手繋ぎ坂
会いたい人がいるのなら綺麗な死人を見つけなさい。
そのポケットに番号は入っているはずだから。
番号を手に入れたなら、どうぞ、そちらにお掛けなさい。
手繋ぎ坂で待ち合わせを致しましょう。
愛しい人からもらえる言葉は一度だけ。
その人はどんな言葉をあなたに贈ってくれるでしょう。
さあ、あの世とこの世、どちらの帰り道を選ぶのか。
それはあなたと彼の人次第。
そんな言葉が私のもとに届いたのは夏のこと。
蝉の声がうるさい日。
ひとりぼっちの部屋でぼんやりと携帯電話を見ている時だった。
日々入ってくる溺れるほどの情報の海。
その中でボトルに入った手紙のように地図と共に私のもとに流れ着いた。
私は夢中になってそれを読んだ。
探しに行かなければと思った。
綺麗な死人を探しに行かなければと。
「いってらっしゃい」の後には当たり前のように「おかえりなさい」があるものだと思っていた。
出会ったのは高校生の時。同じクラスの男の子だった。
それから大学、社会人と交際は続き、自然と旦那さんになった人だった。
10代、20代、30代。
一つの年代をこの人と終える。
それが幸せだった。
いつかは途切れる日が来ると分かっていた。
でも、それはあまりにも早過ぎた。
34歳。
あの日、寒そうにマフラーでぐるぐる巻きになったゆうちゃんは「行ってきます」と言ったまま、「ただいま」も言わずに帰ってきた。
交通事故だった。
信号無視をした車に跳ねられて、ゆうちゃんの命はあっという間に失くなった。
その日から毎日のように左手薬指の指輪を見ながら考えている。
どうして約束の指輪はここにあるのにあなたはいないんだろう。
季節が過ぎても悲しみは増すばかり。
会いたい。
会いたい。
会いたい。
毎日毎日その言葉ばかり頭に浮かんでいる。
手繋ぎ坂は家から電車で数駅行ったところにあった。
灼熱の太陽の下。長い長い坂のふもと。向こう側を見つめていると1人の女性が私の横を通り過ぎた。
香る香水の匂い。長い黒髪がなびく。
年は30代ほどだろうか。きちんと化粧をして、純白のワンピースを着ていた。そこには大切な誰かの為の装いがあった。
彼女は迷いなく手繋ぎ坂を上り始めた。
どんどんと小さくなる背中。
やがてその姿は静かに消えた。
私はその後を追いかけた。
長い長い坂の終わり。
汗だくになって上り切った目に映ったもの。
その景色に息を呑む。
胸元で手を組んで、先ほどの女性が横たわっていた。
彼女の周りだけ夏はどこかに行っていて、清廉な空気がそこにあった。
その表情はとても穏やかで満ち足りていて。正しく綺麗な死人だった。
私は近寄ると震える手で彼女のポケットを探した。
これは見知らぬ人の遺体だ。
人としての自分が行動を拒否している。
でも、探る手は止まらない。
ポケット……ポケット……。
左ポケットを探ると指先に触れるものがあった。
一枚のメモ用紙。
そこに番号の羅列があった。
これがあの人に繋がる番号?
鼓動は破裂しそうな程、鳴っている。
女性に手を合わせる。
ごめんなさい。使わせてもらいます。
番号を大切に胸元に抱く。
もう一度女性を見るともうそこにはいなかった。
役目を終えたように彼女は姿を消していた。
家に帰って、携帯電話を取り出した。
メモの番号をおそるおそる入力する。電話番号とも違う。これは何の番号なんだろう。
全てを入力して耳に当てる。
呼出し音が鳴っていた。
数回鳴って、音は途切れた。
誰かが、出た。
「も、もしもし!」
『…………』
何の声も聞こえない。でも、確かに人の気配がする。
「ゆうちゃん?」
『…………』
何も言ってくれない。
どうして何も言ってくれないの?
