選ばれし者
「選ばれてあることの恍惚と不安と二つ我にあり」
ーーヴェルレーヌ
「失礼します」
午後四時前、会議室によく通る声がして、板倉昌之は資料から目を上げた。若い女子社員が入ってきて、キョロキョロしている。
自分の名札の席に座るよう、リーダーの板倉は声をかけた。二十名の席が用意され、当社アカツキ製薬の全部署から人が集まる。
彼女は、前橋いつき、という名札の席についた。板倉はメンバーリストを確認する。管理本部業務課所属、年齢二十二歳。勤続年数0.つまり新入社員だ。なぜ新入社員がここに? 板倉は、隣に座るオブザーバーの社長室長・高崎源次を見た。新入社員では、全社プロジェクトのメンバーは無理だ。
高崎が、ふいに板倉に目を向けた。
「全員揃った。定刻前だが始めたまえ」
広い額とカマキリのように尖った顎。高崎室長は五十歳を超えているだろう。偉い人であることは知っているが、何をしている人か、板倉は知らない。だが今回のプロジェクトは、すべて高崎に指示を仰ぐことになっていた。
板倉が席を立つ。二十人の視線が重い。メンバーの多くは、年齢も役職も板倉より上だ。
「第一回ESプロジェクトミーティングを始めます。私は、リーダーを仰せつかった、商品開発部主任の板倉です」
よろしく、と板倉が頭を下げる。
「皆さん、突然プロジェクトメンバーに選ばれて驚かれたでしょうが、私も同じです」
誰も笑わない。板倉は内心で舌打ちした。
「さてESプロジェクトとは、エンプロイー・サティスファクション、つまり従業員満足度向上のプロジェクトです」
初めてメンバーから、ほうと声があがった。
すでに顧客満足度の向上という目標はあった。顧客満足度を上げるには、新薬の開発からコスト削減まで改革が必要だ。それに挑戦する社員を育てるには、どうすればいいか。
と考えた社長は、従業員満足というコンセプトに出会った。従業員が満足して働けば、自発性やアイデア、顧客を満足させたいという気持も出るだろう。そういう会社にするには、どうすればいいかを考え、実行する。
「それが、このESプロジェクトです」
板倉は、机にバンと両手をつきメンバーを見回した。彼の大見得に冷笑が返ってきた。
「ご質問ご意見のある方は?」
数本の手が挙がった。一番早く挙手した中年男性を指名した。研究所の安中だ。
「新薬の開発はやることが多すぎて、研究所は残業続きだ。従業員満足なら、まず研究所の人を増やしてくれ。せめて、こんなプロジェクトに、人手を割かせないでもらいたい」
すぐに手が挙がる。営業部の伊勢崎課長だ。「営業部から要望を出しても、他部署はやってくれない。顧客満足に一番取り組んできたのは営業だ。いつも壁になるのは、君らの『できません』という声だ。顧客第一主義の不足が、不満だね」
「従業員満足なら、給料と休みを増やしてよ」
「それで。私たちは何をするんですか?」
人事部の高山係長だ。ベテラン女性社員で、いつも苛々している印象が板倉にはあった。
「次回まで、従業員満足のために何をすべきか、を調べてレポートで提出してください」
は? と高山係長の表情が歪んだ。
「何それ? メンバーに丸投げじゃない。何も考えてないってこと?」
「高山係長、これには訳がある」
ふいに高崎室長が口を開いた。苦虫を噛み潰したような表情で話し続ける。
「当社には、上の言う通りにすればいい、という空気がある。それでは、変化の激しい今に対応できない。だから、あえて上から何の指示もしない。君ら自身の目で、経営者層が気づかない問題点を見つけて欲しい」
もう異論は出なかった。板倉はメンバーの顔を見回した。新入社員の前橋いつきが、頭を両手で抱えていた。
