込み、脱ぎ散らかした服をたたみ始めたことで、ようやくイヤホンを外してこちらを振り向いた。


「…何でいるの」


 急に話しかけられて、びっくりする。


 どうしよう、なんて言おうか。

 貴方が一人ぼっちになるのが、可愛そうだからだよ、とか?


 いやいや、あまりにも恩着せがましすぎる。そんな恥ずかしいこと、言えない。


「お母さんに、お片付けを頼まれたんだよ」


「ふぅん」そう言った一葉は、私の存在など興味なさそうに、再びイヤホンを耳にはめた。


 どうやら、動画サイトで音楽のPVを鑑賞しているようだ。画面の向こうは、モノクロの演出が施された映像が滑らかに動いていた。


 それにしても、ここまで他人に興味がないのもすごい。


 それも何だか、一人でいる時間が多すぎることの反動のように思えて、私はどこか胸が苦しくなった。


 孤独を埋めなければならないのでは、と思う一方、六歳児に向けてそんな器用さを発揮できないことも分かっていて、自分が情けなくなる。


 すると、己の弱さから意識を逸らすため、せっせと片付けに精を出していた私の背中へと、一葉が声をかけてきた。


「ねぇ、『後悔』ってどういう意味?」


「え?」


 唐突な質問に驚いて振り返ると、一葉がイヤホンを片側だけ外して、私のほうを見ているところだった。


 素っ頓狂な顔していた私を確認すると、一葉は即座にぷいっと顔を背け、「知らないならいい」と六歳児にあるまじき冷淡さを示す。


 ただの甘え下手なのか、警戒心が強いのかは分からないが、これは手強そうだとげっそりする。


「えっとね、『後悔』っていうのは、前にあったことを、ああすればよかったー、とか、あんなことしなければよかったー、って思うことだよ」


 とりあえず適当な説明をしておく。


 これで一葉が納得するかは別として、少なくとも私の役目としては及第点だろう。


 ゆっくりとまたこちらを向いた少女の顔には、仄かにではあるものの、何かしらの満足感のようなものが表れていた。


 もう片方のイヤホンも外した一葉は、早口になって矢継ぎ早に質問する。


「じゃあ、『希望』は?」


「うぅん…。こうなればいいな、とか?」


 何か、微妙に違う気がする。


「いや、こうなるかもしれない…かも」


「どっち」じろり、と一葉の目が私を捉える。「どっちも…」


「じゃあ次、『過去』は?」


「あぁ、それは昔のこと」


「昔とどう違うの」


「えぇ…」


 知らないよ、そんなの。


 私の困惑が伝わったのだろう、一葉は先ほどよりも長めに沈黙を堪えたが、やがて首をパソコンの画面に向けて言った。


「もういい」


 あ、と私は、何かを落っことした気持ちになった。

 慌ててそれを拾い直すように、言葉を続ける。


「待って、えっと、過去が、基本的に自分のことでぇ、昔は、んん、広い範囲での過去…」


 まずい、何を言っているか分からない。


 だいたい、どっちでもよくないか…、これ。


 一葉は、こてん、と小首を傾げて、分かったのか分かっていないのか、定かではない頷きを行った。

 そのときの首の傾げ方があまりにも愛らしく、私は今までの面倒さも忘れて、知りたいことに答えてあげたくなった。


「他に聞きたいことはある?」


「範囲ってなに」


 お、これなら分かりそう。


 私は両手を使って、こっから、ここまで、と教えた。すると一葉は、さっきとは逆のほうに首を倒し、「両手の、間?」と聞き直した。


 あぁ、そうか。そうなるよなぁ…。


 ここでもまた苦戦したのだが、何とか、指定した広さであることを伝えることが出来た。まぁ、本当に理解してもらえたかは怪しい。なにぶん六歳児なのだ。


 そうして、単語に関するいくつもの質疑応答を行い、一葉が多少は満足した様子を見せたところで、私はずっと気になっていたことを尋ねた。


「ねぇ、一葉ちゃんはどうしてそんなことを聞くの?」


 少女は逆に質問を受けて、ちょっと疑うような目をしてみせたのだが、今までのやり取りで多少は気を許してくれたのであろう、怒っているのか、いじけているのか分からない表情で答えた。


