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 主人公の女の人は、夫もまた自分とはべつに浮気をしていることを知って、途方に暮れる。


浮気相手の男も、決して自分のことを愛していたわけではなかった。彼女はもう自分にはどこにも行き場ないように思える。


誰も自分のことを愛してくれるひとはいないのだ、と、思いつめてしまう。こんなとき、親身になって相談になってくれそうな弟と連絡を取る術もない。いっそ、死んでしまおうか。彼女はそんなふうに考える。


 そうだ、死のう。どうせ生きていてもこれから先いいことなんて何もないだろう。死ねば楽なれる。


悲観的な気持ちになった彼女は家を出ると、行き先も決めずに電車に乗り、色んな街を点々とする。死に場所を求めて。


一体どこで死ねば誰にも迷惑がかからないだろう。山だろうか。海だろうか。色んな街を点々としながら、ちらりと彼女は幼い息子のことを考える。


息子は実家にあずけてきた。自分が死んでしまったら幼い息子は哀しむだろうか。でも、彼女はもうどうでもいいと無責任に思う。何かを考えることがすごく億劫に感じられた。


 そのうちに彼女が辿り着いたのは鳥取にある海沿いの街だった。そこで彼女はふらりと喫茶店に入る。そこで彼女は店の壁に一枚の絵画が飾ってあるのを見つけて、驚く。なんとそれが、自分を描いた絵だったからだ。まだ今よりもずっと若い頃の自分を描いた絵。


どうしてこんな絵が存在するのだろうと彼女は不思議に思う。そしてこの絵の少し哀しくて、でも、透明感があって優しい雰囲気は、弟が描く絵に似ていると彼女は考える。そうだ、これはたぶん弟が描いた絵に違いない。


興奮した彼女は喫茶店の主人に、一体この絵をどこで手に入れたのですか?と尋ねてみる。すると、喫茶店の主人は、自分が以前フランスに旅行にいったときに、道端で自分の絵を売っていた日本人の男から買ったのだ、と、教えてくれる。この絵のことが一目で気に入って、それで思わず買ってしまったのだ、と。


彼女がその日本人の名前を教えてくれと頼むと、喫茶店の主人が彼女に教えてくれたのは、彼女の弟の名前だった。


 弟はフランスにいる!そして今でも諦めずに絵を描き続けている!そのことを知った瞬間、彼女は心に暖かい光が差し込んだように何故か明るい気持ちになった。雲に切れ間ができて、そこに青空の欠片を、希望へと続く、微かな道しるべを見つけたような気持ちになった。


気がつくと、不思議とそれまで心を覆っていた絶望はどこかへ消え去り、あとには穏やかな気持ちが広がっていた。もちろん、哀しみが消えてなくなったわけではなかったけれど、それでも、その哀しみをきちんと受け止めて、前に向かって進んでいこうというよな、静かな決意のようなものが彼女の心のなかには生まれていた。


 彼女は思う。死ぬなんてやっぱり馬鹿げている、と。たとえ誰からも愛されていなかったとしても、それで構わないじゃないか、と。少なくとも、自分には必要としてくれている人がいる。少なくとも、幼い息子は自分のことを必要としてくれているし、その幼い息子のためにも自分はこれからも生き続けようと彼女は思う。

 

彼女は喫茶店を出ると、電車に乗る。自宅のある東京に向かって。東京に着いたら、夫との関係をはっきりさせるようと彼女は思う。離婚するにしても、しないにしても、まず自分の気持ちをはっきり伝えようと彼女は思う。


そして、すべてが終わったら、弟を訪ねてフランスに行こうと彼女は決意する。そして弟に会って、まず謝罪するのだ。あのとき、弟の味方をしてあげられなかったことを。そのことをずっと後悔してきたことを。そして自分は弟の描く絵が好きだと思っていることを、伝えようと彼女は思う。



 物語を読み終えたとき、まるで主人公の女のひとの心情がそのままわたしの心のなかに投射されたように、清々しい気持ちがわたしの心のなかには広がっていた。わたしはそれまで読んでいた本を閉じると、座っていたフローリングの床から立ち上がった。そしてまだカーテンをつけていないヴェランダの方までゆっくりと歩いていく。



ヴェランダの窓からは、空を見ることができた。少し雲がかかっているけれど、完全な曇り空ではなくて、ところどころに青空が覗いている。その青空は冬特有の、色素の薄い、冷たそうな感じのする青空だった。



ケータイの着信音が鳴ったのは、そのときだった。ポケットのなかに入れていたケータイを取り出して着信を確かめてみると、そこには隆俊の名前が表示されていた。


わたしは電話に出ようかどうしようかすごく迷った。あれほど隆俊と別れたくないと思っていたはずなのに、いざ隆俊から電話がかかってくると、またそれとは違うべつの想いが、いじけたような弱い気持ちがこみ上げてきて、電話に出ることを躊躇わせた。どうして今まで連絡をくれなかったのか、今更どうしてといったような、子供じみた素直じゃない気持ちが頭をもたげた。



わたしはケータイに落としていた視線をもう一度空に向けた。空にはいくつもの雲が間隔をあけてぽつんぽつんと浮かんでいた。ひとつひとつの雲は大きくて、青空のあいだに浮かぶそれらの雲はさながら流氷か氷の塊のように見えた。そして日の光はそれらの雲を抜けてそっと地上を照らす。日の光は氷を溶かすように雲を抜けて、その下に広がる町を、人々の生活を静かに輝かせる。



 ケータイの着信音はまだ鳴り続けていた。わたしは少し迷ってから電話に出た。

「もしもし」

 と、わたしは言った。少し怒っているような、それでいて嬉しそうな声で。




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