第四章
異性に惹かれていくのは本能からであるが、時としてそれは恐ろしい結果を招くことに繋がる可能性がある。
『所有の本能は、人間の本能の基礎である』
一九一〇年に死没したアメリカの哲学者、ウィリアム・ジェームズはその言葉を残して死んでいった。
どのような想いでこの言葉を残していったのだろう。教育範囲の一部であり、この言葉は教科書の小さな一枠として紹介されていた。数多く存在した歴史に名を遺した哲学者の中でも僕の好きな人物であった。所有が本能とという言葉は、確かに人の行動として的を射ているだろう。豊かな生活を求めお金を所有し、好きな物を所有し、豊かな安定とした未来を所有したがる。それは物だけではなく人も含まれている。
『アメリカを代表する哲学者』として紹介されるジェームズだが、一人の男性としての人生はどうであったのだろうか、と僕は時折この言葉を思い出しては、悪い方向へと連想してしまう。
先週の金曜日。泥酔した川島先生をマンションまで送ってからというもの、週末明けから川島先生の様子がどうもおかしい。
どこかよそよそしく、業務的に話しかけても避けられているような感覚を覚えた。
「川島先生、このファイルってどうやって開けばいいんですかね?」
「あっ、それは岸和田先生の方がパソコンに詳しいので、先生から聞いてください。では、私は授業の準備があるので」
そういって、慌てて教科書類をまとめ席を立った。授業開始までまだ余裕があるのに明らかに挙動が怪しかった。
「川島先生、どうして僕を避けているんですか?」
その日の放課後、定期テストの採点をする川島先生にきいてみる。
「えっと……武内先生のこと、避けていませんよ」
「いえ、明らかに避けてます。変です」
急に核心を突かれたからか、動揺を隠しきれない顔はいかにも嘘であることを示していた。いつもの溌剌さはなく、デスクの上で手を組んだままキョロキョロと視線が定まっていないようだ。
そこにタイミング悪く、岸和田先生が話を横切ってきた。
「武内先生。例のファイルですが、部活動を見るまえにチャチャっと教えますね――あれ、大事な話してました? なんかあったんですか?」
「ああ、岸和田先生。いや、先週の定期テストで川島先生んとこの奴が、赤点だったんで報告していたんですよ。あーっ、すみません。昼前に言ってたファイルですが、ネット検索したら解決しました。お騒がせして、すみません。僕、機械に疎くて」
興味津々な彼を誤魔化して難を逃れたが、ファイルの操作方法を断ってしまったからには絶対に川島先生に教えてもらわなければならない状況になった。岸和田先生はサッカー部担当の顧問であり、「ああ、そうですか。良かったです」といつものように張り切って職員室を出ていった。
幸いなことは、彼が先週の歓迎会へ出席していなかったことだ。もし、彼が二次会に参加していた男性教諭なんかだったら、変な噂を立てられそうで面倒だ。難が去ったと胸を撫で下ろしていると、曇りが晴れたように一つの考えが頭に浮かんだ。
「川島先生、歓迎会のことで僕のこと避けてます? なんだ、それなら安心していただいて大丈夫ですよ。確かに川島先生、酔っていて意識なかったと思いますが、僕、変なことしていませんから。先生をマンションまで送ってすぐにタクシーで帰りましたから、変な誤解しな――」
「違うんですっ」小さな声ではっきりと否定し、彼女はまたキョロキョロと辺りを見渡したあとで、デスクチェアから立ち上がり、場所を移動するように促した。
川島先生は職員室のちょうど真下にある、小会議室に僕を案内した。そこは主に保護者や急な来客者に対応する部屋で、僕は生活指導担当や進路指導担当ではないので使用したことはなかった。
「武内先生、先週はいろいろとご迷惑をかけまして、すみませんでした」
僕のあとに部屋に入るなり、彼女は丁寧にも頭を下げた。近くはないものの、ショートボブの髪から、ほのかにシャンプーの香りが漂う。
「先生、頭を上げてください。先週のことなら、僕は気にしていませんので大丈夫ですよ。それにお酒の強さは個人差がありますし、確かにいつもと違う武内先生で少々驚きました。でも、本当に気にしていませんので、だから頭を上げてください」
「それだけじゃないんですっ」彼女は頭を上げると、わずかに濡れた瞳で一瞬見つめ俯いた。
誤解が解けて一安心と思ったとたん、その安堵は音もなく瞬時に消し飛んだ。
詳しく話を聞くと、僕が人知れず出版した本を読み、ファンになったとのこと。本に記載されている著者情報にはペンネームを使用していたが、僕が千葉に住んでいて、高校で倫理教諭として勤務しているという情報を載せていた。
