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隆俊から電話があって、週末会う約束をキャンセルされたのは、金曜の夜だった。なんでも急な仕事の予定が入って、東京に出張できたあと、すぐに名古屋に帰らなくてはならなくなったらしい。仕事だから仕方がないのだけれど、でも、隆俊と会うことを楽しみにしていたわたしにとって、それは残酷な裏切りのように感じられた。
隆俊は今度埋め合わせに何か買ってやるよと言っていたけれど、わたしはそんなものよりも、どうかにしてわたしと会う時間を、たとえ一時間でもいいから作れないのだろうかと不満に思った。こんなことを思うのは情けないのかもしれないけれど、高島さんの一件以来、わたしは誰かに慰めてもらいたいと思っていたのだ。無条件に誰かの強い愛情に包まれたいと思っていた。子供が母親の愛情を求めるときのような、渇望があった。それなのに、どうして、と、隆俊に会えないことが、大袈裟に哀しく感じられた。
でも、いくら隆俊に会えないことを嘆いても仕方がないので、隆俊と会えなくなったことで空いた週末の時間を、わたしはアパート探しに宛てることにした。
三鷹にある実家から電車に乗って、中野まで行き、そこで目に付いた不動産会社に入る。アパートを探しに不動産会社を訪れるのははじめての経験なので、傍目に見たら挙動不審なひとに思われてしまうんじゃないかと心配になるくらい緊張してしまった。
担当の男のひとが条件を提示してくれと言うので、わたしが理想としているよりもちょっと低いかなというあたりの条件を提示すると、担当の男のひとはすぐに分厚いファイルを開いて、そのなかからいくつかわたしが提示した条件に近い物件を紹介してくれた。
物件はどれも悪くはなかったのだけれど、考えていたよりもちょっと家賃が高いのが気にかかった。できれば家賃は七万円台に押さえたいと思っていたのだ。けれど、提示した条件をクリアする物件はどれも最低八万はした。希望通りの部屋となると、九万円代になってしまう。
わたしが迷っていると、担当のひとがとりあえず観にいくだけでも観に行ってみませんかと誘ってきた。わたしはそうですねと言って、彼の運転する車に乗って、中野の近辺にあるそのいくつかの物件を観にいくことにした。
わたしの担当になった男のひとは太っていて、メガネをかけていた。彼は車を運転している最中、わたしに気を使ってくれているのか、しきりに話かけてくれるのだけれど、自分でつまらない冗談を言って自分で笑うのが少し気になった。笑い方に癖があるのだ。これはわたしの偏見なのかしもれなかったけれど、その低くひきつった笑い声はまるで変質者の笑い声のように、わたしには気味が悪く感じられた。
それから彼は冬だというのによく汗をかいた。白のワイシャツが汗で濡れてそのしたにある素肌が透けて見えるくらいだった。顔には玉のような汗が浮き、信号で車がとまるたびに、彼はその汗をハンカチで拭った。わたしはそのハンカチを見ているうちに、自分がそのハンカチになって、彼の汗をふき取られるところを想像してしまって、少し気分が悪くなった。
彼に連れられていったアパートは、事務所で間取りを見せてもらったときに想像していたものとは大きくイメージが違っていた。ヘイベー数が小さくて八畳と記されてあっても、実際には六畳よりもちょっと広いかなというくらいの広さしかなかったり、あるいは広さがあっても収納がなかったりした。
全部で五つの物件を見せてもらったのだけれど、結局納得できるようなアパートは見つからなかった。
ひとつだけ、他の物件に比べると、まだまともに感じられる物件があったことはあったのだけれど、駅から離れ過ぎていて、決め切れなかった。
わたしが躊躇していると、担当の男のひとはこの物件は人気があるから手付け金を払ってでも押さえておいたほうがいいですよとアドバイスしてくれた。
けれど、わたしはとてもそんな気にはなれなかった。手付け金はもしそのアパートに決めなかった場合は返してもらえるということだったけれど、わたしは後日、またこの男のひとに会わなければならないのかと思うと、ちょっとうんざりした気持ちになった。
気のせいか、わたしが部屋を見ているあいだ、身体をじろじろと見られている気がして、すごく嫌だったのだ。
