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仕事を終えて帰宅すると、時刻はもう十一時近かった。
玄関で靴を脱ぎ、わたしがとりあえず自分の部屋に荷物を置きに行こうと家の廊下を歩いていると、トイレにでも行くところだったのか、自分の部屋から出てきた兄とばったり鉢合わせした。
わたしは兄に向かってただいまと言ったけれど、兄はそんなわたしの言葉を無視して、無言で廊下を歩いていってしまった。わたしは自分から遠ざかっていく兄の後ろ姿を少しのあいだ黙って見送った。
自分の部屋に入ると、わたしは何も考えずにそのままベッドのうえに仰向けに倒れこんだ。ベッドのうえに横になったとたん、肉体的な疲労感がどっと押し寄せてきた。それと一緒に、自分でも上手く言い表すことのできない心の疲れのようなものも。ふたつの疲労感はわたしのなかで重なり合って、一瞬、いま見えている視界が何かの強い圧力で押しつぶされでもするようにぐにゃりと変形した。そしてそれはすぐにまたもとに戻った。
これからどうしようとわたしはベッドのうえに仰向けに横になったままぼんやりと考えた。一階におりていってご飯でも食べようか。それよりもまずさきにお風呂に入ろうか。わたしがそんなことを考えていると、唐突に、ケータイの着信音が鳴った。
起き上がるのが億劫なので仰向けに横になったまま、側においてあった鞄のなかからケータイを取り出して電話に出る。
電話に出ると、耳元に響いた声は、隆俊の声だった。わたしと隆俊は遠距離なので、一応一日一回は電話で会話をするようにしている。
「もしもし」
「お疲れ」
「お疲れ」
「いまなにしてるの?」
隆俊はわたしの気分とは対照的に明るい声で尋ねてきた。
「いま?いま会社から帰ってきたところ。それで疲れて部屋でぼうっとしてるかな」
わたしは苦笑して答えた。
つられるようにして隆俊も少し笑うと、
「いま帰ってきたところなの?遅くねぇ?飲み会でもあったの?」
と、隆俊は怪訝そうな声で訊いてきた。
部屋の時計に目をやると、今時刻は十一時二十分を少し過ぎたところで、確かに遅いかもしれないなとわたしは思った。
「ううん。今日は残業だったの。色々やらなきゃいけないことがあって」
「そっか。大変だな」
「隆俊は?」
「俺?俺も今帰ってきたところ。今日は早く仕事終わったんだけどさ、帰りに、係長に飲みに誘われてさぁ。それでまあ、断れねぇし」
「そっか。そっちも大変だね」
わたしは曖昧に微笑して感想を述べた。
「ほんとだよ。係長って仕事の話しかしないし、全然気が休まらねぇよ。仕事終わったのに仕事してるみたいな感じでさぁ。まあ、係長のおごりだからべつにいいんだけど」
「そっか」
わたしは隆俊の話になんて答えたらいいのかわからなかったので、ただ相槌だけを打った。
少しの沈黙があった。
「なんか今日良美元気ないよな?」
何秒間の沈黙のあと、隆俊は心配そうな声で言った。
「そう?べつにそんなことないど。たぶん疲れてるだけ」
わたしは笑って答えた。仕事先の人間関係で悩んでいるなんてかっこ悪くて告げる気にならなかった。まだ誰かに相談しなければならないほど深刻なわけじゃない。たぶん。
「なら、べつにいいんだけどさ」
隆俊は軽く微笑して、比較的あっさりとわたしの言葉に納得した。
また少しの沈黙があった。いつもならもっと会話は弾むのだけれど、今日は肉体的にも精神的にも疲れていて、何も言葉が浮かんでこなかった。それでもわたしがどうにか会話を繋ごうと頭のなかで話題を探していると、
「来週の水曜日さ」
と、また隆俊が話しはじめた。
「急な出張でそっちに行くことになったんだよ」
「へー。そうなんだ」
「そうなんだって、それだけ?」
「それだけって?」
わたしが隆俊の言葉の意図がわからずに聞き返すと、隆俊は、
「だって、出張でそっちに行くってことは、良美に会えるってことじゃん。もうちょっと嬉しそうなリアクショクしてくれても良さそうな気がするんだけどな。なに?俺がそっちに行くのって迷惑?」
隆俊はおどけた口調でそう言うと、少し笑った。
「ううん。迷惑じゃないって。全然嬉しい」
わたしはつられて笑いながらそう言った。そして言いながらわたしはまた失敗したなと思った。このところわたしは無意識のうちに隆俊の機嫌を損なうようなことばかりを口にしている。
「ほんとに思ってんのかよ」
隆俊は笑って答えると、また詳しい予定がわかったら電話すると言って電話を切った。
わたしは隆俊の声が聞こえなくなったケータイを耳元から離すと、真っ暗になったディスプレイに少しのあいだ視線を注いだ。そしてそのケータイをうつぶせにベッドのうえに置いた。それからしばらくのあいだわたしはベッドのうえに仰向けに横たわったままでいた。
じっと天上を眺めていると、いつからそこにあったのか、天井の隅の方に、蝶々のような形をした黒い染みがあるのをわたしは見つけた。