「ふーん、大変だね」
いつきのスマホから、太田早苗の声がした。
「大変だよ。課題のレポートを書かなくちゃ。ごめんね、早苗。今日もつき合えなくて」
いつきは、夜、自宅アパートで、パジャマ姿で電話していた。早苗には発達障害があって、人間関係で問題を抱えがちだ。いつきは心配だったが、今は電話しかできない。
「そんなに忙しくて、日曜、アニメの映画に行けるの?」
「絶対に行く! 時間を作ってでも行く! そのために働いているんだから!」
アニメと漫画は、いつきの趣味、というよりは生きがい、生きる指針だった。
「それまで、課題はできそう?」
全然できそうじゃない。ネットで調べても抽象的でピンとこない。週末に図書館で本を探そうか。ダメダメ、そんなことしてたら、映画に行けなくなる
丸投げじゃない! 会議の記憶が蘇る。
「そうだよ、丸投げなんだよ。あのリーダー」
「怒ってる? リーダーって、どんな人?」
「三十歳いくか行かないかの、商品開発部の人だけど、なんか軽い感じがするんだなあ」
「いい処ないの?」
「メンバーの中では若手だから話しやすそうかな。でも、本当にわかってんのかな。頼りなさそう。自分で頑張らなくちゃ!」
「ははは、いつきはいつも自分で何とかしちゃうもんね。凄いよ、凄いけど……」
「けど?」
ううん何でもない、と早苗は電話を切った。電話してきたのは彼女だった。用があったのかな? ただ話したかっただけかな。早苗はいつき以外に話し相手はいないから、もっとコミュニケーションをとらないと。
「ああ、やりたいこと、全然できないよ……このESプロジェクトのせいだ」
課題なんて気にせずに、映画に行こうか。ダメだ、怒られる。逃げちゃダメだ。
部屋が片付いていない。ママと「部屋をきれいにする」と約束したのに。仕事に振り回されて、何にもできない。自分のしなきゃいけないことができない自分、したいことができない自分、そんな自分が嫌いだ。思い通りに生きられない自分がイヤになる。大人になるって、こんななのかな。
死にたくなる。あ、それはもう言わないことにすると決めたんだ。ね、《天びん秤》さん。この会社にいるのかな。あなたを探すのもできてないけど。いつか、あなたに会いたい。
前橋いつきが、週明け何とかレポートを提出すると、すぐにリーダーの板倉から、従業員が困っている点、不満を抱いている問題点を報告して欲しい、と返信が来た。
そんなの、わかんないよ! いつきは叫んだ。誰かヒアリングできる人いないかな。
桐生愛に聞いてみようか。早耳の愛なら、社内の噂やらミニ情報やら何でも聞いているいるから、問題点もわかるかもしれない。
いつきが給湯室へ向かうと先輩の声がした。
「前橋さんって、特別扱いされているよね」
ドアの前で、いつきの足が止まった。
「仕事も楽にしてもらっているし、手当もついているんでしょ?」
「入社そうそう、プロジェクトメンバーに選ばれるなんて、上から目かけられているよね」
いつきは、そっと給湯室から離れた。仕事が楽になったなんて感じたことない。手当はつくが千円二千円だ。ESプロジェクトに入ったのが、特別扱いだなんて初めて聞いた。
ドアをバンと開けて、全部間違ってます、と叫びたかった。が、そんなことをしてもムダだ。いつきは経験からわかっていた。言葉に言葉で返しても何にもならない。根源は心の中にある。人は信じたいことしか信じない。
いつきが下の階へ降りると、桐生愛が先輩の女子社員と話しこんでいた。久しぶりだ。
「ねえ、愛」
思わず、いつきは声をかけていた。愛は一瞬いつきを見たが、そのまま先輩と話を続けた。え、無視された?
