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自分の部屋でネットを見ていると、また下の階で父親と兄が言い争う声が聞こえてきた。
ふたりが言い争う声を聞きながら、ふとわたしが思い出したのは、今日テレビで観た殺人事件のことだった。
三十六歳の無職の男性が父親をバットで殴り殺したという話。なんでもその三十六歳の男のひとは、就職しろとうるさい父親のことが憎かったらしい。そのうちに兄も勢い余って、ニュースのなかの男のひとと同じことをしてしまうんじゃないかと恐ろしくなる。まさかとかは思うけれど、でも、もしかしたら。
とにかく、父親と兄の口論を聞いていると、なんだかこっちまで暗い気持ちになってくる。息のつまるような、ひりひりとした、緊張感があって、家にいても気が休まらない。改めて、早く家を出ようとわたしは思う。
いまわたしがネットで見ているのは、不動産会社のホームページだ。賃貸の情報がずらりと並んでいる。物件は数あるものの、家賃がある程度安くて、なおかつ交通の便が良くて、駅が近いところとなると、どうしても選択肢は限られてくる。
ほんとうはドラマのなかで主人公が住んでいるようなオシャレで広い部屋に住みたいのだけれど。でも、わたしのいまの給料ではとても無理だ。いや、かなり無理をすれば住めなくはないのかもしれないけれど、でも、住む場所に月々十万以上かけるのはどう考えてももったいない。
いまざっとネットを見ていてわたしがいいなぁと感じた物件は、中野にある1kの物件だった。部屋も8.5畳とわりと広めで、お風呂とトイレもセパレートになっている。オートロックだし、女のわたしでもこれなら安心だ。駅から徒歩五分で、家賃は八万四千円。ちょっと予算オーバーだけれど、でも、立地条件を考えると、これくらいは仕方がないのかもしれない。
今週の休みにでも観に行ってもようかなとわたしは思った。はじめての一人暮らしを想像すると、それまで沈みがちだった気持ちが、少しだけ華やいだ。一人暮らしをはじめれば、隆俊もこれからは自由に遊びに来られるようになるだろう。
そういえば、今週は隆俊が東京に来るのだ。隆俊にわたしが一人暮らしをすることを話したら、彼はどんな反応をするだろうか。早く隆俊に会いたいと、今週の週末が待ち遠しくなった。
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「だから、ちょっと待ってって言ったじゃん!」
気がついたとき、わたしはつい声を荒げてしまっていた。
「なんで勝手にはじめるの?」
会社の後輩の高島さんが、わたしが他の作業を終えて戻ってくるまではじめないでと指示をだしておいた作業を、わたしが戻ってくるのを待たないで勝手にはじめてしまったのだ。
わたしの注意に、高島さんは特に謝るでもなく、困ったような表情を浮かべてただ「ああ」と曖昧な返事をしただけだった。そのリアクションに、またわたしは苛立しい気持ちになる。なんですいませんの一言も言えないのだろう。
だけど、わたしもわたしで大人気ないかもしれないな、と、一方で思ったりする。わたしもいつもならこれくらいのことで声を荒げたりはしないのだけれど。でも、今回は自分を抑えることができなかった。
わたしがどれだけフレンドリーに接しようとしても、彼女がそれに応えてくれないことに対して、自分でも知らないうちにかなりフラストレーションが溜まってしまっていたみたいだった。わたしが一体彼女に何をしたというだろう?なぜそんなによそよそしい受け答えしかできないのだろう。そんな普段の気持ちの積み重ねが、わたしをつい強い口調にさせた。
しばらくの沈黙のあと、わたしは軽くため息をついてから、何故ひとりで作業をはじめてはいけないのかを彼女に説明した。わたしの説明に彼女は不満そうにただはいと頷いただけだった。
それから気まずい時間が続いた。わたしも高島さんに話しかけなかったし、高島さんも話しかけてこなかった。
勤務時間が終わったあと、さっきはちょっと言い過ぎたかなと反省したわたしは、特にどうしても知りたいわけではなかったのだけれど、今日はこのあとは真っ直ぐ家に帰るの?と高島さんに話しかけてみた。
わたしは高島さんと和解したかったのだ。少し彼女と会話を交わすことで、さっきわたしが叱責したことでできた気まずい関係を改善したかった。このあとも一緒に働くことになるのだから、お互いに気詰まりな思いを抱えたままでいるのは避けたかった。
でも、高島さんから帰ってきた返事は「はい」の一言だけだった。そのあとすぐに高島さんは「お疲れさまです」と無表情に言って、更衣室に行ってしまった。わたしの彼女への気遣いや、配慮はまったく彼女には届かなかったようだった。
わたしは更衣室に向かって歩いていく高島さんの後姿をぼんやりと見送った。高島さんの姿が見えなくなると、わたしは何かを押し込めるように強く瞼を閉じた。高島さんに対する強い感情がこみ上げてきた。それは怒りというよりは、哀しみに近い感情だった。
自分の好意があっけなく踏みにじられてしまったような、傷ついた、寂しい気持が、痛みを伴って心にじんわりと広がっていった。そしてそれはいつまでも消えなかった。どんなときもそれはそこに在って、じわじわとわたしの心を内側から傷つけていった。