「だって、言葉を知らないと歌の意味が分からない」


「ふむ」と感心した様子で私は頷いた。


 六歳児が、歌詞の意味を気にするのか。何とも変わった子だ。


「歌、好き?」


「うん、好き」


 そこで、ようやく一葉がはにかんだ。それは一瞬のことではあったが、私の心に早熟な母性を宿すのには、十分すぎるきっかけであった。


「お姉さん、名前なんだっけ」


 お姉さん、という響きも、末っ子の私には何とも甘美だった。甘えられるという経験に乏しい私は、いよいよ一葉のことが可愛くて仕方がなくなる。


「わ・か。御剣和歌だよ」


「和歌さん」


 あ、お姉ちゃんって言ってくれないんだ。

 少しだけ残念な感じ。


「みつるぎ、一葉とお揃い」


「うん、そうだねぇ。お揃いだねぇ」


 一葉の話を聞くに、彼女の音楽好きはどうやら姉の影響が強いようだった。


 たまに、時間のあるときに、和葉がギターをアンプに繋いで弾いて見せているらしく、一葉はそれで音楽も詩も、大好きになったとのことだ。


 血か、と何だか格好つけて考えてはみたものの、御剣家の人間で、音楽に対し、素養や興味を示した者は和葉ただ一人だけだったことを思い出し、そういうわけではないみたいだ、と一人で結論付ける。


 何でも血や生まれのせいにするのは、人間の悪いくせだ。


 やがて時間が来て、和葉の家を去らねばならないというとき、やはりどうしても、幼い一葉のことが気になった。


 私が家に帰る、と伝えたときの、少女の得も言われぬ孤独な瞳が、網膜に焼き付いて消えそうになかった。そのため、私は急遽、和葉の家に泊まる計画を立て始めた。


 当然、両親には友達の家に泊まると言ったのだが、これでもかというぐらい叱られた。ただ、珍しく食い下がる私を見かねて、母が助け舟を出してくれたことで何とか許可を取り付けた。


 嘘を吐いてごめんなさい、お母さん。でも、悪いことをしているつもりはないよ。


 電話を終えて、くるりと一葉のほうを振り返る。


「明日の昼までは、一葉ちゃんと一緒にいられるよ」


 その報告を受けて、彼女が駆け寄って来る。


 子ども特有の高い笑い声で喜ぶわけでもなく、ただ、無言で私の細い脚を抱きしめる姿が、逆に痛々しい。


 毎夜、どれほどの孤独が、この子を押し潰そうとしているのだろう。

 そして、このあまりにも小さな体で、どうやってそれに耐えているのだろう。


「色々、また聞いていい?」


「うん、もちろん」


 私はその日、今後時間の許す限り可愛い姪――一葉のそばにいよう思った。

 



(2)



 それから私は、時間があれば和葉の家を訪れる習慣が身に付いた。


 和葉は大喜びだったし、一葉も言葉に出すことはなかったが、喜んでいる様子だった。


 たまに泊まることもあったので、両親は何かしらの疑問を抱いているようだったが、友人が上手に口裏を合わせてくれたこと、学校の成績はみるみるうちに伸びていったこともあって、とやかく言われることはなかった。


 成績の向上も、実際、私が身に着けたこの習慣の副産物だ。


 一葉に単語を教えるにあたって、間違っていたり、答えられないことがあったりしてはまずいと、私は日頃から語彙力を高める勉強を行った。


 他にも、一葉が勉強したり眠ったりしている時間は、自分の勉強時間に使った。親が、どういうことをしたのかと聞いてくるときがあるからだ。


 そういうときに、実際の成果があると説得力が違う。


 私が中学校を卒業し、高校生になって大学受験の用意をしている間も、その習慣は変わらなかった。


 ただ、変わったことが二点だけある。


 一つは、とうとう両親に和葉の家を訪れていることがばれたことだ。


 きっかけは、長女への怒りが収まりつつあった両親が、何気なく私たち姉妹に葉書を見せたときのことだった。


 次女、三女にならって、驚いたふりをしてみせたのだが、うっかり口を滑らせて、一葉の名前を口にしてしまった。


 彼女の『ひとひら』という名前は、和葉が自分の名前と紐づけ名付けた当て字で、『一葉』という名前だけを見て、『ひとひら』と呼んだことは確かに不自然極まりなかったのだ。


