帰って来たけど思ってたのと違う人だった
隣国との戦を辛くも生き延びた小国リバーソングの宰相室で、3人の若者が忙しく手を動かしている。
「あっ」
補佐官の1人が手を止める。
「ティナ、またですか?」
片眼鏡の銀髪青年が、呆れたようにため息をつく。
「ねえ、ティナ、今日はもう帰っていいわよ」
宰相机から温かみのある静かに響く声をかけたのは、栗毛の女性だ。彼女もまた年若い。この場にいる3人はみな、今年で25歳になる。
「宰相閣下も筆頭補佐官殿もまだお仕事なさってますのに」
「こんな時だけ部下ぶらないでよ」
「書き損じばかりで、インクの無駄です。公文書用の魔法紙だって安くはありませんよ」
「ライリー、気遣いはわかるけど、言い方が嫌味ね」
「とにかく帰んなさいよ」
「はあい」
机の上を片付けて、金髪のティナは渋々立ち上がる。
「2人とも、あんなことがあったのに冷静よね」
ティナは苛立つ事件に出くわして、集中できなくなっていたのだ。美しいエメラルドの瞳には陰がさす。
「仕事はしないとね」
「仕事は待ってくれませんから」
淡々と手を動かす2人は、こともなげに言った。
15年前の戦争で王家も国の中枢にいた貴族たちも、みな命を落とした。国が復興したのは奇跡だと言われている。だが、その奇跡を起こしたのは、1人の少女の愛だった。
いま宰相の席に就くシビルが、世継ぎの王子を待ち続ける覚悟を決めていなかったら、この国はとうに掠奪と殺戮に晒されていたことだろう。
シビルに仕事の基礎を仕込んだ父、つまり先代宰相もまた、戦時の怪我が元で11年前に世を去った。そこへ病が蔓延し、国を捨てる者も多くなってしまった。シビルはその時まだ14才であった。しかし、初恋の幼馴染である王太子の帰還を待って、滅びの淵にあるリバーソング王国を守り抜く決意を固めていた。
シビルは父の葬儀で、宰相補佐官であるエルフガル伯爵に訴えかけた。
「エルフガル伯!父がしていた仕事を教えてください。王太子殿下がお戻りになるまで、私が国を守ります」
「王城の焼き討ちで、王家は陛下以外亡くなられたのだ。国は瓦解寸前だよ」
若者に滅びゆく国を託したくない。エルフガル伯爵はシビルに、遠国の類縁を頼って移住することを勧めた。歳の離れた長男は今や将軍職にあるため、先の望みがなくとも家を継ぎこの地に残る責任がある。しかし、14歳のシビルはまだ自由の身だ。職もなく婚約者もいない。
「いえ、確かな筋から殿下生存は掴んでおります」
「シビルさんが?」
驚いたことに14の小娘は、乳母に守られて落ち延びた王太子カイルの居所を掴んでいたのだ。カイルが転々と放浪しているため、なかなか追いつけないながらも、正確に足取りを掴んでいた。乳母が亡くなり旅芸人や傭兵団、果ては野盗の群に紛れて、カイルはしたたかに生き延びていたのである。
裏付けが取れて、シビルの手腕を買った補佐官は宰相職を空席にしたまま、シビルに実務を教え込んだ。シビルとその推薦した仲間2人は、宰相府見習い事務官としてめきめきと頭角をあらわすことになった。すなわちシビルの学友ライリーと、エルフガル伯爵の娘ティナである。
時は流れ、本日の午後。ついに迎えた王太子カイルは、熱烈に抱きつくシビルを振り払ったのだ。
「なんだ、あんた?」
「15年ぶりですものねえ。分からないはずですわ。わたくし、シビルです!」
「ん?ああ、たしか、宰相んとこの女の子か」
「はい!やっとお逢いできましたわね!ほんとうに嬉しい。おかえりなさいまし」
カイルは、涙の滲む優しい菫色の瞳を煩そうにチラリと見た。
「国の話をするんじゃないのか?なんで部外者がいる?宰相はまだなのかよ」
ライリーは一瞬殺意をのぞかせる。
「おふたり、幼馴染なのでしょう?」
あまりの扱いに腹を立てたティナが、思わず棘のある言葉を口にする。
「それにしては随分ですこと?」
「なんだ、この無礼な女は」
「宰相次席補佐官エルフガル女伯爵ですわ」