そう思った時、思い出した。
「愛しい人からもらえる言葉は一度だけ」
喋らないのではなく、喋れないのかもしれない。
私はひとつ息を吸うと言った。
「明日の夜、あなたのホクロの時刻に手繋ぎ坂で待ち合わせをしましょう」
相手は何も言わず、ただ電話を切った。
2人だけに通じる言葉。
ゆうちゃんならきっとこれで来てくれると思った。
人生で一番綺麗になろうと思った。
白髪混じりのぼさぼさの髪の毛は美容院で明るい茶色に染めてもらって、きちんとセットした。
新品の化粧品を買って化粧をした。
洋服は思い出の品が良い。
彼が褒めてくれた夕日色のワンピース。
きっと喜んでくれるだろう。
左ポケットにはあの番号。右ポケットには交通系のICカード。きっと帰りは使うことはないだろう。
そして、夜。約束の時間に手繋ぎ坂に向かった。
坂のふもと。
街灯は灯っているはずなのに、坂の向こう側には闇が広がっていた。
私は覚悟を決めると坂を上っていった。
夜とは言え、夏の空気は生温い。
ただ、坂の途中でその空気は変わった。
寒く感じるほどのひんやりとした空気。
周りから音が消え、光が消えた。
いや、違う。
向こうに何か光っているものがある。
あれは、手?
ぼんやりと人間の手のようなものがひとつ空中に浮かんでいた。
恐怖心と戦いながら目を凝らす。
見えてきたものに泣きそうになった。
左手の甲にある3つのホクロ。
時計、9時の位置。
その薬指にはおそろいの指輪が光っていた。
近寄って行く。
ただ私を待っていてくれる手。
私はそっとその手を握った。
大きくて柔らかい。
確信する。
これは、ゆうちゃんの手だ。
彼は私の手を握り返すと歩き出した。
何も見えない。何も聞こえない。
それでも彼が手を引いてくれるから迷わず歩くことが出来た。
何もなくても彼の手があるだけで充分だった。
電話の時と同じく彼は何も話さなかった。
代わりに私がたくさん話をした。
悲しかったこと。寂しかったこと。会いたかったこと。
あなたがいなくなってからの全てを話した。
ねえ、でも、それも今日で終わり。
私を連れて行ってくれるんでしょう?
長い長い坂を上り切った時、そこには分かれ道があった。
闇の道と光の道。
左側が闇で、右側に光があった。
これがあの世とこの世の帰り道。
私は闇の道を選ぼうとする。
「ゆうちゃん行こう?」
手を引くとそれまで迷いなく歩いていたゆうちゃんの足が止まった。
「ゆうちゃん?」
不思議に思って尋ねる。
彼は私の手を離すと右側の道を示した。
こちらへお行きと。
「どうして……」
どうしてそんなことを言うの?
信じられない気持ちで彼の手に縋り付く。
「やだ、私、ゆうちゃんと一緒に行く!」
彼は決して私の手を握り返さない。
代わりにその手は私の左頬に触れた。
壊れ物を扱うように大切に大切に。
そして、聞こえた。
「おばあちゃんになって会いにおいで」
優しい優しい彼の声が。
そうして、私の頭を撫でた。
全ての愛しさを込めるように私の頭を撫でた。
ゆうちゃんはずるい。
こんなことをされたら、私はただ受け取るしかないじゃないか。
そのままゆうちゃんの手はひとりぼっちで闇の道へと向かって行く。
私はただただその手が消えて行くのを見送るしかなかった。
そうして、光の道だけが残り、私はこの世に帰ってきた。
身体から忘れていたように汗が吹き出してくる。
額を拭うと指先にファンデーションが付いた。
車の騒音。話し声。街の声が戻ってくる。
この世の帰り道。
それはひどく騒々しかった。
私はふらりと駅に向けて歩き出す。
もう使うことはないと思っていたICカードをかざして改札を抜ける。
電車に乗ると真っ暗な窓ガラスに姿が映る。
化粧は崩れて、髪は乱れている。
左ポケットを探る。
番号はなくなっていた。
私は綺麗な死人にはなれなかった。
ふとお腹が空いたと思った。
思えば、ゆうちゃんがいなくなってから、まともなものを食べていない。
家に帰ったら、美味しいものを食べに行こう。
2人で行ったあの居酒屋に久しぶりに行ってみよう。
悲しみは消えない。
相変わらずこの世界にあなたはいない。
でも、もう少しだけ生きてみよう。
右手を左頬を頭を。
手繋ぎ坂で感じたあなたを思い出す。
また会えたら、一人で終えた年代の話をしよう。
長い長い話をしよう。
ねえ、ゆうちゃん。
年老いた私も綺麗だと言ってくれますか?