第一章
いま動物愛護団体というものに協力しているというと、聞こえは良いが、そんなことはない。僕が彼にしてきたことに対するささやかな懺悔の気持ちだった。
初めて彼に出会ったとき、クリスマスプレゼントを渡されたときのようにはしゃいだ。小さく汚れたまま震える彼を見つけた夏休み、僕は声をあげて喜んだ。彼と一緒にいたい――そう心で誓った僕は、息を切らして団地の階段を駆け上がる。いつも文句を垂れながら買い物袋を運ぶときとは大違いで、足取りは軽く、気づいたら四階の玄関が見えていた。
「そんなのダメに決まってるじゃない!」
珍しく決心をした僕に、母は無情な言葉を投げかける。
確かに僕の家は金持ちでもなければ、仲の良い両親がいるわけじゃないし、姉弟の仲も悪い一般の家庭¬だろう。僕だって特別なにかに特化した才能もなければ、ずる賢さと諦めの良さを取れば、なにが残るのかわからない。
それにしても、母はなんて無情なのだろう。いくら僕の言葉を聞いても動じようとせず、テレビの前に置かれた炬燵テーブルに次々と朝ご飯を運んでいく。
彼を見ていないから、そんなことを言えるんだ――。
いままでソレ(・・)についてずっと喋っていたのに、ハッと彼を思い出した。フライパンを握る母の後ろ、戸棚の引き出しから小皿を取り出す。両手に小皿と冷やされた三分の一ほどの牛乳パックを持って、彼のもとへ向かった。
「おまたせ~」
人懐っこい小さな彼を鳥や猫のモノマネで引き寄せる。僕の声を覚えていた彼は、ようやく生い茂った草むらから顔を出し、震えた身体を温めてほしいと甘えてきた。
「目はクリクリとした青。お前、真っ白い毛なんだなあ」
牛乳を飲むペロペロと小さな舌を出しながら、ときどき「ニャア」と僕をみてカラカラ声で鳴く。合図をするたび、彼と会話しているような不思議な気持ちになり、汚れた身体を指で撫でていく。
朝ご飯を無視してしばらく帰ってこないから、母が階段から下りてきた。
「なにしてんの! ご飯作ったから、早く食べなさい。ただでさえ食べるのが遅いじゃない」
普段なら、怒られながら渋々食べるご飯。今日は母を無視しても、彼と一緒に家に帰る。
条件付き。ご飯とトイレと躾は自分ですること――。
最終的に母が折れ、彼と一緒に住むことになった。薄汚れた彼を家に入れるため、初めに湯桶に湯を溜めてお風呂に入れた。真夏の暑い中、ジトジトと汗だくになった僕は慣れない手つきで彼に石鹸を塗りたくって泡立てていく。枯れた声で抵抗する彼を愛おしく感じて、自然と微笑みが浮かぶ。
小さな彼を綺麗に仕上げ、真っ白な毛がサボテンみたくツンツンとなっている。それには母もうって変わり笑っていて、遊びに出かけたアネキも家に戻り、すぐ彼に釘づけになった。
「わー猫だっ。可愛い。ねっ、この子どうしたの?」
いつも自分の思い通りに弟が動かないと暴力に走るアネキが、僕が連れてきた彼に目を輝かせていてなんだか誇らしい気持ちになった。
「俺が連れてきたんだからな! そんなに触んなよ、嫌がってるじゃんか」
「母さん、この猫どこの? ウチで飼うの?」
聞こえているはずなのに、無視したことにムッときてアネキの手から彼を取り返そうとするが、四歳の年の差には勝てず力で圧倒されてしまう。そこからいつものように喧嘩が始まり彼を迎えた日は終わった。
遊ぶときはもちろん、寝るときもトイレ行くときだって彼は僕についてきた。いや、半分は僕が連れまわしていたといっていいだろう。どこかに行くとき、両手に彼を抱えて僕は移動していた。
ある日、昼寝から起きると彼の姿が見当たらなくて、最後の手段としてカリカリの入った瓶を振って「ご飯だよ」と誘いだしたほどだ。意地悪なことかもしれないが、彼に対して僕の異常なまでの独占欲が彼を包み込んでいた。普通の常識というか、麻痺しているというのか、いつから彼を家族として見ていなかったのだろう。
「小学生のときになにして遊んでいた?」
大人となったいま、誰かにそう聞かれたら、僕は答えに躓いてしまって、話を上手くすり替えるだろう。僕には彼しか遊び相手がいなかったのだ。
「ミーちゃんを離しなさい、嫌がってるじゃないの」
「そんなことない。ミーちゃん、なにも言ってないじゃん」
ミーちゃんという言葉が彼に与えられた名前だった。
僕の異常なまでの行動から、母と毎日のようにそんな会話をしていた。モフモフとした柔らかい毛並みを丸く包み、抱っこしていることが僕にとって普通だった。
普通という言葉は驚異的に僕を蝕み、過激にしていった。