エルフガル伯爵は娘に爵位を譲って引退していた。国政は安定したと思い、余生を楽しむことにしたのである。
「へえ」
カイル王子が俄かに興味を示す。その態度に、ティナは更に敵意を増した。
「そして、宰相閣下は、こちらですわ」
誇らしく手のひらを上にして示すのは、勿論現宰相であるシビルのことだ。
「え?」
カイルは嫌そうに眉をひそめる。
「あのふわふわしたお嬢さんが?」
「殿下」
ライリーは眼を細めて、冷たい声を出した。
「恐れながら、おふたりがお会いになるのは、15年ぶりと伺っております」
「だから何だってんだよ」
「今の宰相閣下は、幼馴染の王子様にふわりと恋する10才の童女ではございません」
「はあ?」
カイルは鼻で笑う。
「誰だかしらねぇが、あんたも、さっき見てたろ?幼馴染の王子様にふわふわ恋する、勘違いしたお嬢さまそのものじゃねえか、気持ち悪ぃ」
ライリーとティナが青くなり、シビルは息をのむ。
「宰相なんて重たい役職が務まんのかよ」
深呼吸をひとつ。シビルの強張った顔はほぐれた。
「殿下がいつお戻りになられても良いよう、体制を整えて参りました」
「頼んでねえよ。国に戻るなんて誰が言ったんだよ?」
「現にいま、お戻りになられたでしょう?」
「しらねぇよ。呼ばれたから来ただけだ」
「陛下のご指示を仰ぎながら、戴冠の準備も進めております」
「なんだそれ?あんたが勝手にやったことだろ?俺が言うこと聞く必要はねぇよな?」
「いえ、陛下のご指示にございます」
シビルは穏やかに告げる。カイルはニヤニヤしながら抗弁した。
「病気なんだろ?親父、長くねえんだろ?それなのにどうやって指示してんだよ?嘘つくんじゃねえ」
「嘘ではございません」
落ち着いて答えるシビルを、棘のある2人が援護する。
「お戻りになられた時、速やかに国務へと復帰なされるよう、体制を整えよとの指示は、戦後の混乱期から既に出されておりましたよ」
「小康状態の折に、再確認や僅かな国務も、陛下がなさいます」
「そうかい」
カイルはそっけなく答える。納得はしていないようだ。
「何にせよ、国務の引き継ぎと生還のお披露目について、お話致しましょう」
「適当にしといてくれよ。決まったら教えてくれりゃ、その通りにするさ」
シビルは衝撃を受ける。
「殿下、陛下の病は重いのです。すぐにでも国を率いるお覚悟を」
「は?うるせえな。今まで宰相が引き受けてたんだろ?これからもそれでいいじゃねえか」
「そういうわけには」
「俺、王様とかむかねぇし」
へらっと笑うカイルは、無邪気に見える。だが、ライリーとティナは嫌悪を示し、シビルは暗い顔をした。
「まあ、今日はお戻りになられたばかりでお疲れでしょうし、明日改めてお話致しますか?」
シビルの提案には、カイルはすぐに飛びついた。
「おう、そうしてくれ。じゃあな」
そんなことがあり、ティナは書き損じばかりで仕事にならなかったのだ。苛立ちが収まらないティナは、気を鎮めるために薬草園を訪れた。カモミールのベンチに腰掛けて空を眺める。シビルとライリーとティナと。リバーソング王城内にある学舎を懐かしく思い出した。
そこは、父エルフガル伯爵の提案で設立された、官吏養成学校だ。3人は14の時に、その学舎で出会った。他の学徒とも研鑽しあったが、3人は特にウマがあったのである。
エルフガル伯は、焼け落ちた城を再建し、他国との親交を深めて伝染病と闘った。その父をティナは誇りに思う。父にその活力を与えたのがシビルだと知り、シビルをも尊敬した。だが学舎では、気の合う友達でもあった。シビルはティナにとってかけがえのない存在である。
「お、さっきの補佐官殿」
軽薄な声がティナの美しい思い出に割り込んできた。
「殿下」
相手は王太子だ。ティナは立ち上がって礼をする。
「あんたも、夢見がちな宰相閣下から逃げて来たのか?」
「いえ」
「大変だったろ?一方的に恋人面して勝手に留守を守る頭のおかしい上司じゃなあ」