 どうして知っているの、という指摘を受けた私は頭が真っ白になり、何とか言い逃れ出来ないかと頭を回転させていたのだが、それも無理だと悟り、観念して本当のことを話した。


 てっきり私も勘当同然の扱いを受けるのでは、と恐れていたのだが、両親は何ともいえない顔で、姪想いだな、とむしろ私を褒めるような言葉を口にした。


 きっと、両親なりに娘のこと、孫のことを心配していたのだろう。


 自分たちがあのとき下した決断は、本当に正しかったのか、二人で語り合うときもあったのではないか。


 そのため、私が高校生に上がる頃は、堂々と世話に行っていたし、食べ物なんかも持っていくことが出来た。両親も、金銭以外のあらゆる物を持たせ、私を送り出していた。


 そしてもう一つ、変わったことがある。


 これは、ある意味で自然の摂理と呼ぶべきものなのだろう。


 一葉が、次第に私を避け、言葉を交わさなくなったのだ。


 中学生になった頃から、その傾向が何となく見え隠れしていたのだが、私が大学生になった頃には、誰が見てもそれは明らかだった。


 そして、とうとう決定的な溝が生じることになる一件が起こった。


 地元の国立大学の二回生となっていた私は、様々なことに取り組む傍ら、和葉の家を訪れていた。


 バイトやらゼミ、試験、少し先の就活…。


 いやに執拗な捕食者のように私の背中を追いかけて来るそれらから、唯一逃げおおせることの出来る場所が和葉の家だった。


 自分で選んでいることなのに、追われているような気分になるのはどうしてなのだろうか。


 両親の援助もあって、ボロアパートから、普通の団地に引っ越せていた和葉と一葉は、相変わらず、すれ違うような時間を過ごしていた。


 その日も、和葉と入れ替わるようにして帰って来た一葉は、私の姿を見て、すっと目を細め、一瞬だけ苦々しい顔つきになった。


 昔と変わらないどころか、むしろ孤独に慣れ親しみ、孤独に居場所と意味を見出した瞳がそこにはあった。


 行ってきます、という和葉の言葉にツンとした声で、「はい」とだけ他人行儀に答えた一葉は、そのまま自分の部屋にこもってしまった。


 どうやら、私はもうお邪魔虫のようだった。


 もしかすると、友だちでも連れてきたいのかもしれない。いや、彼氏だろうか…。


 一葉は、美人な和葉に似たのだろう。身長はめきめき伸びて、目鼻立ちもすっと通った美人顔に育っていた。


 とっくに私を追い越した身長は、目測で165cm弱はある。手足もすらりと伸びていて、私と姪に血の繋がりがあるとは思えなくなりそうだった。


 肩ほどまでの長さの髪はサラサラしていて、内側にくるんと巻いてあった。


 私がじっと、リビングで読書に耽っていると、不意にチャイムが鳴った。


 どうやら荷物が届いたようで、ここの住人でもない私が受け取るのはいかがなものかと思ったが、一葉が出てこないので、仕方がなくサインをして受け取る。


