3
「お先に失礼します」
高島さんは無表情に小声でそう告げると、ドアを開けて、事務所の外へと歩いていった。
「お疲れさま」
わたしは彼女の姿が見えなくなると、ほっとしたような、けれども、どこか傷ついたような惨め気持ちになった。
わたしは軽くため息をついてから、仕事の続きに取り掛かった。
高島さんはわたしが勤めている保険会社のふたつ後輩だ。彼女はわたしのことが嫌いなのか、それともただ単にもともとそういう娘なのか、わたしが話しかけても、いつもまともな返事を返してくれない。
彼女がわたしの言葉に返す単語はいつも簡潔で愛想がない。はいといいえとそうですねの三点セット。わたしがただの一度でも彼女に辛くあたった試しがあるだろうか?たぶん、そんなことはないはずだ。少なくともわたしの思い出せる限りは。
わたしは彼女が仕事でミスをしても激しく叱責したことはないし、いつもできるだけ優しく接しているつもりだ。それなのに、どうして、と、思ってしまう。彼女はわたしの一体何が不満なのだろうと心が暗くなる。
わたしはべつに彼女とプライベートで親しくしたいと思っているわけではない。ただ一緒に仕事をしているときに気持ちよく働きたいと思っているだけだ。それなのに。
わたしもいちいち気にしなければいいのだろうけれど・・・ただの仕事上の関係なのだとわりきってしまえばいいのだろうけれど、でも、小心者のわたしはどうしてもそうすることができない。話しかけて彼女がよそよそしい返事を返すたびに、わたしはバカみたいに、いつも、傷ついてしまう。
いっそ、彼女と一緒に仕事をしないですめばいいのにと思う。彼女以外のひとたちはみんないいひとで、話しやすいひとたちばかりだから。でも、そういうわけにもいかない。わたしは高島さんの教育係りを任されていて、だから、どうしても彼女と接する時間は長くなってしまう。
そもそも、この保険の仕事に上手く馴染むことができない自分がいる。入社した当初は何度もやめようかと思った。
わたしの仕事の主な内容は、簡単に言ってしまえばクレーム処理で、だから、暴言や理不尽な言葉をお客に浴びせかけられることは日常茶飯事だ。そのぶん給料は悪くはないけれど、かなりストレスが溜まる。まともな精神状態ではいられない。
それでもこれまでどうにかこの仕事を続けてこられたのは、比較的人間関係が良好だったからだ。お客に辛いことを言われても、先輩や同僚が優しい言葉や冗談で慰めてくれた。でも、いまは・・・。いっそのこと、この仕事を辞めてしまおうか。でも、もしやめたとして、そのあとどうするのだろう。わからないな、と、わたし思う。
兄の姿を見ているから、もし会社を辞めたとして、ちゃんと再就職することができるだろうかと不安になってしまうし、そもそも、わたしにはこれといってはっきりとやりたいと思うようなことがない。
心の底から、何か暗い色素を含んだ冷たい液体が噴出してきて、わたしの心のなかを出口をもとめてぐねぐねと這い回るような不快な感触があった。
ふと事務所の時計に目を向けると、もう時刻は午後の八時半を回っていた。
仕事が思うようにはかどらなくてイライラする。イライラするというよりは、焦燥感が募る。早く帰りたいのに。いま、この事務所に残って仕事をしているのはわたしだけだ。他のみんなはさっさと仕事を終えて帰宅してしまった。
だいたいにおいて、いまわたしがしてるこの仕事は高島さんが今日やり残したぶんじゃないか。なんでわたしが、と、哀しみの混じった憤りがこみ上げてくる。
わたしはパソコンのキーボードを叩く手を休めると、軽く瞳を閉じた。心が不安定に揺れた。惨めな気持ちなって、泣き出しそうになった。それが大袈裟な感情だということはわかっていたけれど、でも、どうしようもなかった。わたしはきつく瞼を閉じて、瞼の隙間からどうにか自分の感情が溢れ出してしまうのを押しとどめた。
閉じていた瞼を開くと、そこには窓の外の、夜の闇に黒く塗りつぶされた世界が見えた。