「いえ」
「しっかし、怖ぇよなあ。最後にあったの、10才だぜ?それを約束した純愛みてぇに思いこんでたんだぜ?気持ち悪いよなあ」
揶揄うように言って近寄るカイルに、ティナはついに理性を失った。
「シビル様は身を削って、正当なお世継の帰還に備えて来られたのよ!それを、頼んでないだの、お前がしたことだの、自分には王なんか向かないだの、興味ないだの。しかも、シビル様の愛を手酷く切り捨てるその仕打ち。傲慢さ」
激しく憎む炎をエメラルドの猫目に燃やし、ティナはカイルの琥珀を睨む。まっすぐに、心の底まで射られた気がする。カイルは知らなかった感情に揺さぶられ、ゆとりを失った。
「自分の気持ちも分からない幼い時ならいざ知らず。擦れて欲得や好意に慣れ切ったそんな姿の色男が、自分の淡い初恋を否定する臆病さ」
「いや、本当に俺のほうは、シビルなんて好きじゃなかった」
それまで恋と思っていたものとは全く違う感覚に翻弄されながら、カイルは必死で言い訳をする。
「なんか?なんかですって?シビル様が宰相のご令嬢で、無碍にしたら政治的に拙いから優しくしていただけなのね?」
ティナはいよいよ激昂する。カイルは、その勇ましさに胸を高鳴らせた。
「王子としては、正解よ?だけど、戦乱の中で落ち延びたいま、王冠を受ける気もないのに、何故この再建された王城に、整えられた王子の居室に、のこのこ戻って来たのかしら?」
ティナの声はどんどん大きくなる。一方、カイルは内容などもう耳には入らない。ただ可愛いと思っていた。
「清らかなシビル様の愛を踏み躙るために、わざわざ帰って来たのかしら?自分を思う一途な愛を馬鹿にしに来たの?与えられる富と力だけはもぎ取って利用するために?」
最早足すら踏み鳴らし、ティナの怒りは頂点だ。しかしその時、ティナは甘い眼差しにハッとする。怒りのゲージは振り切れた。
「そんな眼で見ないで!貴方に玉座を還すため、死んでるかも知れない貴方に心を捧げて、孤軍奮闘してきたのはシビル様よ!」
恋してしまった男には、その堅物ぶりも可愛く見えた。
「陛下でさえ、もう諦めて養女として玉座を継げと、殿下に関する情報も途中からは別人なのかもしれないと、何度も説得なされたのに。シビル様だけは、殿下の生還を固く信じておられっ」
ティナが涙に声を詰まらせる。口を押さえ、くるりと踵を返して走り去って行った。カイルはますます恋の熱に浮かされながら、激怒して立ち去るティナの背中に飛びつきたくなる衝動を必死で抑えていた。
翌朝、新しい業務分担の相談の為、シビルは宰相補佐官筆頭のファシリベル公爵ライリー・ネッド・キリアン・アダムス、次席のエルフガル女伯爵ティナ・リンダ・クロスと共に謁見室で控えていた。前日取り決められていた時刻はとうに過ぎていた。
「遅いわね、放浪王子」
ティナが憎らしそうに言った。
「身だしなみを整えているのだろう。我が身がその場に相応しく引き立つことには敏感なようだからな」
ライリーは苦々しく吐き捨てる。
「そういう奴って、遅刻しようが出鱈目言おうが持て囃されるわよね」
ティナは、眼を三角にして敵意を隠そうともしない。
「殿下は、幼少のみぎりから、出会う方々をたちまちに魅了なさる方だったわ」
うっとりと語るシビルを、腹心の2人は痛ましい想いで眺める。2人が支えたいのはシビルだ。シビルと共に盛り立てて行けるような人格者が王太子ならよかった。しかし、思い出の中で美化された初恋の君は、シビルの話とはかなり様子が違う。
王としては、うまく民を導くだろう。だが、利害で人を動かす主君が治める国は、2人が自分たちの力を貸したい国ではない。
「何よ、2人とも」
不満そうに眉を寄せるシビルに、ライリーは暖かなねぎらいの眼差しを送る。ティナは、シビルを傷つける者など許さないという強い決意の表情を見せる。
「よ、お揃いだな」
そこへ、ご本人登場である。
「おはよう御座います、殿下。本日はご足労いただきまして」
