後編
ドンドンと鈍い音がして、私は夜に目を覚ました。
ベッドから体を起こして、音源を耳頼りに探る。どうやら、外から響いているような音だった。
電気をつけて、ベッドから抜け出す。
ドンドンと何かを叩くような音に近づくと、扉の先から聞こえるのだが。
それでも音がまだ遠く感じる。耳を扉に当ててみると、やはり音が伝わってきた。
誰かが何かを蹴っているのか、叩いているのか。
衝撃は扉のついている壁などを通して、伝わっているようだ。
のぞき窓を見ても、人の気配を感じない。
ドンドンッ!
音が大きくなり、伝わる衝撃も大きくなっていく。
こんな時は、まず警察に連絡しよう。
私は震える手でスマートフォンを操作しようとしたところで。
ガチャリと、鍵が開けられた音を聞いた。
「……やめ……わかりま……から」
声は遠いが、女性の声がする。
この声は、古久美さんだ。
まさか、この音を出していた人と話しているのだろうか。
私は扉に耳をくっつける。何を話しているか、聞きたかったのだ。
しかし、会話はなく。隣の扉が閉じる音と、鍵がかけられた音がした。
こんな時間の横暴な来客を、彼女は受け入れたようだった。
どうしよう。
警察へ通報する前に、騒音が止んでしまった。
まさか古久美さんが、危ない人を招くなんて……そう、思ったが。振り返るように考えると、変なことがある。
どうして、異常な音を出している人を家に入れたのだろうか。
普通なら私のように警察へ連絡をするだろう。
それなのに彼女は相手と少し話すだけで、家に入れてしまった。
それから、隣の部屋から大きな音が聞こえるわけでもない。
ここから想像できることは一つ。
彼女と相手が知り合いだった、その可能性が高い。
大きな音を出す知り合いを、誰かに通報されては困る。
だから大きな音を放置はできない、家に入れるしかない。
一言二言の会話で済むような仲というのも、それに繋がるのではないだろうか。
しかしそれでは、なぜ相手は扉を叩いていたのだろうか。
彼女を困らせたいのか、どうしても彼女と話がしたいのか。
『住む場所を変えてみようかと思って』
あの暗い表情で話していた内容に、この出来事が繋がるのだろうか。
考えているだけでは答えが見つからないと思った私は、意を決して彼女の家を尋ねることにした。
躊躇った指先がインターフォンを鳴らして、この時間に似合わない音を出す。
少しすると、彼女が扉を開けた。
「ごめんなさい、音が大きかったですか?」
「あ、ああ。その、大丈夫ですか? 凄い音だったので」
いつもの彼女のテンションで話し出されたから、思わず言葉に詰まってしまったが。どうにか、心配している気持ちを伝えられた。
彼女の様子に変わったところはないが。
玄関には大きな靴が転がっている、どう見ても女性用のサイズではなかった。
「ご、ごめんなさい。その、彼が酔っ払って扉を蹴ってたみたいなの」
「そ、そうだったんですか」
彼。
彼女の口から、男性の存在を聞いたのは初めてだった。
もしかしたら、その粗暴さから存在を隠していたのかもしれない。
「大丈夫です。本当にごめんなさい、静かにするように言うので」
それだけ言うと、彼女は静かに扉を閉めた。 暴力も振るわれていない、知らない人が押し入ったわけでもない。
本人も大丈夫だと言っている。
では、私が何かできるわけでもない。
何とも言えない気持ちで、私は静かに部屋へ戻った。
***
次の日。
もやもやしてよく眠れなかった私は、ゴミは捨てなきゃと無理やり起きた。
ゴミを片手に鍵を閉めるところで、隣の扉が開いた音がする。
私が視線を移すと、古久美さんと目が合った。
「おはようございます」
「お、おはようございます」
いつもの様子とは違う彼女は、私を避けるように歩き去ってしまった。
突然のことに、私は呼び止めることもできなかった。
昨日の今日で気まずかったのかもしれない、人様の家庭に首を突っ込むのも悪いことだろう。それこそ余計なお節介というやつかもしれない。
しかし、彼女の態度は明らかによそよそしくなっていった。
私と顔を合わせたら逃げるように早足で去ってしまう、私が声をかけても『すみません、急いでいて』と避けられた。
やはり何かがおかしい、あの夜のから態度が変わった。
それまでは友人のように親しかったのに、一体何がいけなかったのか。
それとも、誰かに何かを言われて接触を取らないように助言されたのか。
私は大きな靴の持ち主が、そう助言したのではないかと思った。
しかし、今は彼女に詰め寄ることは難しい。
あの夜に起きたこと、やってきた訪問者の正体。
豹変した彼女の態度。
三つの謎が私を包んだ。
***
その謎の一つが解けた出来事があった。
その日の夜。夏の夜にしては涼しかったので、私は窓を開けて涼んでいた。
窓を開けているせいか、隣の音が聞こえたのだ。
「だから……って、言っているじゃないですか」
「お前、誰に向かって……をきいてるんだっ!」
男女の声がして、思わず聞き耳を立てる。
穏やかな会話ではなくて、私は不安になりながら窓の方に近づいた。
ベランダに顔を出しても、見下ろせる位置に誰もいない。
それに音源は隣のベランダの方から聞こえるような気がした。
そっと、息をひそめて会話を聞く。
「私は、何度も……じゃないですか」
「しらねぇよっ、俺はお前に……って言っただろ!」
女性の声は弱々しく聞き取れず、男性の声は荒々しく聞き取りにくい。
ただ、何かに対して言い争っているようだ。
私と同じように窓を開けているのか、少し隣の部屋に近づくと会話の内容が鮮明になってきた。
「どうして、いつもそうやって……私の話を聞いてくれないじゃないですか」
「だからって話し合わずに逃げたのか? お前はいつもそうやってっ!」
ガッシャン!
