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「お待たせ」
わたしがそこまで読み進めたところで声がした。
ふと顔を上げてみると、いつからそこに居たのか、目の前には由香子がプラスチックの容器に入ったアイスコーヒーを持って笑顔で立っていた。
わたしは彼女の姿を認めると、読んでいた本を閉じて鞄のなかにしまった。由香子はわたしと向かい合わせの席に腰を下ろすと、遅れてごめん、と、謝った。わたしは微笑んで首を振った。
「電車が遅れたんなら仕方ないよ」
「なに読んでたの?」
由香子はアイスコーヒーにガムシロップとミルクを入れてストローで軽くかき混ぜると、ふと思いついたように尋ねてきた。
「ちょっと小説を読んでたの」
と、わたしは答えた。
「誰の小説?」
と、由香子はわたしの返事に興味を惹かれた様子で尋ねてきた。由香子は本を読むのが好きで、わたしの知らない、昔の、難しそうな小説もよく読んでいた。
わたしがさっきまで読んでいた本のタイトルと作家の名前を告げると、由香子は聞いたことがないと首を傾げた。
「どんな話?」
と、由香子は続けて尋ねてきた。
「うーん。どんな話だろう」
わたしは苦笑して答えた。
「とりあえず暗い話かな。まだ最後まで読んでないからわからないけど」
「そっか」
と、由香子は納得したように頷くと、ストローでアイスコーヒーを一口啜った。そして社交辞令のようにまた読み終わったら貸してよと笑顔で言った。わたしはもちろんいいよと微笑して答えた。
それからわたしたちはなんでもない世間話をした。天気の話や、最近観た映画の感想、今話題になっている芸能人の話。共通の知人のだれそれが今どこでなにをしているといった話。
「だけど、社会人になってからほんと時間なくなったよね」
と、一通り話題が尽きたところで、由香子が苦笑するように微笑して言った。
「由香子は仕事忙しそうだもんね」
と、わたしが相槌を打つと、由香子は、
「それもあるけど・・・なんだか大人になるって大変だなぁって最近思って」
由香子はわたしの言葉に笑ってため息まじりに言った。
「なにかあったの?」
と、わたしが微笑んでからかうように尋ねると、由香子は微苦笑して軽く首を振った。そして、由香子は、
「ただなんとなく」
と、続けた。
「子供のときってさ、今みたいに色々面倒臭いことって考えなくて良かったじゃん?仕事のこととか、将来のこととか、色々・・・。
もちろん、大人になって良かったって思うこともあるけど。たとえばいまは自分の好きなようにお金使えるし、どこにでも行けるし・・・
でも、なんか最近たまになんだか大変だなって思うときが多くて。何が大変なのかって訊かれると、自分でも上手く説明できないんだけどね」
由香子はそこまで言葉を続けると、思い出したようにストローでアイスコーヒーを飲んだ。わたしもつられるようにもう残り僅かになったアイスのカフェラテを飲んだ。
「でも、確かにそういう部分ってあるかもね」
と、わたしは少し間隔をあけてから由香子に共感して言った。
由香子はアイスコーヒーのうえに落としていた眼差しをあげて、わたしの顔を見た。
「歳をとればとれるほど、だんだん人生が複雑になっていく気がする」
「たとえば?」
「たとえぱ?」
わたしは由香子の振り苦笑して考えた。
「そう訊かれると困っちゃうけど、でも、そうだな、子供のときはもっと色んな物事がシンプルだった気がする。上手く言えないけど、遊びなら、遊びで、その瞬間を全力で楽しめてた気がする。
でも、いまは昔みたいにいまっていう瞬間を楽しめなくなった気がする。
たとえばわたしはこうして由香子と一緒にお茶してるけど、でも、頭のどこかで明日の仕事のことを考えてる自分がいるし・・・それに他にも、たとえば好きなひとと一緒に時間を過ごしてたとして、昔はただ純粋にそのひとのことが好きだっていうだけで良かったのに、いまはついつい結婚とか、結婚じゃなくても、これから先のこととかを気にしちゃう自分がいる。
恋愛に変な計算みたいなものが入り込んできてて、自分でも嫌だなって思う」
「そっか」
由香子はわたしの言葉に相槌を打つと、数秒間何かに思いを巡らせている様子でいたけれど、やがて、
「でも、確かにそういうことってあるかもね」
と、何か考え込むような顔つきで頷いた。
わたしが黙っていると、
「わたし、大学のときから付き合ってる彼氏がいるけど」
と、由香子は話はじめた。
「わたしの彼氏、今バンドやってるんだけど、だから、全然就職する気とかなくて。好きなことをやるのはいいことだと思うけど、でも、いまのままじゃ結婚とかは無理だなって思って。
不安定だし、収入的な問題もあるし。でも、そういうふうに考えだすと、わたしは彼と利害の関係でつきあってるみたいで、嫌になる。昔はもっとシンプルに、彼のことが好きだっていう気持ちだけでいられたのに」
「でも、まあ、結婚するとなると、どうしても経済的な問題は気になっちゃうよね」
と、私はなぐさめるでもなく微笑して言った。
「そうなんだけどね」
と、由香子はわたしの言葉に浮かない表情で頷くと、アイスコーヒーを飲んだ。それから、苦いというように少し顔をしかめた。
「でも、まあ、それはともかくとして。良美の言ってることはよくわかる気がする」
と、由香子はテーブルに頬杖をつくと、憂鬱そうな表情で言った。
「大人になると、色々面倒臭い現実の問題が増えてくるよね。結婚とかもそうだけど、他にも色々。会社での人間関係とか、付き合いとか、将来のこととか・・・ほんとに箱をあけてもあけてもまだまだ次の箱があるみたいな感じ」
わたしはそう言ったときの由香子のブスっとした表情が可笑しくて、思わず小さく噴出してしまったけれど、
「でも、そうかもね。昔みたいに純粋に自分の気持ちだけじゃ行動できなくなってきたかも。好むと好まざるとかかわらず、色々さきのことを考えて、これはこうだからこうしておかなくちゃって、計算ばかりしてる気がする」
と、わたしは改めて由香子に共感して言った。
「だけど、結局、それが大人になるっていうことなのかも」
わたしは少ししてから半ば自分に言い聞かせるように付け足して言った。
由香子はそう言ったわたしの科白にしばらくのあいだ黙って何か考え込んでいる様子でいたけれど、やがて、
「大人になるかぁ」
と、小さな声でポツリと言った。
「でも、それだと、大人なるって、ちょっとずつ不幸になっていくことのような気がするね」
と、由香子は続けて言った。
「ちょっとずつ身動きが取れなくなって、最後にはその場所から一歩も動けなくなるみたいな感じ」
わたしは由香子が口にした科白にどう答えたらいいのかわからなかったので黙っていた。
「もし、それが大人なるっていうことだとしたら、寂しいね」
と、由香子はわたしが黙っていると、呟くような声で言った。
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