第五章
校長先生の話が長いのは全国共通。一年の締めとして年内に表彰された部活動や生徒をたたえ、受験を控えた三年生に喝をいれるのである。生徒はその日をやり過ごすと、たちまち連休の過ごし方を友達と話し合うのだ。なかにはクリスマスということもあり、恋人同士でまったりとくっついている生徒もちらほらいた。
教師も生徒に負けじと、残っている簡単な業務をさっさと済ませるべく、パソコンや書類に目を通している。三年生を受け持つ先生は、彼らの受験を控えた生徒から何度も呼ばれていた。
僕がもどかしくも苦汁を飲み、決めた進路。複雑な気持ちはあるものの、彼らの曇りのない目を見ると、「ガンバレ」という気持ちが沸き上がる。
「受験生に休んでいる暇なんかなさそうですね」
生徒に呼ばれた先生を見つめ、川島先生はつぶやいた。
「川島先生も呼ばれるんじゃないですか? 今回はC大の文学部が多いって聞きましたよ」
「そうなんですよ、みんな優秀な生徒ばっかりで、休む暇なく質問攻めにあいますよ。ふふふ、これからまた教室で一部生徒に教えてきますが、ここまでくると授業ですよね」
ふふふっ、ともう一度笑い、席を立つ。川島先生の言葉は嫌みっぽくなく、忙しいよりも楽しいが勝っているようだ。
一方の僕は、部活動も学級も受け持っていなかったので気が楽だった。それでも校務分掌によって文化図書部の仕事を学校側から与えられているので、帰れるに帰れない。新年に控える将棋大会の日程確認と、防災訓練のプリント作成に追われていた。
気づけば八時半を過ぎていた。やはりパソコンは苦手である。恥を捨てて詳しい職員に聞こう、といつもクタクタになって思うのだが、校内ではそれぞれが業務を終わらせようと忙しない。テストの採点。部活動の指導。進路や生徒指導のほか、公式ホームページの管理などがある。僕がホームページを触ってしまおうものなら、すぐにシステムダウンしてしまうだろう。
「あれ、武内先生まだ残っていらしたんですね」
必要なファイルを保存したことを確認していると、運動着姿の川島先生が暑そうに汗を拭いている。外は五度を下回り、夕日が落ちるとさらに体感気温は下がる。しかし、うちの校内は体育館と校舎が繋がっていて、外の北風に当たらなくても移動可能だからまだいい方だろう。
「お、お疲れ様です。はい、やっとプリント作れました。ははは」
「お疲れ様です。もう退勤なされますか」
「ええ、先生はいままで部活指導ですか。いや、それはまたご苦労様でした。バドミントン部でしたっけ?」
「あははは、違いますよ。女子バレー部です」
えっ、と固まったままジッと川島先生を凝視してしまった。
「いま、小さいのにって思いましたよね? 武内先生、いま思いましたよね」
「いやいやいや、違うんです。凄いなと思って。僕、スポーツが苦手で特に球技はダメなんで。できる方はみんな尊敬しちゃうんですよね」
違います、そんな目じゃなかったです。簡単に嘘を見破られ苦笑する僕は、慌ててパソコンの電源を落とし、必要な書類をカバンにしまった。
「それでは、お先に失礼します」
これ以上の会話は続けるべきではない。理由が定まらず、気持ちのまま僕は動いていた。暖房のきいた職員室を一歩出ると室内でも肌寒い。曇天が覗く窓から、中庭の木が大きく葉を揺らしていた。日が落ちてからの気温差はグンと下がり、これからの家路までを考えると憂鬱になる。
靴箱で内履きのスリッパを仕舞っていると、勢いよく階段を駆け下りてくる音が響き渡る。こんな時間まで帰宅しないなんて、よっぽど部活が好きか暇人のどっちかだ。ほとんどの部活は早めに切り上げ、家族や恋人や塾へと向かっているだろう。
「はあはあはあ……武内先生、一緒にご飯行きませんかっ」
生徒だと思っていた暇人が川島先生だったので、しばらく彼女を見つめたまま僕はふたたび固まってしまった。
千葉駅前にある個室制の居酒屋で、仕事あがりのサラリーマンやOLが小規模忘年会をしていた。彼らは独身であったり彼氏がいない者同士で、お互いの傷には触れずに、それぞれの酒の場を楽しんでいるのだろうか。