 送り先には一葉の名前が書いてあり、一瞬迷った後、片手で持てる、薄っぺらなダンボ―ルを手に彼女の部屋の前に移動した。


 コンコン、とノックをする。


 返事がない。


 勝手に開けるのは、絶対怒るよなぁ…。


 そう分かっていながらも、私はこっそりとドアノブを回さずにはいられなかった。


 怒られたら怒られたときだ。


 私らしくもない大胆さが顔を見せたのは、ひとえに、最近は質問も何もしてくれなくなった、可愛い姪と、また話をするきっかけが欲しい、という考えからだろう。


 今考えれば、本当に浅慮な行動だが、それくらい、同じ家にいながら、彼女と疎遠になっていたのだ。


 扉を開けると、ヘッドフォンを着け椅子に片足上げたまま、ギターを抱える一葉の姿があった。


 ギターから伸びた太いコードは、床の上に置いてあるアンプに接続されており、そこからまたヘッドフォンにコードが伸びている。


 室内の壁には、ところせましとロックバンドのポスターが貼ってあり、一目見ただけで、彼女が音楽に熱中していることが分かった。


 声をかけるか迷っていると、開け放った扉が壁に当たって、鈍い音を立てた。


 その振動でバッと勢いよく振り返った彼女の瞳には、驚きと、怒りが半々になって渦巻いており、それを他人事のように見つめていた私は、あぁ、怒られるなぁと考えていた。


 ヘッドフォンを外し、眉間に皺を寄せた一葉が、棘のある声で言う。


「何で勝手に入って来てるの」


「あ、ごめんね…、荷物――」


「そんなの、部屋の前にでも置いてればいいじゃん!」


 そう怒鳴りつけながら立ち上がった一葉は、ひったくるようにして荷物を奪い取ると、いつまでも立ち尽くしたままの私を一瞥した。


「なに、何か用?」


「あ…、一葉ちゃん、ギター好きなんだね」


 ここで何か言わなければ、もう二度と彼女とまともに言葉を交わせない気がして、無理やり紡いだ言葉だった。


 しかし、それは逆効果だったようで、一葉はムッとまなじりを吊り上げ、吐き捨てるように言った。


「アンタに関係ないじゃん」


 アンタ…。


 心の中でそう唱える。


 理不尽な怒りをぶつけられた腹正しさよりも、あんなに懐いてくれていた一葉が、私のことをアンタ呼ばわりしたこと、そして、無関係の境に押し飛ばされたことが悲しくて、じわりと、涙が滲む。


 情けない。年下に、しかも姪っ子になじられて、泣くなんて…。


 パッと重なった視線の先、一葉が驚愕したように目を見開いているのが分かった。


 うざい、とか思われてるんだろうな。


 そう考えると、もうその場にはいられなくなる。


「…ごめんね、もう来ないから」


 そんなふうに告げるのが、精一杯だった。


 そして、私は彼女たちの家に行かなくなった。


 冷静になって考えれば、姪も大きくなったのに、いつまでも彼女らの関係に首を突っ込むのは、間違ったことなのかもしれないと思ったのだ。

 



(3)