彼女は教員採用試験に合格後、初めの学校では千葉在住の倫理教諭作家はいなかったという。そうして二番目である本校で、なにが決め手だったのかは不明だが、僕に目星を付けたという。
衝撃的で嘘みたいな話で僕は唖然としたが、彼女の驚愕する話は留まることを知らなかった。
「武内先生の文脈には、なにかこう人を惹きつけるものがあって、凄いなって尊敬しています。でも……でも、いまでは尊敬の念よりも、異性として」
言葉をそこで区切り、大きな黒目で上目遣いに僕を見つめ「異性として気になるんです」と告げた。
川島先生の言葉は『所有の本能は、人間の本能の基礎である』という哲学者の言葉と重なって、胸を貫かれたような感覚に見舞われた。
「またまた、冗談きついですよ。僕が作家ですって? こんな頭が固いオッサンに文章なんて書けませんよ。ましてや物語なんて思いつきませんよ」
彼女は逡巡することなく、ジッと僕の言葉の真意を見極めるような眼差しを向ける。見透かされているような感触を抱きながら、さらに嘘を固めていく。
「ち、ちなみに聞きますが、その作家さんの本ってタイトルはなんていうものですか」
「タイトルは『二つの螺旋』という本です。実体験された二〇代までの壮絶な過去をフィクション風に書き上げたと、新人賞受賞のインタビューとして記載されていました。どこまでが真実かわかりませんが、先生の――」
「違いますっ、そんな本は聞いたことありません」昔の記憶がフラッシュバックして、感情的に声を荒げてしまった。
武内先生、と悲しげな声の彼女を直視することができなくて、「まだ片付ける書類がありますので、失礼します」僕はその場から逃げた。
恋愛なんて、出会って別れてを繰り返すだけ。希望と絶望を幾度も味わうのに、世間の男女はどうしてこうも積極的になれるのだろうか。僕は欠陥のまま修復されることのない事実を抱えて、階段を駆け上った。
優しさを求めるな、という奴は臆病者だと歌う人が誰かいたが、臆病者には臆病者なりの人生があり、思考がある。人間関係に限ったことではないが、物事はだいたいが表裏一体であり表面では相互扶助だけれど、実際には競争社会なのだ。臆病者は一度優しさと妖しさに溺れ、二度目は悲劇に殺されていった。
もちろん、この臆病者は僕のことである。
「武内君って、筋金入りの小心者か人嫌い?」名前の覚えていない同期の女子社員は、まるで珍しいものを見ているようだった。
初めてまともに話した杉原綾は、切れ長の目が少し冷ややかだが美人であることは間違いなかった。魅力や好奇心はすでにあったが、初めてできた彼女と高二で別れてからというもの、僕はどこか女性を信用できなくなっていた。
どぎまぎして話の内容は入っているはずなのに、疑問と混乱で答えずにいた。
彼女はそんな僕を気にするふうでもなく、「小心者? ただの人嫌い?」とさらに問い詰めてきた。
「なんだそれ、どこが小心者に見えるんだよ」
「だって、同期の輪の中に入んないし、集まりがあってもはしゃがないじゃん」
僕は平静を装って堂々としていたつもりが、彼女の目は心を見透かすように透明だった。
「杉原さんだって、この前の飲み会でも盛り上がってないように見えたけど」
僕が思いついたままに口走ると、綾の目はわずかに揺れて少し潤っている。
私は……人が嫌いだから、と消え入りそうな声が返ってきた。涙はこぼれなかったけれど、僕には綾が泣いているように見えた。卑怯だと思う反面で、相手の揚げ足をとる僕は罪悪感に苛まれた。
綾は同期や先輩社員に声をかけられることが多々あったが、人を誰も寄せ付けたくないのか、いつも冷めた返事をしていた。同期の男子や女子は「いけ好かない」とか「気取ってる」なんて陰で言っていた。けれど僕は彼女の態度をみるたびに、わざと嫌われようと仕向けているようにみえた。そんな彼女がいきなり話しかけてきて、ズルい質問をするもんだから、言い返した結果は思わぬ沈黙を生んでしまった。
「じゃあ、また」その言葉のみを残して何事もなかったようにスタスタと綾は歩いていった。
たった一言の意味深な言葉と綾の心の闇を垣間見た僕は、これまで女性に抱いていた不信感はなく、久しぶりに人に興味が湧いた。
「俺も同じだ」と三日後の昼休みに一人で休む綾を見つけ、この間の答えをいきなり切り出した。
「えっ、なんのこと」
そうだよな、忘れているか。三日前の話は、彼女にとっては忘れる話題なのだと僕は『人が嫌い』の理由をきくのを諦め、「いや、なんでもない」と踵を返した。