先刻の給湯室の会話が蘇る。「特別扱いされている」「上から目かけられている」 言葉が愛と話している先輩たちに重なった。
いつきはショックだった。ううん、こんなの、よくあること。中学ではいつもだった。いつの間にか、いつきの知らないところで悪口が回って、これまで仲よくしていた子が、急によそよそしくなって、これがハブられるって言うのか、と知った日々。
もうボクは大人になった。負けない。負けるもんか。
いつきは唇の端を噛んで耐える。
「ESプロジェクトの方、頑張っているか?」
書類を届けに行った、沼田管理本部長がいつきに訊ねた。沼田本部長は役員らしからぬ気さくで陽気な人で、いつきはつい引きこまれて喋りこんでしまう。
「管理本部長が選んだんですか?」
「違うよ、僕じゃない」
「じゃあ、誰が選んだんですか?」
「さあ、天の声?」
沼田は肩をすくめた。その仕草が外人のように決まっている。いつきはため息をついた。
「どうした、どうした? 大変なのか?」
「大変ですよー。私には、全社プロジェクトなんて無理です。外してもらえませんか」
つるりと言葉が、いつきの口から滑り出た。自分の時間もなく、普通以上に仕事が増え、人に陰口を叩かれ、友達も失ってまで、どうして、こんな仕事をしなくてはいけないのか。
いつきを少し見つめてから、沼田は言った。
「でも、前橋くんは、こういうプロジェクトに向いているような気がするけどね」
買いかぶらないで。いつきは叫びたかった。
夜、いつきは、オレンジ色の明かりの下にいた。人のざわめきと少し煙草の匂いがする空気。香りに食欲をそそられて、焼きホッケに箸をつける。旨い! 魚がこんなにおいしいなんて知らなかった。
「ささ、遠慮せずに飲んで、飲んで」
向かいの板倉がチューハイを勧める。
「こんなことしに来たんじゃないですけど」
「まあまあ、堅いこと言わずに楽しもうよ」
と隣の太田早苗が、顔を真っ赤にして言った。もう酔っぱらっているの?
板倉お薦めの居酒屋は、スーツ姿の男性で一杯だった。大学の飲み会とは雰囲気が違う。これが社会人の飲み二ケーションって奴か、といつきは感心した。だけど。
「板倉さん、本題に入っていいですか? ESプロジェクトは、ボクには難しすぎます」
課題に悩んで答えの出なかった、いつきは板倉に相談したところ、飲みに誘われた。一人が不安で、早苗にもついてきてもらった。
「まあ、堅く考えないで、新入社員の目で、おかしいところを書いてくれればいいよ」
板倉はだらしなく笑い、ジョッキを呷った。
「そんなんでいいんですか? 会社の大事なプロジェクトなんでしょ?」
「まあ、表向きは、そうなんだけど……プロジェクトの真の目的は、離職を防ぐことにあるんじゃないかな。実は、ウチの会社、離職率がけっこう高い」
ブラックなの? いつきは驚いた。就活では、アカツキ製薬の労働条件はいい方だと聞いていたし、入社後も、いつきたち新入社員は定時できちんと帰っていた。
「帰りの遅い人はいる。でも、時間外は減っているし、残業代は必ずつくよ」
「でも離職率高いんですよね。どうして? 板倉さんの同期はなぜ辞めたんですか?」
「辞める時、理由なんて聞けないよ」
板倉は歪んだ口元を隠すように、ジョッキを口につけた。
「でも、何か思っていたのと違う、って言ってたかな。すごく辛かったって」
「板倉さんは、今辛くはないんですね」
「全然大丈夫! 仕事はハードだけど、俺、要領いいから。平気、平気。ははは」
軽い。いつきは思った。そして面白くない。
「新入社員で、もう辞める人がいるって?」
「え、嘘です。まだ入社三か月ですよ」
「でも噂がある。辞表が出たとか出ないとか」
いつきの同期は二十人いる。いつきも全員と仲がいい訳でもなかった。
「ねえ、早苗。早苗、何か知ってる?」
といつきが早苗を見ると、早苗は真っ赤な顔で居眠りして、にゃあにいい、と呟いた。
「早苗、お酒弱い癖に、何やってるの!」
「まあ、若い頃はありがちだよ。可愛いじゃないか」
そういう板倉の目尻が下がっていた。
仕事中も、いつきは課題のことを考えていたが、わからない。従業員の満足度を上げる方法って何? みんなが困りごとや悩みを解消すればいいんだろうけど、みんな何に悩んでいるんだろう?