 自分の妹同然に大事にしてきた一葉との関わりを断つのは、身を引き裂かれるような痛みを伴ったが、それもしょうがないと納得していた。


 彼女が私を必要としないなら、もう、この関係は成り立たない。


 和葉は急に私が家に来なくなったことについて、色々と一葉に詮索したようだった。


 適当な嘘を吐いて誤魔化そうかとも考えていたのだが、家族の誰よりも分かりあえている和葉と言葉を交わせば、虚構は暴かれると判断し、口を閉ざすこととした。


 そして、それは正しかったように思える。


 結局、私がはっきりとした理由を口にしないうちに、和葉は諦めたようで、途中から何も聞いてこなくなった。


 人生最後のモラトリアムも終わりが近くなり、就職先も、幸運なことにある程度希望通りのところに内定を貰い、何をするでもなく時間を費やす日々が続いた。


 同時期に指先の上を流れる物語は、やたらとラブロマンスが増えた。だが、どんな名作を読み終えても、ぱっとしない読了感しか残らなかった。


 これは、本を嗜む者にとって、何よりもの災難だった。


 文字と文字の隙間に逃げ込むことが出来なくなった私の心は、憂鬱を友にし、自分の部屋に住み着いた。


 そういう、書くに足らない無為な時間を過ごしていると、久しぶりに和葉から連絡があった。


 就活で忙しくなるから、と彼女からの連絡をやんわり避けていたのだが、どこからか内定が決まったことを耳にしたようで、お祝いの言葉が贈られてきていた。


 だが、それに付随して、無視できない文章が添えられていた。


『たまには、一葉に会いに来てあげて。あれから、ずっと和歌のこと気にしてる』


 え、とその文面を見た一瞬、声を上げてしまった。でも、すぐに落ち着きを取り戻し、こんなものは和葉の欺瞞に満ちた余計な気遣いだと思った。


 二年ぶりに和葉に会いたい、という気持ちは確かにある。もちろん、一葉にも。


 何度も携帯を手に取り、彼女らに会いに行くスケジュールを立てた。だが、それらが決行されることは、結局一度もなかった。


 そもそも、実行するつもりの微塵もない予定だ。計画を立てることで、自分を慰めた。行きもしないのに、海外旅行のパンフレットを眺めることに似ている。


 あんな拒絶を受けるくらいなら、会わないほうがマシだ。


 そうして、海の底で口を閉ざす貝のようにうじうじしていると、父が、どこか嬉しさを隠したようなにやけた顔で、私の部屋を訪れ、残酷な予定を告げた。


「おい、来週和葉がうちに泊まりに来るそうだ」


「え?」


 和葉は勘当同然で追い出されたので、家の敷居は跨がせない、と意地を張っていたはずの父がそんなことを言ったので、私は目を丸くした。


 その態度を、妙なふうに解釈したのか、父は言い訳がましい感じで言葉をつらつらと並べた。


「まあ、何だ。孫に罪はないしな」


 おそらく、用意してあった言い訳だ。それも、母に入れ知恵されたに違いない。


 ぴくり、と『孫』というワードに私は反応する。


「一葉ちゃんも、来るの?」


「ああ、折角だから、子どものうちに会わせておきたいとさ。今さら勝手だよな」


 勝手なのは、あなた達だ。彼女の幼少期が貧困と孤独の渦中にあったのも、つまらない意地のために他ならない。


 それなのに今更、祖父母ぶるのか…。


 …いや、意地を張りつつも最低限の援助はしていたのだ。両親を罪人のように扱うのは、大げさだったか。


 後日、母のほうからも弁解があった。ただ、父よりも正直に意地を張っていたことを認め、反省するような言葉を呟いていた。


 そして、私に向けて、「和歌のおかげね」と朗らかに言った。


「私の?」


「ええ、そうよ。和歌がずっと繋ぎ止めていたんだと思うわ、和葉と、御剣家と、一葉ちゃんを」


 大げさだ。


 私がしたことは、そんな大それたものじゃない。


 ただ、勝手な使命感に燃えて…。


 ――それだけだっただろうか。


 あの子との時間は、バイトのタスクみたいに、やらなければならないことの一つだっただろうか。


 その問いに、まともな答えが出ないまま、約束の日がやってきた。


 次女も三女も、すでに就職して実家にはいなかったので、出迎えは父と母、それから気乗りはしなかったものの、私とで行った。


 二年ぶりに見る――高校一年生の御剣一葉は、ますます姉に似ていた。


 いや、それよりもずっと綺麗に、身長もすらりと、モデルみたいになっていた。


 さすがにこれには両親とも驚いており、彼女の容姿を褒め称えた。


 姉の影響で派手になるかと予想していた髪色や服装も、そうならなかったことが両親に好印象を与えたのだろう。


 高校生としては背伸びしたみたいな、シックな印象を受ける、白と黒のモノクロームで統一されたズボンとシャツ、それからジレベスト。首の周りに巻いたチョーカーだけが、若者じみては見える。