シビルが膝を折り頭を下げて口上を始めると、玉座にどかりと足を組んだカイルは、面倒臭そうに遮った。
「よい、良きにはからえ」
そして立ち去り際にティナへと熱い視線を送る。ティナはゾッとして憎しみに身を震わせ、シビルは蒼白になった。
謁見の間を退出したシビルは、無言で城内にある宿直室に向かった。そこには彼女の生活の全てがあった。前宰相の邸宅は、兄である現公爵がついでいる。彼は政治手腕に劣るが軍閥を率いる偉丈夫だ。戦を生き抜いた護国の英雄であり、現在では将軍職についている。
「部屋に忘れ物をしたのです。2人は仕事を始めていてよ」
「いえ、お供致します」
「なぜ」
「わたくしは、貴女様を、心よりお慕い申し上げておりますゆえ」
シビルは眼を丸くするが、足は止めない。
「私は、シビルの親友だからね」
幼かった3人の記憶にはないが、まだ貴族の幼児が多くいた戦前、3人は城内の子供を集めた学問所にいた。学問所から巣立ち、戦の後に再び顔を揃えた才能溢れる3人組だ。これで戻って来た男の本性が、幼いシビルに見せていたかつての尊い王者であったなら。
「わたくしは、貴女様のおいでになるところ、何処へなりともお供致します」
「私もよ」
意味合いに差はあれども、誠意は同じ。2人が支えたいのは、シビルが王と認める者である。シビルの眼を信じている。だからこそ、待ち侘びた主があのような姿で帰還した時、2人はシビルを守る道を選んだのだ。
シビルが認めるなら、堕落した王子も名君へと開花を遂げるであろう。そう信じて疑わない。だが、いまシビルは王子を見限った。それは、単なる失恋ではないのだ。
愛を蔑んだ男が、国政を顧みない世継ぎが、玉座を蹴り倒して臣下に色目を遣う。しかも、玉座を守り抜いた忠臣に責任を押し付けて。まるで要らなくなったぬいぐるみを、捨てる代わりにありがたがらせて投げ渡すように。王太子の帰還を待ち望んでいた3人には、耐え難い屈辱に映った。
「荷物を持ったら、我が家にいらして。馬を出しますわ」
城壁内に屋敷を構えるエルフガル伯爵家は、馬を名産とする領地を擁している。
「殿下へのお祝いとして献上する馬をお選びになるのでしょう?申請書類は家臣に届けさせますわ」
「ティナ、ありがとう」
「気がきくな」
にこりと笑って、ティナは立ち去った。城塞都市を離れる口実を作るために急いだのである。3人が国を離れても、国家に影響はあまりない。そういう体制を、10年かけて作り上げたのだ。突然帰還した王太子が戸惑うことのないように。
ライリーはまだついてくる。護衛のつもりなのだ。黙ったままで宿直室に到着した。宰相と補佐官用の宿直室である。有事の際には交代で仮眠をとりつつ、城に詰める。そのために建てられた別棟である。
別棟は渡り廊下で城と繋がっているが、独立した入り口もある。渡り廊下への出入り口は、城側と別棟側それぞれに鍵のかかる扉があった。
ライリーの部屋も別棟にある。まずはシビルを部屋に送った。扉の閉まる前、ライリーはシビルを切なく見つめた。
「お供をお許しくださり感謝致します」
「2人とも、よく気がついたわね」
「わたくしどもは、貴女さまのお側にいつもおりましたからね」
「ありがとう」
シビルは、ライリーの眼差しに現れた、包み隠さぬ熱に戸惑う。
「あの、ライリー。さっきの言葉は、あたくしを慰める為の冗談ではなかったの?」
「こころより、わたくしの真心をお捧げさせていただきたく、思っておりますよ」
シビルは、ティナやライリーとのあれこれを思い出す。助け合い競い合い、3人で過ごした年月。カイルと一向にコンタクトを取れず、ただ追いかける日々に挫けそうな時、2人は励ましてくれた。
ライリーとティナ。どちらの言葉も嬉しかった。だが、いつの頃からか、頼もしく真面目なライリーに安らぎを感じてはいなかっただろうか?ふとした時にみせる、ライリーの微笑みを見れば、焦燥感が消え失せなかっただろうか?