再び彼の運転する車に乗って店まで戻り、また考えてから来ますと返事を濁して店を出たときには、もうぐったりと疲れきってしまっていた。
冬の気の早い太陽はさっさその身体を建物のあいだに隠しはじめていて、その淡い闇が広がりはじめた街のなかで、今日という一日が、わたしを無視して通り過ぎていってしまうような、虚無感にも似た徒労をわたしは感じた。
10
その日、家に帰りついたわたしは、特にやりたいことも思いつかなかったので、このところ忙しくて手にとっていなかった小説の続きを読むことにした。
以前読んだのは、主人公の女の人が喫茶店で不倫相手を待っているうちに、ふと、弟のことを思い出すところまでだった。
やがて、彼女のテーブルに注文したコーヒーが運ばれてくる。彼女はそのコーヒーに砂糖をほんの少しだけ加えて、一口口に含む。それから彼女はまた弟のことを考える。
主人公の女の人には弟に対して、ひとつ、ずっと謝りたいと思っていることがあった。それは彼女の弟が家を飛び出していく少し前に、彼女が弟に向かって口にした科白だった。
彼女の弟が、自分の絵について、才能について、どう思かと尋ねたときに、彼女はこう言ってしまったのだ。もう少し現実的にものを考えるべきなんじゃないのか、と。確かにお父さんの言うように絵で結果を出すことはすごく難しいことだし、とりあえずいまはお父さんの言うことを聞いて、大学に行き、会社をついで、絵は、趣味として続けていけばいいんじゃないのか、と。
でも、それは弟が彼女に対してもとめていた言葉ではなかった。弟は彼女にだけは味方でいてもらいたいと思っていたのだ。弟は、姉である彼女だけは自分の味方でいてくれると信じていたのだ。でも、そうとわかっていながら、彼女はそのとき、無難な返事をしてしまった。彼の味方をしてあげなかった。
彼女が弟に向かって返事を返したとき、弟が寂しそうな顔をしてそうだよねと頷いたことが、彼女はずっと忘れられなかった。彼女はずっと謝りたいと思っていた。少なくとも自分は弟の描く絵が好きだと思っていることを、弟にどうにかして伝えたいと思っていた。でも、彼女がいくらそう思っても、彼女は弟が今どこでどうしているのか、全く知らなかった。
彼女が喫茶店の壁に飾られた絵画を見つめながらそんな回想に耽っていると、そのうちに、彼女の不倫相手である男性がやってくる。彼は、彼女がどこか寂しそうな表情を浮かべているのを目にして、「どうかしたの?」と、怪訝そうに尋ねてくる。彼女は彼の問いに短く首を振って、「なんでもないの」と、短く答える。「ちょっと昔のことを思い出してただけ」
わたしがそこまで物語を読み進めたところで、ケータイの着信音が鳴った。隆俊から電話がかかってきたのかと思ったけれど、ケータイのディスプレイに表所されている名前は隆俊ではなくて、由香子の名前だった。
「わかる?」
由香子はわたしが電話に出ると言った。
「うん、わかるよ。だって着信でてるし」
「そうだよね」
と、由香子は苦笑するように微笑して頷いた。
「どうしたの?」
と、わたしは用件を尋ねてみた。
「由香子が電話してくるなんて珍しいよね?」
そう言ったわたしの言葉に、由香子は、
「うん、まあ、ちょっとね」
と、返事を濁した。
「なにかあったの?」
と、わたしが尋ねてみると、由香子は逡巡するように少し間をあけてから、
「わたし、彼氏と別れるかも」
と、唐突に告げた。
「えっ、どうして?」
と、わたしが驚いて尋ねると、
「さっきちょっと喧嘩しちゃってさぁ」
と、由香子は少し無理に明るい口調を装って答えた。
「そうなんだ」
と、わたしは上手いコメントが思いつかなくてただ相槌を打った。
「・・・それで変に気が高ぶっちゃって、誰かと話したくて」
「そういうことってあるよね」
と、わたしは彼女をなぐさめるようにできるだけ優しい声で言った。
いくらかの沈黙があって、家の外の通りを走りすぎていく車の音が遠くに聞こえた。
「ほんとに別れちゃうの?」
と、わたしは由香子が黙ったままでいるので尋ねてみた。わたしの問に、由香子はわからないと答えた。少し弱い声だった。
「何が原因で喧嘩になったの?」
と、わたしは軽く迷ってから尋ねてみた。すると、由香子は躊躇うように僅かに間をあけてから話はじめた。