前編
八月某日。
アスファルトの熱気が空気を揺らす。
うだるような熱さの中、私は忘れていたガスの支払いをしにコンビニまで歩いていた。
汗が流れて吸い込む空気で咽そうだ。
コンビニは、まさにオアシスだ。
息をするのも苦しい暑さから助けてくれる空間に一息吐いて、支払いを済ませたらギラギラと照りつける太陽の下を歩いて来た道を戻った。
古いマンションの階段を上り、早くエアコンのついた部屋に戻ろうとしたところで。引っ越し業者が、隣の扉を出入りしているのを見た。
こんなに暑いのに大変だなぁと横目に見ながら、玄関の鍵を開けようとした。
「すみません、403号室の方ですか?」
ふと、柔らかい声がしてそちらを見る。
白い肌に黒い髪、顔立ちも整っている。少しだけ困った顔をしている表情にも、美しさがあった。
スレンダーで、黒のノースリーブワンピースを着こなす女性だった。
女優さんと思えるほど、綺麗な人だ。
どうやら、私を呼び止めたのは彼女のようだ。
「私、404号室に引っ越してきた古久美と申します。つまらないものですが」
そうして、渡されたのは有名な和菓子屋の紙袋だった。
「あ、ありがとうございます」
今時、引っ越しの挨拶回りだなんて珍しい。
昨今では、女性は引っ越しの挨拶回りをしない方がいいと言われているくらいだ。
私よりも背が高い彼女を見上げて、透明感のある肌につい見惚れてしまった。
本当に綺麗な人、同性の私でも目を奪われるくらいだった。
そんな私とは対照的に、彼女は私の返事を待っていた。
ここで会話が切れてしまったら私が変な人みたいになってしまう、慌てて自分から会話を広げた。
「えっと、あの。私、雛木といいます」
「雛木さん、ですね。しばらくドタバタと、うるさいかもしれません。ごめんなさい」
「いえいえ、引っ越しですから仕方ないですよ。気にしないでください」
私がそう言うと彼女は『ありがとうございます』とお辞儀をして、引っ越し業者の人に呼ばれたので戻っていた。
私は紙袋と一緒に部屋へ戻り、静かに鍵を閉める。
驚くほどに綺麗な人だった、絶世の美女とは彼女のことだろう。
笑顔が素敵で、前のお隣さんよりも愛想が良さそうだった。
でも、私には気になることが一つだけある。
それは彼女の腕の痣だ。
白い肌だからこそ目立つのかもしれないが、青い痣がちらりと見えたのだ。
紙袋を渡した腕が、彼女の背後へ静かに隠れたのが気になった。
「……どこかでぶつけたのかな」
そんなことを呟いて、私は冷房の効いた部屋で頂いた和菓子を食べることにした。
興味本位で調べた和菓子の値段が、びっくりするほどのもので。さすがに悪いと思ってしまった。
ネットで調べたところ、特にお返しはしなくてもいいらしい。
だが、さすがに貰いっぱなしにしては悪いと思った。
気軽に受け取ってもらえる物がないか、家の中を探したが意外にないものだ。
後日、私は駅でご当地のお菓子を買った。
そのまま古久美さんの住む404号室の前まできた。インターフォンを押そうとしたところで、扉の向こう側からガチャリと音がした。
私は慌てて手を引っ込める。
扉を開けた人と目が合う、今日は白いワンピースを着ている彼女がいた。
「あ、ああ、あの」
突然のことに、私の声と言葉が絡まって上手く話せない。
「どうかしました?」
私の反応に、彼女は少し困った顔で笑ってくれる。綺麗に整った眉がハの字になったところで、私は本題を切り出した。
「あの、先日の和菓子のお返しにと、思いまいまして」
「えっ、ありがとうございます」
私が差し出した紙袋を、彼女は嬉しそうに受け取ってくれた。
「わざわざすみません、本当にありがとうございます」
朗らかな笑顔の次に出てきたのは『良ければ上がっていきませんか?』という、猛暑の中を歩いた人に対して労いの言葉だった。
「い、いやいや。悪いですよっ」
まだ引っ越しの荷解きも済んでいないのでは?