程よく刈り込んで短いながら丁寧に撫でつけた銀髪を、美しいと思っていた。カイルの金髪も見惚れるほどだ。だが、大人になってからは、神秘的な銀髪をより好ましく思うようになってはいないか?
幼い初恋にしがみつき、国家再建への思いを愛のためと思い込んで来たのではないだろうか。カイルを好きだと思ってきたから、ライリーへの仄かな気持ちから目を背けて来たのでは。
殿下に恋をしていると思い込んできた。一生支えるつもりになっていた。何の約束も交わしてはいなかったのに。
「ふふ。確かにちょっと気持ち悪いわね。思い込みだけで生涯を捧げていたなんて」
自虐の態度は、ライリーが熱烈に擁護する。
「そんなことはありません!殿下と国とを思い、皆の幸せを目指して尽力なされる貴女様は、誰よりも素敵なかたですよ」
「まあ、嬉しい。何でしょう、どうしましょう」
シビルは、俄かに熱くなった頬を抑える。
「わたくし、いまはライリーが好きだわ」
ライリーは嬉しさに破顔する。シビルは、はにかみ俯いた。
「シビルさん」
ライリーに肩書きではなく名前を呼ばれ、シビルは顔を上げる。学友なので、業務外では名を呼び合う仲である。だが、呼び方が明らかに甘さを含んでいたのだ。
顔を上げると、シビルだけをひたすらに見つめる灰青があった。
「口付けをしても、よろしいでしょうか」
ライリーはいつも礼儀正しい。14歳の頃からずっと。誰にでも丁寧な言葉できちんと接する。
「ええ、どうぞ」
シビルも真面目に答えた。
互いに緊張したまま微かに触れた唇が離れる。
「初めてのキスがあなたでよかったわ」
「光栄です。わたくしも、初めてキスを交わすのがシビルさんでよかった」
2人はぎこちなく微笑みあった。
「わたくし、人生の全てを失った気がして、遠い親戚を訪ねてこれからのことを考えようと思いましたの。でも、違ったわ。失ったのは、ただの幻だったのよ」
シビルの優しい笑みに、ライリーは胸を打ち抜かれる。
「無責任に仕事を放り出して逃げるわたくしを、ライリーもティナも責めたりしなかった」
「わたくしどもは、貴女様を信じてお供致しますのみ」
「殿下はお変わりになられたのじゃなく、初めから生き延び持て囃される覇王の資質だったのね」
シビルはしっかりとライリーの灰青を見た。
「わたくしは、見せられた気高い名君の幻を愛しただけ。そんなの初めからなかったのよ。だから、わたくし、失ってないわ」
ライリーは頷く。
「そうですとも」
「ありがとう」
ライリーはふと、残念そうに眉を下げた。
「あなたの幼馴染がカイルの奴ではなくて、私だったら、健気なあなたを傷つけたりはしなかったのに」
ライリーの灰青の瞳には、叶わない望みへの絶望感が滲む。
「馬鹿ね。あの頃の、素敵な王子様にただフワフワと恋するわたくしなんて、貴方はきっと、煩わしく愚かな少女だとお思いになったわよ」
シビルはくつくつと笑う。ライリーはなおも悲痛な想いを灰青の底にたたえて言葉を紡ぐ。
「もしも、夢見るあなたが現実に立ち向かう力を身につけてゆく変化を見続けて来たなら」
ライリーはちょっと言葉を切って、キリリと結い上げたシビルの髪にそっと触れる。どうしても触れたくて、でもその気高さを損ないたくはなくて。ペンダコが柔らかな栗毛を引っ掛けて乱さないように。優しく、慎重に、指先で触れた。
「わたくしの恋心も、今よりもっと深い物になっていたことでしょう」