 髪も黒のまま、相変わらずくるりと内側に弧を描いていた。


 ぱっと、両親に頭を下げた彼女と目が合った。


 一葉の猫みたいに大きい瞳の中で、バチバチと弾ける閃光を目の当たりにした瞬間、形容し難い感情が胸の底から湧き上がって、私はとっさに頭を下げるふりをして俯いた。


 無愛想で、孤独に満ちていたはずの彼女が、今では何か、大きな活力に動かされているようだった。


 私の知らない、御剣一葉が確かにそこに立っていた。


 私が一番、彼女を近くで見ていたはずなのに。


 実の母である和葉よりも、彼女の友達よりもずっと、自分の時間を割いて、一葉との時間を作ってきたのは、私だったはずなのに…。


 途端に、胸がムカムカし始めた。

 吐き気ではない。

 苛立ちだ。

 いや、もっといえば嫉妬。


 だが、それが何に対しての嫉妬なのかも分からず、苛々は、もがいても、もがいても、決して解けぬ蜘蛛の糸のように私に絡みつくばかりだった。


 泊まる部屋の用意をしてくる、とだけ告げて、逃げるように足早にその場を去る。


 かつて長女が使っていた部屋には、申しわけ程度の家具が置かれていた。そこに布団を引いて、その上に力なく膝を付く。


 何がしたいんだ、私は。


 頭の中が滅茶苦茶で、自分のことなのに、自分がどうしたいのかすら分からない。


 イライラして、胸をかきむしりたくなる。


 ぎぃっと、扉が鳴った。


 じっとはしていられない母が様子を見に来たのかもしれない、と振り返ろうとした刹那、聞き慣れない、酷く澄んだ声が聞こえた。


「和歌さん」


 心臓がきゅっと収縮し、それに引っ張られるようにして息を大きく吸い込む。


 首だけで振り返ると、今一番会いたくなくて、でも、会いたいと願い続けていた人が立っていた。


「ひ、ひとひらちゃん」


 子どもみたいに滑舌が甘くなる。


 再び、彼女と真っ直ぐ視線がぶつかる。


 あらゆる迷いを断ち切って、今この場に立っている、とでも言いたげな、毅然とした、決意に満ちた表情だ。


 迷ってばかりの、何も分からないままの私では、とてもではないが彼女の前でじっとしていられず、慌てて一葉の横をすり抜けて部屋の外に出ようと試みたのだが、瞬時に飛び出てきた彼女の長い手足に阻まれ、行き場を失う。


「待って、逃げないで」


「う、うぅ…」


 嫌だ、逃げ出したい。


「私、和歌さんに色々と言いたいことがあるの」


「え、えぇ…?なに、聞かなきゃ駄目?」


「強制はしない。でも、聞いてほしい」


 凛とした声。


 声変わりなんてしていないはずなのに、別人みたいに声が透き通っている。


 寂しさと孤独に覆われ、陰鬱とした瞳をしていた彼女は、もうどこにもいないのだと確信する。


 何かが彼女を変えたのだ。


 それを知らない自分が、また悔しくなる。


 一葉の堂々たる佇まいに押され、私は再び蹲るようにして布団の上に腰を下ろした。


 彼女は、少し思案げな表情をした後、「ここで待ってて」と告げ、階段を駆け下りていった。


 今のうちに逃げようか、と思ったが、下の方から大声で、「逃げたりしないでよ!」と釘を差されたため、本当に動けなくなる。


 階下からは、両親が何事かと訝しんでいる様子が伝わってきていたが、和葉がそれをはぐらかしているようだった。


 もしや、和葉もこの謎の事件に一枚噛んでいるのか。


 一分もしないうちに戻ってきた一葉の手には、いつか見たギターと、アンプが握られていた。重そうな二つを持って、よく二階まで駆け上がってきたものだと、他人事みたいに感心する。