「帰るところを引き留めちゃって、すみません。なにか用事、ありましたか」
「いえ全然、気を遣わんでください。コンビニ弁当で済ませようとしてたので、久しぶりに寿司食べれたし、特に用事なんかないですよ。それより川島先生こそ、大丈夫なんですか。今日の予定は」
そうなのだ、今日はクリスマスなのだ。キリスト教徒でもない日本人が取りいれた祝いごと。世間のカップルはいっそう身を寄せあい、相手のいない者は羨ましそうに彼らを眺める。
「大丈夫です。ホントは友達の家でパーティする予定だったんですが、キャンセルになっちゃって」
しばらくお互いの業務や生徒の話を何気なくするも、すぐに共感する話は尽きた。笑い話のあとには間がついてくる。川島先生はある話を期待しており、そしてそれは僕も同じことを考えているが、できれば避けたい話であった。
「ジュースばっかりで、お酒はいいんですか」わざとらしく芋焼酎を口に含み誘惑するが、「今日はこの前のようにご迷惑かけられないので、遠慮しておきます」と軽くいなされてしまう。
どうしても話さなければ、諦めてくれないようだ。微笑みを浮かべてはいたが、笑いのなかに潜む彼女の目は、生徒を説教するように真剣味を帯びていた。
焼酎から苦手な冷酒に切り替え、注文を確認した店員が去ったあとで僕は重たい口を開いた。
「クリスマスにする話じゃないんですけど、身の上、話してもいいですか」
彼女はスッと息を吸い、小さく頷いた。
成人を迎えていない青年が、若いという良さを実感していたあのころ。夢もなくどこへ進んでいるのか不透明な人生で出会った綾。泳ぎが下手だとカッコ悪い姿を見せた初デート。彼女に誘われて何度も潜った生き返るような海の中。その海が僕から彼女を奪い去った事故。
話の途中で店員が冷酒とミニッツメイドを持ってきたので、話を中断した。
「ご注文は以上でございますか。それではごゆっくりどうぞ」
まだまだ序盤であったが、僕は耐えきれなくなった瞼を閉じた。そうして店員が伝票入れにレシートを入れる音が去って、運ばれてきた冷酒を気にも留めず話を再開した。
綾が遭難して約十五分後、防波堤の近くで釣りをしていた人が、彼女を発見したこと。水深五メートルの海底に沈んでいたという話だった。すぐに病院に搬送されたが、四日後に彼女はとうとう戻ってこなかった。いつも欲情していた白い肌は血の気を失い、まるで剥製に柔らかさを付け足したようであった。皮膚の表面はぶよぶよとなり、しかし確かに内側から硬くなってしまった光景はいまでも鮮明に蘇る。
事故の原因は、空気ボンベから十分な空気が供給されなかったことによる呼吸困難。文字にして漢字四文字の短い死因。しかも空気の供給は弁やホースの破損ではなく、ガイドがバルブの開閉不足を正しくチェックしなかったことがあとになって判明した。
すぐに僕と綾の家族とで刑事裁判を起こし、全員が悲しみより怒りで腸が煮えくり返っていた。裁判が長引き、時が流れるにつれ冷静になり怒りよりも、綾が返ってこない現実が心を蝕んでいった。綾が笑顔に映っている夢は、水中で苦しそうにもがいて助けを求める悪夢に変わる。助けたいが手を差し出せずにいた夢は、あのときに振り返った際の後悔の象徴だった。もっと早く彼女の気配に気付くべきだった。手を繋いででも一緒に泳ぐべきだった、と僕は自分を責め続けた。また昼間は彼女がそこにいると錯覚して、毎度のように知らない女性を振り向かせた。ああ、また幻覚か、と自分ではおかしいとは思うものの、ふとした瞬間に綾は現れるのだ。
「ちょっと、話過ぎましたね。暗い話ですみません」
僕が目を閉じたまま詫びると、川島先生の返答はなく無言の空気はあっけなく、どこかの酔っぱらいの笑い声に包まれた。
先生はかぶりを振り、黙って僕の話を聞いている。そのように勝手に解釈した僕は、かいつまんで話す予定だったが、昔を思い出していくうちに歯止めが利かなくなったらしい。
汗をかいた冷酒を手探りで取り、乾いた口にそのまま放り込む。カーッと唸り、身体が芯から熱くなるのを感じた。