板倉は、新入社員から見ておかしいところを指摘すればいい、と言ったが、ボクには、それ程、会社のことがわかっていない。毎日新しい仕事を言われて、覚えて処理するだけで精一杯だ。会社のここがおかしい、あれがおかしい、なんて評論家をする余裕はない。
でも板倉は、気になることも言っていた。若年層の離職率。辞めるのは、何か不満があるのだろうか、それとも潰れてしまうのか。いつきにはプロジェクトで時間を取られてしまうことを除けば、不満はないが、いつか辞めたくなる時が来るのだろうか。
いつか、じゃない。今、辞めたい、と思っている同期がいる。何で悩み、苦しんでいるのか。
いつきの胸が締め上げられるようになった。助けになりたい。他人事とは思えなかった。
ーー《天びん秤》さん、あなたが、死にそうだったボクを助けてくれたように。
ボクも誰かを助けられる人間でありたい。
いつきには悩んでいる同期なんてわからなかった。愛ならわかるかも知れないけど。
桐生愛に避けられている状況はまだ続いていた。愛に話しかける勇気が、なかなか出ない。また無視されたら? なんで無視するんだ。先輩社員が言うところの「特別扱い」だから? いつきは腹が立つ。いいことなんて何もない。ただ忙しくて堪らないだけじゃないか。陰口叩くほど羨ましいなら、いつでも交代してやるよ。
会社のことで頭が一杯だから、家でアニメを観ても楽しめない。おかしいな、むしゃくしゃするから、好きなアニメで忘れたいのに、全然すっきりしない、まるで会社に捕まったみたいだ。
SNSで不満を愚痴りたいが、社外秘だから無理。
心に沁みる言葉が欲しい。応援して欲しい。中学二年の時、いつきはSNSで《天びん秤》と出会った。イジメられていて、死にたい、と書いた。《天びん秤》の返事は「死ぬ前に自分の好きなことを全部やってから、死のう」だった。SNS上だけでの《天びん秤》との交流。でも、今日まで生きて来られた。
《天びん秤》さん、レスを下さい。どこにいるんですか? あなたを追いかけて、この会社に入社しました。近づいているんですか? 分からない。調べる時間がない。
「もう、イヤだ」
いつきは、スマホを枕に投げつけた。
「いつきって欲張りだね」
一緒にお昼を食べていた早苗が、ぼそっと言った。早苗は、膝に広げたハンカチの上に、持ってきたサンドイッチを載せたまま、口に運ぶのを止めていた。
二人の前を流れる人工の小川が、初夏の光を反射していた。道沿いに並ぶ木立の間を、そよ風が抜けていく。木々の緑は濃かった。生い茂った葉の隙間から地面に落ちた日光が宝石のように時折きらめいた。
「へ? おにぎり、ツナマヨと唐揚げと鮭の三個は、無理だったかな」
「ごはんじゃなくて……課題もやりたい、桐生さんとも仲よくしたい、アニメも観たい。自分の『やりたい』ばかりだよね」
いつきは頭に来た。我がままだって言うの。
「プロジェクトはやらない訳にはいかないし、愛と話したい、アニメ観たい、がダメなの?」
「いつきはいいよね。そんなにやりたいことが一杯あって、毎日充実してるよね」
「なんだよ、それ。こっちは忙しくて大変なのに。羨ましいなら、いつでも替わるよ」
「わたし……できないよ。いつきは、わかってくれている、と思っていたのに」
早苗の声が震えた。顏がみるみる青くなっていく。早苗はベンチから立ち上がった。