 よくよく見たら、あのギターは和葉が使っていたものだ。


 一葉はアンプを床に置き、ケーブル類を各所に繋ぐや否や、私のすぐ目の前に腰を下ろし、胡座をかいた。


 ギターの調整をしている姿から、今からここで弾いてみせるらしい。


 え、音とか大丈夫なのかな…。


 いや、っていうか何のために…。


「あのぉ、一葉ちゃん、何を…」


「ごめん、少し静かにして」


「うぅ、はい…」


 悔しい、もうすぐ私社会人なのに、高校一年生に怒られてる。


「よし」と準備が整ったらしい一葉は、じっと私のほうを見やると、一音、一音丁寧に、言葉を発した。


「私、昔から口下手だから」


 酷く澄んでいる清流みたいな声。清らかさゆえに、拒絶的ではあった。


「う、ん」返事をしたほうがいいのだろうか。


「歌で伝える、とか漫画の見すぎとか思われるかもしれないし、痛いって言われるかもだけど」


 とりあえず、こくりと頷く。


 決意に満ちた彼女の顔が、照明も点いていないこの六畳一間では、あまりにも眩しく感じられる。


「多分、私の和歌さんに対する気持ちの全部が伝わる、一番の方法だと思うから」


 逸らしたくても逸らせない、謎の引力をまとった眼差しに射抜かれて、頷くことすらも忘れてしまっていた。


「――ちゃんと、聴いていてね?」


 上目遣いでそう告げた彼女は、一つ、仰々しい咳払いをこぼすと、まるで物語を紡ぐように優しく、旋律と詩を奏で始めた。


 そのメロディの中で、彼女は驚くほど饒舌だった。そして、あの頃の冷淡さが嘘みたいに情熱的でもあった。


 まず、愛しい人との思い出の品を、ゴミ箱に投げ込む彼女の姿が見えた。そして、冷静さを取り戻して、悲しみと共にそれを拾い上げる姿も。


 続けて、叶わぬ思いに嘆き、夜露のような涙で頬を濡らす彼女が見えた。その行き場のない怒りを、愛する人にぶつけてしまった彼女も。


 さらに、音楽が彼女の孤独を照らし出したのが分かった。どこにも行けないと思っていた、片方だけの翼で飛ぶ方法を彼女が学んだのだと分かった。


 最後に、これから彼女がどうしたのかが綴られていた。あえて名付けるとすれば、『未来』という一節になるのだろうそれは、周囲の批判も、色眼鏡も、何もかも弾き飛ばして進む決意の表れが、拍動するリズムと共に詩の中を滑空する。


 私は、曲を聞き始めてすぐから、これが熱烈な、ともすれば、狂愛的なラブソングだということを理解した。


 全身が火照り、顔から火が吹くのではと思うほど額から汗が流れる。心臓は最早ブレーキをかなぐり捨てて、好き放題に暴れることを選んでいた。


 あまりにも赤裸々な思いが綴られた彼女の歌に、羞恥と、喜び、そして、その何倍もの戸惑いが押し寄せてくる。


 彼女の言葉を思い出す。


 ――多分、私の和歌さんに対する気持ちの全部が伝わる、一番の方法だと思うから。


 歌い続ける一葉の、きらきらした瞳と視線が交差する。それだけで、胸が張り裂ける想いだ。


 鵜呑みにするとすれば、これは、一葉から私に宛てた、青さと激情で埋め尽くされたラブソングということになる。


 透き通り、地の果てまでも響くのではと思わせるハスキーな歌声と淀みなく流れる旋律は、彼女が並々ならぬ努力を積み重ねてきたことを示している。


 それだけの熱量、万感の想い。


 これを受け止めるには、私の器はあまりにも狭量すぎた。


 歌が終わり、ギターを置いた彼女はシャツの袖で額の汗を拭うと、ぎらぎらした獣のような目で、未だ整理の追いついていない私の顔を見つめた。


「どうだった、私の歌…?」


 え、もう答える時間なの?


 もうちょっと、心の準備をしてからじゃないと…。


「え、えっとぉ」


「言っておくけど、私の気持ちが、伝わらなかったなんて言わせないから」


「うぅ」


 逃げ場を失い、答えに窮す。


「お願い、本心を言って、和歌さん。無理なら無理で良い。悔いはないから」


 やるだけやったアスリートみたいな、ある種の恍惚と共にある一葉は、もう何の恥じらいも躊躇いもないらしい。


 自分の本心?