「裁判なんて、勝訴したところで賠償金と虚無感が残るだけだ」
裁判が終わっても、僕にはひたすら虚しい現実が蝕む。毎夜のように酒に溺れ、無断欠勤が続き、解雇通知の電話も無視した。友と呼べる同僚や連れも失った。
酒が残った夕方過ぎ、しばらく鳴っていなかった着信音で目が覚める。誰の着信か分かるように選んだメロディは、《家族》のジャンルに分けた音色だ。久しぶりに僕を必要としてくれる家族の音。普段は照れながらも嬉しいはずなのに、そのときばかりは発狂してしまう。すかさず携帯を壁に叩きつけた。壁に小さな傷をつけ、無残なそれを気にも留めず僕は雄たけびを部屋中に響かせた。
胸がボロボロとなり、涙が滝のように流れ落ちて視界が滲む。瞼がすぐに腫れ、顔が熱を帯びる。頭痛がするのは涙のせいか、酒のせいかなんてどうでもいい。かけがえのない家族が一人、減ったのだから。
振り返ってみると、支えてくれていた友人はみんな、綾と過ごすようになってから仲良くなった人ばかりだった。皮肉にも綾と僕は人嫌いだったはずなのに、いつしか人と笑っていることが増えていった。それも、彼女を失ったあとには反比例するように減っていった。
彼らと関わらなくなったのも、僕のせいだと気づいていたが、彼らの顔を見ると彼女との幸せだった苦痛の時間が呼び起こされてしまう。
「うるさい! 俺にかまうな」
「気持ちは分かるけどさ、いまの健太の姿みたら、綾、悲しむぞ」
優しい言葉をかけてくれた友達の目は哀愁を帯びていて、本当に僕を心身ともに心配してくれていただろう。それを「同情した目をするなっ」と突っ返し、飲みかけの酒をぶっかけた。
「好きにしろ、バカ野郎」
呆れた様子で帰っていく後ろ姿を、定まらない目で見送る。どれだけ酔っていても、悲しさは残る。言葉では追い払ったけれど、心では誰かに殴ってもらいたかった。目を覚ませ、と正してほしかった。
僕はいったん話を区切った。カッコ悪いくらいに両手で涙を拭い、残りの冷酒を飲み干した。こんどは思いのほか、身体は熱くならなかった。川島先生はずっと、静かに聞いていた。
「大人になってみると、涙脆くなるんですよ。まあ、昔の話を引きずっている人が、大人なんて言えませんがね」
下手に笑ってみせると、行き場を失った気持ちが先生の目を揺れ動かしていた。
あのときの彼らは、どんなおっさんとおばさんになっているのだろう、と感傷に浸った。
僕が過去に綾と友人を失った話を終え、席を立つ。「話は以上です。僕はもう帰りますが、先生はどうされますか」と川島先生が帰っても残ってもどうでも良かった。もう話を続けたくなかった。
「話はもう終わりですか?」
「ええ、終わりです」冷めた口調で先生を見下ろした。
クリスマスの十時過ぎ、人々は寒い寒いと思いながら街のイルミネーションや雰囲気を味わったあと、それぞれの温もりへと帰っていく。感傷に浸ったあとだからか、祝日なんかどうでもいい、と考えていてもやはり羨ましくなった。
「すっかり遅くなっちゃって、すみません」
「いえ、私の方こそ黙ってばっかりで……」
そりゃあ、誰だって引くだろう。あんな話をされたら、川島先生でなくても黙るはずだ。過去なんて誰が聞きたがるのだろうか、ましてやネガティブな内容ならなおさらだ。
心境の表れだろうか、普段ならそうならないはずが歩くペースが速くなる。川島先生は僕と違っていつも以上に遅い気がする。
「やっぱり、武内先生は『堀アキラ』ですよねっ」
先生の張りのある声が背中にぶつかる。酔いと癖になった厭世的な考えが、否定することを億劫にさせる。
「ええ、先生の好きに捉えたらいいんじゃないですか」振り向くことも怠さに支配され、歩いたまま投げやりにいった。
「じゃあ、さっきの話も続きがあるんですよね? 『二つの螺旋』のラストの場面も、先生のことですか」
僕はこたえないまま、なにも聞いていないというように歩き続ける。
暖房の効いた居酒屋や凍てつくような風が吹く外、または作家だろうがなかろうが関係ない。
「話は以上です」冷めた口調で先生を取り残し、挨拶も告げずに、人気の少なくなった街を歩いていった。