動物の成長というのは異常なほど早く、夏休みに小さかったはずのミーちゃんは、その年の暮れには立派な大人の猫になっていた。毎回抱き上げるのに苦労していて、一度逃げられたら捕まえるのに時間を食った。
猫という生き物を僕はあまり知らなかったので、気ままに自由を愛すというか、たまに甘えてくるというか、そんな気分屋気質に混乱した。腕の中から足掻くように逃げ出して嫌われたのかと思うと、しばらくして身体を擦りつけにきたりする。時には爪を剥きだして威嚇しては、ものの十分足らずで咽を鳴らして目を細めている。
追いかけたり、まったりしたりしていると僕も彼のように気分屋が移っていった。
「じゃあ、後でな」と珍しく意気投合した友達と放課後に遊ぶ約束をしていても、家に帰って友達が家に迎えに来ると「ごめん、今日はいいや。明日遊ぼう」とドアを閉めることが何度かあった。とくに体調が悪いとか、親からお手伝いを頼まれたというわけじゃなく、本当に気持ちがなくなったのだ。
そんなことをしていると、せっかく気の合った友達と呼べる奴も僕を誘わなくなった。当然ながら、人は猫になれないのだが、当時の僕は問題視していなかった。
「今日から明日へ変わっただけじゃん。一日二日で気が変わる奴は、遊ぶ気なんか元々ないんだ」
そうやって僕は問題の根元を見ようとせず、楽観的にいつもの日常を繰り返していた。
二週間ほど前、ある家庭に一匹の薄い茶色の入った三毛猫を届けにいった。
動物愛護会員の役目といっても大袈裟だが、週末の合間に手伝うくらいで、四六時中猫の世話はしていない。引き取り手が決まった猫を新しい家族の元へと届けてあげるのだ。
その家庭の奥さんは、以前行われたJA共済センターの譲渡会にも参加していて、笑顔の優しそうな少しぽっちゃりとした人だった。ケージに入った怯えて蹲っている猫を我が子のように微笑みながら声をかけていて、ほんわかとしたのを覚えている。
僕は人見知りがちで、すぐ人と会話ができない質だが、その人だと分かると会話がスムーズに運んだ。普通なら懐疑的になって、この子を大事にするのだろうか、と思いながら機械的にマニュアルを読みあげ、書類にサインを貰って帰るだけだ。
「この前の譲渡会ではとても悩みました。どの子も可愛くて育てたかったけど、そういうわけにはいかないから」
申し訳なさそうにいった奥さんからは、優しさが滲み出ていた。
「いえいえ、こうしてこの子が田中さんに引き取って可愛がってもらえるだけでも、私達の活動の意味や、田中さんとこの子にも幸せが訪れるのでありがたいです」
「そうかしら……他の子には少し悪いけど、この子にはウチのムードメーカーになってもらわなきゃね」
ウチがもっと経済的に余裕があれば、と苦笑いしながら旦那さんの話や子供たちのわんぱくエピソードに楽しく聞き入っていると、あっという間に一時間を超えて冬の空は暗みはじめていた。
「それでは僕はそろそろお邪魔します」と帰ろうとすると、田中さんは玄関まで見送ってくれた。
「待って待って、甘いのが嫌いじゃなかったら、コレ持ってって」
旦那さんが三日ほど前、出張からのお土産として白い恋人を買ってきたそうだ。そこからまた、旦那さんが出張先にいる間は楽だったと和やかなときが流れそうだったので、一言断りをいれてドアを開けると、そこに汗だくで頬を赤らめた少年が立っていた。
「うわっ、おっさんだれ?」
「こら、人様に向かってなんてこと言うんだい! お兄さんでしょ、お、に、い、さん! ごめんなさい、この子バカなもんで」
苦笑いする田中さんと、叱られてバツが悪そうな少年はどこか羨ましく、先ほど聞いた通りの親子だった。
玄関から見送られたあと、どこからか漏れた少年のはしゃいだ声が僕の遠い記憶を掠めて、温もった感情は蹲りたくなるような冬の外気に消えていった。
あの子は、僕と同じ過ちをしませんように。
心の中でそう唱えながら、あのわんぱくそうな少年と怯えていた三毛猫の目を交互に思い出す。
僕の中でミーちゃんが手に余るようになって、彼が反抗してくると近寄りがたくなった。怒っているときに近づいたり、無理に触ろうとすると見事な右フックを食らってしまうのだ。彼の成長にともない、僕は身体に傷をよく作った。
そんなある日、転機が訪れた。
母が週末に掃除機をかけていると、彼は猛ダッシュで掃除機とは反対へ駆けていくのだ。また、母がしばらくして移動すると彼も母から遠ざかるのだ。テレビを観ていた僕は、その光景をはじめはなにも思わなかったが、彼と母を見ていると彼の弱点を見つけてしまったのである。
「母さん、それ貸して」