私は断ると、彼女は少し落ち込んだように返した。
「そ、そうですよね。ごめんなさい、こんなことを言われても困りますよね」
古久美さんはそう言って、私から渡された紙袋と一緒に奥へ引っ込もうとする。
「あっ、あ、あのっ」
私は思わず、彼女を止めた。
厚意で言ってくれたのにも関わらず、断ってしまうなんて。
悪いことをしてしまった。
「ご迷惑にならないなら、お邪魔します……」
私がそう言うと、彼女の表情はパァっと明るくなった。
「ありがとうございます、さぁどうぞ」
彼女に促されて、私は家に招かれた。
彼女の部屋は物が少なかった。
荷解きは済んでいて、ダンボールなどは殆どない。家電と家具が既に配置されて、落ち着きのある部屋になっていた。
「座卓ですけど、どうぞ座布団に座ってください。お茶を淹れますね」
「ありがとうございます」
当たり前だが、自分の部屋と間取りは同じだ。
彼女も一人暮らしなのか、家具の大きさや配置も私の部屋の構成に近い。
キッチンの広さも同じだ。
紅茶の香りがしているキッチンの方を眺めると、不思議なことに気がついた。
なぜか、冷蔵庫が二つあるのだ。
それも片方は大家族用の大きさだ。
たくさん食べるのだろうか。
もしかしたら、たくさん食べても太らない体質なのかもしれない。
「冷蔵庫、気になりますか?」
「え」
後ろからの視線に気がついたのか、彼女は振り返らずにそう言った。
「え、えっと。その、私が使っている冷蔵庫よりも大きいので」
「ふふ、友達にも言われました。でもちょっと訳アリで」
冷蔵庫が訳アリなのか、それとも彼女が訳アリなのか。
私は悩んでしまった。どちらにせよ彼女が訳アリと言うのだから、突っ込んではいけない理由があるのではないかと思った。
私は黙って、彼女の紅茶が出てくるのを待つことにした。
「ごめんなさい。紅茶しかなくて、どうぞ」
出された紅茶と、私が持ってきたモナカが出された。
「いえ、こちらこそ。その……ここだとモナカが有名なので。よければと思ったんですが」
「私、モナカ好きだから。ふふ、ありがとうございます」
ニコニコとして古久美さんは、モナカを食べ始めた。
私も彼女に続いて食べる。
味は普通のモナカだ。ご当地のモナカだが、形が変わっているだけで中は普通のモナカ。
意外にも、紅茶に合うんだと思った。
「ごめんなさいね、急に引き止めてしまって。新しい土地で話せる人が居たから、つい」
新天地ならではの悩みだった。
「私もそうだったので、よくわかります」
「雛木さんも、一人暮らしなんですか?」
「はい。近くの大学のために引っ越してきました」
出会ったばかりの人と話すことといえば、やはり身の上話だろうか。
私は近所にある大学に通う大学生だ。
新幹線の距離に実家があり、長い休みがあれば家に帰るような感じだ。近所に親しい人は居ない。
話せる人が居ると、誰だって嬉しいのだろう。
それは彼女も同じようで、自分のことを話してくれた。
「私は、住む場所を変えてみようかと思って。ふふ、そしたら優しいお隣さんが居てくれて。ここは良いところみたいです」
微笑んで話した古久美さんの表情は、少しだけ陰っていた。
明るい休日の商店街の中で、日差しのない暗い路地を見た時のよう。真っ暗ではないが、肌寒そうだなと思えるような。なんて声をかけていいか、わからなくなる。
私が言葉を失っていると、古久美さんがハッとした顔して笑ってくれた。
「ごめんなさいっ。嫌だわ私ったら、つい」
話題を変えるように『彼女が可愛いモナカですね』と、話し出してくれた。
私もご当地モナカについて話して、そこから彼女と会話を重ねた。
彼女と顔を合わせたら世間話をして、そのままお茶をする日もある。
こんなに親しい隣人関係になるとは、思ってもみなかった。
話のネタになりそうな、些細なことにも目を向けて過ごしている。
話し相手が居てくれるだけで、こんなに毎日が楽しい。
私は大学での話をして、彼女は仕事の話をよくしてくれた。
だが、穏やかな日常も狂い出すような出来事が起きた。