ライリーは悔しそうに言った。シビルは小さく声を立てて笑う。
「やだわ、あなたはご自分の恋心にすら厳しいのね」
2人ははにかみ、微笑みあった。どちらからともなく頬を寄せ、しばらくそのままでいた。通じ合った気持ちを確かめ合い、心が満たされた成り立ての恋人たちは、一旦身を離す。
「それじゃ、荷物をまとめて来ます」
ライリーが優しく言うが、シビルは立ち去ろうとするその腕を掴む。
「待って、行き違ってしまったら困るわ」
「そうですね」
シビルの判断力を信頼しているライリーは、即時に受け入れた。
「あなたの荷づくりをお手伝いします」
「いえ、すぐだから、誰か来たら隠し扉から逃げられるように見ててくれる?」
「お任せください。観視はわたくしの得意分野です」
「ふふ。その技能に何度も助けていただいたわね」
「それは仕事ですし、好きなご婦人を守るため、当然のことですよ」
やや頬を赤らめ、素直な姿を見せるライリーを、シビルは愛おしそうに見つめた。
「じゃ、すぐ戻るわ」
伸び上がってさっとライリーのあご先にキスすると、小走りに寝室へと駆け込む。きっちりと栗毛を結い上げた不屈の女宰相の、真っ赤に茹で上がった頸には、愛を込めた視線が落ちる。
11年という歳月を共に国を護り民を想い、玉座を還すその日を夢見て共に励んで来た。ふたりの志はひとつ。大切にするもの、選び取って来たものも同じだ。
時に争い、時に競った。だがそれは、同じ大きな目標のため。負けて譲った側に遺恨は残さない。揉め事ではなく研鑽なのだ。それだからこそ、互いの気持ちは知らないうちに近づき、溶け合っていた。
先に自覚したのはライリーだ。シビルの心が初恋の幻に囚われていることは、冷静なライリーにとってさほど気に病むことでもなかった。己の恋に気づくと、いつかシビルの淡い初恋が美しい想い出に変わるよう、真心を尽くした。
彼女の初恋は最悪の形で終わりを告げた。だが、幸いその場にライリーはいて、とっくに妄念と化していたシビルの恋を浄化することが出来た。ふたりの11年は、妄想の中にしかいなかった気高く強い王子様に勝ったのである。
程なく3人は、沓を並べて国境を目指す。
「シビル、これからどうするの」
ティナは爵位を弟に譲る手続きがあるそうで、一旦は本当に国境に位置する領地で過ごすらしい。落ち着いたら合流するつもりだ。
「お針子にでもなって、静かに暮らすわ」
「お針子?」
ティナが声を上げる。
「献上品での試作、誰が作ってたのかご存じない?」
ライリーは意外そうにティナを見る。
「ええっ?謎の天才お抱えデザイナー、まさか、シビル宰相閣下ご本人?」
「うふふ。お褒めくださり嬉しいわ」
「でも、あれほどの才能なら、お針子じゃなくてお店開けるわよ」
ティナは不思議そうに聞いた。
「大きいことは、もうたくさんよ」
シビルは明るく笑った。ライリーは馬上で身を傾け、シビルの唇にさっと触れた。ティナは雲を見上げる。
「大きいことかあ」
ティナは呟く。
「国を捨てて逃げるのも、大それてるなあ」
ティナはなんだかおかしくなって、ひとりくすくすと笑った。
「あら、どうしたのよ、ティナ」
「んふふ、何でもなぁい」
「何ですか、感じの悪い」
馬たちは元気いっぱいだ。岩や根のある山道も危なげなく進んでゆく。城のものがシビルたち3人の出奔に気づくまでには、まだ間がある。3人はのんびりと旅の空を楽しんだ。
お読み下さりありがとうございます