「会社の、誰かの役に立ちたくても、仕事ができないのは辛いよ。みんなには簡単なことが、わたしにはできないの。わたし、ここにいていいの? そう、いつも考えている。そんな気持、いつきには、わかんないよね!」
言い捨てて早苗は小走りで行ってしまった。ベンチに、食べかけのサンドイッチが転がっていた。
「高崎室長、辞表が出たよ。入社三か月で辞表だぞ。何とか説得できんか」
「管理本部長、無駄でしょう。辞表を持ってきた時は、決めてしまっている。説得に耳を傾けない。もっと前に何とかしないと」
「ESプロジェクトがうまく動けば、若い社員の離職も減る。どうかね、進捗は?」
「板倉たちメンバーに任せていますが、何に取り組むかで、悩んでいるようです」
「おい大丈夫か。君が課題を与えてやったら、どうなんだ」
「それでは意味ありません。彼らが、自分で課題に気づいて、解決法を見つけなくては」
「だがな、悠長な事を言っている時間はない。わかっているだろう、当社の現状の厳しさを」
「若者は、今は、莫迦で、うまくできないかもしれません。それでも、希望は若者の側にしかありません。若者は成長し、とんでもないものを生みだす可能性があります」
「ESプロジェクトは、若者だけのものじゃない。全社員が満足し、自発的に、会社の発展に尽くすようにするのが、目的だ」
「その通りです、管理本部長。私は予定がありますので、これで失礼します」
高崎室長は役員会議室から出て行った。
「あいつ、何を企んでいる?」
ーー愛に続いて、早苗にまで嫌われた。ボクはそんなに自分勝手でイヤな奴なのかな。自分のやりたいことを一生懸命にやりたいだけなのに。《天びん秤》さんは「死なないために『好きなものは好き』と言えばいい。好きなことを追求すればいい」と言った。でも周りを傷つけるんじゃ、やっぱりボクは生きていても仕様がないんじゃないか。
いつきは、昨夜《天びん秤》に送ったメッセージを見返した。レスはない。
昼休み、いつきは会社近くの公園に一人いた。広場のように広い遊歩道に面したベンチに腰かけている。風がほとんどない。
「なんか、死にそうな顔しているね」
スマホをみていた、いつきの頭上に声が降ってきた。逆光で誰だかわからない。あ、桐生愛だ。
「太田早苗とケンカしたんだって?」
少し皮肉を含んだ、いつも通りの愛の声。
「どうして、ここに? 先輩と一緒じゃないの?」
いつきの本当に聴きたいことは違った。ボクを避けていたんじゃなかったの?
「先輩? ああ、あのつまらない人たちよりは……いつきの方が面白いから」
愛は、いつもみたいな物言いを続けようとしたが、いつきに凝視されているのに気づいて、力なくうなだれた。
「いつき、ゴメン」
ギリギリ聞こえるくらいの声がした。
「あんたがプロジェクトメンバーに選ばれた時、あんたが眩しくて、なんか悔しくてさ。あんたには何か凄いところ、あるんだろ? わたしなんか、何の取り柄もなくて、適当に周りに合わせて、やりすごして生きてきた人間だからさ。別にそれでいいんだけど、いつきは違うのかな、って思ったら、一緒にいていいのかな、と思って」
「ボクはエリートなんかじゃない。愛と変わらないよ」
「いつき、つまんない慰めなら、怒るからね」
愛の怒りがこもった声。
「わからないなら、やっぱり、あんた莫迦」
