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待ち合わせ場所のセルフサービスのカフェに入って、アイスのカフェラテを買い、適当に空いている席を見つけて腰を下ろす。すると、ほぼ同時に、ケータイの着信音が鳴った。   


鞄のなかからケータイの取り出してみると、由香子からメールが届いていた。なんでもいま電車が遅れていて、待ち合わせの時間よりも少し遅れるらしい。わたしは了解のあとに笑顔の絵文字を付け足して由香子にメールを返した。


中央線はなんだかいつも電車が遅れているイメージがある。由香子は少し遅れるとメールしてきていたけれど、でも、一体どれくらい遅れるのだろう。少なくとも三十分は遅れそうだな。でも、まあ、電車が遅れているのなら仕方がない。べつに彼女が悪いわけじゃないのだから。


こうして由香子に会うのは久しぶりのことだった。この前わたしが彼女に電話したときに、今度の土曜日に久しぶり会おうという話なったのだ。確か彼女に最後に会ったのは夏だから、もうかれこれ三ヶ月近くが経っているということになる。


由香子とわたしが知り合ったのは、わたしが大学のときにしていたアルバイト先だ。彼女とは何故か馬が合って、アルバイトを辞めてからも、こうして定期的に会っている。彼女はアパレル関係の会社に勤めていて、わたしなんかよりも遥かに忙しそうだ。


彼女の話だと、十日に一日休みがあるかどうかという感じらしい。かなり過酷な状況だけれど、でも、彼女はそんな忙しい毎日を楽しんでいるように見える。たぶん、自分の好きなことを仕事にしているからだろう。


わたしの場合は彼女とは正反対で土日祝日は必ず休みがもらえるけれど、じゃあそのぶん、毎日が充実しているかというと、そんなことはなくて、なんだかなぁという気分になる。


休みの日は、隆俊と会う日以外は暇で時間を持て余していることが多いかもしれない。丸一日家に居るのは嫌なので、何も予定がない日でも、一応家から出て買い物に出かけたり、友達と食事に行ったりするのだけれど、でも、どうしても消化不良な感じは拭えなくて、何が足りないのだろうといつももやもやする。そしてそんなもやもやした気持ちを抱えたまま、また嫌々仕事にいくことになる。上手く形容することのできない閉塞感が、わたしの日常生活のそこここにはあった。


 アイスのカフェラテをストローで少し口に含むと、由香子が来るまで特にすることもないのでどうしようかと悩んだ。ちょっと考えたあとでふと鞄のなかに小説が入っていることを思い出した。わたしは早速鞄のなかから小説を取り出して広げた。


 その小説はわたしが買ったものではなくて、拾ったものだった。昨日仕事の帰りに電車のシートに座ったときに、わたしの座席の側に落ちていたのだ。


 となりには誰も座っていなかったら、きっと誰かが置き忘れていたのだろう。もしくは読み終わったから捨てていったのか。いずれにしても、わたしはなんとなくその本のことが気になったので、側にあった本を手に取って数行読んでみた。すると、普段あまり小説を読んだりすることのないわたしでもすっとその小説の世界のなかにはいっていくことができた。どうせ駅員に届けても持ち主が取りに来るはないだろうと思ったので、物語の続きが気になったわたしはその本を持って帰ることにした。


 昨日読んだのは、主人公の女の人が、待ち合わせ場所の喫茶店に入ったところまでだ。なんだか今のわたしの状況と同じだなと思うと、少し可笑しかった。


 主人公の女の人は三十代後半で、結婚していて、まだ幼い息子がひとりいる。息子は小学校に通い始めたところで、やっと手がかからなくなってきたところだ。夫は仕事一筋のひとであまり家に帰って来ない。彼女は専業主婦だ。夫の稼ぎは悪くはないから、ある程度自由にお金を使うことができる。子供もあまり手がかからなくなったいまは、家のことさえしっかりやっておけば、時間も自由に使える。不満らしい不満のない毎日だ。


 けれども、彼女は自分でも上手く言いあわすことのできない孤独感を抱えて毎日を過ごしている。そんなふうに感情が不安定になってしまうのは、夫が以前ほど彼女に対して愛情を示してくれなくなったせいもあるかもしれない。


 そんなとき、彼女は街で音大(彼女は大学でピアノを専攻していた)のときの同級生とばったり再会する。話したところによると、彼はいま売れないピアニストをしているらしかった。


 昔話で意気投合したふたりはそれ以来ときどき会うようになる。そしてそのうちに彼に一度家にピアノを聴きに来ないかと誘われて彼の自宅に行った彼女は、夫に悪いとは想いつつも(実を言うと、彼女は大学生のとき密かに彼に憧れていた)彼と身体の関係を持ってしまう。


 その日、彼女はその喫茶店でピアニストの彼と落ち合うことになっていた。彼女は注文を取りに来たウェイターにコーヒーを注文し、その注文したコーヒーが運ばれてくるまでのあいだ、店の壁にかかった絵画にぼんやりと視線を彷徨わせる。それは『枯れかけの花』というタイトルの絵で、文字通り、花瓶に生けられた、枯れかけの花を描いた静物画だった。


 絵を見ているうちに、この絵のことを昔どこかで観たことがあるな、と、彼女は観たとのないはずの絵なのに、既視感に捕らわれる。どことなく懐かしい感じがする。何故懐かしいと感じるのだろうと彼女はしばらくのあいだ考えているうちに、やがて思い出す。その絵のタッチや、雰囲気が、昔観た弟の絵に似ていることに。


 彼女は弟とはもう長いあいだ会っていなかった。彼女の弟は彼女が大学を卒業して少しした頃くらいに父親と大喧嘩をして家を飛び出していったきりだった。


 彼女の父親は会社を経営していて、彼女の父親はひとり息子である彼女の弟に当然自分の会社を継いでもらうつもりでいた。でも、弟にはそんなつもりは全くなかった。彼女の弟は幼い頃から絵を描くのが好きで、将来は絵描きになるつもりでいた。


 だから、当然、彼女の弟と父親の考えは平行線を辿ることになった。彼女の父親は彼女の弟に向かって、絵で成功などできはずがないと言い、弟はそんなことはやってみなければわからないと言い返した。あとは非難の応酬になり、ついに彼女の弟は家を飛び出していってしまった。最後に彼女が弟と話したときには彼はどこか外国に行くと言っていたけれど、今、彼がどこでどうしているのか、彼女は全く知らなかった。

 



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