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「うるせぇ!」
「親に向かってうるさいとは何だ」
「うるせぇから、うるせぇつってんだよ」
「俺はお前のためを思って言ってるんだよ」
「ほんとに俺のことを考えてくれてんなら、なんでそんなことしか言えねぇんだよ。お前が考えてんのはどうせ世間体とかそういうことだろうが」
「親に向かって、お前とは何だ!」
リビングでしている父親と兄の口論が、わたしの部屋まで聞こえてくる。最近は毎日のように父親と兄の口論の声を聞く気がする。わたしはうんざりした気持ちになって、リモコンでテレビのボリュームを最大限まであげた。
わたしは大学を卒業した今でも実家住まいをしている。働いている会社が実家から通える範囲にあるので、あまり一人暮らしをする必要性を感じないのだ。それに実家の方が何かと楽だ。炊事も洗濯もお母さんがやってくれるので何もしなくてもいいし、家賃が発生しないから、その浮いたお金を貯金に回すことだってできる。もちろん、ある程度のお金は家に入れているけれど。
でも、最近は、父親と兄の口論のせいで、真剣に家を出ることを考えるようになった。
父親と兄が頻繁に口論を繰り返すようになったのは、兄が勤めていた会社を辞めた頃からだ。兄は大学を卒業したあと比較的に大手の食料品会社に勤めていたのだけれど、今から二年程前に、マスコミ関係の仕事がやりたいとい言い出して、勤めていた会社を突然辞めてしまったのだ。
兄が勤めていた会社を辞めてしまったことを知った父親は激怒した。父親は兄に向かって、この就職難の時代にマスコミの仕事になんてつけるはずがないし、せっかく安定した収入を得ることができる会社に勤めることができていたのに、どうしてそれを辞めてしまうのだ、と、難詰した。その父親の言葉に対して、俺は自分のやりたいことをやりたいのだ、と、兄は反論した。あとは非難の応酬になった。
兄も会社を辞めたあとすぐにマスコミの仕事に就くことができていれば、今ほど父親との関係も冷え込まなかったのだろうけど、運が悪くと言うか、やっぱりというか、兄はなかなかマスコミの仕事に就くことはできなかった。そしてそれは今でも変わっていない。
兄もそれなり真剣に就職活動に取り組んでいる様子なのだけれど、マスコミという業種は余程人気が高いのか、それとも兄の努力が足りないのか、あるいはどちらもなのか、とにかく、今のところ兄が内定をもらったという話はきかなかった。
会社を辞めてから二年が経とうとしている兄に対して、父親は痺れを切らして、以前にも増して色々と小言を言うようになった。それに対にしてまた兄が反論する。最近はそれの繰り返しだ。状況はどんどん悪くなっていっている。どこか暗い場所にもうスピードで転がり落ちていくみたいに。
最近、兄は以前に比べて暗くなったと思う。大学を卒業する頃くらい前までは明るくて、優しくて、冗談なんかもよく言ったりする方だったのに。
近頃は家に居るときは必要のない限り自分の部屋から出てこないし、たまにリビングなどで顔を会わせたときにわたしが声をかけても、まともな返事は返ってこない。いつも顔を俯けて、どこか不機嫌そうな表情でいる。
きっとたぶん、兄はいまの自分が嫌いなのだろう。いまの自分の状況が情けなくて、許せてなくて、悔しくて、だから、どうにかその状況から抜け出そうとしてもがいている。でも、もがいても上手くいかない。むしろ、もがけばもがくほど状況は悪くなっていく。そのうちにイライラしはじめる。色んなことが腹ただしく感じられるようになる。心が暗く濁って、わたしや家族やみんなに対してどこか敵意的になってしまうのだろうとわたしは想像する。
だけど、父親も父親だとわたしは思う。どうして父親も兄に対してあんなにヒステリックなまでに早く就職することを求めるのだろう。安定。安定。将来。将来。父親が口にするのはそればかりだ。
もちろん、安定も、将来のことも大事かもしれないけれど、でも、そのことばかりを口にする父親は、なんとなく狭量な気がしてしまう。保身のことばかり考えている小さな人間のように思えてしまう。わたしの父親はこんなに保身や世間体ばかりを気にするひとだったのかと少し幻滅すらしてしまう。自分の子供のことが心配なのはわかるけれど。
というより、このわたしの身の回りにある、ぼんやりとした閉塞感はなんだろうと、心のなかでため息をつく。
「でも、実際、あなたは恵まれてるんですよ」
と、テレビ画面のなかで、着物を着た小太りの男のひとが、最近有名になりはじめた二十代前半の女優にアドバイスをしている。なんでもこの着物を着た小太りの男のひとには霊能力があって、守護霊とかそういう存在と対話することができるらしい。
「そうですかね」
アドバイスをされた女優は少し困惑した笑顔で首を傾げている。
「わたし小さいときから苦労ばかりしてて、とてもそんなふうには思えないんですけど。今だって色々・・・」
「でも、それは贅沢ですよ」
小太りの男のひとは微笑んで女優の科白を否定する。
「だって、あなたいま健康で、こんなにも世間のたくさんのひとから必要とされてるんですよ。それを幸せと呼ばなくてなんて呼ぶんですか?世の中にはもっともっと辛い状況や環境に置かれているひとたちだってたくさんいるんですから」
「・・・そうですね」
小太りの男のひとが口にした言葉は、どこかで聞いたことがあるような言い回しだったけれど、でも、確かにその通りかもしれないな、と、たったいままで抱いていた自分の感情をわたしは反省させられた。わたしの、いまの自分がそれほど幸せだとは実感できない気持ち。どちらかというと、不幸のように感じていた自分の想い。
確かに、わたしはいまのところ健康だし、生活に困っているわけではない。家庭環境にしたって、父親と兄の関係が最近いくらかギクシャクしているとはいっても、そこまで深刻なわけではないし、わたしには親友と呼べるひとたちだって何人かいる。
おまけに、わたしには自分のことを好きでいてくれる恋人さえいるのだ。これ以上のことを望むのは、確かに、少し贅沢かもしれないな、と、気がつかされる。
・・・たぶん、わたしはいま幸せなのだろう。そう。幸せ。だけど・・・そのはずなのに、いまの自分の現状を心の底から幸せだとは思えない自分がいた。わたしの心のなかには、まるで灰色の色素を持った冷たい水が沈殿しているような、そんなどこか孤独感にも似た、満たされない想いがあって、それはどうしようもなかった。たとえそれが傲慢で、贅沢な思いだとはわかっていても。