愛はいつきから視線をそらせて、呟いた。
「わたしとあんたは違う。でも、いつきに絡むのは楽しい。だから放っておかない。それでいいんだ」
いつきは口を挟めない。
「それで、いつきは、太田さんがなぜ怒ったのか、わからず悩んでいる。違う?」
「うん、ボク早苗を傷つけてしまった。ボクが自分勝手で我がままだから」
「はいストップ。あんたが自己中なのは関係ないから、自分を責めるのは止める。太田さんが今、職場でどんな感じか、知ってる?」
早苗は、以前、彼女の発達障害を理解しない上司の元で働いていて、人と同じ仕事ができない早苗は毎日怒鳴られていた。しかし上司が替わってからは、怒号は聞こえなくなった。うまくいっていると思ってた。
愛の説明によると、新課長は早苗ができなくても叱らないが、仕事を任せることもしない。早苗は、午前で仕事が終ってしまい、半日何もすることがない。
「太田さんは真面目だからねえ、自分が仕事すると迷惑なんじゃないか、会社を辞めたほうがいいんじゃないか、って悩んでいるらしい。辞表が出たとか出ないとか、聞いた」
もう辞める新入社員って、早苗のことだったのか! でも。
「おかしい! ボクが早苗のASDを配慮してほしいって言ったのは、あの子のペースで仕事させてほしいというつもりだった!」
「あんたの『つもり』が通用するほど、甘い世界じゃないわよ」
「早苗も早苗だよ。そんなに悩んでいるなら、ボクに相談してくれれば」
「莫迦。できるわけないでしょ。プロジェクトで大変そうなあんたに、負担かけること」
早苗がボクに遠慮した?
「ああ、莫迦だね。あんたも太田さんも。でも、莫迦は莫迦らしく、突破してみなよ」
莫迦は莫迦らしく。いつきは、部屋で、愛の言葉を思い出して笑った。ボクは莫迦だから、課題もできないし、早苗の気持ちもわからない。何もかも穴だらけだ。でも、それでも前に進むしかないんじゃないか。
早苗の職場の問題は何とかしたい。直談判じゃダメだ。早苗が仕事ができて、役に立つようにならなくては。力づくでは、雰囲気が悪くなって、早苗が居づらくなるだけだ。
ーー発達障害の人が、働きやすくするために、どうしたらいいか?
質問をSNSに入力してみたけれど、何の反応もない。念のため、いつきがスマホをつけてみると、一つレスがついている。誰? 《天びん秤》さんだ。嘘? なぜ、《天びん秤》さんが?
ーープロジェクトを使え。
これってESプロジェクトのこと? なぜ《天びん秤》さんがESプロジェクトのことを知っているの?
「太田さん、そんなに悩んでいたんだ。辞めるのは、いかんよ」
板倉は、いつきしかいない会議室で腕を組んで唸った。《天びん秤》に「プロジェクトを使え」と言われても、いつきには、結局、リーダーの板倉に相談するしかなかった。
「太田さんは本当に真面目な子なんで、迷惑かけたくない、と思いつめているんです」
いつきは力説しながら、板倉が当てになるのか、疑っていた。
「やる気は人一倍あるのに、仕事のできない子を、どうしたらできるようにするか。可愛いから、そのまま置いておく、じゃダメ?」
「ダメです!」
いつきの目が吊り上がる。やっぱり板倉に相談するんじゃなかった。
「冗談だよ。ジョークの通じん奴だな。はあ、仕方ない。あの人に相談してみるか」
あの人? 誰の事?