何かが割れる音がして、驚いた私の体は思わず震えた。
「お前は俺にだけ従ってればいいっ! 他の奴にも関わるな、いいな」
男性の怒鳴り声に、彼女はか細い声で『わかりましたから、お願いですから、静かに』とだけ返していた。
私はここで確信した。
この男性から彼女は逃げるために引っ越してきた。それがなぜか、居場所がバレてしまった結果が現在なのだと。
他の奴に関わるなと念を押している様子からわかる通り、彼女の態度が急変したのも男性が原因だと考えられる。
彼女にお願いされたせいか、男性の声も徐々に小さくなって二人の会話は聞こえなくなった。
このままでは、彼女が危ない。
しかし、私ができることは間接的なことしかない。
どうすればいいか、私は生ぬるい風が吹くベランダで考えた。
正確には、すぐに動けなかったのだ。
こんなドラマのような場面が自分の傍で起きるなんて、思いもしなかった。
私は一つの答えを導き出した。
***
インターフォンのチャイムが鳴ると、オドオドとした彼女ができた。
「ご、ごめんなさい。今、忙しくて」
ドアチェーンの向こう側の彼女は、そう断りを入れて来たが。
私は静かに扉に手をかける。
「待ってください。私の話を聞くだけでいいので」
「……巻き込むわけには」
私は静かに玄関の靴を見る、そこには大きな靴がない。
どうやら、あの怒声の持ち主はいないようだ。
チャンスは今しかない。
「お願いします。ただの世間話……昨日見たドラマの感想だと思ってください」
彼女は私の言葉に弱々しく頷いた。
「主人公が新しい場所に引っ越してきた理由が、やっとわかりました。あくまで私の類推ですけど。主人公は誰かから逃げるために、新しい土地に来たのだと思います」
「……私もそう思います」
私の類推を、彼女は静かに肯定した。
「しばらくは脅威から逃れられた主人公でしたが。突如として、その脅威が居場所を突き止めてしまった」
「……」
彼女は黙ったままだが否定をしないため、私は続きを話し出した。
「結果、彼女は引っ越す前と同じ生活をしている。あれだけ明るかった主人公が周りを避けているのは、そういう理由だと思うんです」
「私も、そうだと。思います」
彼女は扉を支えていない方の手で、口元を押さえながら答えた。
震える声で私の類推を肯定した彼女は、泣くことを堪えているのか俯いてしまった。
「古久美さんは、この主人公と同じ状況ですよね……?」
「……はい」
私の言葉に彼女は頷いた。
「どうして、言ってくれなかったんですか」
「巻き込みたくなかったんです。一人でどうにかしないと、誰かに迷惑をかけたくなかったので」
彼女は多くを語らなかったが、おそらく私を今までの二の舞にしたくなかったのかもしれない。
だからこそ、男性の言う通りにしていたのだろう。
「今、あの人は居ないですよね」
「はい」
彼女は力強く頷いた、私は彼女に『ここを開けてください、一緒に考えましょう』と声をかけた。
「ありがとうございますっ、私、私……ずっと心細くて」
彼女はボロボロと涙を流して、私の目を見た。
「チェーンを外すので、一度扉を閉めますね」
彼女の言葉に私は頷いて手を離すと、扉は静かに閉められてチェーンが外された音がした。
「本当にありがとうございます、たすかります」
扉を開いた彼女は微笑んでいた。男性が来る前の朗らかな笑顔で、私は家に招かれた。