掃除機の先端部を外し、吸込み口を彼に近づけると「シャー!」と威嚇しお馴染みの猫パンチをした。後ずさりする彼をみて、僕は彼への対抗手段を見つけたのだ。
それからというもの、彼が反抗するときには必ずといっていいほど、武器として掃除機のヘッドを持っていた。
彼の威嚇し怯える姿に、僕の身体にできた傷への不満も解消されていった。彼の様子も様々でシャーと威嚇したり、ウーと唸ったりして目は血走っていた。耳を後ろに折り曲げ、時には仁王立ちして両手から猫パンチすることもあった。
「ほれほれほれ、反抗すると許さないからな!」
彼に対しての家族という認識は薄れてしまっていた。彼の世話は僕がする、と豪語したあの夏をとうに忘れ、トイレやご飯の世話は母に代わっていた。彼の後片付けはしないものの、「躾」として彼を掃除機のノズル片手に追いかけ回すことが日課となった。
ある日のこと、いつものように彼を抱っこしようと手を伸ばすと、彼が思いきり左足に噛みついて逃げていった。歯形と引っ掻いた爪痕に血がジワリと滲む。しばらく左足を抱えのたうち回った僕は躾として、例のノズルを手に彼を探しだす。
「あんにゃろう、どこ行った!」
脈打つごとにジンジンと痛む左足は、時間が経つごとに怒りも増幅させていった。
家ではいつも彼が外に出られるように玄関ドアを半開きにしていたので、家中を探した僕は外に逃げたのだと悟った。彼は外へ出るとしばらくは帰ってこないが、どんなに遅くなっても必ず帰ってくる。飼い始めた当初は、帰ってくるのかヒヤヒヤしたが、そのときにはそういうもんだと気にも留めなかった。いまでは飼い主を見つける手伝いをしている身となって、それが帰巣本能という動物由来の能力だと知った。
本来なら追うのを諦めて、怒りを忘れてしまえば良かったのだと何度悔やんだことだろう。僕は彼をとことん追い詰めてしまったのだ。使い古したサンダルを急いで履き、階段を駆け下りる。まだ遠くへは行っていないはず、と執着心と悪魔に支配された感情で僕は一階へ着くと、遠くに小さな白い物体が動いているのが見えた。
思いっきり行って、脅かしてやる。
彼に向って駆けていき、彼の弱点を突き付ける。僕に気づいた彼は、ソレを恐れて反対側の道路へと逃げていく。
すり減らしたタイヤが止まる音と、肉をすり潰した音とともに彼は僕の視界から消えた。
無残な姿でピクリとも動かない彼は、真っ白な自慢の毛を血で染めていた。それは僕が見た彼の最後だった。
気づくと僕は救急車に乗っていた。後から知ったが、失神して倒れたのだそうだ。やけに瞼が重くて目が開けづらい。洗顔仕立てのように頬が張り付いていて、妙に気持ち悪い。失神する前の記憶はよく覚えていないが、さっきの出来事は悪夢だったのだと安堵していると、珍しく母が顔を覆って泣いていた。
「ミーちゃんが、トラックに轢かれた」
母の言葉は僕の見ていた悪夢が、実際の出来事だと奈落の底に突き落とした。僕が失神した理由も、瞼が重く頬が張り付いているのも、自分が起こした罪に対してのせめてもの防衛本能だったのだろう。泣いている記憶や歩道で倒れたことも覚えていない僕は、いままでにした全てを悪夢として帳消しにしようとしていたのだ。
ある晩、とても悲しい夢をみた。胸が苦しくなるくらい息を切らしながら階段を駆け上がる。駆け上がった先のドアを開き、リビングで立ち止まると肩で息をしながら、心音が大きく跳ねているのがわかる。
ケンタ、誕生日おめでとう、あんたに会いたいって友達が来てるよ――。
リビングのテーブルはチキンやエビフライ、うずらのゆで卵が入ったオードブルに寿司のパック詰め。こたつテーブルには年季の入った布団と敷き布団がセットされていて、一日早いのに華奢なクリスマスツリーがベランダ側にスタンバイしていた。ここまでだとお馴染みの誕生日だ。その先は好きなものを食べて、大好きなチーズケーキを頬張り、欲しがっていたプレゼントを貰う。しかし、夢はまた違っていた。
「ケンタ、誕生日おめでとう、あんたに会いたいって友達が来てるよ」普段は喧嘩ばっかで、俺に笑顔を見せないアネキが穏やかな顔だった。
帰ってきたとわかったのか、こたつの中からミーちゃんが身体中を黒くしたまま出てきた。足をカクカクさせて引きずらせ、出会った日のように真っ白な毛を汚して、ゆっくり近づいてきた。
「ケンちゃん、ただいま。会いたかったよ、ケンちゃん」
彼は青い目で僕を見つめていった。いや、正確には口も動いていないし喋っていないのだけれど、彼は心に直接話してきたのだと思う。
会いたかったよ、ケンちゃん。その夢を見た夜、彼が本当に僕の中で死んだのだと、朝日が昇るまで泣いた。