「人事部の高山係長だよ。覚えていない?」
「あの……どちら様でしたでしょうか?」
「ESプロジェクトのメンバーだよ。初回ミーティングで俺に噛みついていた、お姉さんがいたでしょ。あの人、従業員教育の大ベテランで、君らの新人研修のプログラムは、あの人が全部作っている」
「そんな凄い人なんですか。でも、早苗のような発達障害に対応できるんでしょうか」
「それは知らん。それより問題なのは、あの人にどうやって頼むか、だよ。高山さんは忙しい上に、大体機嫌悪いから、お願いを聞いてもらうには、余程うまく頼まないと。俺はいつも怒られるから、説得の自信がない。前橋くん、一緒に来てくれるか?」
「わかりました! 行きます!」
声をかけても、デスクの書類と格闘している高山は、こちらに目もくれない。ひっつめにした髪に枝毛が目立つ。化粧も肌荒れを隠せていない。どこか疲労感が漂っている。
「なんだ、板倉か。プロジェクトの課題なら出しただろ。忙しいから邪魔すんな」
「いえ、俺じゃなくて……前橋くん」
ボクに丸投げなの。板倉さん、ひどいよ。
「何の用だ。前橋いつき」
高山が向き直った。ロックオンされた気分。この人、猛獣みたい。怖い。
「実は、同期の太田早苗さんのことで……」
いつきは必死に事情を説明した。高山は険しい顔で聞いている。いつ怒鳴られるかという、心配をよそに、高山は険しい表情のまま、話を最後まで聞いた。話し終わって、沈黙。
「あ、あの……なんとかなりませんか?」
高山の表情は変わらない。もうダメだ。
「お忙しいところ、お邪魔してすみません!」
沈黙に耐えきれず、いつきが去ろうとした、その時、
「いい話だ! 前橋、お前はいい子だな。わかった。わたしがいい方法を考えるから」
さっきまでの仏頂面が嘘のように、高山はニコニコといつきを見ている。
「いい方法って、心当たりがあるんですか?」
「調べれば大体のことは何とかなる。ASDの極点である自閉症者でも、戦力化している事例は聞いたことがある。太田くんの上司の秘書課長と話してみるよ」
「高山係長と秘書課長は同期だから」
板倉がいつきに囁く。高山が怒鳴った。
「こら、板倉、余計なこと言うな!」
「ひどいな。前橋と扱いが違い過ぎませんか」
「前橋や太田は新入社員だ。教え子のつもりで資料を準備したよ。板倉、お前も新入社員の時、心をこめて研修したのに、こんな、いい加減にしか育たなかったのが、腹が立つ!」
「ひどい。辞めずに、ここまで続いている俺を少しは褒めてもいいでしょ」
二人の言い合いは、暫く続きそうだった。
まるで蝶だ。公園に向かう早苗を追いかけながら、いつきは思う。軽くスキップしているし、さっきはお弁当を持ってターンもした。
気温は上がって、もう暑いくらいだ。涼し気な噴水に目がとまる。
「ねえ、いつき、わたしの掃除きれいだって、課長が褒めてくれたんだ」
笑いながら振り向く早苗は、無邪気なんだけど、スタイル抜群の美女だから、とにかく目立つ。男性の集団に見つめられて、一緒にいるボクが恥ずかしいよ。
「掃除のマニュアルを作ってくれたし、資料のファイルの背表紙に色分けのシールを貼ったら、抜群に仕事しやすくなった」
高山係長はうまく動いてくれた。高山さんはいつきの名前を出していない。
「わたし、会社で初めて役に立ってる、って思える。仕事のやり方を変えるって凄いね」「そうだね、やり方一つ変えるだけだけど、早苗は幸せになった」
「こういうの、ESプロジェクトでやれば、どうかな?」
いつきは目を開かれる思いだった。早苗の他にも、やる気や能力があっても発揮できず、苦しみ悩んでいる人がいるとしたら。
「ESプロジェクトって、凄いかも」
いつき一人で悩んでいたことが、板倉や高山係長に相談することで、次々と解決の扉が開く。皆、いつきが知らない力を持っている。凄いことができるかもしれない。
「ESプロジェクト、頑張ってみようかな」
いつきは陽光の中で、背伸びして呟いた。
「プロジェクト頑張っちゃったら、趣味のアニメとかマンガとか、見る時間なくなるね」
早苗が笑いながら、いつきに言う。珍しいな、早苗がボクをからかうなんて。
「やるさ、自分の好きなことも」
自分らしくあることを諦めない。ボクが生きていくために必要だから。だから早苗も、他の誰でも、その人らしく生きてほしい。