「イマノハ、ウソ」と背中に投げかけられ思わず振り向くと、彼女は初めていたずらっぽく笑っていた。
綾に対する興味が再熱し、残りわずかの休憩時間を彼女と過ごした。
いくつもの昼休みを彼女と過ごすうちに僕と彼女は、それぞれの人嫌いの理由を共有していった。僕は過去に猫を飼っていて自分勝手な行動から自分が嫌いになったこと、高校で付き合っていた後輩に二股をかけられたこと。さらには姉の赤ちゃんの流産と、いままで知らなかった姉の気持ちをわけもなく綾に打ち明けていた。
「大学生の頃に付き合っていた彼氏が事故死したの」
同期の情報なんて興味なかったし聞いていても多分忘れていたから、彼女が大卒であることを知ってちょっと驚いた。進学のしていない僕は、大学生というものは高校とは違い、社会の一員としてすでに大人の仲間だと思っていた。僕にとって手に届かない存在だと勝手に線引きしていた。
宙を眺め話している彼女の目は、亡くなった彼氏を想っているのか無表情のままであったが、ただいつも濡れていた。「双子の少年を救助するために溺死した」とか「本当は泳げないくせに献身的」なんて変えられない過去とわかっていても、彼女にとってどれだけ時間が経っても塞ぐことができない傷跡なのだろう。
物語を綴った本をめくるページで指を切るように、僕は彼女の言葉ひとつひとつが胸に刺さる。しかし、興味なのか好奇心なのだろうか、悪い気はしなかった。
「海にデートしに行っても、彼は泳いでいる私を砂浜に座りながら眺めているだけだった。あのときに無理やり泳ぎ方を教えてればよかったな」
彼女は海が好きで、よくダイビングをするらしい。なんでも海に潜ると音もなく、人などのややこしい物がなく、魚がかわいいのだそうだ。物憂げな笑みを浮かべる彼女の話を、時間の許す限り聞いていた。彼女が設定した腕時計のアラーム音が鳴り響くと、仕事に戻るまで五分となる設定で僕はそのアラーム音が嫌いだった。
ある昼休み、いつもの傷のなめ合いで人の嫌いなところについて話し合っていると、綾はある提案をしてきた。
「あなた、泳ぎに自信ある? 次の週末、一緒にダイビングしてみない」
「おいおい、ちょっと待ってよ。俺の名前も覚えていないのか」
ごめんごめん、人嫌いだから名前は気にしていなかった。ニヤリと白い歯をみせて、「武内君は」と付け加えて聞き直した。
「バカにすんなよな、泳ぎくらいできるよ。それにダイビングってボンベでしょ、背中に担ぐやつ。泳ぎなんか関係あんのか」
ダイビング経験のない僕は、空気があれば問題ないと安易に考えていたので、泳ぎの重要さについて説教を受けた。説教が終わると、「じゃあ予約するね」と切れ長の目が笑っていた。
ダイビング当日、駅のホームで会社とは別の綾の姿を見て、僕は呆然とした。作業服を脱いでワンピースを着た彼女は、会社のクールさとはかけ離れ女の子っぽく繊細な印象に塗り替えた。きめ細かな白い肌がスカートや袖口から覗いていて、自然と視線が吸い寄せられてしまう衝動を抑えた。
「ごめん、武内君。ダイビングなんだけど、いつも使っているショップが予約取れなかった」上目遣いで手を合わせる彼女は、そういってバツが悪そうにしている。
ダイビングが中止となり、僕はほっと胸を撫で下ろした。記憶の中で泳げていても感覚の忘れた身体で、いざというときに泳げるのだろうかと疑心暗鬼になっていたのだ。彼女の姿を見たらなおさら安心感に包まれた。
「でも、せっかくだし、今日は軽く海で泳ぐだけにしよ」綾の言葉に僕は、どうにでもなれと腹をくくった。案の定プールとは違い、波がある海では、僕は変なクロールになってしまって「焦りすぎ」と彼女に笑われた。
駅までの帰り道、ゆっくりと僕らは話しながら帰った。次第に人嫌いの話題が底をつき、僕は静寂の中、海の中で優雅に泳ぐ彼女を頭に浮かべた。その映像は最新テレビよりも美しく鮮やかだった。
「それにしても、武内君カッコ悪かったね」何度も思い出していたのか、綾は節々に思い出して笑っていた。
「ちょっ、笑いすぎ」と僕は拗ねるようにいった。言葉とは裏腹に、言葉だけが語り合う術ではないのだなとまんざらでもなかった。こうやって、僕の不器用な部分がバレたり、綾が本当に海を好きなのだと知れる。好きな理由は暗い過去にあるとしても、僕としては共有できることがなにより嬉しかった。
僕はなにを思い出しているのだろう。隣の席の川島先生は、修学旅行の同伴で沖縄へ行っていた。
