帰る世界へ
かえして、というマリの悲鳴は世界中を揺るがした。何の比喩でもなく、揺るがした。つまり、地震が起きた。
繋がったはずの大陸と島がひび割れ、切り離され、離れていく。凄まじい轟音。ひび割れたところにいた人間はあっという間もなく、飲み込まれ、地面の中、海水の入ってこないうちに、深く深くへと落ちていった。
陸地と陸地が泣き別れするほどの揺れに人間が耐えられるはずもなく、戦争をしていた外国人たちの砦は滅茶苦茶になり、逃げることもままならないまま、死んだ者は何人もいた。ただ、戦争で荒廃していたため、大きな建物がなく、誰かが下敷きになるようなことがなかったのは不幸中の幸いだろうか。それでも、拠点は崩れたし、兵士たちの寝床だったテントは引きちぎれ、無惨な姿となった。
ひび割れ、ゆらりゆらりと離れていく向こうの陸を眺めていると、今度はものすごく大きな黒い影が人々を襲う。それはどんな生き物よりも恐ろしい怪物だった。人間に限らず、動物も植物も知っている怪物。それを人は「海」と呼ぶ。
それはひび割れごと世界を抱きしめるように降り注ぎ、飲み込み、連れ去った。何度も何度も、誰も望まない愛を塗りたくる。
大地が何度も震動して、別れを惜しむようにゆっくりと、海水を受け入れていく。ゆっくりと、大陸と島国が分断されていく。
赤い花が、塩水に晒された後にいくつも散らばっていた。アマリリスの花。マリの声に呼応して咲いた魔法花が、散っている。死体のように。……あるいは、死体だったのかもしれない。
何が起こったのか、人々は理解できなかった。わかったのは、人智を越えた出来事が起こったということだけ。
日本大震災よりも恐ろしいことが、まだ起こる可能性を秘めている、と知っただけだ。それがまさか一人の少女によって成されたことだなんて、誰も知る由はなかった。
何故なら、マリの近くにいた人間たちは、マリ以外全員、死んでしまったから。マリ以外を守らなかったのだ。ナギは。ナギの亡骸は。
「あ、ああ、ナギ……!」
柳魔法は自然災害の被害緩和の効果を持つ。地震も津波も、自然災害であり、柳魔法の効果対象であった。故に、ナギの体だったものにすがっていたマリは、柳魔法に守られて、傷一つつかず、水に濡れることもなく、存在していた。
マリの周りには、赤い花と、柳の木の残骸だけがあった。人間は赤い花をその皮膚から大量に咲かせて、命を閉ざしていた。あるいは、崩れた瓦礫の下敷きになりながら、赤い花びらを散らせていた。
ナギの周辺の壁や床は木の根が這い、崩壊を免れていた。だが、それはマリを守るための最後の精一杯の抵抗だったのだろう。ナギの体だったものは大きく穴を穿たれ、脆く、ぼろぼろと崩れていく。先の地震の余震でほろほろと崩れて、床の上で土くれのようにほどけていく。
マリはそれを絶望しながら眺め、もはやナギですらないそれをナギと呼びながら抱きしめた。けれど、力を入れれば入れるほど、柳の木は崩壊を進め、形をなくしていく。
潮風が、マリの皮膚を凪いでいく。マリの目からはほろほろと涙が零れていき、もう誰のものでもない名前が繰り返されるばかり。
「ナギ、ナギ、ナギ……」
嫌だ、いなくならないで。わたしを置いて逝かないで。
そんな叶わない願いばかりをマリは唱えた。それがこの世界に、人間にとっての災いばかりをもたらしているとは夢にも思っていなかった。
アマリリス魔法は言霊の具現。人間以外の世界という概念に呼び掛ける力。マリの魔法発現時、マリの体に魔法花が咲き誇ったのは、マリと世界という概念が赤い花を通して繋がったからだ。だからマリは、世界を通して、人に魔法花を咲かせることができる。魔法花を咲かせた人を仲介すれば、世界のどこにでも、魔法を届けられる。
人間と言葉が通じないのは、マリを守るための措置だった。こんな危険な、半ばロストと変わらない魔法であることが知れたら、人間はマリを殺すだろうから、人間が理解できないものにするため、マリが喋る言語の概念を書き換えた。
魔法、というのは病気である。病気とは、科学的に説明できるものであることが多い。だが、説明のできない病気はたくさんあり、名前のつけられていない病気だってあるだろう。そして魔法はその域を大きく上回る「科学的に説明のしようがない」「人体に害のある」ものだった。
いつか、マリの体は赤い花に乗っ取られ、花の養分とされるだろう。だが、その速度は遅い。それはナギの肉体を摂取したからでもあり、アマリリス魔法の特徴でもあった。アマリリス魔法は最初こそ派手に発症者の体に魔法花を咲かせるものの、それはアマリリスの魔法使いであることを示す印でしかなく、マリの体を蝕まない。
アマリリス魔法が蝕むのは、他の人間の体だ。
世界は人間を世界にとっての害悪とし、世界が生き延びるために、人間の体を植物に作り替えようと、魔法という病気をもたらした。だから、アマリリス魔法は必要だった。魔法なしで人間を植物に作り替える魔法として。
人間は愚かだから、世界は人間を見放そうとしたのだ。人間は人知れず、世界に見放されたのだ。
けれど、人間が憎かったわけじゃない。人間の幸福を奪いたかったわけじゃない。人間に魔法という種子を植え付けて、花開かせようとしたくらいには、人間の幸せを願っていた。人間の愚かしさに気づいてほしかったのだ。自分の力で。悔い改めてほしかった、それだけなのだ。
けれど、人間はありもしない境目のために戦争を始め、世界を汚そうとした。だから、世界はアマリリスを開花させた。
それにマリが選ばれたのは、理由があるかもしれないし、ないかもしれない。世界の「大いなる意思」とやらがあったとして、マリを選んだ理由を話すかはわからない。
ただ、起こったのは、マリにとって不幸なことだった。
マリにだって、幸せになってほしかったはずなのに。
そんな大災害が、現代に伝わっていないのはおかしいだろう、と杉原は思ったが、同時に、伝わっていなくてよかった、と安堵もする。
その規模の災害が魔法使いによって引き起こされたものだと知れれば、魔法発症者は可哀想な罹患者ではなく、人間の脅威として排除されることになるだろう。
『私と世界はもうすぐ一つになります』
「え?」
マリの言葉に杉原の思考が凍りつく。
マリと世界が一つになるということは、マリの意思が世界の意思となり……全人類を植物にする、ということに繋がるのではないだろうか。
『奇しくも、紅葉寺家の動きによって、魔法の正体、世界の目的は秘匿状態にあります。無理もありません。紅葉寺家の者は魔法にかかりやすいけれど、世界の真意には決して触れられない一族と定められているのですから』
「定められ……?」
『ふふ』
マリの微笑みは柔らかいものであるはずなのに、そのときの杉原はぞっと皮膚が粟立つのを感じた。不気味なような、マリの背後にある「世界」と呼ばれる大いなる何かの一端が垣間見えたような、恐ろしさ。
『杉の子よ、始まったのです。あなたと桜の少女の因果が結ばれたことで、私は新たな世界へと……ナギのいるところへと、旅立てる』