 そんなもの、どこにあるか分からない。

 どこを探せばいいんだ。


 とりあえず、今の自分の確かな気持ちだけを必死に並べてみる。


「きゅ、急に言われても困るよ…」


「それはそうかもしれないけど」


「だいたい、私たち女同士だし、というか、叔母と姪だよ?法律的にもダブルでアウトだよ?」


 瞬間、一葉の顔が険しくなる。


「法律なんてどうだっていい!」


 ぴしゃり、と一葉に叱りつけられ、肩を竦める。


 彼女は即座に、「ごめん」と謝ると、「それはもう、私の中では結論を出した。死ぬほど考えた。でも、ごめん。重要なのはそこじゃなかった」と私のほうに身を乗り出しながら続けた。


 顔が、近い。


 逸らしかけた私の顔を、無理やり一葉のほうに向き直らされて、精神的にも肉体的にも、晴れて逃げ場なくなった。


「私たちが、一緒にいたいかどうか、この一点に尽きるんだって、分かった」


「話が勝手に進んでく…」ぼそりと呟くも、彼女に聞いている様子はない。


「私は、和歌さんと一緒にいたい」


「じゃ、じゃあ、とりあえず一緒にいよ?ね?前みたいに」


「駄目、それじゃ足りない」


 何が、と聞くまでもない。


 彼女の若さと情熱にたぎる瞳を見れば、一目瞭然だ。


 答えを催促するように、ぐっとさらに体を寄せてくる一葉に、たまらず私は声を上げた。


「また今度会うときまでに考えとくからぁ!」


「駄目、それこそ絶対駄目、許さない。逃げるでしょ」


 ば、ばれている…。


「返事をちょうだい、今、ここで」


「む、無理、無理無理!」


「無理じゃないでしょ!いい大人なんだから、ちゃんと決めてよ!」


 私の両手を、彼女の右手がぎゅっと力強く握った。逃さない、という意思の表れにも思えたし、愛を求める強い激情の奔流にも見えた。


「うううぅ…」


 いよいよ涙が滲み出したところで、唐突に救世主が現れる。


 入り口のほうからため息と共に姿を覗かせたのは、私の姉であり、一葉の実の母である和葉だった。


「アンタたちねぇ…」


 私は、今度は全身から、すうっと血の気が引いていくのが分かった。


 和葉から見れば、実の妹と娘が睦言を交わす恋人のように絡み合っているという、なんともカオスな光景なのだ。


 どうにかして弁解を、とすぐに保身に移った私に対し、一葉はムッとした表情ですぐに和葉に噛み付いた。


「ちょっと、お母さん!和歌さんが返事をくれるまで来ないでって言ったじゃん!」


「私はそれに承諾していません」


「はぁ!?」


 はぁ、は私の台詞だ。


 和葉は、何でも知っているようだ。


 だったら…、今すぐ娘の暴走を止めてほしい。


「あのね、一葉ちゃん。和歌がそんな急に決められるわけないでしょ?」


 ちらり、と二人して私のほうを呆れたような目で見てくる。


 私が悪いのだろうか、この場合。


「ちゃんと、待ってあげなくちゃ」


 急に優しく、穏やかな母らしい表情になった和葉の言葉を聞いて、一先ずは一葉も撤退することを決めたらしく、体を離した。


 しかし、その手は絡め取られたままだ。


「分かった、待つよ」


「それでよろしい」


 よろしくない、と言いたかったが、やはりその勇気が出ない。


 ぐっと、不意を打つようにして一葉の顔が近付いてきた。


 キスをされると思ったが、彼女は私と額をくっつけるとそこで止まり、真剣そのものの顔つきで宣言した。


「でも、私以上に和歌さんのこと考えている人間なんて、絶対にいないから」


 入り口の扉になだれかかって、若いね、全く、と呟く和葉が憎たらしかった。


 これから私は、一葉の熱烈なアプローチに答えを出さなきゃいけない日々が始まるというのに…。


 ――まぁ、私が首を縦に振るのも、時間の問題のような気がするけど…。

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