憂鬱に近づくとわかっていても、海が好きだった綾をいまでも思い出す。時が経てば失恋は癒えると数少ない知人は口を揃えていったが、「僕の場合でもか」と綾の話をすると途端に唸るのだった。性格が悪いと実感しながら、悲しみの捌け口として暴言を吐き続けた。夜な夜な酒に潰れた僕を慰めてくれた友人はもういない。そうして独りきりになると、かつて二人だった過去をたどるのだ。
仕事とは異なる綾の一面を少しずつ覚えていくなかで、すっかり冷え切っていた女性不信は跡形もなく溶けていた。
「それにしても、綾と出会えてよかった」
苦いビールをたらふく飲んだあと、ぼんやりと綾の方をみやる。「なによ急に」とまんざらでもなさそうに話を促す。言いたいことを知っていて何度も聞いてくれる優しさも、綾の可愛いところだ。
「綾と出会うまで、俺は女性を信じ切れなかった。ってか、怖かった…………でも、いまの俺が笑えているのは綾のおかけだ。ああああありがとっ」
何度もトライしているのに、いい慣れていない『愛してる』がどうしても言えない。せっかく酒の力を借りているのに、毎回同じところで照れてしまう。
「わたしも、ありがと」
そういうと彼女は、いつも優しく頬にキスをしてくれる。
綾は僕の恋人となり、週末には一緒にいることが当たり前になった。
四度目の夏が訪れ、僕は部署を三度も異動した。現場、品質管理、物流。失敗や希望の異動ではなかったが、その会社は無条件に部署移動させる。新入社員で入っても一、二年で辞めてしまう若者が多いこと。また、新しい後輩に指導する側に回ってもらうためだ。おかげで同期はみんな去り、僕と綾だけが残った。品質管理の彼女は、製品を計測することに飽きてしまい、いつもの辞めたい病を僕に愚痴っていた。
一週間弱の短い夏休み前、朝から綾は妙にニヤついていた。
「どうしたの」
「え、なにが」
「いや、顔がちょっと気持ち悪いから」
「なによそれ、ひっどーい」僕の冗談に綾は思いっきり背中を叩いた。
「いってーな、なにか良いことあったん?」
二、三度渋ってから、夏休みにダイビングを予約していることを話した。去年も一昨年もした恒例のやり取りを、その年も変わらずやっている。僕がツッコむと白けたように綾は不貞腐れる。それが僕にはどこか愛おしく感じた。
綾の勧めによって、三回のスキューバダイビングを経験した僕は、すっかり海の鮮やかさと静謐さの虜になっていた。
しかし、最後となった海の静けさは、僕から彼女を攫っていった。綾が予約したダイビングツアーの参加者は僕らを含め十九名に対し、ガイドは二人だけであった。僕は多いなと感じたものの、妙な胸騒ぎを夏休みという、高揚とした気分で紛らわした。
海中へ潜ると現実を忘れ、僕はフィンのおかげで魚になった気分でいた。いつもと多く行動するグループは群れのようで、すっかりと違和感などなくなっていた。
前を泳ぐ参加者に続きながら、スイスイと泳ぐ小魚を見下ろしたり、俯いたときにぼやけて見える海の底知れぬ深さに圧倒されていた。ふいに振り向くと、僕の後ろを泳いでいた綾がいなかった。気分が悪くなって、戻ったのかな。後ろに綾がいないと知り、トルコ石のような世界を共有できないことが僕を寂しくさせた。
どうして急に潜水を止めたのか。そして海の中の幻想を少しでも彼女と共有しようと潜水から戻ると、ボートに綾の姿はなかった。
「まだ戻ってきてないんですかっ」
「ええ、杉原さんは武内さんと同じグループでしたよね? では、そろそろ戻ってくると思うので、もうしばらく待ちましょう」
はあ……と初めは自分の気のせいかと思った。それでも一分待っても来ず、二分待っても来ず。次第にガイドの態度にイライラしはじめた。
「全然帰ってきませんが、ボンベの残量は大丈夫なんでしょうか」
僕の質問にガイド二人の目がソワソワし始める。そうして五分が過ぎようとした頃だろうか、まったく動かなかったガイドがようやく行動に出た。
「杉原さん、近くで迷っているかもしれないので、ボート付近を探してみます」
「いい加減にしろよ、早く探せよ。余っているボンベも貸せ、俺も行く!」怒りが爆発し、海の真ん中で僕の声が響き渡る。
ガイド二人と僕の三人で海中を探そうと潜る準備をしていると、ガイドの一人が再び僕に近づいてきた。
「余っているボンベですが、空気残量が残り僅かなので、僕だけで探してみます」
ふざけるな。僕は浅黒く焼けたガイドの顔を思い切り殴った。倒れこんだ彼に覆い被さろうとするところを参加者に取り押さえられてしまい、怒りの矛先が定まらず息だけが荒れた。
八月の海風は強く、濡れた髪から無情にも塩水が滴る。